第一話 私、筆まめになります(2)
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「なるほどねぇ……」
事情を話すと、カミラさんは頬杖をつきながらティーカップを静かに台の上へと置きました。カチリ、という硬い音が耳につきます。いまは診療台を挟んで、お互い向き合って座っているところでした。
昼間だというのに日があまり差さない陰気な室内のせいか、それとも自分の状況にいい加減嫌気がさしていたせいか、リノアはやけに自分が落ち込んでいるなと感じていました。なんだか、自分がこの世で一番不幸な人間のように思えます。お気に入りのはずのカップからゆらゆらと立ち上る湯気でさえ、情けない自分を責めているような気がしました。
どうにもうしろめたい気持ちで顔を伏せると、そうした途端、リノアはぎょっと目を見開くことになりました。カミラさんの足元に植物のツルのようなものが伸びてきていることに気づいたのです。嫌な予感がしてそのもとをたどって行くと、案の定、先ほど魔術をかけすぎた鉢植えのほうへとたどり着きました。窓の外から縄をひいたように、緑色のツルがだらりと伸びています。
リノアはひどいめまいを覚えながら、カミラさんの足首に巻きつこうとしているそれを取り払おうとして――
「ところで、ちゃんと親御さんには連絡してるのかい?」
「――え、はいっ!?」
弾かれるように勢いよく顔をあげると、カミラさんが驚いて後ろに下がりました。ずるっと音を立ててツルも付いていきます。
「……なに、どうしたんだい?」
「え、あ、その……すいません。ええと、連絡ですか?」リノアはそう言いながら、ちらちらとカミラさんの足元に目をやりました。再び見ると、ツルはまるで蛇のようにぐるぐるとカミラさんの革靴へと巻きついていました。うう、気づきませんように。
祈るような気持ちで見ていると、「そうだよ、連絡だ」と、カミラさんは気づく様子もなく話し始めました。
さっきからやけに『連絡』にこだわるなぁ、とリノアは不思議に思いました。なにか思うところがあったのでしょうか。そうしている間にもまたひと巻き、ツルは巻きついていきます。それを見て冷や汗をかいたリノアは、カミラさんの話にうんうんと相づちを返しながら、そっと診療台の下から右手の人差指をその植物のツルに向けました。そして口の中で呪文を唱え、指先に小さく光を灯します。一番簡単な火の魔術でした。それに怯えたのか、巻き付いたツルがわずかに引き下がっていきます。
その様子を見て、リノアはほっとするどころか、さらに冷や汗をかきました。火を嫌がるということは、どうやら植木鉢のクロッカスは魔力を注ぎすぎて魔物かなにかに成りかけていたようです。植物の魔物は、基本的に火が苦手なのでした。リノアは手の平にかいた汗をぎゅっと握りながら、どうしようかと悩みました。最近では忘れかけていましたが、やけをおこして魔術を使うと、リノアの場合たいていろくなことになりません。やっぱり自分はうっかり者の馬鹿な魔女なんだ、とリノアは自分に呆れました。
「――それに、あんた薬師機関に居たときから仕事ばっかりしてたみたいだし」カミラさんの話は続いています。「あたしゃ心配で、心配で――――さっきからどうかしたのかい? なんだか落ち着きがないけど」
「い、いいいえ、なんでもないですよ?」
『なんでもある』様子で首と片手を振りだしたリノアに、まあ……ならいいけど、とカミラさんは首をかしげました。
「とにかく、あんたもまだ若い娘さんなんだしさ。ご両親だって気にかけてると思うよ」
「いえ……」右手でツルを追い払う仕草をしながら、リノアは心ここにあらずと言った様子で返事をしました。カミラさんのことは好きなのですが、いい加減『連絡』、『連絡』と繰り返す話にはうんざりし始めていたところでしたし、それに診療台の下では気分を害したらしいツルがリノアめがけて伸びてくるところでした。
「でも、ご心配なさるようなことは」リノアは慌てて近くにあった診療帳簿をつかみました。「――ない、ですよっ」力強く床めがけて帳簿を投げつけると、逃げるようにツルが離れていきました。
「なんだい、びっくりするじゃないか!」そろりと顔を前に戻すと、カミラさんが目を丸くしてリノアを見ていました。
「ご、ごめんなさい。ちょっと妙な生き物が居たので」
「あら、ねずみでも居たのかい」と、カミラさんは診療台の下をのぞきこみました。「いないね。今度、いい退治法でも教えてあげようか?」
「いえ、その、大丈夫です」リノアはもったいつけて言いました。「もう退治しましたから」
「そうかい?」と、カミラさんは足もとから視線を戻し、手前にあったティーカップを手に取りました。
「とにかく一度連絡を取ったほうがいいと思うんだよ、あたしは」
「その、カミラさん」とうとうリノアは訊ねました。「いったいどうして『連絡』にこだわるんですか?」
「え? そりゃあ決まって……いや、そういえば肝心なものを渡すのを忘れていたっけね」
ハーブティーを飲みながら「うっかりしてたね」と笑った彼女は、腰のポケットからなにかを取り出しました。やけに厚みのあるものでした。
「それは?」リノアが訊ねると、「あんたにさ」と、彼女はそれをリノアに手渡しました。
見るとそれは限りなく小包に近い、一通の手紙のようでした。すこし毛羽立った感触のクリーム色の封筒は、どうやら羊皮紙で出来ているようです。紙でなくて羊皮紙を使うなんて、いったいどんな重要な通達でしょうか。これだけぎっしりと中身が詰まっているのですから、少し心配になってきます。税金だってちゃんと王都で治めてきましたし、引っ越しの手続きだってすでに終わっています。リノアにはそんな手紙をもらうような心当たりがありませんでした。
リノアが怪訝そうに宛て名も差出人もない封筒をひっくり返していると、カミラさんが言いました。
「治癒術師のベティって言えばわかるって、向こうは言ってたんだけど」
「え、ベティーナですか?」意外な名前に、リノアは面食らいました。
「友人かい?」
「ええ、見習い時代の親友で……」そう呟くように言いながら、リノアは心の中でなるほど、と思いました。
ベティとは魔術学院以来の友人でしたが、彼女は王宮で働いているので――たぶん、いまもそうだと思うわ――紙よりも羊皮紙のほうが手に入れやすかったのでしょう。羊皮紙は王宮でよく使われているものでした。
「でも、いったいどうしてカミラさんがこれを?」
少なくとも、リノアが王都にいたときはベティとカミラさんは知り合いではなかったはずです。それにカミラさんの営む宿屋は南区で、北区の端にある王宮からはずいぶんと離れていました。忙しいと聞く王宮仕えの魔術師が、そう簡単に商業区に出かけられるとも考えにくい話です。
「おととい、腰痛で薬師機関に行ったときに偶然知り合ってね。リノア・ブルネットはどこかって受付で騒いでたから、見かねて声をかけたのさ」
「そ、それは、ご迷惑をおかけしました」
リノアは恥ずかしさで顔が赤くなりました。あの勝ち気なベティのやりそうなことです。そしてそばかすの浮いた彼女の顔を思い浮かべると、そういえばベティにはなにも言わずに出てきてしまったな、とリノアは後悔しました。診療所を構えることはあまり人に言いたくなかったとは言え、カミラさんのことにしろ、ベティのことにしろ、もう少し周囲を気にかけるべきでした。
「いや、いいんだよ」
カミラさんは小さく息をつきました。
「でも、その子から聞いたよ。もう三年も音沙汰がないって。リノアちゃん、正直に言いなさいな。長いこと放っておいた子が親友だってなら、あんたはご両親にも同じくらい手紙を送ってないだろう?」
「いえ、そんなことは!」
「本当かい?」
「ええ、もちろん」嘘です、カミラさんごめんなさい。
彼女を騙したことの罪悪感で、リノアの胸がつきりと痛みました。
見習い時代からそうだったのですが、両親とはほとんど連絡を取っていないというのが本当のところでした。そういえば、学院を出てから帰省も一度だってしていないような気がします。
その頃、リノアはお金を貯めようとやっきになってそれどころではありませんでしたし、それになにより薬師としての仕事が楽しかったのです。