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婚約破棄と帝王学 〜「冷徹すぎて可愛げがない」と婚約破棄された私、辺境送りは皇帝による『愛の証』でした〜

作者: 夜野あめ

「レティシア・ヴァン・ディートリヒ。君との婚約を破棄する」


 冷え切った執務室に、愛した人の声が低く響いた。

 その言葉を聞いた瞬間、私の頭に浮かんだのは、悲しみではなく『最適解』という四文字だった。

 

 私の婚約者であり、この帝国の若き太陽である皇帝アレクサンデル陛下。彼はデスクに肘をつき、組んだ指の隙間から私を氷のような瞳で射抜いている。


 その美貌は相変わらず神話の彫刻のようだけれど、そこに宿る熱量は、かつて私に向けられていたはずのそれではない。

 

「……左様でございますか。それが陛下の、帝国にとっての『最適解』なのですね」


 私は、感情を完全に殺した鉄面皮で応じた。

 幼い頃から叩き込まれた「帝王学」。それは国を統治するための学問であり、同時に「王妃たるもの、私情を捨てて国益の歯車になれ」という呪いでもあった。

 

「ああ、そうだ。君はあまりに冷徹すぎて可愛げがない。まるで感情のない機械のようだ。そんな女が隣にいては、私の心は休まるどころか凍りついてしまう」


「……申し訳ございません」


「君のような女に国母は務まらない。今すぐこの王都を去り、辺境の離宮へ行け。あそこなら、君の大好きな『効率的な孤独』を存分に味わえるだろう」

 

(ああ、やっぱりそうなるわよね)


 内心で、私は深いため息をついた。

 最近、陛下の隣にはいつも一人の女性がいた。男爵令嬢のミランダ。彼女は私とは正反対の人だった。

 

「あーっ! アレク様、また難しい顔して書類読んでる! はい、あーん! 甘いクッキーですよぉ」


 バタン、と遠慮のない音を立てて執務室のドアが開く。

 そこに現れたのは、フリルまみれのドレスを揺らしたミランダだった。彼女は私の存在など視界に入っておらず、陛下の膝にすり寄る。

 

「……ミランダ、今は執務中だぞ」


 陛下は困ったように言いながらも、その口元には微かな笑みが浮かんでいた。私には一度も見せたことのない、甘い、とろけるような笑み。

 

「いいじゃないですかぁ。あれ? レティシア様、いたんですか? またそんなに怖い顔してばっかり。もっと愛とか優しさで政治をしなきゃダメですよっ?」


 ミランダが私を指差して笑う。

 私はその言葉を「帝王学の第十八章:無知なる民の不規則な発言は、静かに受け流すべし」という項目を思い出し、飲み込んだ。

 

「陛下。現在処理している東部領の水路工事計画ですが、これ以上の遅延は冬の飢饉を招きます。ミランダ様の『癒やし』も大切かと思われますが、王の安らぎが公務に支障をきたすことは、帝王学においては――」

 

「黙れ!」


 アレクサンデル陛下が机を叩いた。


「それだ。その、何でもかんでも理屈で塗りつぶすその態度が我慢ならんのだ。……レティシア、もういい。顔も見たくない」

 

 胸の奥が、ちりりと焼けるような感覚。

 けれど、私は完璧なカーテシーを崩さなかった。背筋を伸ばし、顎を引き、視線はわずかに落とす。これこそが、私が人生のすべてを捧げて修得した「完璧な王妃」の姿だから。

 

「承知いたしました。陛下の御命令通り、辺境へ。……今まで、至らぬ身ながらお支えできましたこと、感謝いたします」

 

 私は踵を返して歩き出す。

 ドアを閉める直前、一瞬だけ振り返ってしまったのは、私の未熟さゆえだろう。


 そこには、額を押さえて激しく葛藤しているような陛下の姿があった。けれど、その隣でミランダが「やったぁ! 邪魔な女がいなくなりましたね!」と叫んでいるのを見て、私は自分の役割が終わったことを悟った。

 

(さようなら、私の初恋。私の皇帝陛下)

 


 ◆


 

 辺境送りという名の「追放」が決まってから、移動は驚くほど迅速だった。

 普通、婚約破棄された身であれば、ボロボロの馬車に揺られて惨めな旅をするのが定番だ。けれど、用意されたのは帝室専用の特等馬車。護衛の騎士たちは国でも精鋭中の精鋭ばかり。

 

(これもきっと、私が王都に未練を残さないように、さっさと追い出すための『効率的』な配慮ね。さすが陛下、徹底しているわ)



 

 数日後、辿り着いた「辺境の離宮」を見て、私は我が目を疑った。


「……ここが、荒れ果てた監獄のような離宮?」


 目の前に広がる白亜の宮殿を見て、私は足を止めた。 違和感の正体は、すぐに判明した。


 庭園の美しさに隠されているけれど、この立地は三方を断崖に囲まれた天然の要塞だ。配置された騎士たちの視線も、追放者を監視するそれではない。外敵を寸分も通さないという、鋭い殺気を孕んだ守護の構え。


 加えて、窓ガラスには帝室秘伝の防壁魔法が幾重にも施されている。


(これほどの軍事力が必要かしら。……いいえ、これも陛下の『効率』ね。私の頭脳を他国に奪われないようにしたのだわ)

 

「お待ちしておりました、レティシア様。今日から貴女様のお世話を担当するメイド長のマルタです」

 現れたのは、かつて王宮で「伝説の家政指南」と呼ばれていたはずの重鎮たち。さらに、部屋には最高級のシルクの寝具、最新式の魔導オーブン、そして――。

 

「何、この膨大な資料と書庫……」


 帝都の図書館でもお目にかかれないような、貴重な学術書や各国の情勢資料が、整理整頓されて並んでいた。

 

(なるほど。陛下は私に、ここで死ぬまで書類を整理して暮らせと仰っているのね。私から公務を取り上げれば死ぬと思われているのかしら。だとしたら、望むところよ。私の『帝王学』をなめないでいただきたいわ)

 

 私はさっそく、離宮での生活を「最適化」することにした。

 

 まずは周辺の村々の調査。

「帝王学:第三章。領地の安定は民の腹を満たすことから始まる」

 私は質素な服に着替え(といっても最高級の麻だが)、村へ降りた。

 

 そこでは、不効率な農法と不当な中間搾取によって民が喘いでいた。

 私は淡々と指示を出した。

 

「そこのあなた。その肥料の混ぜ方は不合理です。成分比をこのように変えなさい。それから村長、この流通帳簿の不整合は何? 次回までに修正されていなければ、帝法に則り、不当利得の返還請求手続きを開始します」

 


 村人たちは当初、私を「冷たい王都の令嬢」と恐れていた。

 けれど、指示通りに肥料を変えた畑から黄金色の麦が芽吹き、帳簿を正したことで村の貯蓄が増え始めると、彼らの態度は一変した。

 

「レティシア様! この間の新しい水車の設計図、最高でした! おかげで母ちゃんの腰の痛みがなくなったよ!」


「これ、うちで採れた一番のリンゴです。食べてください、女神様!」

 

 女神? 私が?

 感情を殺し、ただ効率だけを求めた私の言葉が、誰かを救うなんて。

 

「……。リンゴ、頂戴いたします。効率よく栄養を摂取するには、皮ごと食べるのが『正解』ですわ」


 私がそう言って少しだけ頬を緩めると、村人たちはなぜか「あああ! 女神様が微笑まれた!」と大騒ぎを始めた。

 

 王宮にいた頃は、どんなに完璧に公務をこなしても、「冷たい」「血が通っていない」と罵られるだけだった。けれどここでは、私の持てる知識のすべてが、目に見える幸福に変わっていく。

 

(……悪くないわね。追放された先で、こんなに心が軽いなんて)

 

 けれど、そんな穏やかな日々は、長くは続かなかった。



 

 三ヶ月が過ぎた頃。

 王都から届く噂は、日に日に不穏さを増していた。

「聖女」と持て囃されたミランダが、国庫の金を浪費して豪奢なパーティーを連夜開催していること。


 彼女の「愛と優しさ」の政治によって、法治が崩壊し、敵対する貴族たちがやりたい放題になっていること。


 そして何より、アレクサンデル陛下が、重度のストレスで体調を崩されているという不吉な知らせ。

 

(陛下……、ミランダ様という『癒やし』がいるはずなのに、どうして?)

 


 そんなある日の夕暮れ。

 離宮の門を、一台の馬車が猛スピードで突き破るように入ってきた。

 現れたのは、陛下の側近であり、騎士団長を務めるカイルだった。彼は鎧もボロボロで、血相を変えて私のもとに駆け寄る。

 

「レティシア様! お迎えに上がりました! どうか、どうか王都へお戻りください!」


「カイル殿? いったい何があったのです。私は追放された身。戻れば陛下への反逆になりかねませんわ」

 

「そんなことを言っている場合ではありません! 陛下が……陛下が、自ら『帝王学・最終章』を始動させようとしておられるのです!」


「……最終章?」


 その言葉を聞いた瞬間、思考より先に指先が震えた。 氷のように冷やしていたはずの心臓が、早鐘を打つ。目の前が真っ白になり、呼吸の仕方を忘れてしまいそう。



「……レティシア様?」


「カイル殿。馬車は外に? 今すぐ帝都へ! ……帝王学:第十二章。危急の際には、すべての規律に優先して『核心』を守るべし」

 

 私にとっての核心。それは、私を捨てたあの冷酷な皇帝陛下以外にあり得なかった。

 


 ◆


 

 帝都へ向かう馬車の中で、私はカイルから衝撃的な事実を次々と聞かされた。

 

 ミランダはただの無知な令嬢ではなく、隣国のスパイだったこと。彼女がアレクサンデル陛下に近づいたのは、帝国の内部から崩壊させるためだったこと。そして、陛下を支持するフリをしていた有力貴族たちの多くが、彼女と通じて反乱を企てていること。

 

「陛下は、すべてをご存知でした」

 カイルは苦渋に満ちた表情で語る。


「レティシア様を追放したのは、これから始まる『大掃除』に貴女を巻き込まないため。そして、貴女の命を狙う刺客の手から遠ざけるためだったのです。あの離宮は、国内で最も守りが堅い要塞でもあったのですよ」

 

 心臓がドクンと跳ねた。


「……でも、陛下は私を『冷徹だ』と仰いました。ミランダ様を可愛がって……」

 

「あれは演技です! 陛下は、レティシア様が執務室にいる間、ずっと『レティシアが可愛い。見つめすぎて仕事にならない。でもここでデレたら彼女に軽蔑される。我慢しろ俺、鋼の理性を保て』と、内心で死ぬほど悶えておられたのですよ!」

 

「……は……はい?」

 

 聞き捨てならない情報が混ざっていたような気がするけれど、今はそれを追及している時間はない。

 

 王宮に到着した時、そこでは「新王妃ミランダ」のお披露目夜会が今まさに開催されていた。

 会場は、ミランダの趣味である派手派手しい装飾で埋め尽くされ、反乱分子の貴族たちが勝ち誇ったような顔で酒を酌み交わしている。

 

 壇上では、ミランダが扇子を広げて高笑いしていた。


「あはは! 陛下ぁ、もう契約書にサインしてくれました? これでこの国の領土の半分は私のもの……じゃなくて、『みんなの愛のもの』になりますね!」

 

「ああ、そうだな。……もう、十分だ」

 

 玉座に座るアレクサンデル陛下の声は、以前よりもずっと冷たく、凍てついていた。

 

「陛下! レティシア様をお連れいたしました!」

 カイルの声が響き渡る。

 

 会場の視線が一斉に私に集まった。

 私は、離宮から持ってきた中で最も鮮やかな、深い真紅のドレスを纏っていた。それはまるで戦場に赴く女帝、すべてを焼き尽くす炎のような色。

 

「あらぁ? レティシア様? 辺境で野垂れ死んだんじゃなかったんですかぁ?」


 ミランダが扇子の影から、ねっとりとした蔑みの視線を投げかける。


「貴女、本当に馬鹿よね。あんなに必死に働いて、結局は可愛げがないって捨てられて。政治なんて、愛嬌と適当な嘘で回るものなのよ? 陛下も、レティシア様みたいな石ころより、私の甘い囁きの方が心地良いに決まって――」


「ミランダ・フォン・ベルシュタイン。……その汚い口を閉じろ」


 陛下が、地獄の底から響くような声で断じた。


「え……? 陛下ぁ?」


「レティシアを石ころだと? 貴様のような汚物が、どの口で太陽を語る。……その扇子もドレスも、貴様が浪費した金も。すべてはレティシアが、寝る間を惜しんで整えた帝国の血肉だ。一粒たりとも、貴様に与える価値などなかった」


「なっ、陛下……?」

 

 陛下はミランダの腕を冷酷に振り払った。

 

「待っていたぞ。鼠が一匹残らず網にかかるのをな」

 

「えっ? 陛下ぁ、何言ってるの……?」

 

「カイル、やれ」

 

 その合図と共に、夜会の給仕たちや楽師たちが一斉に武器を取った。彼らは全員、変装していた陛下の直属部隊だった。

 

「な、何よこれ! 私を愛してるんでしょ!? 甘いクッキー、あーんしてくれたじゃない!」

 

「あれは毒味をさせていただけだ。砂糖の塊など、不快極まりなかったがな。……ミランダ・フォン・ベルシュタイン。貴様、およびここにいる貴族共を、国家反逆罪、公金横領罪、ならびに他国との通牒罪で捕縛する」

 

 陛下は懐から一束の書類を取り出し、床に叩きつけた。

 そこには、ミランダと貴族たちの密会記録、送金履歴、そして――。

 

「私が愛しているのは、幼い頃から俺のためにその身を削り、この国を支えてくれたレティシアただ一人だ。貴様のような、知性も品性も欠片もない女に、一秒でも触れられた時間は俺の人生最大の汚辱だ」

 

「そんな……っ!」

 

 ミランダが叫ぶ間もなく、彼女と反逆者たちは騎士たちによって制圧された。

 その鮮やかな手際に、私は呆然とするしかなかった。


 これこそが、完璧な「帝王学」の体現。敵を欺くために味方を欺き、一網打尽にするための完璧な罠。

 

(……すごい。やっぱり、陛下こそが帝王学の正解者なのね)

 

 そう感心していた私のもとへ、陛下が歩み寄ってくる。

 周囲にはまだ混乱が残っているけれど、陛下の視線には私しか映っていない。

 

「レティシア……。怪我はないか? 辺境で不自由はなかったか?」


「陛下。……今の今まで、私を騙しておられたのですね。私は本当に、見捨てられたのだと――」

 

「すまない。本当にすまない……。だが、こうするしかなかったんだ」

 

 陛下は私の手を握ろうとして、寸前で止めた。その指がわずかに震えている。

 

「……ここでは人目があるな。レティシア、執務室へ」

 


 ◆


 

 二人きりになった、かつての執務室。

 ドアが閉まったその瞬間。

 

「あああああ! レティシアぁぁぁ!」

 

 バタン、という音と共に、アレクサンデル陛下が私に飛びついてきた。

 

「えっ!? 陛下!? 重い、重いですわ!」

 

「レティシア! 会いたかった、死ぬほど会いたかった! 毎日、毎晩、君の肖像画を抱きしめて泣いていたんだ! 離宮に送った最高級のジャムは食べたか!? ベッドの寝心地はどうだったか!? 嫌われてないか!? 俺、今すぐ死んだほうがいいか!?」

 

 あの冷徹な皇帝陛下はどこへ行ったのか。

 今、私の胸に顔を埋めて、大型犬のように泣きじゃくっているのは、間違いなくこの国の頂点に立つ男だった。

 

「ちょ、ちょっと落ち着いてください! 『帝王学:第一章。王たるもの、常に冷静沈着であれ』ではなかったのですか!?」

 

「そんなもの、君がいなくなった瞬間に窓から投げ捨てたさ! 君がいない世界に、冷静でいる価値なんて一ミリもない!」

 

 陛下は、ぐずぐずと鼻を鳴らしながら、机の奥から一冊の、驚くほど分厚い本を取り出した。

 表紙には金文字で堂々と『帝王学・秘伝』と書かれている。

 

「これを見てくれ。俺が……俺が、君との婚約が決まった日から毎日書き溜めてきた、『レティシア絶対守護計画書』だ」

 

 私は、震える手でその本を開いた。

 そこには、驚愕の内容が書き込まれていた。

 

 【項目一:冷徹であれ】

(解説)レティシアを害する可能性のある有象無象の貴族に対しては、一切の情を捨てて冷酷に対処せよ。彼女に泥を被らせてはならない。俺がすべての汚れ役を引き受ける。

 

 【項目二:感情を殺せ】

(解説)レティシアの前で『可愛い! 大好きだ! 抱きしめたい!』という本音を出すと、彼女の完璧な仕事の邪魔になる。敵にも弱点だと悟られる。執務中は死ぬ気で無表情を貫け。

(※備考:今日、レティシアが眼鏡を拭く姿が尊すぎて死にそうになった。危なかった)

 

 【項目三:利用できるものは利用せよ】

(解説)ミランダというスパイを利用し、反乱分子を誘き寄せる餌にせよ。その隙に、過労で死にそうなレティシアを『追放』という名目で豪華な離宮へ避難させ、強制的に休暇を取らせるべし。

 

 【項目四:可愛げがない、と言え】

(解説)あんなに可愛い子に向かって、俺は何ということを言ってしまったんだ。死にたい。今すぐ消えたい。でも、こう言わなければ彼女を遠ざけられなかった。レティシア、ごめん、愛してる、本当は世界一可愛い、地球上の全言語を尽くしても足りないくらい可愛い。

 

「…………」

 

 私は、あまりの情報量に目眩がした。

 読み進めるうちに、陛下がこれまで私に投げつけてきた「冷たい言葉」のすべてが、この本の中では「(俺は死にたい)」という断末魔のような注釈と共に、真っ赤な愛の告白に変換されていることに気づいた。

 

「陛下……。つまり、私への追放は、単なる『強制有給休暇』だったのですか?」

 

「そうだよ! 君、働きすぎだったんだ! クマができてたんだぞ! 俺は君に、のんびりリンゴでも食べて、昼寝して、元気になってほしかったんだ!」

 

「……でも、私は寂しかったです。陛下に嫌われたと思って、枕を濡らした夜もありましたのよ?」

 

「っ……!!」

 

 陛下が、ショックのあまり膝をついた。


「ああ……、俺は……俺はなんて大罪を……。レティシアを泣かせた……。もうダメだ、この国の皇帝として失格だ……。今すぐ廃位して、君の足元に埋めてくれ……」

 

「やめてくださいーーッッ、極端ですわ」

 

 私は、ふう、と深く息を吐いた。

 そして、まだ私の足にしがみついている皇帝陛下の、金色の髪をそっと撫でた。

 

 思えば。

 私は、愛される自信がなかったのだ。


 有能であることだけが自分の価値だと思い込み、完璧な機械であろうとした。

 けれど、この人は。

 私がどんなに不器用で、鉄面皮で、可愛げのない「帝王学の申し子」であっても。

 その奥にある、小さな私をずっと見つけ出して、守ろうとしてくれていた。

 

「……アレクサンデル陛下。顔をお上げください」

 

「嫌だ。君に罵られるまで、ここから動かない」

 

「罵りませんわ。……ただ、少しだけ、私の『帝王学』に付き合っていただきたいのです」

 

 陛下がおずおずと顔を上げる。

 私は、彼が以前言った「可愛げがない」という評価を、真っ向から否定することにした。

 

 私は、幼い頃から訓練してきた「完璧な無表情」を崩した。

 頬を赤らめ、視線を泳がせ、そして――。

 最高に「可愛げのある」、照れ笑いを浮かべて。

 

「陛下。……ただいま、貴方のもとへ戻りました。寂しかった、です」

 

 その瞬間。


「……っ!!??」


 アレクサンデル陛下が、鼻血を出してひっくり返った。

 

「陛下ーーッッ しっかりしてください!! カイル様、お医者様を!!」

 

「だ、大丈夫だ……。幸せすぎて……脳の血管が何本か逝っただけだ……。レティシア、もう一回……もう一回だけ言って……」

 

「……嫌ですわ」

 

 私はぷい、と顔を背けたけれど、繋がれた手だけは、決して離さなかった。

 


 ◆


 

 その後、帝国は劇的な復興を遂げた。

 汚職貴族は一掃され、法律はより民に寄り添ったものへと再編された。

 

 けれど、一つだけ、王宮内で語り継がれる奇妙な伝説があった。

 

 それは、皇帝アレクサンデルが肌身離さず持っている、謎の分厚い経典について。

 

「陛下、この法案の決裁をお願いします」

「待て、まずは『帝王学:レティシア溺愛マニュアル』の最新項を確認する……。ふむ、『疲れている様子の妻には、背後から抱きついて糖分を補給させるべし』か。よし、レティシア! こっちにおいで!」

 

「……陛下。公務中ですよ」

 

 そう言いながらも、私は皇帝の膝の上に、しごく当然のように座っている。

 

 私の仕事は今も変わらず、国の未来を数字と論理で支えることだ。


 けれど、一つだけ変わったことがある。

 

 私が書類を一枚片付けるたびに、隣にいる最愛の夫が「えらいぞ、世界一の王妃様だ! ご褒美のチュッだ!」と、熱烈なキスを降らせてくること。

 

「……アレク様。その『帝王学』、いつになったら終わるのですか?」

 

「終わるわけないだろう。これは、君を一生甘やかし、世界で一番幸せにするための、終わりなき研究なんだから」

 

 陛下は私の腰に腕を回し、より深く抱きしめてきた。

 その瞳に宿る、逃がしてくれないほどの執着と、海よりも深い愛。

 

「……修得するには、一生かかりそうですね」

 

 私はクスクスと笑い、彼の胸に身を預けた。

 


 帝王学とは、国を支配する術ではない。

 愛する一人を、誰にも渡さず、永遠に愛し抜くための、至高の学問。

 

 私は今日、その新しいページを、彼と共に書き記していく。


 

(『レティシアは、アレクの腕の中で微笑んでいる時が、最も効率的に幸せである』。……ふふ、正解ですわ、陛下)


 

 窓の外には、二人が守り抜いた帝国が、どこまでも美しく輝いていた。




 ――Fin.

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