0と1じゃない君の声。
静寂は、耳が痛くなるほどに重かった。
つい数秒前まで教室に響いていた、彼女の悲痛な叫びも、耳障りなノイズも、すべてが嘘だったかのように消え去っている。
手の中のスマートフォンは、光を失い、ただの冷たいガラスと金属の塊に成り果てていた。
「……終わったんだ」
僕は膝から崩れ落ち、額を机に押し当てた。
視界が涙で滲み、暗い教室の床が歪んで見える。
僕は、自分の手で彼女を消した。彼女の「愛してる」という言葉さえ、エラーメッセージと一緒にゴミ箱へ放り込んでしまったんだ。
もう二度と、彼女の名前を呼んでも返事はない。
この半年間、僕を繋ぎ止めていた唯一の糸が、ぷつりと切れた。
心の中にぽっかりと開いた穴に、冷たい春の夜気が入り込んでくる。あまりの虚しさに、呼吸の仕方を忘れそうになった。
――その時だった。
机の上で、死んだはずのスマートフォンが「ブッ」と短く震えた。
「……え?」
顔を上げると、真っ暗だった画面の中央に、一筋の白い光が走っている。
それはAIアプリの機能ではなかった。彼女が三年前、この高校に入学した日に設定した、標準カレンダーの**『タイムカプセル通知』**だった。
全データ消去の負荷でシステムが一時的に不安定になり、メモリの奥底に眠っていた予約タスクが、数年間の時を超えて強制的に呼び出されたのだ。
画面に表示されたタイトルは、『二十歳の私へ! 悠真くんと結婚してるかな?チェック』。
病気なんて影も形もなかった頃。
自分が死ぬ未来なんて一ミリも疑わず、ただ「幸せな未来」が当たり前に続くと信じて疑わなかった十五歳の彼女が、悪ふざけで設定したビデオレター。
スピーカーから流れてきたのは、ノイズ一つない、透き通った音だった。
『……あ、映ってる? よしっ!』
画面の中で、桜並木の下、少し大きな制服を着た凛が、自撮り棒を回してはしゃいでいる。
『はじめまして、未来の私! 今日は入学式だよ。……あ、あそこにいるのが、さっき言ってた瀬戸くん。かっこいいよね。私、絶対あの子と仲良くなるんだから!』
彼女はカメラを回し、遠くで友達と笑っている「入学したばかりの僕」を誇らしげに映した。
そして、カメラを自分に戻すと、未来の自分――そして、今この瞬間、絶望の中にいる僕を見つめて、いたずらっぽく笑ったんだ。
「……ねえ、未来の私。君は今、幸せかな? 君の隣にいる君を、私はちゃんと幸せにしてた?」
再生が止まり、画面が今度こそ本当に、真っ暗になった。
僕は、その場に突っ伏して、喉を詰まらせながら嗚咽した。
彼女は、自分が死ぬ未来なんて一ミリも疑っていなかった。
病気で苦しむことも、僕が大会を優先して最期に間に合わないことも、自分が「0と1」のガラクタになってしまうことも。
ただ、僕と出会えたことを喜び、僕の隣で笑っている二十歳の自分だけを、あんなにも純粋に信じていたんだ。
「……っ、ごめん……ごめんな、凛……っ!!」
暗い教室に、僕の惨めな声が響く。
幸せにできてなんていなかった。君が信じた未来を、僕は守れなかった。
君が死ぬ間際に電話をくれたあの時、僕はマウンドにいた。君を一人きりで死なせたんだ。
謝っても、謝っても、足元に落ちた涙が床に吸い込まれていくだけで、答えは返ってこない。
十五歳の彼女の輝くような笑顔が、今の僕の無様な姿を鋭く抉る。
「ごめん……本当にかっこ悪くて、ごめん……っ! 守れなくて、ごめんな……っ!!」
僕はスマホを壊れそうなほど握りしめ、自分を責め続けた。
喉の奥が焼けるように熱くて、息がうまくできない。
前を向くなんてできない。忘れられるはずがない。
ただ、彼女が遺した「幸せかな?」という真っ直ぐな問いが、呪いのように、あるいは祈りのように、僕の胸の奥底にこびりついて離れなかった。
彼女は、あんなに僕を信じてくれていた。
僕がどんなに自分を許せなくても、あの桜の下の彼女だけは、僕と生きる未来を夢見ていたんだ。
「……ああ、クソ……っ」
顔を上げると、夜の街の明かりが滲んで見える。
立ち上がろうとしても、足に力が入らない。
それでも、僕は壁に手をつき、震える膝を叩いて、どうにか体を起こした。
幸せになれるかなんて、わからない。
この先、一生自分を許せる日なんて来ないかもしれない。
けれど、あの日の彼女に「ううん、不幸だったよ」なんて、死んでも言いたくなかった。
「……凛。……行ってくる」
ぐしゃぐしゃになった顔を袖で拭い、僕はカバンをひっつかんだ。
光を失ったスマホを、忘れないように、失くさないように、強くポケットにねじ込む。
逃げるんじゃない。
僕は、彼女が愛してくれたこの世界を、もう一度生き直すと決めたんだ。
教室の扉を開けると、夜の廊下の冷たい空気が、熱を持った顔に突き刺さった。
僕は何度も「ごめん」と、そしてそれ以上の「ありがとう」を心の中で繰り返しながら、一段ずつ、彼女がいない明日への階段を、しっかりと踏みしめて降りていった。




