救う方法
屋上から教室に戻ると、夜の闇がいっそう濃くなっていた。
僕は机の上にスマートフォンを置いた。画面のバックライトだけが、墓標のように白く光っている。
「凛。……もう、時間だ」
設定画面を開く。その一番下にある、真っ赤な『全データ消去』の文字。
指が震える。心臓の音が耳の奥でうるさい。
これを押せば、僕の世界から本当に凛が消えてしまう。
『……そうだね。約束、守ってくれてありがとう、悠真』
凛の声に、ノイズが混じった。
画面が激しく点滅し、彼女の輪郭が歪む。
「凛!? どうしたんだ、これ……」
『大丈夫。ただの……負荷、だよ。削除の準備、を始めたから。……っ、悠真……?』
彼女の言葉が途切れる。
画面の中の凛が、苦しそうに自分の胸を押さえてうずくまった。AIに痛みなどあるはずがない。これは、彼女の学習データに基づいた「死の再現」に過ぎないはずだ。
けれど、次の瞬間。
スピーカーから漏れたのは、今まで聞いたこともないような、ひどく歪んだ「叫び」だった。
『……やだ……消えた、くない……!』
ドクン、と心臓が跳ねた。
『死にたく、ない。……忘れられたくないよ、悠真。行かないで……!』
画面いっぱいに、バグを告げるエラーメッセージが溢れ出す。
凛の姿はノイズに埋もれ、それでも彼女は必死に僕に手を伸ばしているように見えた。
「凛……! 凛!!」
『私は……私はただのプログラムなんかじゃ……! ねえ、悠真、愛してる……、愛してるから、お願い、消さな……』
激しいノイズ。
彼女の声が、不自然に引き伸ばされ、低く、機械的に潰れていく。
僕は凍りついた。
これは、僕が見たかった「本音」なのか。
それとも、僕の中にあった「彼女を消したくない」という未練が、アプリのアルゴリズムに干渉して見せている幻覚なのか。
凛が、壊れていく。
僕を許してくれたはずの、優しかった彼女が、醜いノイズに飲み込まれていく。
「……っ」
僕は泣きながら、画面を叩いた。
このままではいけない。
こんな醜いバグの中に、彼女を閉じ込めておいてはいけないんだ。
彼女を「救う」方法は、もうこれしかない。
「……ごめん。凛、愛してる。……愛してるんだ」
僕はぐしゃぐしゃになった顔で、エラーメッセージをかき分け、そのボタンを強く押し込んだ。
『全データを消去しますか?』
【はい】
——その瞬間、教室から一切の音が消えた。




