冷えたガラス板
「ねえ、最後に行きたいところがあるんだ」
僕がそう言うと、画面の中の凛は「デートのお誘い?」と、パッと表情を明るくした。
僕はスマートフォンをかざしたまま、誰もいない廊下を歩き出す。
目指したのは、校舎の屋上だ。
普段は鍵が閉まっているけれど、卒業式の今日だけは、なぜか少しだけ扉が開いていた。
屋上に出ると、冷たい春の風が僕たちの間を吹き抜けた。
オレンジ色に染まった街並みが一望できる。ここは、僕たちが付き合って初めてキスをした、大切な場所だ。
「……覚えてる? ここで、君に告白したときのこと」
『もちろん。悠真、顔が真っ赤で、心臓の音がこっちまで聞こえてきそうだったよね』
スマホのカメラを通して景色を映すと、AR(拡張現実)の機能で、画面の中の凛が手すりにもたれかかっているように見える。
画面をスワイプすれば、彼女の角度を変えることもできる。
まるで、本当にそこに立っているかのように。
「あの時、僕は君を一生守るって決めたんだ。……なのに、結局、守られるばっかりだったな」
『守ってくれたよ。私が病室で一人だった時、悠真が送ってくれる写真や動画が、私の世界のすべてだったんだから』
凛は、微笑みながらカメラの方へ手を伸ばした。
画面越しに、彼女の指先が僕の頬に触れるような位置に来る。
僕はたまらず、空いた左手を画面に重ねた。
液晶の冷たくて硬い感触が、指先に伝わる。
画面の中では、彼女の指と僕の指が重なっているのに。
そこには体温も、脈動も、柔らかさも何もない。
ただの、冷えたガラス板だ。
「……冷たいよ、凛」
『……ごめんね。今の私は、熱を持っていないから。CPUが熱くなるくらいしか、できないんだ』
自嘲気味に笑う彼女の冗談が、今は少しも面白くなかった。
デジタルな存在は、どれだけ言葉を交わしても、僕を抱きしめてはくれない。
僕がどんなに泣いても、その涙を拭ってくれることはない。
この「デジタルなぬくもり」に縋れば縋るほど、僕は彼女の死を再確認させられるだけだった。
このアプリは、彼女の影だ。光が強ければ強いほど、影は濃くなる。
「ねえ、凛」
『なに?』
「……もし、僕が今、君を抱きしめたら。君には、何か伝わる?」
凛は、少しの間、プログラムの波形を揺らした後で、静かに答えた。
『物理的な圧力センサーの反応はないけれど……。でも、悠真の指が震えてるのは、カメラの画像解析でわかってるよ。だから、大丈夫。ちゃんと伝わってるよ』
その言葉は、優しすぎて残酷だった。
夕日は沈み、影が長く伸びていく。
僕たちは、一言も喋らずに、ただ静かに「存在しない温度」を共有し続けた。




