01:はじめての冒険へ
「ルイス。地図そっちに入れてたよね?」
「うん。ある」
いつものロッキングチェアに座るリディアをよそに、ロアとルイスは、居間に大きなリュックを広げていた。
「ロア。受験票持った?」
「持った。……ほら、ここ」
「よし。これでいい」
ルイスはそう言うと、リュックの口の紐を縛って背負った。
「待って、ルイス。出発の前に」
ロアはリュックを片方の肩に通すと、ノートを持って居間を出た。
そして、廊下を抜けて自室の扉を開く。
本とノートでできた城塞。
騎士試験を受けると決めて、シェルと別れるまで五年間。
それから今日まで、二年間。
――合計、七年間。
立ち止まらなかった印が、一部屋を埋め尽くしていた。
ロアは〝DCCCLXIII〟と背表紙に書かれたノートをリュックに入れた。
「863冊。凄い数字だね」
「うん。この本とノートの山が、今の私の全部」
ロアはルイスに返事をしてからリュックを背負い、踵を返した。
「二人とも。道中気をつけて」
いつの間にか居間の入り口にいたリディアにそう言われ、ロアとルイスは「行ってきます」と返事をした。
小さな家を出て、誰もいない屋敷を背に薬草畑を通り過ぎ、図書館の前を歩いた。
畑の前を通ると、二人に気づいたベードが泥のついた手を軽く上げる。
「おおー。二人とも気をつけてな。頑張れよー」
ロアとルイスは、ベードに手を振り返して、石橋を渡った。
三人の婦人たちは、相変わらず井戸の前で手を止めて雑談をしている。
まず二人に気づいたのはマルタだった。
「二人とも気をつけるんだよ!」
「いってらっしゃーい!」
井戸から少し離れたところで泥団子を作っていたエマとニコが、大きく跳ねて手を振った。ロアも笑って応えた。
教会の前には、ルイスの祖父エルドが立っていた。
「私はここから、二人が無事に王都にたどり着けるように祈っているよ」
エルドに見送られて、ロアとルイスはトアルの村を出た。
ロアは少し歩いたあと、振り返ってトアルの村を見た。村の入り口がだんだん小さくなり、やがて木に隠れて見えなくなった。
それからしばらくして、歩きにくい道が現れた。
木の根が道をでこぼこに荒らしていて、気を抜いていると足をくじいてしまいそうだ。
「……これって、前に誰かが言ってた〝荷車が通らない道〟だよね」
「そうだね。ここを荷車で通るのは、本当に大変そうだね」
でこぼこ道を抜けると、視界が開けた。
どこまでも続いていそうな平原が広がっている。
何度も荷車が通っているからか、短く生えた草が続いていて、辿るべき道が見える。
二人はその道をたどり、石橋を渡った。この橋は二年前、シェルの姿が見えなくなった橋だ。
ロアは村の境を越えたことがない。町へ行くのは農夫たちだけだった。
行きたいと思ったことがなかった。村の外は、役割がある人だけが行く場所だと思っていた。
しかし、今のロアはもう知っていた。
町に行く権利は、この世界に生まれ落ちた瞬間から持っていた。
リディアに〝町に行ってみたい〟と言ったら、道はすぐに開いたはずだ。
〝二度目の人生の私〟は、求めなかったから与えられなかった。
「私、自分の足でトアルの村を出る日がくるなんて思わなかった」
だからこそ、自分の足で歩いている今に、意味がある。
不純物のない澄んだ風が、平原を自由にそよいでいる。
ロアはその空気を思いきり吸い込み、肺の底に押し込んだ。
「思わなかったのに歩いてる。僕は、それが一番すごいと思うよ」
ルイスの言葉に、ロアは笑顔を返した。
ルドラドという小さな町が見え始めたのは、夕方。川辺にふたつ、水車小屋が見える町だった。
「やっと見えた……」
ロアは小さく呟いた。
歩き続けて、靴の中で指がじんじん痺れていた。一刻も早くベッドで休みたい気持ちだった。
辺りには、ゴウン、ゴウンと低くうなるような音が聞こえている。
異音は町に近づくにつれて気にならなくなっていく。その代わりにくしゃみが出た。白い粉が舞って服につく。水車の力で小麦を引いているらしい。
ルドラドの中央通りは、夕方になっても地面に布を敷いた簡単な市が並んでいた。にぎやかな声にまじって、鉄を打つ音も聞こえる。
せっかくの石畳が、砂や泥で覆い隠れていた。
「夕方なのににぎやかだね。トアルの村だったら、もうみんな家の中にいる時間だよね」
「そうだね。トアルはここよりもずっと田舎だから。人が集まる町は、夜になってもにぎやかだよ。……ここに入ろう」
ルイスに促されて、中央通りを抜けてすぐの宿屋に入った。そこは木造作りのこじんまりとした場所で、一階は食事処らしい。食事時だというのにがらんとしていた。
カウンターの中から「どうぞー」とはきはきした女性の声がして、二人は宿屋の女に近づいた。
髪を後ろで縛り、バンダナを結んでいる若い女だった。
「ずいぶん若い子たちね。食事? それとも泊まっていく?」
「泊まっていきます。二部屋お願いします」
「二部屋?」
駆け落ちしてきたと思ったのだろう。宿屋の女はにやりと笑うと、カウンターに肘をついてルイスを見た。
「ねえ、お兄さん。彼女と一緒の部屋じゃなくていいのー?」
「一緒の部屋じゃなくていいです」
「えー。本当に?」
「本当に」
「絶対に?」
「絶対に」
一切ぶれないルイスに、宿屋の女はつまらないと言った様子で口を尖らせた。そしてルイスに二部屋分のカギを渡した。
「食事は?」
「いただきます」
「じゃあ、荷物を置いたら降りてきて」
ロアとルイスは二階に上がってそれぞれの部屋に入って荷物を置くと、下へ降りた。
二人がテーブルにつくと、宿屋の女はすぐに椅子を持ってきて自分もテーブルの前に腰かけた。
「ねえねえねえ。二人はどういう関係なの?」
ルイスはなにも答えないと思ったのか。宿屋の女はロアの方を見て口を開く。
「私たちはただの幼馴染ですよ」
「駆け落ちじゃないの?」
宿屋の女はがっかりした様子を見せた。
「駆け落ちじゃありません」
「じゃあ幼馴染さんたちは、どこから来て、どこへ行くの?」
「トアルの村から、王都・マーテルに行きます」
「トアルの村? ああ、ベードさんところの!……母ちゃん! 父ちゃん! この子たち、トアルの村から来たんだって!」
宿屋の女はカウンターの向こうにあるキッチンに向かって、大声を張り上げた。キッチンの方で誰かが返事をしたが、なにを言っているのかまでは聞き取れない。
宿屋の女はくるりと向きを変えるとロアを見た。
「で? ただの幼馴染が、どうして一緒に王都に行くのよ」
「騎士の採用試験を受けるんです」
「騎士採用試験ー?」
宿屋の女は大きく目を見開いた。しかしすぐに落ち着いた様子で二人を見る。
「それで二部屋。……でも、片方が落ちたらどうするの?」
宿屋の女の言葉に、今度はロアが大きく目を見開いた。
片方が落ちたら。そんなこと、考えたこともなかった。
腹の奥を、強く掴まれたような錯覚だった。




