19:同じ朝は、もう二度と来ない。
青葉が香る、夏のこと。
ロアは川辺の木に腰を下ろし、新しいノートの一ページ目にペンを走らせた。
――魔法を使うことは、諦める。
魔法が必ず必要じゃないなら、無理して学ぶ必要はない。
今は騎士になることだけに集中する。
そのためには、知識がいる。
汗が滲み、インクがにじんだ。
ロアはインクの付いた手を川に浸した。
朝の水はまだ冷たい。
ページを押さえると、紙は少し波打っていた。
書き終えてノートを閉じ、背表紙に〝IV〟と書き入れた。
月と星が綺麗に見える、冬のこと。
居間で暖を取りながら、ノートを見返していたロアが口を開いた。
「夏って元気だけど、冬って落ち着いている。どうしてだと思う?」
ロアの問いに口を開いたのはシェルだった。
「うーん。寒いとか暑いとか、感覚が違うから? それとも太陽かな……。ルイスはどう思う?」
「そうだね。動物は冬、冬眠する。人間も体力を温存するようになっているのかもね」
ルイスの言葉をきっかけに、ロアはノートにペンを走らせた。
「冬は温存。……これって、一日にも言えることなんじゃないかな」
「それ面白そう。聞かせて」
ルイスに促されて、ロアは口を開いた。
「夜って、よーし! やるぞ! って気持ちにならないでしょ? つまり、冬は夜なの。休む期間ってこと。そして春は朝、活動する時間。夏が一番動きやすいから太陽が昇っているお昼で、秋は寒くなるから家に帰って家のことをする時間。ほら、収穫祭って冬の前って感じしない?」
「あーなるほど。うん。わかりやすい」
シェルがそう言うと、ルイスはロアに向かって笑いかけた。
「いい分析だね」
こじんまりとした居間の中。リディアは黙って、本を読んでいた。
花の香りがする、春のこと。
温かいお湯を飲んで朝を迎え、午前中に読書を済ませたロアは、村の中心に出ていた。
ロアは農夫ベードの畑で畝に線を引き、種を等間隔に落とした。
「天気は変えられん。でも畝は作れる。水の逃げ道くらいはな」
ベードの言葉を聞いたロアは水で手を洗うと、ノートに文字を書いた。
天気は変えられない → でも畝は作れる。
――これを抽象化すると。
世界は変えられない → でも世界との接し方は変えられる。
――ということは。
実りは保証できない → でも種はまける。
「実りは他人型で、種は自己型になるのか」
「はあ?」
「……本当に大切なことって、すぐには結果が出ないのかもなって」
ベードは手を止めて、ロアを見た。
「勉強になった。ありがとうベードさん」
「勉強になったのか……? お前変わってんなあ」
「私も、最近そう思う」
ロアはそう言うとノートを閉じ、背表紙に〝XLII〟の文字を書き入れた。
「さっ、続けよう。夕方までにこの辺りまでは終わらせたいね」
そんなロアを、ベードはきょとんとした顔で見ていた。
作物の香りを打ち消す長雨の、秋のこと。
暗い昼間。ロアは静かにノートに向き合っていた。
背表紙に〝Ⅰ〟と書かれた、最初のノートを開く。
最初のページにあるのは、シェルを失うことへの恐怖。
あの頃の字は大きくて、必死だった。
この時感じた恐怖は、シェルのこと、騎士試験のこと、それから――
「……そうだ、ラミア」
ロアは収穫祭の夜の出来事を思い出し、ノートを片手に図書館に向かった。
〝蛇を従える魔女――ラミア伝説I〟
ロアは本のページをめくり、視線で文字をなぞった。
まず第一に〝ラミア〟とは仮名である。
想像上の恐ろしい魔女の名を借りて、彼女はそう呼ばれているのである。
正式な名前があったとされるが、分かっていない。
ラミアの伝説は、ルーシアの村に伝わっている。
今の死者の国と呼ばれる山のふもとにある村である。
ラミアがルーシアの村で息絶えたという者もいるが、真偽は定かではない。
ただ、ラミアはその付近で消息を絶ったと言われている。
また、ルーシアの村人はラミアの子孫であるという言い伝えが有力であったが、近年では否定されている。
同時期に活躍した、蛮勇ヴァルディオがルーシアの村に立ち寄ったことが判明したからだ。
ラミア伝説、ルーシアの村。
どうしてラミアは、ルーシアの村を選んだのだろう。
同じ時を生きたのなら、蛮勇ヴァルディオとラミアに関係はあったのだろうか。
本のタイトルにはIとある。続きがあるはずだが、図書館の中には見つからなかった。
ロアは新しいノートの背表紙に〝C〟と書き入れた。
水の香りが強くなった、夏のこと。
初めてラミアの本を手に取った日から、季節がいくつか過ぎた。
部屋の床から天井に向かって、ノートと本が城塞のように積みあがっていく。
ロアは慣れた様子でその隙間を通り、椅子に腰を下ろした。
机の上には、開きっぱなしの一冊があった。
〝蛇を従える魔女――ラミア伝説I〟
ロアは指先で題名をなぞってから、手を止めた。
「ロア」
「なに?」
リディアの声にロアは振り返らずに返事をする。
「名前とは、なんだと思う?」
「……今の私にぴったりな議題。そして難しい」
ロアは肩の力を抜くと、冷めたコーヒーを一口飲み、振り返った。
リディアは入り口に寄り掛かって立っていた。
「名前ねえ。……名前、名前。名前は、自分だけのもの……?」
「ほう。では、仮名はどうだ?」
ロアは言葉を探し、ノートの山を眺める。
そして思いついた言葉を、思いついたまま形にした。
「なりたい自分。こうあってほしいっていう他人の願望。……世界に線を引くためのもの?」
「欲張りな定義だな」
「……確かに」
「では、名前は〝誰のため〟にある?」
「それはわかる。自分のため」
「本当か?」
リディアの声色は、意地が悪い響きを持っていた。
「生まれた時、お前は自分で名前を付けたか?」
「……付けてない」
「名前は普通、誰がつける?」
「親」
「ならば〝名前は名付け親のためにある〟とも言えないか?」
「……言える」
ロアは背もたれに体を預けた。
「〝名前は名付け親のためにある〟。それなら、仮名も〝呼ぶ側〟のためにあるのかも……」
「ほう」
「〝ラミア〟っていう型にはめて〝恐ろしい魔女〟のレッテルを貼った。そうでもしないと、解消できない恐怖だったから」
ロアはそこまで言ってノートに書きながら、ピタリと動きを止めた。
だからなに? で終わってしまう。
いまはこれ以上、言葉がでない。
「宿題にしてもいいですか」
「よろしい」
リディアはそう言うと、部屋を出て行った。
ロアは息を吐き切って、天井を見上げる。
〝ラミア〟は想像できたのだろうか。
自分が遠い未来で〝ラミアに喰い殺されるよ〟と言われていることを。
名前も知らない彼女は、人を怖がらせようという気持ちだけで、生きていたんだろうか。
彼女は人間だった。
人間らしい部分はなかったのだろうか。
知りたい。しかし、トアルの村の図書館にこれ以上詳しい本はなかった。あんなにたくさん、本があるのに。
王都・マーテルの研究施設になら、もっと詳しい本があるのだろうか。
雪が落ちる、冬のこと。
シェルが寒空の下、展望台に座っていた。
「風邪ひくよ」
「うん」
返事をするシェルだが、動くつもりはなさそうだ。
二人の間に、雪が散っている。
冬の訪れは、シェルとの別れを予感させた。
春になればシェルは、王都に帰っていく。
沈黙の後、シェルはまた口を開いた。
「帰りたくないなーって」
でもまた会えるよ。
王都で待っててよ。
私、頑張るから。
そんな言葉を全部飲み込んで、ロアは口を開いた。
「帰りたくないんだ」
「うん」
シェルは空を見たまま頷いた。白い息が、薄くなって消えた。
「寒いのに?」
「寒いのに」
「そっか」
ロアは小さく相槌を打つ。それからゆっくりと、シェルの隣に腰を下ろした。
ベンチの木は、冷え切っている。
「じゃあ、差し入れ」
ロアはそういうと籠の中から蓋つきの金属ポットを取り出した。
「あつあつにしてきました」
「なにが入ってるの?」
「冬の外はこれって決まってるでしょ」
ロアが蓋を開けるとそこにはコーンポタージュが入っていた。
「コーンポタージュです! 冬の外では熱いコーンポタージュ!」
ロアはそう言いながら、木製の器にポタージュを注いだ。
シェルは手渡されたポタージュを眺めて笑う。
「こんな冬の外、知らなかったよ」
「じゃあ覚えて。これがロアの冬ってことで」
二人でポタージュに口をつける。
冷えた身体に、内側からの温かさがしみわたっていく。
「おいしい。最高の冬だね」
シェルはそう言って、小さく笑った。
新芽が芽吹く、春のこと。
居間にいるロアに、リディアはいつものロッキングチェアで、本を広げたまま口を開いた。
「ロア。幸せとは、なんだと思う?」
「難しい議論だね」
ロアはそう言って、コーヒーを片手に四人掛けの机に寄り掛かった。
「私は、心からの納得だと思う」
「ほう」
リディアは短くそう返事をすると、本から視線を逸らして少し俯いた。
「では、納得と諦めはなにが違う?」
ロアは少し考えてから口を開いた。
「違わない。納得と諦めは同じだよ」
「なぜ?」
「人間の欲望はきりがない。〝ここでいい〟って自分で線を引かないと、いつまでも求めることになる。……っていうことは、〝納得する理由を見つけて、諦める〟が正しいのかもね。人間の幸せは」
「悲観的だな」
「悲観的? うーん。その意見には反対かな。〝納得する理由を見つけて、諦める〟が悲観的なら、人間の強さを見落としてる」
リディアは俯いていた顔を上げて、ロアを見る。
ロアは俯いたまま、ゆっくりと呼吸を続けていた。
「時間の流れの中で人間は、残酷なことを忘れるようにできてる。そして諦めて区切ることができるから、生き続けられる。そうじゃないとみんな、苦しいことを抱えきれなくなる」
そう言うとロアは、リディアを見た。
「忘れて、諦めて、区切ることができるのは、人間の折れないための機能なんだよ」
ロアの結論に、リディアは息を呑んだ。
「あれ? なんか変なところにとんじゃったね」
「……いや、いい」
そう言うとリディアは、淡くロアに笑いかけた。
「素晴らしい議論だった」
ロアは少し目を見開くと、薄く笑った。
「もう少し詰められそうだよ。次までに私の考え、まとめておくね」
ロアはそう言って居間を出たが、顔だけをのぞかせた。
「本当に見送りに行かなくていいの?」
「ああ。別れの言葉は一度で十分」
「じゃあ、行ってきます」
とうとう、シェルが王都に帰る朝が来た。
ロアは玄関の前で深呼吸をした。
世界が一層分、澄んで見える。
ロアはノートを開いて、文字を書き入れた。
〝同じ朝は、もう二度と来ない。〟
ロアは覚悟を決めると、インクが乾ききる前にノートを閉じた。
ノートの背表紙には〝DC〟の文字。
それは、ロアが五年かけて積み上げた数字にすぎない。




