表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
26/35

18:自分の中の化け物に名前をつける

 居間には守られているような沈黙が流れている。

 ロアは、リディアの言葉の意味を理解するように努めた。


 ――恐怖とは、胸の内に閉じ込めようとするほど大きくなる化け物。


 ラミアの話をして、音を聞き、生まれた恐怖。

 確かに恐怖は大きくなるばかりだった。


「正体がわかったら、怖くないってこと?」

「いいや、正体がわかっても怖いものもある。恐怖というのは、自分にとっての害だ」

「自分にとっての害?」

「そう。身体的な危険。それに、心の不快。例えば、恥。後悔。罪悪感。拒絶や否定。喪失。どれも立派な、自分自身への害だ」


 確かにそうだ。

 怖いという一言でも、それは自分になにか不利益があるから怖いんだ。


「そして恐怖には階層がある。お前の怖いものはなんだ、ロア」

「……さっき、ラミアの話をしていたら、すぐ近くで音がした。怖かったんだけど、正体が猫だって分かったら、急に怖くなくなった」

「いい例だ。それが一番下の階層、正体不明の恐怖だ」


 リディアはそう言うと、指を動かした。

 宙には細い煙のような文字が浮かび、〝正体不明の恐怖〟と描かれた。


「〝ラミア〟は伝説上のもの。そう思っても、言い伝えには必ず由来がある。本当にいたらどうしよう。食い殺されたらどうしよう。だから想像が膨らんで怖くなる。だが照らして確かめた。猫だと分かった瞬間、〝ラミア〟の恐怖は消えた。届く距離にラミアがいないと分かったからだ」

「……なるほど」

「次。害の正体が分かっても、なお残る恐怖はある。お前の中にずっとある恐怖はなんだ?」


 ロアの頭の中には、シェルが浮かんだ。

 しかしすぐその後、騎士試験が浮かんで、一拍だけ息を飲んでから口を開いた。


「騎士試験。受けるって決めたのに、怖い」

「ではまず、正体不明の恐怖から。騎士試験とはなにか。正体は〝試験〟だと分かっている。だが〝中身〟がわからない。なにを評価されるのかわからないから、恐怖が消えない。そうなると、次の階層へ移る」


 リディアは、〝正体不明の恐怖〟の上に線を引いた。

 その上に〝既知の恐怖〟と細い文字が浮かぶ。


「確かめても、言語化しても、怖さが残る。私はそれを既知の恐怖と呼ぶ」

「すでに分かっているのに、怖いってこと?」

「そうだ。既知の恐怖はさらに二つに分かれる。自己型と、他人型」


 宙に浮かんだ文字が、二つに割れる。


「自己型は、お前の手が届く恐怖だ。訓練や手順で小さくできる。騎士試験はこれに近い」


 リディアは一拍置いて、もう片方の文字を指した。


「他人型は、お前の手が届かない恐怖だ。相手が人間で、お前が代わりに背負えない。……思い当たるものはあるか」


 心臓が鳴った。

 話してもいいのだろうか。しかし、ここで話さなければ、シェルを救えない。

 そんな気がした。


「……誰かに喋ったりしない?」

「これは議論だろう。議論はその場限りのものでなければ、美しくない」


 その言葉に、ロアはゆっくりと息を吐き切り、拳を握った。


「私は……シェルが、王になることに悩みとか、不安を抱えてる気がする。シェルがもし自分を見失ったらって思うと、怖いの」

「それは、まぎれもなく他人型だ」


 リディアはそう言って、宙に浮かぶ〝他人型〟の文字の横へ、指先で〝シェル〟と置いた。


「シェルは危うい。自分の不完全さを分かっていて、必死に正そうとしている。だが、お前にはどうにもできない。あれはシェルの問題だ」


 シェルの問題。


 胸の底が、ひゅっと冷えた。

 だったらできることは、なにもない。


「ここで止まるなよ、ロア」


 リディアは刺すように言う。ロアははっと息を呑んで、自分の内側に沈みかけた意識を、再びリディアに向けた。


「他人型を分解する。そうすると中には、自己型に変換できるものが出てくる」


 ロアは宙文字を見た。〝他人型〟の側に置かれた〝シェル〟から枝分かれし、ぐちゃぐちゃとした文字が描かれている。


「〝シェルのこと〟と言っても中身はいくつもある。捨てていいもの、首を突っ込むべきじゃないものもある。それでも手を伸ばしたいなら、お前ができないこととできることを切り分けろ。自分への問い、考えることをやめてはいけない」

「……でも私、もう、ずっと考えてる」


 ロアは震える声でそういった。

 

「シェルが笑うたびに、いつか笑えなくなる瞬間が来るんじゃないかって思う。今の私にできることはないかって、いつも思ってる。シェルと話すたびに、頭の中で必死に選んでる。私なりに、ちゃんと、ずっと、考えてるつもりで――」

「つもりだ」


 リディアは短く言った。


「言っただろう。恐怖とは、胸の内に閉じ込めようとするほど大きくなる化け物だ。頭の中の思考は、形がない。その時の感情が混ざり、勝手に育っていく。だから、言葉にしろ」


 リディアはロアに左手を差し出した。リディアがぴたりと動きを止めると、そこには薄い本が一冊握られていた。

 タイトルも何もない無地の皮が張られた本だった。


「なんの本?」

「本じゃない。ノートだ。今日から化け物は、ノートに縛れ」


 ロアは受け取って、表紙を撫でた。


「今日からノートは、お前の頭の外側だ。誰にも見せるな。見せるために書いた瞬間、嘘が混ざる」


 リディアは暖炉の火へ視線を投げる。


「暗い森でも、地図とコンパスがあれば迷い方が変わる。お前が今から作るのは、それだ。……手順を説明する。一度しか言わないから、聞き逃したくないなら、メモでも取るんだな。手順は単純だ。一行目――」


 ロアが大慌てしていると、リディアがまた左手を差し出す。

 その手には万年筆が握られていた。

 ロアはそれを受け取ると、最初の一ページ目を開いた。


「――なにが怖い。……二行目、なぜ怖い。……三行目、ということは」


 ロアはそこまで書いて手を止めた。


「それらすべてを自分に問いかけたあとで、分解しろ。細かくして、自分にできることとできないことに分ける」


 ロアはすべてを書き終えると、息をついた。


「最後にひとつ――」


 気を抜いていたロアはすぐにノートに向き合った。


「――今すぐに、自分にできることは?」


 ロアはリディアの様子をうかがうが、彼女はもう、本に目を移していた。

 議論は、終わったらしい。


「ルイスは自分事と他人事を切り分けることが、抜きん出て上手い。頼ればきっと、ルイスはお前の力になってくれるぞ。そうなるとそのノートは必要ないな」


 ルイスに頼れば。

 リディアの言葉のあとでロアはノートを見た。

 人に頼りたくない。自分で解決したい。


「自分でやってみたい。ありがとう、おばあちゃん」


 ロアはそう言うと、ノートと万年筆を抱えて自室に戻った。

 机に座り、ノートを開く。


 ――なにが怖い。シェルが立ち直れなくなるのが怖い。


 書いた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。

 ロアはすぐ次の行に移る。リディアが言った通り、問いを重ねた。


 ――なぜ怖い。シェルが辛い思いをしているところを、見たくないから。


 そこでロアの筆が止まった。

 〝シェルが辛い思いをする〟のは、シェルの問題、つまり他人型だ。


 ロアは息を吐いて、問いを続ける。


 ――ということは。シェルにずっと笑っていてほしい。


 書き終えたところで、ロアは一瞬だけ目を閉じた。

 それは願いで、祈りで、そして――恐怖の正体。

 いつも感じる、シェルへの想いだった。


 ロアはノートの上に指先を置く。


 〝ずっと笑っていてほしい〟。

 そんなもの、約束できない。


 ロアは、次の問いを書いた。


 ――でも。それは、私にできること?


 すぐに答えが出ない。

 胸の奥が、また少し痛んだ。


 だから、もう一段だけ分ける。


 ――分解。私が怖いのは、なに?


 ロアは言葉を選びながら、書いた。


 ――シェルがひとりで抱えこんで、戻れなくなること。


 そこまで書いて、ロアはようやく息ができた気がした。

 〝笑っていてほしい〟は大きすぎる。


 でも、〝ひとりで抱えこむ〟なら、見える。


 ロアは、線を引いた。


 ――私にできないこと。

 ・シェルの痛みを代わってあげること

 ・シェルの心を勝手に直すこと

 ・未来を保証すること


 ――私にできること。

 ・「今夜みたいに変だ」と思ったら、放っておかないこと

 ・私が背負いすぎそうになったら、ノートに縛ってから動くこと


 ロアは最後の問いを自分へ投げかけた。


 ――今すぐに、自分にできることは?


 王子はそんなにいいものじゃないとシェルに言われた時、そんなはずない、なにも言っていない、少しも役に立っていない。と思った。


 それならと、ロアは一言書きだした。


 ――今すぐに、自分にできることは?

 ・人の立場に立って話を聞く方法が書いてある本を読むこと。


 これなら、朝起きてからすぐにできる。


 ロアは見開きのノートを見た。

 これが、シェルに対して感じている、恐怖の全て。


 あれだけ大きかった恐怖が、たった二ページに収まっている。


 書きながら、ロアは気づいた。

 恐怖は消えない。でも、自分のやるべきことはわかった。

 ロアはその日初めて、胸の内の化け物を、紙の中で飼い慣らした。


 次の日。

 ロアはノートと万年筆を抱えて図書館に足を運んだ。


 〝聞く剣 ――人の心を守る対話術〟


 人間の行動には、必ず意味がある。

 友人がほんの小さな弱音を打ち明けたのなら、あなたを信用している証拠である。


 余計な口出しをしてはいけない。否定してはいけない。自分の意見を述べてはいけない。

 あなたが意見を述べていいのは、「どう思う?」と直接求められた時だけである。

 それも短く切り上げて、早急に相手の話に戻そう。

 会話の主導権は、常に耳を傾ける人間にあるということを、忘れないでほしい。


 相手を言い負かす材料を見つけるために、話を聞くのではない。

 相手が自分自身の言葉に辿り着くために、話を聞くのである。


 ――相手が自分自身の言葉に辿り着くために、話を聞く。

 本の書いてある言葉には、覚えがあった。リディアとの議論の時、自分の内側から答えが出てくる感じがする。


 ロアはすぐにノートにペンを走らせた。


 ――話を聞くときに注意すること。

 ・正しいことを押し付けたり、解決策を急がない。

 ・シェルが自分の言葉にたどり着くために、シェルの話を聞く。

 ・私が口を開くのは、意見を求められた時だけ。短く終わらせて切り上げる。


 なんだかズルい気もした。

 人の気持ちを操っているような。


 ロアは自分に問いかける。


 ――ズルいのとシェルを救えないのと、どっちがいい?


 しかし、胸の内のざわめきが、少しだけ形を変えた。

 ロアはゆっくりと息を吐く。

 今度こそ、あの夜の言葉を、ひとりにしない。


 ズルくても、汚くてもいい。

 どんな手でも使う。

 シェルを、助けられるなら。


 ロアは、昨日リディアから貰ったノートを閉じた。

 そして、背表紙の空白に〝Ⅰ〟と書き入れた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ