18:自分の中の化け物に名前をつける
居間には守られているような沈黙が流れている。
ロアは、リディアの言葉の意味を理解するように努めた。
――恐怖とは、胸の内に閉じ込めようとするほど大きくなる化け物。
ラミアの話をして、音を聞き、生まれた恐怖。
確かに恐怖は大きくなるばかりだった。
「正体がわかったら、怖くないってこと?」
「いいや、正体がわかっても怖いものもある。恐怖というのは、自分にとっての害だ」
「自分にとっての害?」
「そう。身体的な危険。それに、心の不快。例えば、恥。後悔。罪悪感。拒絶や否定。喪失。どれも立派な、自分自身への害だ」
確かにそうだ。
怖いという一言でも、それは自分になにか不利益があるから怖いんだ。
「そして恐怖には階層がある。お前の怖いものはなんだ、ロア」
「……さっき、ラミアの話をしていたら、すぐ近くで音がした。怖かったんだけど、正体が猫だって分かったら、急に怖くなくなった」
「いい例だ。それが一番下の階層、正体不明の恐怖だ」
リディアはそう言うと、指を動かした。
宙には細い煙のような文字が浮かび、〝正体不明の恐怖〟と描かれた。
「〝ラミア〟は伝説上のもの。そう思っても、言い伝えには必ず由来がある。本当にいたらどうしよう。食い殺されたらどうしよう。だから想像が膨らんで怖くなる。だが照らして確かめた。猫だと分かった瞬間、〝ラミア〟の恐怖は消えた。届く距離にラミアがいないと分かったからだ」
「……なるほど」
「次。害の正体が分かっても、なお残る恐怖はある。お前の中にずっとある恐怖はなんだ?」
ロアの頭の中には、シェルが浮かんだ。
しかしすぐその後、騎士試験が浮かんで、一拍だけ息を飲んでから口を開いた。
「騎士試験。受けるって決めたのに、怖い」
「ではまず、正体不明の恐怖から。騎士試験とはなにか。正体は〝試験〟だと分かっている。だが〝中身〟がわからない。なにを評価されるのかわからないから、恐怖が消えない。そうなると、次の階層へ移る」
リディアは、〝正体不明の恐怖〟の上に線を引いた。
その上に〝既知の恐怖〟と細い文字が浮かぶ。
「確かめても、言語化しても、怖さが残る。私はそれを既知の恐怖と呼ぶ」
「すでに分かっているのに、怖いってこと?」
「そうだ。既知の恐怖はさらに二つに分かれる。自己型と、他人型」
宙に浮かんだ文字が、二つに割れる。
「自己型は、お前の手が届く恐怖だ。訓練や手順で小さくできる。騎士試験はこれに近い」
リディアは一拍置いて、もう片方の文字を指した。
「他人型は、お前の手が届かない恐怖だ。相手が人間で、お前が代わりに背負えない。……思い当たるものはあるか」
心臓が鳴った。
話してもいいのだろうか。しかし、ここで話さなければ、シェルを救えない。
そんな気がした。
「……誰かに喋ったりしない?」
「これは議論だろう。議論はその場限りのものでなければ、美しくない」
その言葉に、ロアはゆっくりと息を吐き切り、拳を握った。
「私は……シェルが、王になることに悩みとか、不安を抱えてる気がする。シェルがもし自分を見失ったらって思うと、怖いの」
「それは、まぎれもなく他人型だ」
リディアはそう言って、宙に浮かぶ〝他人型〟の文字の横へ、指先で〝シェル〟と置いた。
「シェルは危うい。自分の不完全さを分かっていて、必死に正そうとしている。だが、お前にはどうにもできない。あれはシェルの問題だ」
シェルの問題。
胸の底が、ひゅっと冷えた。
だったらできることは、なにもない。
「ここで止まるなよ、ロア」
リディアは刺すように言う。ロアははっと息を呑んで、自分の内側に沈みかけた意識を、再びリディアに向けた。
「他人型を分解する。そうすると中には、自己型に変換できるものが出てくる」
ロアは宙文字を見た。〝他人型〟の側に置かれた〝シェル〟から枝分かれし、ぐちゃぐちゃとした文字が描かれている。
「〝シェルのこと〟と言っても中身はいくつもある。捨てていいもの、首を突っ込むべきじゃないものもある。それでも手を伸ばしたいなら、お前ができないこととできることを切り分けろ。自分への問い、考えることをやめてはいけない」
「……でも私、もう、ずっと考えてる」
ロアは震える声でそういった。
「シェルが笑うたびに、いつか笑えなくなる瞬間が来るんじゃないかって思う。今の私にできることはないかって、いつも思ってる。シェルと話すたびに、頭の中で必死に選んでる。私なりに、ちゃんと、ずっと、考えてるつもりで――」
「つもりだ」
リディアは短く言った。
「言っただろう。恐怖とは、胸の内に閉じ込めようとするほど大きくなる化け物だ。頭の中の思考は、形がない。その時の感情が混ざり、勝手に育っていく。だから、言葉にしろ」
リディアはロアに左手を差し出した。リディアがぴたりと動きを止めると、そこには薄い本が一冊握られていた。
タイトルも何もない無地の皮が張られた本だった。
「なんの本?」
「本じゃない。ノートだ。今日から化け物は、ノートに縛れ」
ロアは受け取って、表紙を撫でた。
「今日からノートは、お前の頭の外側だ。誰にも見せるな。見せるために書いた瞬間、嘘が混ざる」
リディアは暖炉の火へ視線を投げる。
「暗い森でも、地図とコンパスがあれば迷い方が変わる。お前が今から作るのは、それだ。……手順を説明する。一度しか言わないから、聞き逃したくないなら、メモでも取るんだな。手順は単純だ。一行目――」
ロアが大慌てしていると、リディアがまた左手を差し出す。
その手には万年筆が握られていた。
ロアはそれを受け取ると、最初の一ページ目を開いた。
「――なにが怖い。……二行目、なぜ怖い。……三行目、ということは」
ロアはそこまで書いて手を止めた。
「それらすべてを自分に問いかけたあとで、分解しろ。細かくして、自分にできることとできないことに分ける」
ロアはすべてを書き終えると、息をついた。
「最後にひとつ――」
気を抜いていたロアはすぐにノートに向き合った。
「――今すぐに、自分にできることは?」
ロアはリディアの様子をうかがうが、彼女はもう、本に目を移していた。
議論は、終わったらしい。
「ルイスは自分事と他人事を切り分けることが、抜きん出て上手い。頼ればきっと、ルイスはお前の力になってくれるぞ。そうなるとそのノートは必要ないな」
ルイスに頼れば。
リディアの言葉のあとでロアはノートを見た。
人に頼りたくない。自分で解決したい。
「自分でやってみたい。ありがとう、おばあちゃん」
ロアはそう言うと、ノートと万年筆を抱えて自室に戻った。
机に座り、ノートを開く。
――なにが怖い。シェルが立ち直れなくなるのが怖い。
書いた瞬間、胸の奥が少しだけ痛んだ。
ロアはすぐ次の行に移る。リディアが言った通り、問いを重ねた。
――なぜ怖い。シェルが辛い思いをしているところを、見たくないから。
そこでロアの筆が止まった。
〝シェルが辛い思いをする〟のは、シェルの問題、つまり他人型だ。
ロアは息を吐いて、問いを続ける。
――ということは。シェルにずっと笑っていてほしい。
書き終えたところで、ロアは一瞬だけ目を閉じた。
それは願いで、祈りで、そして――恐怖の正体。
いつも感じる、シェルへの想いだった。
ロアはノートの上に指先を置く。
〝ずっと笑っていてほしい〟。
そんなもの、約束できない。
ロアは、次の問いを書いた。
――でも。それは、私にできること?
すぐに答えが出ない。
胸の奥が、また少し痛んだ。
だから、もう一段だけ分ける。
――分解。私が怖いのは、なに?
ロアは言葉を選びながら、書いた。
――シェルがひとりで抱えこんで、戻れなくなること。
そこまで書いて、ロアはようやく息ができた気がした。
〝笑っていてほしい〟は大きすぎる。
でも、〝ひとりで抱えこむ〟なら、見える。
ロアは、線を引いた。
――私にできないこと。
・シェルの痛みを代わってあげること
・シェルの心を勝手に直すこと
・未来を保証すること
――私にできること。
・「今夜みたいに変だ」と思ったら、放っておかないこと
・私が背負いすぎそうになったら、ノートに縛ってから動くこと
ロアは最後の問いを自分へ投げかけた。
――今すぐに、自分にできることは?
王子はそんなにいいものじゃないとシェルに言われた時、そんなはずない、なにも言っていない、少しも役に立っていない。と思った。
それならと、ロアは一言書きだした。
――今すぐに、自分にできることは?
・人の立場に立って話を聞く方法が書いてある本を読むこと。
これなら、朝起きてからすぐにできる。
ロアは見開きのノートを見た。
これが、シェルに対して感じている、恐怖の全て。
あれだけ大きかった恐怖が、たった二ページに収まっている。
書きながら、ロアは気づいた。
恐怖は消えない。でも、自分のやるべきことはわかった。
ロアはその日初めて、胸の内の化け物を、紙の中で飼い慣らした。
次の日。
ロアはノートと万年筆を抱えて図書館に足を運んだ。
〝聞く剣 ――人の心を守る対話術〟
人間の行動には、必ず意味がある。
友人がほんの小さな弱音を打ち明けたのなら、あなたを信用している証拠である。
余計な口出しをしてはいけない。否定してはいけない。自分の意見を述べてはいけない。
あなたが意見を述べていいのは、「どう思う?」と直接求められた時だけである。
それも短く切り上げて、早急に相手の話に戻そう。
会話の主導権は、常に耳を傾ける人間にあるということを、忘れないでほしい。
相手を言い負かす材料を見つけるために、話を聞くのではない。
相手が自分自身の言葉に辿り着くために、話を聞くのである。
――相手が自分自身の言葉に辿り着くために、話を聞く。
本の書いてある言葉には、覚えがあった。リディアとの議論の時、自分の内側から答えが出てくる感じがする。
ロアはすぐにノートにペンを走らせた。
――話を聞くときに注意すること。
・正しいことを押し付けたり、解決策を急がない。
・シェルが自分の言葉にたどり着くために、シェルの話を聞く。
・私が口を開くのは、意見を求められた時だけ。短く終わらせて切り上げる。
なんだかズルい気もした。
人の気持ちを操っているような。
ロアは自分に問いかける。
――ズルいのとシェルを救えないのと、どっちがいい?
しかし、胸の内のざわめきが、少しだけ形を変えた。
ロアはゆっくりと息を吐く。
今度こそ、あの夜の言葉を、ひとりにしない。
ズルくても、汚くてもいい。
どんな手でも使う。
シェルを、助けられるなら。
ロアは、昨日リディアから貰ったノートを閉じた。
そして、背表紙の空白に〝Ⅰ〟と書き入れた。




