15:誰も知らない時間
ロアとルイスは展望台に上ると、ベンチに腰を下ろした。
ベンチにはまだかすかに、太陽のぬくもりが残っていた。
「ルイスと話して、私が学者に向いているっていうのは、わかったつもり」
「うん」
ルイスは静かに、短く相槌を打つ。
しかし、それ以上深く追求することはなかった。
実は今、三度目の人生の途中で、一度目の人生は――
そんな説明ができるはずもなく、ロアは視線を落として、次の言葉を探した。
「……向いてるって分かってるのに、怖いのは、変かな」
質問しておいてこれ以上なにも説明しないなんて、あまりに無責任だとわかっていた。
けれど今のロアには、これ以上の言葉をみつけられそうにない。
ルイスが見下ろすトアルの村に、カラスの鳴き声が響く。それは、かすかに余韻を残して消えた。
迷いの森の向こうで太陽が傾き、反対の空で月が夜の真ん中へ引き上げられていく。
「うん。変だね」
ルイスは迷いなく言い切ってから、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「逆だと思うな。向いてるってわかってるのに怖い、じゃない」
ルイスは言葉を切ると、静かに続ける。
「向いているってわかってしまったから、怖いんだよ」
――向いているってわかってしまったから、怖い。
ロアは、すぐに言葉を返せなかった。
「ロアは優しすぎる。自分に向いていない場所に放り込まれて、〝向いていない〟って言われても、本気で傷つくような人だから」
胸の奥で、ひっかかっていた感覚を、引きずり出されたようだった。
ルイスは、言葉を選びながら話しているわけではなさそうだ。
考えた結果というより、見てきたものをそのまま口にしている。
「そんなロアだから、自分に向いている場所で否定されたら、自分そのものを否定されたって思っても仕方ない。だからロアは、〝向いていない〟って言われるのが怖いんじゃない。〝向いてるはずの場所で、いらないって言われる〟のが怖いんだよ」
無機質な部屋の空気。
名前を呼ばれて、座らされる。
なにが正解かわからない質問。
〝この程度か〟がにじむ微笑。
答え終わる前に、もう決まっていた評価。
選ばれることを、待っているしかなかった、一度目の人生。
「ロア、リディアさんから〝自分で選ぶことと、誰かに選ばれること。どちらが楽だと思う?〟って聞かれなかった?」
「……うん、聞かれた」
「僕はさ、自分で選ぶことの方が楽だと思うんだ」
〝自分で選ぶことの方が楽〟。
ロアの中に、その考え方は少しもなかった。
まさに今、自分で選ぶことに苦しんでいる。
「どうして?」
すがるような気持だった。
ルイスならなにか、決定打になる言葉を知っているのではないか。
例えば、ぐっと背中を押して引き上げてくれるような言葉を。呼吸が止まるくらい鋭い言葉を。
「〝揺れ続けるしんどさ〟が少ないのが、自分で選ぶ方だと思うから。誰かに選ばれていると、ずっと確認し続けなきゃいけない。選んでもらえるのか。次も必要とされるか。それって安心できそうだけど、一番落ち着かない」
「……そうかもしれない」
ロアは小さく頷く。
誰かに選ばれる側でいる不安を、初めて言葉として受け入れた気がした。
「私は、誰かに選ばれる方が楽だって答えた。……自分で選ぶほうが、責任は重いでしょ?」
「うん。重いよ」
ルイスは即答する。
それなのにどうして、自分で選ぶ方が楽なのか。
ロアは心の底から知りたくなって、ルイスの言葉の続きを待った。
「重すぎて途中で放り投げられないくらい。だから、覚悟が決まるんだよ。選ばれなかったら全部なくなる生き方って、きっとすごく不安定で、怖いよ」
そう、怖い。
怖くて堪らない。
名前を呼ばれる。
椅子の背に、浅く腰を掛ける。
机の向こうで、視線がいくつも動く。
『では、あなたがここでできることは?』
答えようとした瞬間に、もう終わっている。
頷き。
書き留める音。
もうこちらを見ていない目。
選ばれなかった理由は、最後まで教えてもらえないまま――
「――ロアは、どっちが怖いの?」
あれほど騒めいていた思考が、ぴたりと止まった。
「選んで後悔する生き方と、選ばれなかったらなくなる生き方。どっちが怖い?」
ルイスの一言で、絡まっていた糸が解けた。
世界が一層分、彩度を上げた気がした。
なにも、難しい問いじゃなかった。
答えはもう、身体が知っていた。
自分で、選んで来たじゃないか。
王都からベルトラードが来たとき、まず駆け出した。
それからやめようというルイスを説得した。
木に登って、シェルを部屋から出した。
迷いの森まで走った。
その小さな選択の先に、シェルはトアルの村にいる。
じゃあもし、あの時、シェルを助けようと行動しなかったら。
シェルはきっと今頃、トアルの村にはいない。
――正解を問うな。絶対的な正解など存在しない。選び続ける人間に必要なのは、自分の選択を正解にする力だ。
シェルの魔法を黙って見ただけならそれは、不正解だったかもしれない。
だけど、シェルを助けることを選んだから、自分の選択が正解になった。
リディアの言う〝自分の選択を正解にする力〟という言葉の輪郭に、触れている。
選ばれなかった過去が怖いんじゃない。
あの時と同じ場所に、戻ってしまうのが怖いだけだ。
初めて〝ここに行きたい〟という場所を、自分で見つけた。
選ばれるんじゃない。
選ぶ権利を、ちゃんと持っている。
「……落ちたら、多分すごく傷つくと思う」
ぼそりと呟くロアの言葉に、ルイスは耳を傾けていた。
「でも、それでも……行かない選択をした自分よりは、絶対マシ」
ロアがそう言うと、ルイスはロアを見て笑った。
「じゃあ、一緒に行こう。王都に」
二人は顔を見合わせて笑った。
ルイスがいてくれてよかった。
三度目の人生でもきっと、何度も何度も、そう思うのだろう。
「夕日、沈んじゃったね」
ルイスが村を眺めた。
村は闇の中に、ぼんやりと輪郭を落としていた。
窓から漏れるかすかな光が、少し切ない気持ちにさせる。
「ルイス、夕日好きだよね」
「うん。ここから見る夕日が好きなんだ。夕日を見ると、今日も一日終わるなーって思う」
ルイスはそう言うとぐっと伸びをした。
「一日を精一杯生きた自分に〝本当によく頑張ったね〟〝もうゆっくり休もう〟って言ってあげられるから、夕日は好き」
また二人の間に、穏やかな時間が戻ってきた。
ルイスが少し動くと、彼が膝の上にのせていた本が滑り落ちた。
ロアはそれを地面につく前に受け止めて、ルイスに差し出した。
「はい」
「ありがとう」
ルイスはそう言って受け取る。
二度目の人生でも、ルイスはこの本を持っていた。
〝哲学書〟だというそれは、リディアから貰ったものだという。
結局、一度も中を見せてもらったことはない。
たくさん書き込みがしてあるから恥ずかしいと、二度目の人生のルイスはそう言っていた。
子どものルイスなら、答えてくれるかもしれない。
「帰ろうか」
しかしロアが口を開くより前に、ルイスはそう言って立ち上がる。
ロアはルイスに問いかけることを諦めて、立ち上がった。
村は小さな明かりを残して、闇の中に沈んでいた。
「危ないね」
ルイスはそう言うと、真っ直ぐに右腕を伸ばす。
そして、手のひらを上に向けた。
ルイスの手の上に、火が盛った。
火は手のひらいっぱいの大きさを保って、浮いている。
暖かい色の光はルイスを正面から包み込んでいた。
どこからか吹いた風が、ルイスの髪をなぞって、火の粉を小さく撒いた。
ルイスが魔法を使うところを、初めて見た。
「いままで一回も見せてくれなかったのに」
「今日は、そういう気分」
ルイスはいたずらっぽく言って、火を追い払うみたいに手をひらりと振った。
火は跳ねる毬のように階段を降り、通った跡に、点々と小さな灯りを置いていく。
ルイスは階段を一段降りると、振り返ってロアに手を差し出した。
「落ちたら、僕のせいにしていいよ」
そう言って笑うルイスに、ロアは笑い返して手を伸ばす。
指先が触れた瞬間、心が小さく揺れた。
二人は一段一段階段を降りた。
役目を終えた火は潔く姿を消していく。
残るのは、光の名残だけ。




