09:覚悟の肯定
三人は迷いの森を進んだ。
迷いの森は先に進むほど暗く、木々の隙間から光がまばらに散る様子で、やっと昼とわかるほどだった。
それは、今にも魔物が出てきそうな禍々しさにも、神聖すぎて畏敬の念を抱くようでもあった。
ロアは先を進むシェルを見た。
今シェルが王都に行けば、確かに未来は変わるかもしれない。だけどシェルの人生には、きっと、トアルの村の安らぎが必要だ。
後ろから、嫌味なほどはっきりと、小枝を踏みつける音が聞こえた。
「急ごう」
ルイスの言葉を聞いて、シェルはぴたりと足を止めた。
「やっぱり、やめよう」
シェルはそう言うと、震える喉元で息を吐いた。
「ベルトラード公爵と一緒にいたのは、騎士だ。魔法じゃ敵わない。それにベルトラード公爵は、他の貴族からの信頼が厚い。……俺のわがままで、二人を巻き込みたくない」
「わかってるよ」
ルイスがはっきりと言い切ると、シェルは驚いた様子で彼を見ていた。
「僕もロアも、それはわかってる。だけど僕たちは、シェルにあの部屋にいてほしくない」
「……でも、」
「どうせ昨日、〝魔法は使っちゃダメ〟っていうロアを無視して、魔法を使ったんだろ。シェル」
ルイスの言葉にシェルはうっと息詰まると、「それは……」と小さな声で呟いて、極まりが悪そうに俯いた。
「僕とロアは昨日、シェルを信じた。今日は、僕とロアを信じてよ」
小枝を踏む音が、だんだんと近づいてくる。
シェルは俯いていた顔を上げて、大きく一度頷いた。
「うん、わかった。信じるよ」
「じゃあ、先を急ごう」
ルイスの言葉で、三人は森を抜けるために走り出す。
ロアは後ろから、二人の背中を見つめた。
一度目の人生で、子どもも大人も経験した。
だから二度目の人生で、いつまでも子どものままでいられると思っていたわけじゃない。
ただ、三人でいることが本当に楽しくて、いつまでも続けばいいと思っているうちに、気付けばまた、大人になっていた。
そして今、奇跡が起きて、三度目の人生をやり直している。
今度こそ、この奇跡を大切にしたい。
忘れないように、こぼれてしまわないように、ロアは拳を握りしめた。
迷いの森を抜けると、ポワの泉が見えた。
横からみるポワの泉は、シェルと上空からみた時よりもずっと、大きく見える。
三人は泉に沿って走った。
「シェル。若い男の人、騎士って言ったよね」
「そう。すごく優秀な騎士だよ」
「騎士は、必要なら武力的な魔法の使用が許されてるはずだ」
「じゃああの人、どうして魔法を使わないの?」
「僕たちが、子どもだからだよ」
ロアは振り返った。ベルトラードと騎士の男は迷いの森を抜けて、真っ直ぐにこちらに向かってきていた。
前を見ると、ルイスは大きな古い屋敷に向かって走っていた。
〝ポワの幽霊屋敷〟。
周りを黒い鉄装飾に囲まれた、誰も住んでいない、誰も近づかない、古いお屋敷。
「幽霊屋敷は危ないよ、ルイス!」
「いこうよ、ロア」
ルイスがなにか答えるより前に、シェルがロアにそう言った。
「俺と一緒に、ルイスを信じよう」
シェルの声で、ロアははっとした。
ルイスはこんな時、無駄なことをしない。
ルイスは屋敷の黒い装飾鉄門のすぐ前で立ち止まった。
シェルとロアも同じように立ち止まり、三人で息を整える。
ベルトラードと騎士の男は、三人の様子を見て少し距離を取ってから足を止めた。
「追いかけっこは、これでおしまいでいいかな?」
騎士の男は、優しげな様子でルイスにそう問いかけた。
ルイスは一度息を整え、ベルトラードを見て口を開いた。
「シェルは、王都に戻るんですか」
「それを考えるために、ここへ来たんだ。そして私はまだ、答えを出すための決定的な材料を持っていない」
重たく静かな雰囲気を纏っているベルトラードは、ゆっくり瞬きをしてルイスの視線を切ると、真っ直ぐにシェルを見た。
「殿下」
ベルトラードの声に、シェルは少し身構えている。
能天気に小鳥が、どこかで鳴いていた。
「どうして、魔法を使ったのですか」
静かに、ゆっくりと空気を裂いて、ベルトラードはシェルに問いかける。
「誰のために?」
「……俺は――」
シェルはベルトラードから視線を逸らし、少し間を開けて口を開いた。
〝ロアのために魔法を使った〟。
そう言うだけでいい。
ロアは今、心の底から、シェルがそう言ってくれることを願っていた。
「――自分のために魔法を使った」
「……違う」
ロアは考えるより先に口を開いた。
「そうじゃない……! 違う! シェルは私のために、」
「違うよ、ロア。ロアのためじゃない。俺は自分のために魔法を使ったんだ」
シェルは覚悟を決めたようにそう言うと、真っ直ぐ、ベルトラードの目を見る。
今のシェルは、間違いなくベルトラードと同等の格を備えていた。
「ベルトラード公爵。俺は、後悔してない」
ベルトラードはシェルの視線を断ち切ると、ゆっくりと騎士の男の方へ顔を向けた。
「王都へお連れする」
「承知しました」
騎士の男はベルトラードに返事をすると、穏やかな笑顔を浮かべたままルイスの顔を見た。
「抵抗するかどうかだけ聞いてもいいかな?」
「……話し合う余地はありませんか」
「もう、ないよ」
騎士の男が一歩前に出たと同時に、ルイスは鉄の門に手を伸ばす。
――魔法が、暴発する。
ルイスが鉄の門の棒を握りしめた途端、大きなポワの泉は、静かな怒りを表すように波を立てた。
波はあっという間に大きくなり、泉の水が轟音と共に大きく空に向かって持ち上がる。
瞬きする間もない、一瞬の出来事だった。
持ち上がった水は、一瞬のうちに女の形を成して襲い掛かる。
人の顔をした水に、生き物の気配はない。
騎士の男は、襲い掛かる水に手を伸ばしていた。
あと少しの距離で、水の女はベルトラードを見下ろしたまま、静止した。
見つめ合うような沈黙が、ほんの一瞬だけ残って見えた。
それから水の女は、ゆっくりと溶けるように人の形を失っていく。
ベルトラードと騎士の男は、迷いの森を見た。
「ベルトラード殿。お怪我はありませんか」
そう言いながら、まるで何事もなかった様子でゆっくり歩いてくるのは、リディアだった。
「ええ、おかげさまで大事ありません」
ベルトラードはそう言うと、水の女が消えたポワの泉を見た。
女の形を成していた水は、地面を滑るように泉の中に最後の一滴を落とした。
「……これは、あなたの魔法ではありませんね、リディア殿」
「ええ、その通り。ただの〝魔法の暴発〟ですよ」
リディアの答えを聞くと、今度は騎士の男が口を開いた。
「どうして、こんな近くで発生している〝魔法の暴発〟を、放っているんですか?」
「なんでもかんでも、魔法の暴発を止めたらいいというわけではないんだよ。騎士くん」
リディアは薄く笑いながら、騎士の男を見ていた。
「魔法は〝想い〟だ。暴発を止めるには根本的解決を図らなければならない。私は王都にいるとき、常々そう説いてきたはずだが。あれから騎士の中に、新たな一手を打つ人材はいなかったかい」
リディアの言葉を最後に、沈黙が落ちた。
重たく、誰も動けない時間だ。
その空気が砕けたのは、リディアがルイスに視線を移したことがきっかけだった。
ルイスはシェルを見て、それからベルトラードを見た。
「ベルトラード公爵。僕たちの話を、聞いてください」
「……いいだろう。話を聞こう」
「魔法を使ったこと自体はシェルが悪い。だから〝約束を破ったから連れて帰る〟なら理解できます。ただ、〝自分のために魔法を使ったから連れて帰る〟なら、僕は納得できない」
「殿下はいずれ国王になられる。国王の判断は、国民のためのものでなければならない」
「〝国民のため〟って言葉は、便利すぎる。シェルの意思も、迷いも、恐れも、全部消えてしまう」
ベルトラードは少し視線を落とした後、もう一度ルイスを見た。
「……ルイス・ミレインくん。私の発言が君を不快にさせたら申し訳ない。しかし、殿下は君たちとは違う。歴史あるマーテルの象徴になるお方だ」
「シェルは象徴の前に、感情を持つ人間じゃないですか」
空気がまた、ぴんと張りつめていた。
指一本動かせば、ベルトラードの判断に、ルイスの発言に、悪いように触れてしまうのではないか。そんなことを考えてしまうくらいだった。
「シェルが魔法を使ったこと自体は、間違いだったかもしれない。でも、シェルは自分で選んだんです。ロアに魔法を見せると、王都に連れ戻されるかもしれないとわかっていても、ロアに魔法を見せることを選んだ。ここで自分に嘘をつけば、自分が自分じゃなくなるって思ったから」
――俺は今日、俺が見せたいものを全部ロアに見せるまでやめない。
昨日言ったシェルの言葉を思い出す。
あれは間違いなく、希望だった。
「〝国民のため〟という言葉で、シェルの感情を全部、なかったことにしないでください。シェルは、あなた方の期待にも、国王という重さにも、ずっと耐えて生きてきた。初めて自分の意思を示したシェルを、一人の人間として認めてあげてほしい」
ルイスはシェルを見ると、柔らかい笑顔を浮かべた。
「昨日シェルがした選択は、きっと僕にはできなかった。魔法を使えば王都に連れ戻されるかもしれないって分かっていても、ロアに魔法を見せたシェルを、僕は尊敬するよ」
ルイスからの真っ直ぐな言葉に、シェルは目を見開く。
ルイスの言葉はちゃんと、今、シェルに届いている。




