07:王都・マーテルからの使者
太陽が真上に上るより少し前に、ロアは目を覚ました。
身体がだるい。
完全に狂った体内時計が、泥のような睡眠を求めていた。
だけど、寝ていない時よりも明らかに気分がいい。
ロアは大きく伸びをすると、部屋を出て居間に移動した。
居間には誰もいない。
――さあ、お前はどこへ行く?
そう問いかけられた気がして、図書館を選んだあの日から、見える世界が大きく変わった。
少し冷静になった今思えば、間違った方向に向かおうとしていた。
どこかでドアが開く音がして、足音が近づいてきた。
ロアは入り口のドアを見た。
「おはよう、ロア」
「……ルイス」
ルイスは居間に入るとロアのすぐそばで立ち止まった。
沈黙の間、ロアは胸の奥でなにかがきしんでいる気がした。
ルイスとは、二度目の人生で将来結婚を誓い合った仲だ。
夜にシェルと出かけていたことを、ルイスはきっと知っている。
なんだか悪いことをした気持ちだった。
「あの……」
「今のロアに必要なのは、こういう本だと思うよ」
ルイスは、ロアに一冊の本を手渡した。
差し出された本を受け取ると、タイトルには〝知性は眠りから生まれる〟と書かれていた。
心の中にすっと入り込んで、絡まっていた糸がほどけるような感覚だった。
二度目の人生で何度も感じた、ルイスの優しさだ。
「ルイス。……私が間違ってた。せっかく教えようとしてくれたのに、突き放してごめん」
「ロアはなにも悪くないよ。僕がロアにうまく伝えられなかっただけ」
ルイスはそう言って、少しだけ困ったように笑った。
「頑張ってるなって思ってたよ、ロア。でも、急ぎすぎないでちゃんと休もう。僕も協力するから」
「……いつもありがとう、ルイス」
「どういたしまして。じゃあ、また後で」
ルイスはそう言って笑うと、居間から出て行った。
ロアはルイスが消えたドアを見つめて思った。
この世界の〝私たち〟は、どんな選択をするんだろう。
ロアは四人掛けのテーブルの前に腰掛けると、本を開いた。
睡眠不足の脳は、危機と焦燥を過大評価し、希望と可能性を過小評価する。休みを怠惰だという者もいるだろう。身を粉にして働けという者もいる。それが美徳だと説く者もいる。
――文字を読み返さなくても、よく理解できる。
休むには勇気がいるのだ。
なぜなら休むとは、未来を諦めないという、意志だからである。
――未来を諦めない意思。長く走り続ける計画。私には、それが足りなかった。もっと早くに気付いていれば。
もっと早くに気付いていれば。そう思うのも無理はない。
しかし、あなたの人生の中で、今のあなたが一番若いという事実を忘れてはいけない。
あなたが人生を終える前に、気づいてもらえてよかった。
では、これからもあなただけの人生を楽しんで。私は本の中から、あなたの幸運を祈っています。
ロアはゆっくりと息を吐き、静かに息を吸い直した。
「今気づけて、よかった」
そう言葉にすると、無駄にした二週間が報われた気がした。
長い人生の二週間だ。
大丈夫。まだどんな方向にも、取り戻すことができる。
ロアは本を胸に抱いて、ゆっくりと呼吸をした。
それから大きく伸びをして、身支度を整えた。
昨日の夜の自分との約束を果たしに、シェルに会いに行くために。
薬草畑の隣を歩いていると、屋敷の玄関前にオズワルドが立っているのが見えた。
オズワルドは誰かを待っているようだ。
彼の表情は厳しい。
嫌な予感がして、ロアは小走りでオズワルドのもとへ向かった。
「オズワルドさん、シェルはいますか?」
「屋敷の中にいます」
「会わせてください」
「それはできません」
「……どうして?」
「シェルさまが、守らなければならない約束を破ったからです」
はっきりと言い切るオズワルドに、胸の内側が騒がしくなる。
「お待ちしておりました」
オズワルドはロアの背後に向かってそう言うと、頭を深く下げた。
「ベルトラード公爵」
ロアが振り返ると、見たことがない二人の男が立っていた。
「ごきげんよう、オズワルド」
三十前後のその男には、思わず身を引いてしまいそうなほどの威厳があった。
分けた髪に、涼し気な目元。身なりのいい様子。なにより、凛とした佇まい。
こんな小さな村に用などあるはずもない、本物の貴族。
嫌な予感が、膨らんでいく。
男はさげすむでも、尊敬するでもない。
平たんな視線で、逃がさないと言いたげにロアの目をまっすぐ見て言った。
「こんにちは、お嬢さん」
「……こんにちは」
ロアがそう返事をすると、ベルトラードはやはり表情を変えずに前を見た。
「僕は後から参ります」
ベルトラードと共に来た、十七、八くらいの若い男は、凛とした様子で立っていた。
朝日にミルクティーを透かしたような髪色の男の容姿は、とても美しい。
だが同時に、触れてはいけない危うさを感じさせた。
ベルトラードは頷くと、それから口を開く。
「王子殿下は」
〝王子殿下〟。
シェルがそう呼ばれるところを、初めて聞いた。
「屋敷の中にいらっしゃいます」
オズワルドはベルトラードに道を譲り、それから屋敷の中に入る。
そして、ロアの目の前で屋敷のドアが閉まった。
屋敷の前に取り残されたのは、ロアと十七、八くらいの若い男の二人。
シェルが魔法を使ってから、まだ半日しか経っていない。
王都・マーテルからトアルの村までの距離は、昨日見た。
あんな距離から半日で来られるはずがない。
なにか、別の理由が――
「王都からここまで、半日で来られるはずがないって、思ってる?」
若い男の言葉に、心臓が音を立てた。
「来られるよ。特別な魔法なら」
男は薄い笑顔を貼り付けていた。
「お願い。聞いてください! シェルが魔法を使ったのは、私のせいなんです」
「殿下が魔法を使ったのは、殿下のせいだよ」
男は相変わらず、綺麗な顔に薄い笑顔を貼り付けていた。
「君がもし、魔法を見せてって殿下に頼んだとしても。君が死にかけてとっさに魔法を使ったとしても。殿下は自分で判断をして魔法を使った。それが〝責任〟ってやつだよ」
「……シェルは、どうなるんですか?」
恐る恐る問いかけると、若い男は屋敷の二階を見た。
「王都・マーテルに連れて帰る」
心臓が嫌な音を立てた。
屋敷の二階を見上げていた男は、ロアの顔を見た。
「かもね」
なんて性格の悪い人なんだ。
ロアは目の前の男を強くにらんだ。
「国王陛下は、〝騎士・リディア〟がいるから、殿下をこの村に預けたらしい。これはリディア殿の責任問題になるかもね」
「……そんな」
「おばあちゃんが心配? ロア・リーヴ」
知らない人間から呼ばれた自分の名前に、ロアは目を見開いた。
「村にはもうひとりルイス・ミレインって男の子がいるよね。今日は一緒に遊んでないの?」
「……どうしてそんなこと、知ってるの?」
「この村のことはなんでも知ってるよ。ここは君の家の敷地だけど、このお屋敷じゃなくて、あっちの小さな家に住んでいることも。ルイス・ミレインの家が教会ってことも。どの家がどの畑を持っているのかも、村を見渡せる高台があることも」
ロアは信じられない気持ちで、若い男を見ていた。
「当たり前だよ。君の友達の〝シェル〟は、ただの少年じゃない。国の将来を担う、国の宝なんだから」
余裕の笑顔を貼り付けている男を見て思った。
世界が、静かに軋みはじめている。




