06:ふたりで見た世界のはじまり
ロアとシェルの周りを踊る火は、薄く、淡い。
天女の羽衣のように、ひらひらと揺れていた。
「魔法には五つの基本属性がある。これは火。……そして、これは水」
石の地面から重たく溢れた水は、ゆっくりと持ち上がる。
それから、ワルツを踊るように火と遊び始めた。
火の色を反射した水はとてもきれいで、触れ合ってはいけない者同士が、たった一晩だけ戯れているみたいだった。
「魔法には感覚が一番大切なんだ。火は熱くて軽い。水は冷たくて重い。どの魔法もそう。頭の中で強く描くことができれば、誰でも魔法使いになれる。だけど今は、貴族でさえなんとなく魔法を使っている。きっと騎士の方が、魔法のことをよく知ってるよ」
そういうシェルの声は、少し悲しそうだった。
「これが風」
風は水と火を底から大きく持ち上げた。それから品定めするように、ぐるりと大きく図書館の中を駆け巡った。
聞こえるもの、見えるものを頭に直接叩きつけられているような気分だった。
きっと脳が、目の前の出来事を現実として処理できない。
それは、ロアの常識を大きく超えた、壮大な感覚だった。
その感覚を破るように、ドアの開く音がした。
「シェルさま!」
ドアが開いた先から聞こえたのは、シェルの従者たちの焦りの声。
現実が、すぐそばにある。
もうやめよう。
そう言いたいのに、好奇心が、興味が、止まらない。
この世界をもっと見たい。
シェルの自由な姿が見たい。
「やめないよ、ロア」
風は本を丁寧になぞったあと、荒々しくドアを叩き閉めた。
「俺は今日、俺が見せたいものを全部ロアに見せるまでやめない」
「……私も、もっと見たい」
ロアの返事を聞くと、シェルは柔らかい表情で笑った。
「これが土」
ドアのすぐそばにあらわれた魔法陣。
石の床から、土が規則的に積み上がっていく。
土壁は完全にドアを塞いだ。
二人だけの世界に、抱きしめられるような静寂が戻ってきた。
「そして、これが宇宙」
ふわりと、体と、心に、なにかが触れた。
それからすぐに、重力に逆らって、足が地面から離れた。
「わっ!」
「手、はなさないで」
シェルはしっかりと、ロアの手を握る。
ロアも、シェルの両手を握る手に力を込めた。
身体の重たさを、まるで感じない。
実体を持たない幽霊は、こんな感覚だろうか。
この世界のすべては、図書館という小さな石の箱の中で完結していて、そこには時間という概念すら存在しない。そんな感覚だった。
小さな箱の中、向かい合って手をつなぐ二人と、気ままに揺らめく五色の魔法が、飽和した時の中に浮かんでいる。
永遠に触れている気がした。
このまま、時間も心臓も止まってしまえば、誰にも、残酷な現実は来ないのに。
火と水の形を気ままに変えていた風は、突然舞い上がり、天窓を開けて外に出た。
止めないといけないのに、止めてほしくない。
体は背の高い本棚を通り越し、天窓から外へと出た。
図書館が遠くなっていく。
図書館の入り口のドアを必死に叩く従者たちが見えた。
地面がどんどん遠くなっていく。
騒ぎに釣られて出てくる村の人たち。小さく見える薬草畑。家には、居間に小さな明かりがともり、屋敷には窓という窓からすべての明かりがもれていて、ぞろぞろと人が走り出てくる。
「シェル」
「雲の近くまで行こう」
体が、真っ直ぐに上空へ浮いていく。
やがて迷いの森が見え始める。それから、大きな泉が見えた。
そのそばには誰の住む気配がない、幽霊屋敷が見える。
すべての世界を俯瞰してみているような錯覚だった。
怖くなったロアは、下を見るのをやめた。
しばらくすると動きが止まる。
シェルははるか向こうを指さした。
「あの海の向こうに見える岩山の先には、〝常春の楽園・エリュシオン〟がある。前に話していた信託所と死者の国はまだ向こう」
シェルはそう言うと、別の方向を指さした。
「あっちには、パムール鉱山。それからずーっとむこうには、旧王都・魔法都市エルボムっていう古い町がある。そしてあれが――」
シェルが指さす方向を見る。
思わず、息を呑んだ。
「――王都・マーテル」
あの壮大な城が、小さく小さく見えた。
かすかに光ってる程度。
でもちゃんと、城だとわかった。
「いつかロアにみせたいなって思ってたんだ」
見下ろせば、トアル村はもう米粒ほどの大きさしかない。
あんな小さな村で一体、なにを探していたのだろう。
あんな小さな村が、世界の全部だったなんて。
世界は、こんなに広いのに。
シェルが見せてくれた世界を、刻みつけたい。
もっともっと、新しいものを知りたい。
ずっと向こうには、なにがあるんだろう。
ロアは見渡す限りの景色を眺めた。
あそこに行けば、シェルを救えるかもしれない。
「ありがとう、シェル」
その言葉にシェルは、笑顔を返した。
「じゃあ、そろそろいくよ。ロア」
シェルは急に、うきうきした気持ちを隠さずに言う。
「……どこに?」
ロアの問いかけに、シェルは笑顔を返すだけ。
嫌な予感。
そしてこんなときの嫌な予感は、本当によく当たる。
「えっ、ねえ! どこに!?」
「手、はなさないでね。さん、に、いち――」
ゆっくりと体が重たくなって、沈んでいく。
「うそでしょ……。待って!」
「――ゼロ」
ロアの叫びも虚しく、完全に重力に従った体が、忠実に落ちて行く。
「いやあああああああああああ」
「たのしー!」
ロアの大絶叫の最中、シェルは楽しそうに大笑いしていた。
「死ぬ死ぬ……! まだ死にたくないい!!」
ロアは必死にそう言って、シェルの胸元を強くつかんだ。
体がまた、ふっと軽くなる。
地面のすぐ近くを飛んでいた。
それからまた、離陸するみたいに地面から離れて行く。
「上から見ると綺麗だね。ポワの泉も、幽霊屋敷も」
すぐ近くで声が聞こえて、はっとする。
右手をつないだまま、シェルに抱きしめられていた。
迷いの森の先にあるポワの泉と、幽霊屋敷のすぐ上を飛んだ。
泉まで降下して、シェルが水面に触れると、水が弾けるように切れる。
身体が浮上して、また重力を感じなくなる。
その感覚にロアは、シェルにしがみついて強く目を閉じた。
「ロア。目、開けて」
少し声を張ったシェルの声。
目を開けると、空が見えた。
建物も、山も、視界の隅にはいらない。
視界いっぱいの、満天の星空。
美しすぎて、自分の目でこの景色を見ているのが、不思議なくらいだった。
「魔法は確かに綺麗だけど、魔法以外にも綺麗なものはたくさんある。みんな、そんな大切なことを忘れてる」
そうだ。忘れていた。
この世界に来て、星が綺麗だと思ったこと。
幼い頃シェルとルイスと、村の展望台から星を眺めるのを楽しみにしていたこと。
最後にゆっくり星を見たのは、多分、それが最後だ。
「……私も忘れてた」
「うん。そうだろうなって思ってた」
二人は黙ったまま、まるで水に浮いているみたいに空を漂いながら、気ままに星を見上げた。
「ねえ、シェル」
「なに?」
「シェルは、国王になりたい?」
「なりたいとかなりたくないとか、そういう問題じゃないんだよ」
だからどっちかって聞いてるの。とは言えなかった。
シェルがあまりにも真剣に言うから。
「王位継承権は俺が持ってる。俺が死ぬまで、それは変わらない」
その重圧が、まだ分からない。
幼少期のシェルと、重圧につぶされた後のシェルしか知らないから。
「そろそろ帰ろうか。リディアさんも心配してる」
それから二人で、リディアの小さな家の裏口に降りた。
屋敷の辺りが騒がしい。
不安になった。
本当に大変なことをしたんじゃないかって。
「シェル、」
「楽しかったね」
シェルはロアの言葉を遮って、いつも通りの顔で笑った。
「うん、楽しかった。本当に」
ロアがそう言って笑うと、シェルは握っていた手を離した。
シェルは手を振りながら歩きだす。
「おやすみ! また明日ね」
シェルは、足早に裏口を去った。
「……おやすみ、シェル」
ロアは裏口から家の中に入った。
台所を抜けると、居間にはリディアがいた。
「おかえり」
リディアはただ一言、そう言った。
世界が、重力とは別の重さで、ゆっくりと戻ってくる。
「ただいま、おばあちゃん」
夢から覚めきれないまま、ロアはぼんやりとリディアの声に返事をして、部屋に引っ込んだ。
まとまった疲れがどっと襲ってきて、ベッドに横になったまま、ぼんやりと天井を眺めた。
ロアは息をついて、窓から空を見上げた。
あの空を飛んだ。
シェルと一緒に。
シェルが見せてくれた世界を、もっと近くで、自分の目で見たい。
シェルが暮らす王都に行きたい。
さっきの世界が、まだ胸の奥に残ったまま、ロアは静かに目を閉じた。
今日のシェルは、いつもと違った。
それだけが胸の奥で、ずっと引っかかっている。
嫌な予感が胸を刺している。
明日、シェルのところへ行こう。
それだけを決めて、ロアは久しぶりに、自分から身体の力を抜いた。




