80年前 知覧
1 知覧町
鹿児島県川辺郡知覧町。
響香の父の実家があったこの町は、かつて川辺郡に属していたが、平成の大合併により南九州市に編入された。
記憶の歴史のページをひらく。
戦後、この町はお茶の産地として、すこしずつ知られるようになった。
かつて「お茶といえば静岡」と言われていた時代に、おばあちゃんはこう語っていた。
「静岡には、知覧のお茶を送っているのよ。混ぜると香りが良くなるから」
――その誇らしげな口ぶりを、今もよく覚えている。
子どもだった私は、「本当かな」と思いながらも、どこか信じていた。
あれから40~50年。
いま、北海道のスーパーにも「知覧茶」が並び、ちょっといいお茶の定番として親しまれている。
その香りを口に含むと、おばあちゃんの言葉と一緒に、夏休みや冬休みに過ごした、あたたかな日々の記憶がふわりと立ちのぼる。
南鹿児島駅から、海を見下ろしながらバスで山をのぼること約1時間。
開聞岳を遠くに望む平坦な台地に、知覧の町がある。
こんな山の上に、静かな町があるなんてと、子ども心にふしぎに思った。
昭和50年代まで、まきで風呂を焚き、
庭で飼っている鶏から卵をいただいた。
竹の葉で包んだちまきに、きな粉と砂糖をかけた、ぜいたくなおやつ。
夏は蚊帳の中で風を感じながら眠り、
冬は炭の火鉢でもちを焼いて暖をとる――そんな暮らしだった。
魚が水揚げされる枕崎までは、20キロほど。
山間の小さな面積に稲穂が実る風景があちこちにあった。
それはきっと、日本のあちこちにあった風景でもある。
けれど、この町に特別にあったものが、ふたつある。
武家屋敷と、特攻隊基地記念館だ。
まちのはずれにある武家屋敷は、いまも人が暮らす家として、現役で使われながら保存されている。
18世紀中ごろ、江戸時代中期に整備されたものだという。
この屋敷に象徴される「士農共存」の社会制度が、全国的にも珍しいものだと知ったのは、ごく最近のことだった。
石垣や生垣に囲まれた、さほど広くはない庭と、そこにつながる縁側。
その控えめな距離感が、ここちよい人との関わりを思い出させてくれる。
知覧は、滑走路を作るのに適した地形だったという。
もともとは「簡易飛行場」として整備されていたが、のちに特攻出撃基地として拡張された。
特攻隊――
それは、太平洋戦争末期、片道分の燃料だけを積んで出撃した若者たちのこと。
攻撃目標は、沖縄周辺のアメリカ艦隊だった。
鹿児島県南部に位置する知覧は、沖縄本島まで約540km。
片道の燃料だけで飛ぶには、ぎりぎり可能な距離であり、最適とされた。
当時の知覧の人々は、兵士たちを「わが子のように」見送り、宿舎や食事を提供したという。
記録が、それを今に伝えている。
父の育った町は、そんな重い歴史を背負った場所だった。
父は、世界の歴史や地理にはとても詳しかった。
けれど、自分が生まれ育った町――知覧のことは、一度も語らなかった。
そして、何も言わぬまま、空へと還っていった。
響香は、いま、小さな断片をひとつずつつなげている。
2 10歳 次男 十猪
戦争が始まったのは、十猪が2歳のとき。
今、十猪は10歳になろうとしている。
十猪の家は知覧のお医者さんの家で、父は軍医として二度、船に乗った。
けれど、十猪はその父の顔を覚えていない。
町には、飛行機乗りの訓練生たちがあふれていた。
十猪の家にも、若い兵隊たちが泊まりに来た。
「北海道から来た、飛行機乗りのお兄ちゃん」――
そのお兄ちゃんは、母と同じように「じゅうちゃん」と優しく呼んだ。
五つ年上の実の兄は、ほとんど部屋にこもって勉強ばかりしていたけれど、訓練生のお兄ちゃんは、よく十猪と遊んでくれた。
母は毎朝、お百度参りを欠かさなかった。
長い石段を登りながら、心の中で祈る。
「どうか、無事に。何でもいいから無事に――」
誰が何と言おうと、この心の叫びは、誰にも届かない。
でも……できれば、彼らも。
その願いを定めきれないままに、母は400日も続けていた。
「船を、無事に、日本海に戻して」と。
兄は中学生だった。
父がいない日々が、いつか終わることを願いながらも、
もしその日が来たら、自分がこの家を守るのだと、部屋にこもって本ばかり読んでいた。
本は、貴重で高価だった。
「本より、お砂糖というものがあれば、見てみたい」
十猪は、やんちゃだった。
父を知らず、兄ともなかなか遊べない十猪にとって、
飛行機乗りのお兄ちゃんが、いちばんの遊び相手だった。
ちゃんばらごっこで困らせたり、蝦夷地の話を聞いたりした。
ある日、母はお百度参りの帰りに、一枚の紙をもらってきた。
最初はくしゃくしゃに丸めたが、思い直したように広げて、階段下の小さな戸棚にしまった。
兄は、母とこっそり話すことが多かった。
十猪は、聞き耳を立て、その会話を一字一句、心に刻んでいた。
ある日、母が息を殺して涙を呑み込んでいた新聞を、
兄が再び広げ、辞書で調べながら、何かを書き写していた。
そしてまた、そっと戸棚にしまった。まだ途中だった。
十猪は、そんなこととは知らず――
その紙を、ちゃんばらごっこの剣にして、飛行機乗りのお兄ちゃんと遊んでしまった。
「愉快に勝った!」
と、胸を張って、その紙の剣をお兄ちゃんに渡した。
3ー1 長男――中学生くらいだったおじちゃん
ちゃんばらごっこの剣にして、「勝った、勝った!」とはしゃぐ十猪を見て、
お兄ちゃん――あの時中学生だったおじちゃんは、ぼそっと言った。
「じゅうちゃん、じゅうちゃんってさ……お前は自由でいいな」
十猪は、意味がわからずに笑っていた。
でもお兄ちゃんは、続けた。
「いい気になって、飛行機訓練生に、その剣を渡すんだ。
沈没って、どういう意味か……教えてやりたかった」
そのときの兄の声を、私は想像する。
重くて、でも、必死で。
「お母ちゃんが、俺にもお前にも見せなかった理由、わかるか?」
十猪はまだ小4だった。「沈没」という字が読めなかった。
「この際、教えてやろうかとも思ったけどさ、
お前、船……見たことないもんな。
飛行機のことは知ってても、船は――」
そこで、兄は急に言葉を飲み込んだ。
「……なんで、こんなことで、こんなに悲しくなるんだろうな」
あの時の兄――私の伯父は、黙々と勉強し、後に医者になった。
3-2 おじちゃんの家
おじちゃんは、外科医になった。
昭和50年代、交通事故は多くて、寝る暇もなかったという。
小学生の頃、家に一度だけ行った。
「お医者様の家って、ドラマみたいに広くて豪華なんだろうな」
そう思いながら、おじちゃんの運転する車に揺られて向かった。
病院の横にあるおじちゃんの家は、ドラマのようなものではなかった。
ただ、ひとつだけ、違っていた。
それは、トイレだった。
四人住まいの家に、まるで学校のようなトイレがあったのだ。
「なぜ?」――そう思いながら、数十年が過ぎた。
それを聞くこともないまま、おじちゃんは、「医者の不養生」のとおり、早くに亡くなった。
いま、ふと思うことがある。
もしあのトイレが、おじちゃんの知覧の記憶からつくられたものだったとしたら――。
それは、つかわれなくてよかった。
そう思いながら、手を合わせる。
4 防空壕の中で(三男・三歳のころ)
「ラジオって、なに?」
「ラジオが、ラジオがって、なに?」
三男――三歳くらいだったおじちゃんが、防空壕の中で何度も訊いていた。
「逃げる」
「隠れる」
「皆殺しになるから」
「男は泣くな」
「泣いたら、皆殺しだ」
十猪はきっと、そのとき、弟を睨んだと思う。
あのときの光景は、三歳の子には、あまりにも怖すぎたはずだった。
――きっと、トラウマになるくらいだったのに。
でも、そのおじちゃんは、大人になってから、そのことをまったく覚えていなかった。
私が小学生のころ、何度かおもちゃを買ってきてくれた。
だけど、どれも少しズレていた。三歳くらいの子が喜びそうなものばかりだった。
それが、おじちゃんの中の「子ども」のイメージだったのかもしれない。
「ありがとう」って、ちゃんと言えなかった。
今思えば、あれは、ちょっと悪かったな、って思う。
5 長女――階段下の襖をあけるとき
5 長女――階段下の襖をあけるとき
なだこおばちゃんの髪は、長かった。
毎朝、時間をかけて、それをきれいにまとめていた。
部屋のタンスの上には、たくさんの人形が並んでいて、
そのひとつひとつに、何かしらの思い出が宿っているように見えた。
黒い熊の人形もあった。
「北海道のものよ」と、おばちゃんが教えてくれた。
私はまだ、横浜から一番遠い北の地――北海道のことは、想像でしか知らなかったけれど、
その人形を通して、遠い土地をほんの少し感じることができた。
なだこおばちゃんの終戦は、十五、六歳のころだった。
軍事工場で働いていたことも、ちらっと聞いたことがある。
だけど、当時の私には、いまいちピンとこなかった。
特攻隊のお兄さんが同じ家で寝泊まりしていた話も、
おばあちゃんから聞いたことがあった。
そのとき横にいた洋子おばちゃんは、何も言わなかった。
父の実家はお医者さんの家だったけれど、
裕福というわけではなかった。
母の実家では、こっぺぱん一個を家族で分け合って食べたという話があって、
それとそう変わらない暮らしだったのだと思う。
でも、サツマイモがあるかないかで、大違いだったという。
戦後の食べ物事情は、少しだけマシだったそうだ。
家には、それぞれに「すごいところ」があった。
鹿児島のおばあちゃんの家には、素敵な彫刻が施された欄間があり、
そこからお線香の香りが茶の間にふんわりと漂ってきた。
襖を閉めても、隣の息遣いが伝わってくるような家だった。
茶の間には、階段下の空間を小さな襖で仕切って、鏡台が置かれていた。
女性ひとりが座るのにちょうどいい、身支度をするのにぴったりの場所だった。
小学生のころ、私はそこに勝手に入ってはいけないような、
少し神聖な空気を感じていた。
十五、六歳のころの、なだこおばちゃんがそこで身支度をしていた――
そんな光景を想像するようになったのは、
何度も鹿児島に帰省し、「知覧」という場所がどういうところなのか、
少しずつ理解し始めてからだった。
あのころ、多感な時期に、軍医として戦艦の海にいた父の代わりに、
風呂の薪を割ってくれた若者と、寝食を共にした異性が、
同じ屋根の下にいた。
その若者が、「特攻隊」という運命を背負った存在だったのなら、
なおさら胸が苦しくなる。
恋が始まっていたのか、それとも、始まる前だったのか――
その答えはわからない。
けれど、目の前の茶の間と、襖一枚の距離感が、
今も私の胸に深く刻まれている。
「会いに行った。」
小学生の私は、おばちゃんから聞かされた、
この五文字だけの恋の話を、今でもはっきり覚えている。
会いに行くことさえ、秘密の出来事のように――
おばちゃんは静かに話してくれた。
そんな話をするのは、いつもおばあちゃんのいない、二人きりのときだった。
そう、あの黒い熊の人形を見せてもらったときも、そうだった。
横にはこけしもあったから、どの人形を見ていたのかは思い出せないけれど――
あのときのおばちゃんの表情だけは、時を超えて、鮮やかに思い出すことができる。
戦後、なだこおばちゃんは結婚したけれど、うまくいかなかったらしい。
それを聞いたのは、だいぶ後になってからだった。
私が帰るたびに、おばちゃんは「お母さんのお手伝いをたくさんしなさい」と言って、
服を縫ってくれたり、おかずを作ってくれたりした。
母方の横浜のおばあちゃんも、よく「洋子おばちゃんのお手伝いをいっぱいしなさい」と言っていた。
しばらくして、私は母に料理を作った。
思ったことをすぐに口にする母は、「おえっつ、まずい」と言った。
そんな母を、尊敬するようになるまでには、
少し時間がかかった。