中東のかつおぶし
日本から来た、背が高くがっしりした男性は、怖そうに見えた。
けれど、どこか父に似た目をしていて、少女は親近感を覚えた。
「何歳? 名前は? ……そうだね、日本語じゃわからないか。
How old are you now?」
男性は、つたない英語を使ったが、少女も困った顔をした。
そこへ、黒いビジャブをまとった母が戻ってきた。
「いつも待たせてばかりですいません。」
「Today is this child's birthday. Would you care to join us for a bite?」
(「今日はこの子の誕生日なの。一緒に召し上がりませんか?」)
男性は、少し苦笑いしてこう言った。
「I can wait here. But I cannot wait Japan.」
少女は、そのとき「CAN」という言葉を覚えた。
男性は日本語でも言った。
「いいですよ。日本じゃ待てないのに、ここでは待てる。不思議ですね。……、なんだか、いごごちのいい香りがする。すごいごちそうだ。この釜はなんですか」
指をさして、
「What?」
母は、すこし考えて
「secret CAKE」(シークレット ケーキ)
「this is secret cake」といった。
母さんの料理は、
「マグルーバ」という恒例の料理だった。最初に鶏肉やラム肉、ナスやカリフラワーを炒めて、その後、ライスを乗せてスパイスやスープを加えて、オーブンで1時間ほど焼いた。それを最後にひっくり返してお皿に盛りつける。
母は、私とその日本人を 外のできたばかりの手洗場で手を洗うことをうながした。
ふたりは、外にある、蛇口をひねって手を洗った。。
このできたばかりの蛇口からの水からは、かならずしも水がまだ出る状態ではなかったが、その日はちゃんとでた。
少女はその嬉しさを言葉にしていたが、この日本人には言葉の意味はわからなかった。
だけれども、ちゃんと、蛇口に案内できた少女の目は、砂漠のオアシスに導いたように、きらきらしていた。
「ちゃんと、みず、でるね。」
「WATER」
少女のこのまばゆいばかりの目の輝きは、はじめて、知覧の町に、なんとか水道管がとおった15の夏をおもいださせた。。
そして、同時に自分が10のころ、陸軍の特攻基地とともに暮らし、
たくさんの兵士たちや関係者が一時的に集まったため、
水の需要は非常に高かったにもかかわらず、
水源は限られ、かなり厳しい状況だったあの頃もおもいだした。。
言葉のないやり取りで、あたたかい気持ちで席に戻ると、「シナモン、、、、、、、、、」いくつも聞いたことのないスパイスの単語を少女はおしえた。
香りがすごくて、スパイシーで、たちこめた湯気は、鼻をくすぐるようだった。
ひっくりかえしてあった釜をもちあげると、なんとも食欲のでる炊き込みご飯があった。
男性は用意していた、スプーンをつかわず、ぎこちなく同じように右手をつかってたべようとした。
「あつい。」
少女は、パンをつかって、うまくたべるのをみて、それをまねた。
「こんな味、初めてだ……!」「さんきゅう。でりーしゃす。ぐっど。パーフェクト シークレットケーキ」
男性は目を丸くして、感嘆の単語をならべた。
少女も母も、顔を見合わせて、こらえきれずに笑った。
笑い声は、湯気といっしょに部屋に広がった。
食べ終わると、少しまた沈黙がながれた。
勇気を出して、少女は「えいとー」と言った。
「そうか、うちの子と同じだね。8歳か。」
「誕生日だったね。みんな用事ができて、残念だったね。お土産、、、」
「プレゼント」といって、用意していた日本からのお土産を渡した。
男性はにっこり笑って、小さなプレゼントを取り出した。
日本製のボールペンだった。
「これ、よく書けるんだよ。あと、これも。」
新聞紙に包まれた、もうひとつの贈り物を手渡す。
開くと、そこには茶色く固い木のかたまりがはいっていた。
少女が、首をかしげると、
「これは“鰹節”っていうんだ。
太平洋をぐるっと回ってきたカツオを、漁師さんが獲って、長い時間かけて燻して、そして削る。鉛筆削りみたいにね。」
少女は、男性は優しく注意した。
「でも、気をつけるんだよ。手を切るから。うちの娘も、今日、手を切ったばかりなんだ。」
少女は日本語があまりわからなかったけれど、母が持ってきたレシピの紙を、男性に渡した。
「Thank you.」
男性はレシピを受け取ると、ボールペンで横に「㊙(ひみつ)」と書いた。
「このボールペン、すごいだろ。」
「ジャパニーズ、プリーズ?」
少女が頼むと、男性は嬉しそうに新聞紙を広げ、
「これが“き”、これが“よ”だよ。」
と、ひらがなを教えてくれた。
レシピの空いたところに、少女にも書くように促した。
「きょうか(響香)は、僕の娘の名前なんだ。アルファベットだとKだよ。」
そんなやりとりをしているうちに、少女の父親が戻り、商談が始まった。
だがすぐにトラブルが起き、男性はまた別室で待たされることになった。
その時――少女は、こっそり見てしまった。
生涯忘れられない光景だった。
母が、ビジャブの端をそっとつまみ、普段は決して見せない素顔を少しだけのぞかせ、
日本の男性に、見たことのない緑色の飲み物を差し出していた。
男性の顔は見えなかった。
母がなぜそんなことをしたのか、少女にはわからなかった。
少女の胸はギュッと締めつけられた。
――神様が見ている。悪魔に引き寄せられるのではないか。
少女はそっと部屋に戻った。
やがて、母はふたたびビジャブをきちんとかぶり直し、男性と距離をとっていた。
けれど、まだ湯気の立つカップが、ほんの少しだけ、ふたりの近さを語っていた。
男性は帰り際、さっき使った新聞のしわをのばし、ざっくりとたたんで、
そしてレシピの横に、こう書き込んだ。
「1972年11月7日」
「この新聞は大事にとっておくといいよ。
でも、次はもう来られないかもしれない。
世の中は変わる。この日付、覚えておくといいよ。」
彼は、ペルシャ湾に沈む夕陽のほうへ帰っていった。
オレンジ色の砂漠と海の間に、男性の影が長く伸びていった。
少女には、世の中が変わっていくなんて、まだ実感できなかった。
けれどそれから、しばらくして――。
「ドラえもん」という日本の漫画が、中東のこの国でも流行した。
少女は「のび太のお母さん」というキャラクターを見て、
よその国には、こんなにも自由な女性たちがいるのだと知った。
そして、あのとき母を「悪魔に引き寄せられた」と思った自分を、
恥ずかしく感じるようになった。
少女は、あの新聞を大切に引き出しにしまった。
大人になっても、時々取り出しては眺めた。
母の本棚から日本語の辞書を取り出し、ドラえもんの漫画で日本語の勉強もした。
新聞の日付は、1972年11月7日――。
それは、アメリカ大統領選挙でニクソンが再選された日だった。
「中東の未来」と題した日本語の特集記事が紙面を埋めていた。
彼女はまた、かつおぶしを削り、母と一緒に料理も作った。
そしていつしか、
あの「CAN」という言葉と、ひらがなを教えてくれた日本の男性に、自分のラーメンを食べてもらいたいと願うようになった。
その願いはかなったかはわからないが、
彼女が生み出した一杯のラーメンは、遥か遠い中東で日本の味を伝える伝説の味となり、今もなお、世界中の美食家たちを魅了し続けている。




