第二章④:扉の向こうに、過去も未来もいる
その朝。
鏡に映った私は、どこか“別人”に見えた。
深紅のドレス。
白金のレースが繊細に光を散らし、淡くウェーブのかかった髪は、母が仕上げたクラシカルなアップスタイル。
少しだけ艶やかに引かれたリップ。頬はほんのりと紅を差して――
「……貴族っぽい。っていうか……ちゃんと“令嬢”してる」
そう呟いた私に、鏡越しにクラウスが静かに言った。
「はい。ですが、最も大切なのは“装い”ではなく、“立ち方”でございます」
クラウスは、肩を少しだけ押すように言った。
「“王女”として、“第一王女”としてではなく――
“今の貴女”として、胸を張って立ってください」
準備を終えて部屋を出ると、家族が全員そろっていた。
兄は黙ってうなずき、弟はほんの少しだけ親指を立てた。
母は目を潤ませてハンカチを振っていて、父はそっと言葉をくれた。
「誰に何を言われても、自分を見失わないこと。
“今の自分”に、恥じぬように振る舞えば、それでいい」
「うん……ありがとう、みんな」
そうして私は、王城の前に用意された輿に乗り込んだ。
* * *
輿の中は、静かだった。
カーテン越しに光が揺れて、車輪の音だけがコツコツと響いている。
心臓が、どくん、どくん、と波打っていた。
もう逃げられない。扉の向こうには、“社交界”がある。
――かつての私が、“すべてを台無しにした場所”。
今の私は違う。
でも、それを知っているのは私だけ。
周りの人たちは、“かつての第一王女”を、また戻ってきたと思ってる。
(……また笑われるかもしれない)
(また、ささやかれるかもしれない)
(でも――今度は、背を向けない)
「姫様」
隣にいたクラウスが、穏やかに声をかけてくる。
「震えておられるなら、無理に止めようとしなくてよろしい」
「……わかる?」
「はい。……私は、姫様の初めての一歩を見ておりますので」
クラウスは、言葉を慎重に選びながら続けた。
「“過去がついてまわる”というのは、時に重荷です。
ですが――重さを知っている者が、歩む道には、必ず意味があると私は思っております」
その言葉が、胸にじんわりと沁みた。
「……ありがとう、クラウス。
もし今日、またやらかしそうになったら……」
「全力で支えます。つま先から尊厳まで、すべて全力でお守りいたします」
「つま先から!? 尊厳まで!?」
「もちろんでございます。姫様は、王家の“心”ですから」
思わず笑ってしまった。
でも、そうやって笑えることが――今の私には、すごく救いだった。
やがて、輿がゆっくりと止まった。
「――到着いたしました。
本日の舞踏会、会場は“翠星館”。旧家の令嬢たちの御披露目の場としては、最も伝統ある館の一つです」
扉が開く。
控えの召使たちが、私の乗る輿のドアを静かに開いた。
足を下ろしたその瞬間、
遠くから、ドレスのさざめきと、ざわめきと、光と視線と――**社交界の“空気”**が、押し寄せてくる。
「……行こう」
私はゆっくりと立ち、
一歩、扉の向こうへ足を踏み出した。
これは、ただの挨拶ではない。
私が、“王家の一員”として、“第一王女”として――
そして、“今の私”として、再び世界に立つ第一歩だった。




