プロローグ:旅の終わり、始まりの朝
朝の空気はすこしひんやりしていて、山の中にある小さな温泉旅館は、鳥のさえずりと川のせせらぎに包まれていた。
旅館の朝食会場には、五人分の朝ごはんが並んでいる。焼き魚、味噌汁、卵焼きに納豆。よくある和朝食だ。
「この味噌汁、地元の大豆を使ってるな。こういう地産地消を全国に広げれば——」
「パパ、旅行中くらい政治の話はストップ!」
味噌汁をすする父に、私——春野みこと(二十歳・大学生)はぴしっと突っ込みを入れる。
父、春野昭一。元衆議院議員で経済政策の専門家。真面目で正義感が強くて、めちゃくちゃ仕事人間。でも今日は、れっきとした家族旅行中。少なくとも私はそう信じていたい。
「ふむ、ついな。職業病というやつだ」
言いながらも納豆をかき混ぜ始めるあたり、パパなりに自重はしてるつもりらしい。
一方、母は三杯目のごはんに手を伸ばしながら、文庫サイズのラノベを片手ににこにこしていた。
「それ、また悪役令嬢モノ?」
「そうよ~。今回のは“断罪イベント”からの『婚約破棄されたので新しい国を作ります』ってタイプ。最高よね、こういうの」
母、春野彩乃。仕事は敏腕弁護士だけど、趣味は悪役令嬢系ラノベを年間200冊読むこと。知識量はガチ。
「……あー……うん。さすがママ、ブレないわ……」
それにしても、朝から濃い会話が飛び交う。わが家の日常だ。
「なあ、みこと」
隣に座っていた兄、悠人がぼそっと声をかけてくる。
「目玉焼きには、何をかける派だ?」
「唐突すぎでしょ。醤油だけど」
「ほう……“蒼きしずく”派か……」
「はい、中二病再発。兄ちゃん、大学の時もそれやってたよね」
春野悠人。国家プロジェクトに関わってた元エリート技術官僚。理屈屋で頭は切れるんだけど、昔こじらせた中二病がちょいちょい顔を出す。
それをいじるのも、妹である私の仕事みたいなものだ。
「……姉貴、そっちの納豆はオレの分な」
ぽつりと呟いたのは、弟の一樹。元・自衛官、それもレンジャー部隊所属という本気の人。
口数は少ないけど、旅行中も常に周囲を警戒してて、旅館の非常口とか先にチェックしてるレベル。多分この朝食の間にも“戦闘が始まったら逃げるルート”とか頭の中でシミュレーションしてる。
私は、そんな個性強すぎる家族の中で、たぶん一番“普通”。でも、こんな毎日がけっこう好きだった。
この朝が、そんな日常の最後になるなんて、思いもしなかった。
* * *
旅館を出て、車に乗り込む。今日は都内に戻る予定だった。
父が運転席、助手席には母。私は後部座席の真ん中、兄と弟に挟まれていた。
「この辺、紅葉がすごいらしいぞ。道の駅で栗きんとん買おうぜ」
弟がぽつりと提案して、母が「スイーツは正義」と即答し、兄が「糖分摂取は判断力に直結するからな」と真面目に返す。
くだらない話で笑いながら、車はカーブへと差し掛かった。
そのときだった。
急ブレーキの音。
タイヤのきしむ音と、何かがぶつかる轟音。
視界が、白く弾けた。
……ふわり、と身体が浮いたような感覚。
耳がじんじんして、何も聞こえない。
ああ、やばい、って思った。
それでも、どうか——
家族が、無事でありますように。
* * *
そして、私たちは次に目を開けたとき、王宮の寝台の上で目を覚ますことになる。
“没落寸前の王家”という、笑えない新しい人生の幕開けだ。