①-18 僕と彼女の分水嶺
深夜の学校は、昼の喧騒が嘘のように鎮まりかえっていた。
草木も眠る丑三つ時。
幽霊が出るとされるこの時間に、僕は北文高校の体育館に来ていた。
全ての始まりは、この体育館から始まった。
ならば、ここで今回の騒動を終わらせるのがキレイな結末かもしれない。今の北文高校の校舎はこの街で一番危険なスポットとなっているが、だからこそ僕はこの場所でなければならないと考えた。
狡猾な狐を誘き出すには、火中の栗を拾う必要がある。僕は隣で眠る彼女を起こさないように、息を殺してじっと奴を待った。
しばらくして、体育館の正面入口に奴の人影が現れた。待ち人が来た嬉しさと緊張感が僕を笑顔にする。
「こんばんは、久しぶり……でもないか。でも、何だか久しぶりに感じるよ」
と僕は体育館に入ってきた、狐の面をつけている白装束に話しかけた。
奴は僕を睨むようにして、黙って立っている。
「ごめんね夜遅くに。君が僕に怒る気持ちは分かるつもりだ。外道と罵ってもらっても構わない。君にはその権利があるよ、“ヒトミくん”」
「気づいていたんですか、先輩」
彼女はそう言って狐の面を外す。
『悪戯白狐』がつけていた狐の面の下は、悪戯が見つかった子どもみたいな、十色ヒトミの素顔があった。
人を攫って、取り憑いて、悪事を働く厄神。
『悪戯白狐』
その神様は、十色ヒトミの肉体に取り憑いていた。
『悪戯白狐』に取り憑かれた人間は人々の記憶から消えて、代わりに神様として崇め奉られる。
神様が人間を供物にして、現人神として顕現する、なんてよくある話だ。
彼女は人間を捨て、神様の供物になろうとしていた。
「先輩って他人の感情に寄り添う気がないくせに、理解はしてるんですね。そういうところ、タチ悪いと思います」
咎めるように彼女はそう言って、僕の隣で寝ている彼女の姉―――――十色マナミを心配するように見ている。
僕は彼女の姉を誘拐していた。
「思い返してみたんだ。『悪戯白狐』に襲われたあの時、僕が何をしていたのか。僕は君のお姉さんを泣かせてしまった。だから、君を誘き出すにはこれが一番手っ取り早いんじゃないかって思ったのさ」
あの日、僕は虎の尾ならぬ狐の尾を踏んでしまったのだろう。
僕が彼女の姉を傷つけて、泣かせてしまった。
喫茶店での一連の出来事を、側から見たらそう感じてもおかしくない。実際、半分くらいは僕のせいでもあるから、帰り道に彼女が僕に報復するのも納得出来る。
だから、僕は彼女の姉を誘拐した。
それだけ大切な存在ならば、餌としての価値がある。これが、失踪した『悪戯白狐』を誘き出す最良の手段であると判断した。
「最悪の手段ですよ。何の関係も無いお姉ちゃんを巻き込んで、何がしたいんですか」
「人助けがしたいのさ。義務だけどね」
僕がそういうと、彼女は鼻で笑った。
そんなことできっこない、とでも言いたげな様子。
「助ける……助けるって具体的にどうするつもりですか?私は消えたいんですよ。頑張って、頑張って、頑張って……そうやって頑張って生きるのが嫌になってしまったんです。そんな私を助けるだなんて、残酷な事を言いますね。先輩は私に苦しんでも生きろと言いたいんですか?」
「消えたければ、消えればいいと思うよ。僕には君がどうしてそんなに苦しんでいるのか分からないし、その気持ちに共感してあげられないから、好きにしたらいいんじゃないかな。だけど――――」
僕は考えていることを、そのまま彼女に伝える。
「君が今消えると僕が困る。だから、助けるよ」
それはほんの小さな心残り。
消えるなら、それを解消してからにしてくれと身勝手に思う。
そうじゃないと、しこりみたいなモヤモヤがずっと頭の隅に残って消えない。
人を助ける理由なんて、そんな自分勝手でしょーもないことでいい。
「その言葉だけを聞くと、告白みたいです。でも、肉体がある今の私なら、先輩が私に何も思い入れが無い事は見ればわかります。お母さんと同じ無色。そこまで、自己中だとかえって清々しいですね」
これ以上語るのは不毛だとでも言うように、彼女は狐の面を被った。
彼女は懐からスプレー缶を取り出して、空中に赤色、青色、黄色でそれぞれ狐の絵を描く。描かれた狐達は独りでに歩き出し、彼女を守るようにして鎮座した。
「この子達は私の感情。憤怒のコタロウ、悲哀のコンコンちゃん、歓喜のボタンくんです。かわいいでしょう」
紹介された三匹の狐達は、コーンと鳴いて飼い主に忠誠を示す。
十色ヒトミの感情を模った狐。
あの夜、赤い狐に体当たりされた僕が、怒りで我を忘れてしまったのは、彼女の感情に侵されてしまったということか。
つまり、あの狐に触れるのはまずい。
「先輩、ダンスは得意ですか?」
彼女が指揮者のように手を振ると、三匹の狐が一斉に動き出す。三色の線は、床に幾何模様を描きながら僕に向かって走っていた。彩られた感情の獣が、僕を染め上げるため、一心不乱に突撃してくる。
僕は体育館の壇上から飛び降りて、それを紙一重で避けた。狐達は餌を前にした肉食獣の如く、僕を追いかける。ヘタクソなダンスを踊るように、僕は狐達の猛追を避け続けた。
「私はバレエを習っていました。先生がヒステリックで厳しかったのを覚えています。身体が硬いし、リズムも取れないとか言って、ちょっとした失敗で怒鳴ったりするんです。小さい頃のことですけど、こんな大人になりたくないと思いました」
彼女は鼻歌交じりに腕を振り、狐に僕を襲わせる。
僕は襲われるたびに、なんとか躱しているけれど、彼女がその気になればとっくに捕まっているだろう。
なにせ、身体能力でいえば、僕は高校生男子の平均的な体力しかなく、僕を襲う今の狐達は、あの夜の弾丸みたいな速さには遠く及ばない。
僕は完全に彼女に遊ばれていた。
「どうして人は大人にならないといけないのでしょうか。現実は子どもみたいな大人が沢山いて、私もそんな大人になるのかと思うと怖いんです。だからって、大人みたいに本音を隠し、建前だけで生きていくなんて、息苦しくてたまらない。それでも、そんな風に生きている人の気持ちが、私には分かるから辛いんです」
彼女の悲痛な嘆き。
それは、彼女が特別な『眼』を持っているから余計に感じてしまうのだろう。
人の感情に敏感な人は大変だ、と他人事のように思う。
狐達の猛威を避け続けた結果、僕のガソリンはゼロになってしまった。
体育館の中央で膝をついて座り込んでしまう。
我ながら、体力が無くて情け無い。
「先輩、今なら謝れば許してあげますよ。お姉ちゃんに今後近づかないと約束してください。それと――――私を助けるだなんて、二度と言わないで」
彼女の最後通告。
ここが、僕と彼女の分水嶺。
「僕は自分の言葉を曲げるつもりはないよ。絶対に君を助ける、僕のために」
その言葉が決め手になった。
彼女から人間の気配が消え、周囲が瘴気に包まれていく。
「そうですか……それじゃあ後悔するといいです」
体育館の入り口、窓、天井のあらゆる隙間から、色の化け物が入ってきた。
赤、青、黄、緑、紫、黒……無数の狐が僕の周りを取り囲む。彼女の感情で飽和した体育館は、カラフルなお化け屋敷のようだ。
逃げ道は完全に塞がれた。
絶対絶命のピンチという奴だろう。
「これは学校をめちゃくちゃにしてやろうと思って描いた私の感情です。先輩にプレゼントしてあげます」
「壮観だね。これはひとたまりもないことになりそうだ」
「何か言い残したことはありますか、先輩」
僕は少しだけ考える仕草をする。
言うことは決まっていた。
「君に貸したあのゲーム、まだ続きがあるんだ。できれば最後まで、クリアしてくれないかな」
僕は持ってきた携帯ゲーム機を、彼女に見せる。
それを聞いた彼女は、フフッと笑って、
「さよなら、先輩」
と別れの挨拶を告げた。
その言葉を最後に、僕の感情は心の底に深く沈んでいくのだった。




