①-13 狐の面の襲撃
カチ、カチ、カチ、カチ―――――
スプレー缶の中にあるビー玉の音が鳴り止んだ。
異質な存在の雰囲気が変わる。
狐の面をした白装束が、僕の方を向いている。
周囲で蠢いていた色の群れが、ピタリと動きを止めて動かなくなった。
静寂。
それは永遠よりも長く感じた。
その存在の一挙手一投足から、目が離せない。
「あ」
静寂を打ち破ったのは、拳ほどの大きさである赤色の狐。
狐の化け物が弾丸のように、高速で僕に体当たりしてきた。それは僕の顔面で弾けて、視界を真っ赤に染める。
強烈なシンナー臭が鼻腔を刺激した。
……何が、起きた……これは……
状況を把握するため、右手で自分の顔を触ると、赤色の塗料がついていた。
赤色に染まった僕の顔を他人が見たら、バイオレンスに感じるだろう。
痛みは無い。
色の化け物が接触した感覚はほとんど無かった。
とりあえず問題はないと僕は判断して、狐の面をした白装束を見ると―――――
奴は中指を立てていた。
わかりやすい挑発……そんな……そんなもの……
「ふざけてんのかぁ!てめぇ!」
一瞬で沸点まで沸き上がる僕の頭。
奴を殴り倒す。
マウントポジションを取って、ボコボコにしてやる。そう思って、僕の足は勝手に駆け出していた。
色の群れを掻き分けて、奴の顔面―――――狐の面に拳を叩き込む。
しかし、難なく僕の拳は避けられて、代わりに奴が繰り出した蹴りを喰らってしまった。
ガシャッッ
僕は空き缶が捨てられている近くのゴミ箱に吹っ飛ぶ。ゴミ箱の中に何故か入っていた釘が、僕の左手の手のひらに突き刺さった。
思わぬ不幸、というわけではなく『コトノハ』の代償がタイミング悪く発動したのかもしれない。
左手の痛みと奴への怒りで、僕は頭がおかしくなりそうだった。
地面に蹲っている僕が視線を上げると、奴が僕を見下ろしているのが見える。
その様子を見て、僕の精神は臨界点を突破した。
バラバラにしたい。
腕を引きちぎり、眼球を抉り出して、ハラワタをぶちまけるんだ。
必ず奴を母さんみたいに――――――
「―――――まったく、小僧は世話が焼ける」
黒い羽根が空から舞い落ちた。
太陽の化身を象徴する神火が、僕の周囲を取り囲んでいる色の化け物を焼き尽くす。薄暗い夜を照らした漆黒の翼が、僕の頭上に降り立った。
『八咫烏』――――八郎先生の降臨である。
そのちょっとカッコいい登場の仕方を見て、僕はだいぶイラッとしてしまった。
イケナイ、少し冷静にならなければ。
「ハァッ、ハァ……先生……何しにきた、んですか。邪魔、しないでください……」
「ヒッヒ、どうしたぁ小僧。カリカリしてんねぇ。おめぇがここまで感情的になるなんて、らしくねぇじゃねえの」
「僕だってたまには、ハッ、ハァ……やんちゃ、したくなることだってあるんですよ。それより、どうしたんですか?こんな夜に散歩とは珍しいですね」
「俺様はこれから、でぇーとの予定だったんだよ……正直メチャクチャ忙しいんだが……下僕がピンチとなれば、話は別よぉ。こーみえて俺様は情に厚いんだ。だから、ちょろっと助けてやる」
そう言って八郎先生は、漆黒の翼を広げた。
先生は僕の着ている制服を三本足で掴み、
「逃げるが勝ち!あの程度の低級を相手にするなんて、時間の無駄ってもんよぉ!」
――――――勢いよく夜の空に羽ばたいた。
先生の捨て台詞は、小物じみていて情け無い。
今の先生は力をほとんど失っていて、逃げることしかできないのだから、煽るようなことを言わなければいいのに、と僕は思う。
夜空へ逃走した僕らを、狐の面は追いかけてはこなかった。しばらく夜空を飛行して、着いたのは県境に流れる桜実川。
ジャッポーン
八郎先生は、掴んでいた制服を離して僕を桜実川に落とした。春の川は少し冷たくて、僕の顔についた赤い塗料を軽く洗う。
沸騰していた頭がジンワリと冷めていくのを感じる。怒りの感情が少しだけ薄れて、何とか正気を保てるようになった。
「どうよ。ちったー頭冷えたんじゃねーの」
「……はい、ありがとうございます。先生にはいつも助けられてばかりで」
「小僧は喧嘩がよえーんだからしゃーねよ。俺様の目の黒いうちは、寛大な心で助けてやる……そういえば、何だけどよ。俺様は今、甘い物が食いてぇ気分なんだが……」
「……美味しいお饅頭を用意しましょう」
よろしい、と満足気に頷く八郎先生。
僕は近所の有名な和菓子屋で、饅頭を買うことにした。今回は流石にちゃんとした対価を支払わなければならないだろう。
「お饅頭といえば先生、熱い緑茶も一緒に如何ですか?美味しいお茶を知っているのですが……」
「いいねぇ!前々から玉露ってやつ飲んでみたかったんだよなぁ〜。もちろん、最高級な奴だ。いや〜楽しみだなぁ」
調子に乗っている。
コイツ……最高級玉露がどれだけ高いか分かっているのだろうか。僕の懐事情を考えてモノを言って欲しい。
「……玉露は置いておいて、先生は先ほどの化け物が何か、心当たりがありますか?」
「玉露」
「……分かりました、用意しましょう」
僕の答えを聞いて、ヒッーヒッヒ、と八郎先生は高らかに笑った。
我慢しよう。
やっと事態が進展しそうなのだから、ここは我慢して先生の言うことに従うのだ。
「いいねぇ。小僧の聞き分けの良さに免じて、あれが何なのか少しだけ教えてやろう」
狐の面をした白装束。
色とりどりな化け物の群れ
その正体は――――――
「迷える人を攫い、そのツラを被って悪事を働く厄神――――――『悪戯白狐』」
それが低俗で低級な神様の名前だ、と八郎先生は言うのだった。




