プロローグ:病弱少女
「学校に行きたい」
真っ白なシーツに、ぽつぽつと血が落ちてていた。
口元から赤い血を流しながら、星宮夕陽は窓の外で、学生たちが下校しているのを見ていた。
俺は持っていたタオルで、彼女の口元をぬぐう。
「行けるよ」
俺は嘘をついた。
「とー君と、一緒に、学校に行きたい」
「要求が増えたな。大丈夫。行けるよ」
「…………本当かなあ?」
「もちろんだろ。でも、ほら、今下校してる木曜高校は結構偏差値高いから、勉強しなきゃだけど」
俺は嘘をついた。
彼女は、白い。
髪も白ければ、肌も白い。今にも消えてしまいそうだ。
余命は、半年もない。
物陰で聞こえてきた彼女の両親と、彼女の担当医である俺の父の話を、当人は知っているのだろうか。
「学校に行きたい、オムライスが食べたい。あとね、とー君と野球がしたい。海も行きたい」
「出来る出来る……野球? 野球好きだっけ?」
「わかんないけど。電車に乗って、旅行もしてみたい」
「いいな。一緒に行こう。ほら、パジャマ汚れてるよ」
俺は嘘つきながら、ピンク色のパジャマについた血を拭った。
手に、また液体がかかる。透明なものだった。
「学校に行きたい」
俺は彼女の手を握り締めていた。
何かを言わなければならない。
「俺が、絶対、夕陽を学校に連れていくから。お前のやりたいこと、全部一緒にやるから。オムライスなんて、いくらでも作ってやるから」
彼女は、今日初めてこちらを見た。
水分で揺れる瞳孔の向こうに、ほんの少し光が灯ったような気がした。
「─────唐揚げも。あと、ハムのサンドイッチでしょ、ポテトでしょ。オムライス、唐揚げ……ハンバーガー!」
「注目するの、食い物なのか……野菜も食べないと」
「野菜……うん。そうだね……とー君が、なんでもしてくれるの?」
「俺に出来ることなら、何でもするよ。本当だ。だから、だから」
だから、何だと言うのだろうか。
枯れ木のように腕には、何かよくわからない管が何本か突き刺さっている。
これが、彼女の食事だ。オムライス?
固形物なんて、もう何年も食べていない。学校なんて、行けるわけがない。旅行なんて、行けるわけがない。
そんな彼女に、「だから」などと言って、俺はどうして欲しいのだろう。
「頑張ろう。な、夕陽。一緒に、お前の、やりたいことやるから。頑張って、もうすこし……いてくれ」
彼女は、俺の手を、ほんの少し、握り返してきた。
握力計にかけたら握力は3キロもないんじゃないか、と思ってしまう。
「…………ちょっと、少し離れて」
その通りにする。急に手を握るのは、ちょっとアレだっただろうか。
彼女は、サイドテーブルから、一冊のノートを取り出した。たまに彼女が、そこに何かを書いているのを知っている。
その内容は、決して教えてくれな────
「とー君に、また嘘をつかれました……と」
待てよ恨み帳かなんかかよ。
俺は唖然とした。意外とふてぶてしいな。まあ、そういうことをする元気があるならいいのだが。
…………ちょ、ちょっと何書いてるのか見せてくれない?
「えっち」
「なんでや……」
彼女は、曖昧に笑った。俺も笑った。
「嘘じゃない」
「……だったら、約束だよ?」
「ああ。沢山食べような。オムライス」
「え、そこじゃなくない……?」
「すみません」
「……ありがと」
今度こそ、彼女は笑ってくれた。夕陽は、笑顔が一番だと思った。
それを言おうとして、なんだか嘘くさいのでやめておいた。俺は嘘が苦手なのだ。
俺は、なんだか恥ずかしくなって、「トランプとかなにかしない?」という彼女を振り切って、帰宅したのだった。
いや、家ほとんど病院の近くなんだけど。親父の診療所だし。
だから、夕陽にはいつでも会える、会えるのだ。
彼女が突然、病床から消えたのは、その三日後だった。
空っぽのベッドに、折りたたまれた布団。
あんなにガチャガチャと存在を主張していた点滴の類いも、どこにもない。
俺が誕生日にプレゼントして、恥ずかしいから出しておかないでくれ、と主張したが聞いてくれず、ずっと鎮座していたぬいぐるみも、ない。
「これを」
父は、夕陽に渡された、と言って。
一冊のノートを俺に押し付けた。それ以上のことは言わなかったし、俺は聞きたくなかった。
『生きてるうちにやりたいことリスト』
見たくない。
でも、俺はノートを開いた。
最初から、最後まで。沢山のことが、書いてあって。俺は、直視することができない。
一番最後のページ。三日前、俺達が約束をした日。
『とー君と、学校で、唐揚げをいっぱい食べたい』
オムライスじゃないのかよ。
俺は内心ツッコんで。
『死にたくない』
と書かれた文字を見て、そっとそのノートを閉じた。
まだ10歳の俺には、色々と重たすぎて。
何かを背負ったまま、6年の月日が流れた。
「今日から、転校生がきます……えー、入ってきてくれ」
教室中が息を飲んだ。すわ女神かと思わんばかりの美少女がそこにいた。
ロングに伸びた白い髪は、もはや神秘的である。
つかつかと、機敏な動きで、彼女は教壇の横に立ち──微笑んだ。
溜息がでそうなくらいの美しさで、実際に女子の何人かはそうした。
だが。
16歳。
4月15日。春。
私立木曜高校二年生の俺こと朝比奈扉間は、堂々と教室に入ってきた彼女を見て。
「星宮夕陽です。みなさん、今日からよろしくお願いします」
「で、出た……」
化けて出たものと、思ってしまった。