4話 はじめての吸血編(二)
グロ表現がありますので、
お食事中の方や、トマトジュースを今まさに飲もうとしていらっしゃる方、十分ご注意ください。
夜暗に沈む町は冷たく、そして何より静かだった。
まるで廃墟群の上を飛んでいる気分だ。
『霧化』したまま、森閑とした町を見下ろす。
どの家もきっちりと窓とカーテンを閉めていて、室内の様子が分からない。防犯のためだろう。あの平和国家で十七年生きてきた僕には、驚くべき光景だった。
外を出歩く人はあまりいない。
あまり、ということは皆無ではないのだが、僅かに感じる人の気配も、表通りではなく路地裏に集中しているのだから、なんとなくこの町の治安レベルが窺える。
路地裏にいる人間というのは、大半がボロ切れのような衣服を纏った骨のような人々だった。
細い腕で己の身体を抱き、ブルブル震えている。
前世風にいうならホームレスか。
老若男女、年齢層は様々だ。
白髪と白髭の者もいれば、背丈が一メートルに満たない子供もいる。
これが――異世界か。
「……」
吸血鬼の暗視能力は凄まじい。
まるで昼間のようによく見える。
そのせいで、見たくないものまで見えてしまう。
「……あれはダメだ」
あんな人々を襲う気にはなれない。
下らないエゴだとは思う。人間だって羊の子を殺して、ラム肉を食べる。この世界に同じような文化があるかは知らないが、しかし人が人以外の生物に容赦するとは思えない。
人情だとか――そんなものは大抵の場合、どこか矛盾している。
分かっている。
この感情は間違いだ。
だけれど、どうにも気が進まない。
「他にいないかな。襲っても、よさそうな」
襲っても良さそうな人間。
自然と口をつきかけた言葉に、驚いた。
前世ならこんなこと、思いもしなかったはずだ。
一瞬、自分は賊だったかと疑った。
いや違う。僕は吸血鬼だ。
――そうか。
ガワだけでなく、中身まで吸血鬼になったのか。
実感する。
少し――うすら寒いものを感じた。
今までの『僕』が段々塗り替えられていくようで、ちょっと恐ろしい。
「ん? あれは」
意識を逸らすように、僕は目を凝らして遠くを見た。
いま、なにかが光った。
近付くと、その正体が明らかになる。
ナイフだった。
顔は小さく目玉がぎょろりとした、出目金のような小柄な男が、ナイフを持って少女を脅している。
少女の方はというと。
「……獣耳?」
目元までを覆うぼさぼさの茶髪から、一対の猫耳がちょこんと出ている。
腰から、長い尻尾が地面に垂れている。
あれがファンタジーものでよく聞く、獣人というやつか。
一瞬、父さんが誘拐されていることも、自分の命が正しく風前の灯火であることも忘れて、僕は少女の容姿に見入った。
だいぶ切羽詰まった状況だけど、このときばかりは感動せずにはいられなかった。
あれが獣人。
ここにきて、ようやくファンタジーらしい、夢のある存在に出会えた気がした。
「いや、そんなこと言ってる場合じゃないな」
出目金が下卑た笑みをして、ジリジリと少女に詰め寄る。
ナイフの切っ先が月光を反射してキラリと光った。
対して猫耳少女は、「シャーッ」と、いかにも猫っぽい威嚇をしながら後退りする。
ジリジリ。
シャーッ!
ジリジリ。
シャーッ!
その繰り返しが続き、やがて猫耳少女は行き止まりの壁にぴたりと背をつけた。
目には玉のような涙が浮かんでいる。
しかしそれでも威嚇を止めないのは、生への執着心が強いからだろう。遠目にも分かるくらい膝をガクガク震わせながらも、一生懸命に活路を見出そうとしている。
ニチャア、と出目金が笑った。
「お嬢ちゃん、そろそろ諦めないかい? ほぅら、おじさん怖くない。笑ってるだろう? 笑ってるってことは、俺は良い人なんだぁ」
「い、意味が分かりません!」
同じく僕も意味が分からなかった。
笑っているから良い人……謎理論だ。
つうか、良い人ならナイフ握ってないだろ。
「ひひ、人が信じられないんだねぇ……可哀そうに。きっと、散々痛い目に遭わされてきたんだ。そのせいで疑心暗鬼になっちゃったんだねぇ」
信じられないのはお前だ!
「信じられないのはあなたです!」
少女の声とハモってしまった。
すると出目金は心底から心外そうに首を傾げた。「あれぇ?」困惑したふうに言う。
「精一杯に優しくしてるんだけどなぁ」
「だったらそのナイフはなんですか!」
「これぇ? ……あ、これが怖いのか!」ギョロ目を更に見開いて大声で叫ぶ。「ごめんよ、これがないと君、逃げ出しちゃうだろう? おじさん、逃げられたくないんだよぉ」
「私を捕まえて……どうするつもりですか」
「え? どうする……どうするぅ? どうしよっか……とりあえず、おじさんの家においでよぉ。それから、将来のことは決めればいいさ! へへ……そうだねぇ、二人で決めないとねぇ。なんてったって、君は今日から僕のお嫁さ――」
「――ギルティッ!」
出目金の頭上で『霧化』を解いて、落下の勢いそのままに、踵落としを喰らわす。
「ほぐぅんっ!?」頓狂な悲鳴を上げた出目金は白目を剥き、泡を吹いて崩れ落ちた。
カラン、とナイフが音を立てる。
僕は着地に失敗し、無様に尻餅をついた。
瞬間、目の前が真っ白になった。
雷が走り抜けるような感覚がして、全身がビクンと震える。そうだ……僕、瀕死なんだ。忘れて無茶しちゃったよ……。
「――ッ!」
声も出せずに地面を転げまわる。
前世も含めて経験したことのない、想像を絶する痛みが脳をごちゃごちゃにかき混ぜる。
「ごぼっ」大量の血を吐いた。
視界の端に、思い切りドン引いた表情の猫耳少女が映った……そりゃそうだろうさ! 血を吐きながら地面を転がりまわるなんて、スプラッターにもほどがある!
「あの、大丈夫ですか?」
「だッいじょヴ!」
「絶対に駄目なやつですね!」
必死に笑顔でサムズアップしてみたが、それが逆に誤解を生んだらしい。いや、誤解ではないのか。死にかけなのは事実だ。
――しばらくして。
貧血でくらくらする頭を押さえて、どうにか立ち上がる。「ちょっと、マシになったかな……ごぽっ」
「嘘です、真っ赤な嘘です!」
「ははは、紅血だけに、か」
「冗句じゃありません!」
見れば、猫耳少女は真っ青だった。
見下ろせば、僕の身体は真っ赤だった。
血のプールに浸かってきたのかというくらいに、あらゆるところが赤かった。
ステータスを開くと、余命が残り一時間にまで減っていた。なるほど、僕は本当に、死の淵に立っているらしい。
「これは……不味いかも」
「自覚するのが遅すぎます! ……え、死にますか? 死んじゃいますか?」
「真顔で言わないでくれ、本気で心配になるから……あー、君は、大丈夫かな?」
「私よりも自分の身体を労わるべきだと思います」
「ああ、そりゃ、そうだ……」
頷く。
喋るのがキツい。
指先が冷えてきた。
「……もう、死にそう」
「へぇ!?」
「だから、単刀直入に言うよ、僕は吸血鬼だ。血を吸えばどうにか生き永らえることが……できると思う。なにぶん、吸血ははじめてでね、無知なんだ」
「――私の血を、吸うつもりですか?」
スゥッと猫耳少女の目が細くなる。
猫というよりは、どことなく百獣の王を連想させる気迫だ。
「違うよ、違う」慌てて否定する。「僕が言いたいのは、そこの出目金……じゃなくて、悪漢の血を吸ってしまってもいいかってことだよ」
「それは、別に、構いませんけど……私に許可を取る必要もないですし」
「そうか。……そうか? ああ、そうだね、そうだそうだ、そうだった」
頭が回らない。
脳がパニックに陥っているようだ。
「じゃあ、頂きたいと思うよ」
「……どこに向かって言ってるんです?」
「うん、頂く。いただきます、だ。ごちそうさまじゃないって。違う。頂くから頂くんじゃなくて、頂くから頂くんであって、だから僕は頂くんだ」
そうだ、頂こう。
うつ伏せになって気絶している男の上に、覆いかぶさるように倒れ込む。
視界が端から黒くなってきた。
手足の感覚がない。
死という単語が脳裏をよぎる。
それから、生という字が浮かび上がる。
まだ――死ねない。
僕は、まだ生きたい。
なら、どうすればいい?
血を吸えばいい。
「いただきます」
かぷっ――なんて、可愛らしい擬音は相応しくない。
牙が人間の表皮を貫通し、その下の肉に届く。しかしまだ動脈には至らない。もっと、もっと牙を喰い込ませなければ――顎に力を込める。
瞬間、口内に血の味が広がった。
破れた動脈から間欠泉のように、温かい血液が噴き出た。乾いた舌に触れる血は、僕の知る鉄分の味ではなかった。
万の果実を絞ったように甘く。
絶妙なとろみが素晴らしい口当たり。
ごくん、と一口飲んでみる。
芳醇な香りが鼻孔を抜けていった。
美味い。
なんだこれ、美味いぞ。
止まらない。
止まれない。
――そこから先の記憶はない。
ただ一つ覚えているのは、込み上げる衝動のままに、ほんの一滴さえも残さないよう、必死になって血を吸ったこと。
もはや対象の生死など、どうでもよかった。
とにかく絞り尽くした。
飢えが満たされても、腹が一杯になるまで。
吸い尽くした。
ミイラへの変貌を遂げた男を前に、胸中に湧いたのは――後悔ではなく、充足感だった。
これ以上ない幸福感だった。
やっと腹一杯になったという満足。
獣のようだと思った。
口回りに付着した血を舐め取る。
腹がふくれると、なんだか眠くなってきた。
瞼を閉じる。
抗い難い睡魔の力に、理性を失った獣はあまりにも無力だ。意識が遠ざかる。誰か、僕を呼んでいる気がした。起きろと、身体を揺さぶられる感じがあった。
だけど、もう――
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