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8:Bellaque matribus detestata.

 「ぅ……?」

 

 何だか暑い。すげー暑い。今日は日に当てられる程の事はしなかったのにおかしいな。なんだろう。ぼーっとする。昨日より怠い。

 俺はどうしたんだっけ。イグニスといろいろ話して、その後夕飯食べて……部屋で水だけ浴びて湯浴みして。それで隣の部屋に遊びに行って……狩りの疲れがどっと来てみんなより先に休むことにしたんだっけか。

 目を開ける。見えたのは暗い色をした木の天井。熱さの原因を確かめるために、俺が怠い身体で起き上がった時、扉が開いた。

 鍵は閉めていた。もう一本はイグニスが持っていた。だから入ってくるのは彼であるべきだ。

 

 「……イグニス?」

 

 返事の代わりに聞こえたのは、彼のそれより幾らか高い、女の声だった。

 

 「こ、ここです!」

 

 扉の前にいたのは宿屋の少女。彼女は青ざめた顔で俯き床を見る。誰かと一緒にいるようだ。

 

 「ジャネット……?」

 「……本物だな。よく案内してくれた」

 「私、案内しましたよね!?これで、私……助けてもらえるんですよね!?」

 

 彼女は今、誰としゃべっているんだろう。あれはどう聞いても、女のそれとは思えない。

 

(ジャネット、何を……?)

 

 若い男は俺とイグニスだけ。その他の男といったら徴兵から漏れた……戦うことも働くことも出来ないような老人達だけ。聞こえる声はそんな嗄れた老人の声ではない。

 

 「ああ、女は金にならねぇからな。要らないな」

 

 扉を潜ってきたのは大柄な男。本来この村にいるはずではない。その色を見た瞬間、その存在の異質さが目から飛込む。

 カーネフェルのそれとは違う黒い瞳に茶色の髪。タロック人だ。

 男の手には長い刀。本来白くあるべきそれは、男の瞳のように暗い色に染色されていて……時折その切っ先から床にこぼれ落ち、床を汚している。

 ジャネットは男の言葉に顔を上げ、そのまま廊下の向こうの闇の中へと消えていこうと一歩後ずさり……それを引き留める男。

 

 「おっと待てよ娘。今逃げても助からねぇぜ?他の奴がお前を見逃すとは限らないんだからな」

 「そ、そんな……」

 

 彼女のための言葉のはずなのに、男はジャネットの怯え顔に悦びそれを嘲笑う。希望と絶望を交互に与え愉しむ様は、悪意の塊。

 

 「だが、俺と一緒に出て行けば安全だろうな。俺と一緒に行きたいか?」

 「は、はいっ!」

 「それじゃあもう一仕事してもらわなきゃいけねーなぁ」

 「え……?」

 

 二人のやり取りの間に窓から逃げ出すという選択肢もあった。だが俺は一人で逃げ出せなかった。隣の寝台にはイグニスがいない。それなら彼は隣の部屋にいるはず。これだけの騒ぎに隣の部屋の三人が気付かないはずがない。

 街は騒がしい。それなのに、この宿は静かすぎる。みんなに何かあったのではないか。不安が胸を渦巻いていく。

 一度目をやった窓の向こうは昼間より明るく見えた。それを見る前から甲高い悲鳴は何度も俺の耳に届いている。

 この街はタロック人の襲撃に襲われている。

 どうしてだとかなぜだとか、考えるのは後からだ。俺は毛布の中に入れていたトリオンフィを手に掴む。

 

 みんなの無事を確認するまで、逃げられない。俺はこの扉をくぐり抜け、なんとしても彼等の所まで行かなければならないのだ。

 来るなら来い。俺は男を迎え撃つつもりだった。

 挑むような俺の視線に、男はフッと唇を釣り上げる。

 

 「これであいつを縛って連れてこい。逃げられたら、どうなるかわかってるな?」

 

 男は自分では来なかった。ジャネットにそれを命じた。ジャネットは頷き縄を受け取る。

 俺が彼女と顔見知りであることを知った男は、俺が簡単に彼女を斬れないことを見抜いていた。

 ああそうだ。俺は人を斬ったことがない。扉の前の男だってちゃんと出来るかわからないのに、どうして同じ年の少女を斬れる?

 

 「ジャネット……どいてくれ」

 「……ごめんなさい」

 

 初めて彼女と視線が合った。控えめな印象だった彼女の青色の瞳。その瞳は瞬きすることも忘れたように、俺を……獲物を一心不乱に凝視する。その姿は……そうすることで彼女は俺を殺せると、そう信じているようにも見えた。

 

 「でも私、死にたくないんですっ!」

 

 ジャネットは扉の近くにあった椅子を手に取り、それを迷いもなく俺をめがけて振り上げる。対する俺には迷いがあった。だからトリオンフィを抜けなかった。

 身を捩り、それを寸前でかわす。彼女の腕から巻き起こる風。近くにいる限り、その風は止まない。何度も俺を襲う。

 逃げ回り続ける内に、俺は体力を削られていく。ジャネットの肩が震えているのは疲労ではなく、恐怖の震え。体力はまだまだ残っている。大人しい彼女が椅子を振り回すその様は、何かに乗り移られたよう。死の恐怖に侵された彼女には、剣を持つ俺と男が恐ろしい死神に見えているのだ。

 

 「っ……」

 

 俺と彼女の差が、やがて目に見えて現れた。

 椅子が肩をかする。それだけでもかなりの痛み。鞭の痛みとは違う。あれは表面を傷つける痛み。これは、内側を壊す痛みだ。血は出ない、外には。

 

 俺はずっと屋敷で暮らしていた。その間彼女はずっと男の代わりに畑仕事をし薪を割り狩りをし……働いていた。

 力なら男が女に勝てるのは当たり前。そう思うことが誤り。世界には絶対、当たり前の式はない。方程式を覆すには力がいる。俺が持っている力……

 "お前に勝利を"

 俺の力。姉さんが、俺に遺してくれた、力。

 

 「くそっ……」

 

 俺は今度こそトリオンフィを抜く。駆ける。彼女をめがけて。

 

 「来ないでっ」

 

 彼女は椅子を放り投げる。

 それは俺が待っていた瞬間。大きな好機。

 コレで彼女はしばらくは武器がなく、無効化。コレさえかわせば、俺の相手は扉の前の男だけ!

 放物線を描き宙を飛ぶ椅子。

 俺は駆ける。身体を低くした分、距離は開く。それが落ちる前に、一気に駆け抜ける。目指すはあの扉。

 

 「……隣の奴らが心配か?」

 

 トリオンフィを真っ直ぐ構え、力任せに突っ込むつもりだったのに。

 男の声が俺の足を、俺の腕を停止させる魔法に変わる。駆けることで加速していた貫く力はその瞬間、ゼロへと帰る。

 無効化されたのは、俺だ。貫くことも斬ることも、もう出来ない。

 俺は背後で椅子が落ちた音を聞く。それに弾かれたよう、俺は叫ぶ。

 

 「っ……何を、した!」

 

 男はあいつらの存在を知っている。今何処で何をしているのかを知っている。そして、俺の心を揺するのだ。

 

 「安心しろ、お前の仲間は無事だ」

 

 気味の悪い笑み。安心しろ何て言われても、そんな微笑みで安心できる人間なんてどこにもいない。俺だってそうだ。

 絶対裏がある。裏しかない。男の腹立たしい笑みはそう言っているも同然だ。奇しくも、それは大当たり。

 

 「お前は置いて行かれたんだよ」

 

 瞬間、世界がぐらり。

 違う。本当に揺らいだんだ。

 頭が、身体が……やばい、上手く、立てない。

 強い衝撃が俺の脳を震わせる。

 最後に見た男の顔は、崩れる俺を見て口を開けて大笑い。彼は何もしていない。それじゃあ誰?誰?誰?……俺と男以外に誰が居た?

 満足に動けない身体に働きかけ、身体を首を視線を操ると……視界の端に白い少女の手が見えた。その手に握られているのは……木製の何か。あれは……彼女が今度手にしたのは、イグニスが地図を広げたあの机。

 そんなに大きくないとはいえ、思い切り頭を殴られれば……

 

(早、すぎる………………)

 

 女の子って、強いなぁ。意識の糸が切れる前に、そんなことを強く感じた。

 

 

 *

 

 

 街が燃えるその様は、自分がとっくに見慣れた景色。

 それでも慣れると言うことはない。何度見てもこれは憂鬱だ。

 恐る恐ると言った様子で話しかけてくる兵士。

 

 「師団長、これでよろしいのですか?」

 「セネトレアには船を借りた恩がある。構うな、お前は進軍の準備を整えろ」

 「で、ですが……」

 

 言葉を濁す兵士。しかし彼とてタロック人。炎に焼かれた街を見るのはコレが初めてではないだろう。

 いや、だからこそか。それを重ねて見てしまうのだ。

 

 「お前は兵士には向いていないな。この戦が終ればタロックにもやがて平和が来る。その時は畑でも耕して暮らしたらどうだ?」

 「そ、そうですね。そんな日が来ればいいと思いますよ」

 

 その日は来る。我が主はそれを約束してくださった。

 

 「そのためにも、進軍だ。そして都を落とす。それでその日は訪れる。見たくないならそれまで目を瞑れ。兵は兵だけを斬ればいい。余計なことはするな」

 「は、はい!俺、準備に戻ります!」

 

 心を持ち直し、配置に戻っていく兵の顔は明るい。反面、私の表情には影が差し込む。

 兵士を見送る私の後ろ。いつの間にか気配が一つ、増えている。

 こんな不愉快な登場をする人間に、心当たりはあまりない。一つくらいしかない。

 

 「部下を思いやるその慈悲の心。いいねぇいいねぇパチパチパチ、お見事。その愛にブラヴォーとでも言っておこうか?」

 

 不快な声だ。

 どうやらその一つで正解のよう。

 振り向いた先には一人の少年。タロックの高貴な黒髪を継いでいながら、その瞳は我等のものではない。高貴な赤でも下賤の黒でもないその色は淡い桜色。なるほど、姿だけなら美しい。

 だが、コレは信用できない。

 

 「何用だ、呪術師殿」

 「ノン、ボクはしがない数術使い」

 

 舞うようにくるくる回る少年。その顔に浮かぶのは邪気ない微笑み。風と踊る可憐な姿は、戦場に不釣り合い。

 彼は剣を手にすることも、鎧を身に付けることもせずに、美しい着物に身を包む。動きやすいように丈を切り、短くしているようではあるが。

 

 「されどボクは始まり。虚無の混沌の海とて存在数は一。愛あるところにボクはあり。人は愚かな生き物だから、万物を愛することが出来る」

 

 少年は気安く、息をするように愛を語る。それ故それは非常に胡散臭い。

 数術の原理などを話されても、私はそんなものを信用していない。だから無意味なのだ。無視をすると後々めんどうなので適当に聞くふりだけはしているが。

 

 「だからボクが存在できない場所なんて、この星の何処にも存在しない。貴方がボクをどんなに厭っても、ボクはいつでもどこでも貴方の嫌がらせに現われる事が出来る。ボクはそんなしがない数術使い」

 

 タロックの呪術師……数術使いはシャトランジアのそれには及ばない。豊作祈願、雨乞い……自然に嘆願し、精霊と会話ができるシャーマンのようなもの。しかしこの少年は違う。

 その言葉通りどこからともなく現われて、いつの間にか消えている。一言で言うと不気味なのだ。

 話してもいないことを知っていたり、私達が知らないことまで知っていたり……そしてそれは真実なのだ。

 千里眼でも持っているのだろうか。まるで、妖怪。

 これでも一応は味方だから口には出さない。それでも皆が彼を不気味に感じていることは皆が知っている。

 大体今回の航海で、コレと同じ船に乗った記憶はない。乗せた覚えもない。

 それなのにコレはいつの間にか、船の中にいたりいなかったり。上陸すれば当然のようにこうやって、現われる。

 

 「……よく言うな。しがないなどとは欠片も思っていないように見受けられるが」

 「ウィ。だってボクはボクを愛しているから。そんなボクをどうしてボクが貶めないといけないのか理解に悩みます」

 

 それにしても、一言一言がいちいち癇に障る人間だ。

 子供とは本来弱く儚く、薄いもの。

 自己主張をせず、周りに融け込むこと。目に留まればそれが死に結びつくことを、彼等は幼いながらに知っている。

 だから印象を、存在を限りなくゼロに融け込ませる。影のようにひっそりと息をし生きる。だから、気付かない。だから、好意も抱かなければ、敵意を持つこともない。

 しかし、これはどうだ。ここまで他人に敵意を抱かせる子供がいるとは……私は彼に出会うまで知らなかった。

 子供に許されない、発言権。それを自由自在に振りかざす。言葉巧みなその口は、混血嫌いのあの王までも魅了した。本来殺されるはずであった男子虐殺令……それをこの無力な少年は言葉だけで潜り抜け、あまつさえ王の重臣までその位を進めた。

 

 そこまでの頭があるのなら、誰からも嫌われないよう振る舞うことも容易いはず。

 けれども彼はそうしない。彼は他人の嫌悪感を引き出し、それを愉しんでいる節がある。

 それにどのような意図があるのかは不明だが、私がコレを気に入らないのは確かである。

 コレには誇りが無い。忠義の心もない。上辺だけの忠誠。こんなものに信頼を預けるようになる王が私には理解出来ない。

 

 「カードはねぇ、等しく配置されるべきなんです。左右対称……それがもっとも美しい形だ」

 

 いや…………おそらく暇つぶしの余興のゲームだったのだろう。

 少年の語る未来が外れたら、その時王はコレを殺すつもりだったのだ。

 しかしそれは何度も何度も当たった。

 王はその奇跡を目の当たりにし、コレに価値を見いだした。

 それは理解出来るが、彼の語る美学をそうするのは難しい。

 

 「おっしゃる意味が理解しかねるが」

 「美しいものはいい。それだけで愛でるに値するから。愛は人間を構成する大切な数値です。何も愛せないものはすなわち自分を愛せない。それは無価値で無意味。存在を虚無の海へ落とすこと。生きる価値もないんですよそういう奴は」

 

 戦に美学を持ち込む必然性は皆無。必要なのは命令と、それを実行する力。

 

 「ボクが王に進言しなければ、タロックは出遅れていた。それは貴方の敬愛する主がどうなっていたことか」

 

 恩に着せ見返りを求めるようなその言葉が気に入らない。

 

 「家臣が王に尽くすのは当然のことだ」

 「ウィ。ボク、エルスザインはタロックの狂王の忠実な僕です」

 

 諭す言葉に表面上、彼は応じるが……

 狂王。臣下が主を敬う言葉とは思えない。

 

 「無礼も度を過ぎれば、いい加減首が飛ぶぞ」

 「だって、本人が面白がってそう呼んで?ってボクに言ったし?忠臣としてはそう呼んであげないと、ねぇ?」

 「ここは私の指揮下だ。あの方を侮辱することをあの方が許しても、私がそれを認めることは無いと思え」

 「ウィ……って言ってあげたいところなんだけど、ボクも独立した指揮権を持つ立派な天九騎士の一人だし?ですよねぇ、ルー卿」

 「奇っ怪な固有名詞の贈呈はご遠慮願おうか」

 「貴方が名前じゃ嫌って言ったんじゃない、我が儘だなぁ貴族って」

 

 貴族なんてみんな死んじゃえばいいのに。少年はそう言って品のない笑いを零す。

 やがて、飽きたのだろう。笑いを止めて、笑顔を作り、こちらを向いた。

 

 「ま、いいや。双陸、同僚同士仲良くしたりしなかったりってことでよろしくね。そうそう、先行っててよ。ボクはもう暫く彼等の様子を見守るよ。面白そうなものが見れる気がするんだ」

 「………楽しいか?」

 「ウィ!とっても楽しい!彼等はなぁんにも見えていない!目隠し目隠し!誰にも見えない風景を、ボクだけが見、理解し、知っている!この悦びは見えない貴方には理解出来ない、おかわいそうに!」

 

 燃える街と逃げまどう人々の悲鳴に、少年は愉快な劇でも見ているような反応をする。

 そしてその登場人物達を哀れみ、嘲笑い、弄ぶ。

 

 「醜いものでも価値のないものでも終わりよければすべてよし。散る瞬間が美しければ、壊す価値がある。愛でてあげられる。この醜く無価値な舞台をボクが、美しい色に染め直してあげるんです!ふふ、心が躍るようじゃあないですか!」

 

 

 

 *

 

 

 「どうしてこんなことをするの!?」

 

 透明な硝子色の壁。遮られた声はその内側だけに反響、分解……そして空気に解けていく。

 壁に叩き付けた手は、痛みさえ感じられない。私の攻撃を吸収し、私の身体を揺らしただけだ。

 

 「ルクリースさん、落ち着いてください」

 

 背中にかかる声。睨み付ける先。一歩も引かない琥珀色の瞳。

 

 「これは、必要なことなんです」

 

 私は彼の言っている意味がわからない。何もわからない。どうしてここに、あの子がいないの?

 もっと上手く説明して。もっとちゃんと説明してよ。じゃないと、こんなの……耐えられない。

 

 私はどうしてこんな場所にいるの?

 あの子に何かあったらすぐ飛び出せるよう、武器も念入りに磨いた。隠し持っていた。昨日のこともある。今日は寝ずの番でもするつもりだった。

 神経を張り巡らせながら、それを誤魔化す笑顔で私がカードを引いたとき……外から突然悲鳴が聞こえた。

 そして視界が急激に明るくなるのを私は見た。

 

 その直後、ゲームをしていた私達の前から椅子もテーブルも消えていた。

 瞬く間の出来事だった。

 私達は空中に投げ出される。何事かはわからないが、下は緑の生い茂る大地。

 空中と言っても落下地点まで一メートルもない。それを認識した私は、身体の小さなお嬢様を庇うよう抱き寄せ、衝撃に備える。

 草の上に落ちたのに、予想したものと大分違う。今のはなにか柔らかい生き物の上に落ちたような……そしてそれが衝撃の全てを吸い取ってくれたよう。足下を確認すると、普通の地面だ。手を伸ばし触れてみると……その地面の上に、薄い透明な膜がかかっていることがわかった。

 

 「う、上!」

 

 抱きかかえたままのお嬢様が上げた声に導かれ、視界を上方に上げると宙に浮いた私達の所持品と旅行鞄。それを認識すると、一瞬遅れて荷物が空中から落ちてくる。

 左右を見回して私が見つけたのは、荒い呼吸を繰り返す神子様。

 

(今のは、数術?聞いたことがない。こんな短時間で場所を移動するなんて)

 

 情報だけなら発信することも可能だろう。昨日のアレは、力を持ってはいたけれど情報の結晶体。情報プログラムを別の場所から送っていたと考えれば、現代の数術でも展開可能だろう。それにどれほどの力を使うのかはわからないが、船で数術使い達が何度かシャトランジアと連絡を取っていた、あの伝言システムと原理は同じなのだから。

 

 けれど今のは全く違う。

 空間、そこに存在する者、そして目的地の構成する数値。

 彼はその数式を瞬時に書換えた。

 人間を構成する数は何億とも何兆とも言われている。そんな桁の数を割って、引いてそれを丸ごと移動させて、移動場所の位置情報を数式で組み上げ、そこにゼロだった私達の存在数を足して掛けて元の数まで戻す。

 数値の海から正しい解を導き出す。それが一桁でも間違おうものなら……私はここに私として存在していなかった。別の何かに作り替えられていただろう。恐ろしい話だ。

 そして、そんなことを無事にやってのけたこの子もなんて、恐ろしい。こんな芸当……数式の書換えを何回行えば可能なんだろう。一秒間に何万回?何千回?何万回?

 こんな事が出来るなら、やっぱり貴方は信用できない。

 

 普通、そんな計算したら……脳みそが沸騰するか死滅するか。新米の数術使いが突然死ぬ事ってあるけれど、あれって脳死のことだって聞いた。ちょっと普通の人間に出来ないことが出来るからって、自分は特別な人間だとか、選ばれた人間……いえ、もっとイっちゃってる奴だと神の生まれ変わりだとかほざいて、人間が出来る以上のことを望んで、頭がバーンってなっちゃうの。

 数術使いは才能がない人に見えない可能性が見えているだけで、人間じゃないわけじゃない。

 だから人間の頭で出来ないことは、才能があっても出来ない。

 それに耐えられるこの子の脳みそは、同じ人間のものとは思えない。スペックが違いすぎる。混血が恐れられる?当たり前だわ。この子を親友と呼ぶ、あの子には悪いけれども……

 

 「……アルドール?」

 

 私はここでやっと大切なあの子のことを思い出す。

 こんな魔法みたいな者を見せられていたせいで……大切なことを見落としていた。

 

 場所を確認すると、ここは小高い丘の上。

 見下ろす景色、燃やされている港町。船舶しているのは見覚えがある。あの木造船は、セネトレアで作られる船だ。

 今あの街は、奴隷商率いる侵略者に襲われている。

 その突然の襲撃を目にしたお嬢様の肩が強ばる。そんなお嬢様に神子様は壁を叩いて安全性を主張する。

 

 「ま、街がっ……燃えてる!」

 「数術結界。数式コードは僕が編み出した。僕にしか作れないし、僕だけにしか破れない。ここは安全です。敵には見えない、気付けない」

 

 この空間は半径十メートルほどの円柱。高さはよくわからない。見える限り、ずっと上まで続いているように見えるけれど、だからこそてっぺんの面が存在しているのかまでは見えない。そんな柱の中に私達は閉じこめられている。

 

 「どうしてアルドールがいないの!?」

 

 お嬢様もようやく気付く。

 人間みんな、自分の安全を確保するまで他人のことを考えられないのだろう。例えそれがどんなに大切な相手であっても、悲しいことに。

 だからお嬢様の発言は許せた。

 でも、彼は駄目だ。

 

 「彼は、転送出来る範囲に彼はいなかった……そしてこれは彼が一人でやらなければいけないこと」

 

 アルドールを敵の真っ直中に置き去りにすることが、正しいことなの?

 範囲にいなくても、貴方なら出来たはず。隣の部屋まで行ってそこで術を発動させても良かったのに、貴方はそれをしなかった!

 

 「あいつらにアルドールが見つかったらどうなるか、わかってて言ってるの!?カーネフェルの男は貴重!どういう目に遭うかわかってたんでしょ!?」

 

 せっかく見つけたのに。また離ればなれなんて嫌。

 

 「ええ、……殺されることはありません」

 「また売り飛ばされる!遠くへ連れて行かれるわ!」

 「それでも彼は、死にません!」

 

 その言葉に私は愕然とする。

 私は貴方を疑った。それでもあの子は貴方を信じた。

 私のことも貴方のことも大切だって言ってくれたけど、見ればわかるじゃない。聞けばわかるわ。

 あの子は貴方の方が、大切なのに。

 

 「貴方それでもあの子の親友なの!?」

 「生きることが幸福だと、彼が僕に言った言葉です」

 

 私があの子に語った言葉。

 それは私の幸福。

 生きていたからあの子に会えた。だから、私の多くの不幸は報われたのよ。受け入れ、許すことが出来たのよ。

 でも……あの子に同じ事が出来るというの?

 私じゃあの子の希望になれない。

 そしてあの子の希望の片割れは、たった今……あの子を見捨てたのに。

 その先に、どんな幸せがあるって言うの?

 

 「この世界は最低よ!生きることが、死より辛いことだって沢山あるのにっ……」

 

 殺される方がマシ。

 死んだ方がマシ。そういうことだって存在するの。

 

 人間は生まれながら檻の中に生きている。

 性別、人種、血筋、何重もの鎖でぐるぐる巻きにされた籠の中。死ぬまで脱出不可能の、生の檻。

 その檻が外から人を守ってくれることもある。そして……鎖は長く伸び、籠を熱湯の中に漬けることもある。戦場って言うのは、その後者。

 無価値なカーネフェルの女。稀少なカーネフェルの男。

 どっちが幸せかは略奪者の気分次第。そして……被害者の心次第。

 

 「貴女は……悲しい人ですね」

 

 それを知っている私を彼は不幸と呼んだ。

 

 「……っ、ええ!貴方がそうさせたんだわ!」

 

 あの子は何も知らない。世間知らずのお坊ちゃま。

 世の中の汚いモノも吐き気がするような悪意も……半分だって知らない。

 そしてそれは知らずに生きられるのなら……その方がずっといい。知ってる私が、守ってあげる。それが私の役目。

 これまで私が穢れてきたのは、あの子のそれの身代わり。私が闇に落ちるほど、あの子は光の中で笑っていられる。そのためなんだって、私は過去と向き合ったのに。

 

 「……どうしてあの子にそれを見せるの!?」

 「僕は約束した。彼に世界の半分を与えること。世界の真実を彼に見せること」

 

 世間知らずの無知なお坊ちゃまなんかでいさせない。それでは困ると彼は言う。

 

 「全てを知らずに、世界の王になどなれない!彼は僕に約束した!戦争のない世界!奴隷の居ない世界!混血が平和に暮らせる世界!そんな国の王になると!」

 「王なんか、ならなくてもいい!それは貴方の押しつけよ!あの子は自分の望みもわかっていない!貴方のそれを自分の夢だと勘違いしている馬鹿な子なの!貴方はあの子のことを何にもわかってない!あの子の本当の夢も知らない癖にあの子を語らないで!」

 

 私は知っている。あの子も忘れた夢を、私は今も覚えている。

 

 「戦を殺すには、戦の全てを知れ。表も裏も……本の中だけの知識では歴史を変えることなど不可能」

 

 あの子が神子を親友と、大切な人だと言ったから。だから私はその存在を容認していた。

 それでもその存在があの子を傷つけるのなら、許さない。

 

 「そんなの関係ない!あの子が足りないのならそれを私が助ける!守ればいいのよ!渡さない!渡すもんですか!あの子は、私の……」

 「ルクリースさん、貴女は強いカードです」

 

 はっきりとした力強い声。それと同じ強さで彼は私の未来を宣告する。

 

 「それでも貴女はいつか、死にます。だって貴女はアルドールが大切でしょう?」

 

 生き残れるのは一枚だけ。そうだ。私はあの子を殺さない。

 だから私は、死の運命から逃れられない。

 

 「ずっと共にいることが出来ないのなら、彼には強くなって貰わなければいけない。生きて、勝ち残るために……彼には強い力が要るんです。彼はこれから多くの人に出会う。何度も傷付く。泣くことだって一度や二度ではない。裏切られることだってある。それでも……そこで倒れられては困るんです」

 

 それはなんて勝手な言葉。

 それ以上聞くに堪えなかった私は叫んでいた。

 

 「それは貴方のエゴでしょう!?」

 「……世界のためにです」

 

 世界のために。神子らしい立派な言葉だ。でも、友達としては貴方は最悪!あの子の親友失格!もっともらしい正義と大儀のためなら、親友だって犠牲にするのだと言っているんだ。

 

(こんな最低な奴を、どうして……)

 

 私が屋敷に入ったのは、あの子の大切な双子が消えてから。

 私が最初に目にしたあの子は、虚ろな目をした人形だった。

 泣いていたわ。譫言のように貴方と貴方の妹の名を呼んで。

 

 励ました。いっぱい話しかけた。そうすれば、いつか私を見てくれる。そう信じたから。

 人形は意識を取り戻した。呼びかけが届いたんだと思った。

 でも違った。あの子は駆けていく。逃げ出していく。貴方達を捜しに。それだけを考え、それだけを見て。

 傍にいなくても、いつもあの子は貴方達のことばかり想ってた。傍にいて、どんなにあの子を思っても……私じゃあの子の瞳に映れなかった!

 

 「貴方は狡いわ!貴方達がいない二年間……私はあの子に見向きもされなかったのよ!?いつもいつもいつもいつもいつも……あの子は貴方とあの女のことばかり!」

 

 どんなに抱きしめたくても、それが許されない。

 どんなにその名を呼びたくても、あの子はそれを覚えていない。

 伝えられるわけ、ないじゃない。

 私はあの子の中で、とっくの昔に死んだ人間なんだ。

 この名を伝えることも、この名で呼んで貰うことも叶わない、屍なのに。世界中の誰よりあの子を思っていても、あの子には届かなかった。

 

 「どうして貴方達なんかがあの子の一番なの!?貴方はあの子が一番じゃ、ない癖に!」

 「ルクリースさん。世界より個人を取るのは貴女の自由です。ですが、それは貴女のエゴです」

 

 何倍にも鋭さを増して、私の胸へ突き刺さる。

 一本の言葉の刃、それが三本の剣となってこの胸を貫き血を流す。

 

 「貴女は一つ勘違いをしています。アルドールは僕の……一番大切な、友達です」

 「嘘よ!!それならあの子を犠牲になんかしない!貴方は手駒が欲しいんでしょう!?叶えたい願いがあるんでしょう!?そのためにあの子を利用するんでしょ!?自分がカードに選ばれなかったから!死の外側から世界のためにあの子に殺させ殺そうとして居るんでしょ!?」

 「ルクリースさん……これを見てください」

 

 神子が右手の白い手袋をとる。そこから現われたのは透き通るような白い肌。そして、それに不釣り合いな血のように赤い色。

 彼は怪我でもしているのか。雪の上に椿の花でも落としたのか。いいや、あの形は……

 

 「水の、聖杯…」

 

 彼の左手、その甲にはハートの紋章。

 見覚えのあるそれに私は身構える。船で襲ってきたあれも、同じ紋章をつけていた。

 疑いが確信に変わった瞬間。返された手に記されていたのはJ……ジャックの文字だ。

 

 「貴方が、ハートの……ジャック?」

 「ええ。王と女王のために解雇される、魂のリストラ予備軍ジャックですよ」

 

 言葉は冗談めかしてはいるが……顔にはそんな余裕は見られない。

 それは私が殺せる数。

 それを私に見せると言うことは、彼なりの……誠意の表れ。心臓を私の掌に預けるということ。

 

 「ルクリースさん。僕だってアルドールが大切です。だから僕は……最後まで彼の傍にはいられないんです」

 

 願いと夢を託すというのは間違っていなかった。

 唯私が見誤っていたのは、彼が傍観者だという思いこみ。

 彼は死の円の内側から、それでも世界を、アルドールを想っているのだ。

 

 「……だから、アルドールには強くなって貰わないと困るんです!」

 「……っ、どうして、赤の他人が……そこまであの子を想えるの?信じられるの!?」

 

 視界が揺らぐ。そのせいで、私は両膝をつき床に座り込む形になる。

 立ち上がる力もない。もう言い返せる言葉も見つからない。心の中ではずっと何故と言う言葉だけがリフレイン。

 人間ってそんなに強くない。

 血も繋がって無い癖に!"きょうだい"でも無い癖に!

 そんなこと、どうして出来るの?

 人間はそんなものじゃないわ。そんな強くない!美しくない!

 もっと汚れていて醜くて、みっともなくて情けなくて。憎くて憎くて……

 

 それまで沈黙を守っていた小さな少女。彼女は泣き崩れる私の傍へ寄る。

 

 「ルクリース……」

 

 私の頭をそっと抱きしめる温かく、小さな子供の手。

 でも、違う。私が無くした手は、もっともっと頼りなくて小さくて……泣き虫で…………

 だから私が守ってあげなきゃ駄目で。私が、私が……

 

 「私の兄は……私達のアルドールは大丈夫だ。家族の私達が、あいつを信じてやらんでどうする?」

 

 彼女はあの子とは血が繋がっていない。それなのにあの子のきょうだいでいられる。あの子を奪い、傷つけた憎いあの女の娘。殺してやろうと思ったことも一度や二度では無い。ああ、全然似ていない。あの子の手とは似てもにつかないのに。

 あの子は気付かないのに、この子は気付いた。気付いてくれた。それは……私が誰かに求めていたものを許してくれる言葉。

 私が繋がれていた檻を、この子供は……こんなに小さな掌で壊してくれたって言うの?

 

 「フローリプ様……」

 「様などいらん。無礼者」

 「ふふ……それ、矛盾してますよ、……っ」

 

 涙なんてとっくの昔に涸れたものだと思っていた。

 もしくは蛇口。都合の良いときに好きなだけ流せる嘘の水。それを止める術を、今は思い出せない。

 あの子だけだった。あの子が大事だと言うから守っていただけだった。

 でも、そうじゃなくてもいいんだと……私は初めて誰かに教えられたのだ。

 

 

 *

 

 

 

 「よぉ……ようやくお目覚めかい?良いところで起きたな」

 

 瞼を開けて最初に感じたのは痛みだ。

 そういえば、最後に机で殴られたのだったか。痛いはずだ。

 それだけじゃない。身体の下には大きさの違う小石が何個も転がっていて、快適な寝床とは言えない。

 

 「……っ」

 

 身体を動かしてみてわかったが、両手は縛られている。足もだ。しかし全身を縛られたわけではない。

 転がったりウサギ跳びくらいなら出来るとは思う。……逃げ切れるとは思えない。

 もっとも……それも立ち上がれなくては意味がない。

 

 「これからとっておきの面白いもんが見れるぜ?」

 

 起き上がりこぼし以下の抵抗を続けていた俺に、男は笑い、身体を起こすことを手伝ってくれたが、その真意は俺の脱走の手助けではなく、これから始まる見せ物を俺に見せるためだった。

 

 起き上がって開けた視界のおかげで俺は周りの様子を知ることが出来た。俺が宿にいた頃よりずっと火の手は激しくなっている。粗方奪うモノは奪ったのだろう。奴らは本格的に燃やし始めたようだ。

 逆に大人しくなったのは人々の悲鳴。略奪者達も街を徘徊していない。

 俺の周りには、俺を含めた戦利品が並んでいる。ここは街の広場のあたりだろう。

 右には食料と家畜と値段の付けられそうなモノ。左には一仕事を終えた男達が腰を下ろし、これから始まるものを観察しようとしている。

 

 広場の向かい側。そこにいるのは人間。まだ、二十人はいる。しかしその殆どが年若い娘ばかり。

 逃げられないように縛られているし、監視もいる。監視の男は何時でも斬れるように抜刀している。娘達が自力で逃げることは難しい。

 昼間はもっと多くの人がいた。彼女等はどうしたというのか。老人達は逃げ遅れたのかもしれない。それでも、まだ元気に働ける女性達も沢山いた。

 けれど、その中に三人が居ないことに安堵した自分がいる。逃げ切れたのか。

 イグニスは不可視数術が使える。彼が一緒なら、きっと大丈夫。そう、息を吐いた時だ。

 

 「……!?」

 

 ちょっと待て。積み重なっている、あれは何だ?

 略奪品とは別に、小さな山がある。奇妙な形の山だ。ちょうど……俺たちと娘達の間。

 山のいろんな場所から骨張った手が覗いてる。そうだ、手だ。あれは、折り重なった死体の山だ。

 生き残った娘達は、それを見て泣いている。

 

(まさか、娘達以外は全て殺されたのか……!?)

 

 死体の中に、俺は見慣れた服が手が覗いていないか目をこらす。

 駄目だ、わからない。あいつらみんな金髪だから。わからない。

 いや……信じよう。イグニスは最高の数術使いだ。ルクリースは強い。フローリプもカードだ。カードの幸運値は普通の人とは比べものにならないってイグニスが言っていたじゃないか。カードはカードにしか殺せない。

 この男達がカードだとは思えない。カードが選ぶ殆どは子供。こいつらは子供とは言えない。

 

 みんなは大丈夫。それなら俺は、俺に出来ることをしなければ。

 俺に出来ること。違う。俺がすべきこと。

 ここから今生きている二十人を連れて逃げること。王になる俺が、国民を見捨てていいとは思えない。

 

 ああ、それでもまだ全部ではなかった。

 村の奥から出てきた男達が、荷物を抱えた女達を連れてくる。

 なるほど。娘達を人質にとって、親たちから街の宝を全て差し出すように脅しているのか。ならば……あの死体は?それに従わなかったから?満足しなかったから?

 女達が持っているものは、金細工に宝石の原石に……それなりの価値があるものではあるがそれでも程度が知れている。

 しかし、彼女たちにとっては……大切なものには違いない。

 彼女たちは懇願している。これを差し上げますから、どうか娘だけはお助け下さい。きっとそう言っているのだろう。

 その内の娘が一人立ち上がらせられて、荷物を抱えた女も一人も進ませられる。

 二人が連れて行かれたのはあの山の前。……二人には、見覚えがあった。

 

 ジャネットと彼女の母親。宿屋で世話になった人々だ。

 母親は地に額を擦りつけ、嘆願の言葉を叫ぶ。

 

 「どうか、どうか私の命はお助け下さい!金も麦も娘も!すべて差し上げますから!どうかっ」

 「私、何でもしますから!お願い!殺さないでっ!こんな婆より私の方が絶対お役に立ちますから!」

 

(え……?)

 

 その言葉に、力が抜ける。

 この二人は、親子だろう?何を、言っているのか、わからない。血の繋がった、母と娘が……どうして互いの命を売ろうとするんだ。

 娘達が泣いていたのは、肉親を失った悲しみの涙なのではなかった。

 その裏切りに流す涙。同情を引くための演出の涙。剣を鈍らせるための涙。

 美しい透明な雫を流すのは、それを見て笑う男達の瞳のような濁った瞳。彼女たちも、狂気に感化されているのだ。

 母と娘は、互いに互いの命を自分の代わりに奪ってくれるよう、敵に懇願しているのだった。

 

 俺は、このカーネフェルの土地に……親に捨てられた。売られた。

 もしかしたら……こんな風に、命乞いの道具にされて?

 わからない。思い出せない。目を閉じて……開けたら俺はもう、船の中にいたんだ。

 頭がガンガンして、酷くボーッとして……わけがわからなくて。

 頭が痛い。昔のことを無理に思い出そうとしたせいで、その頭痛は今の俺にも乗り移って来てしまう。

 苦しい。上手く息が出来なくて。ゆっくり空気を吸い込むと、燃え上がる火の気まで入り込んできてしまい、もっと苦しくなって俺は咳き込みそうになる。

 

 余計なことを考えないように、思い出さないように……この苦しみから逃れるように俺は視線を彷徨わせる。何でも良かった。あの親子さえ目に入らなければ。

 目が留まったのは死体の山。そこには何かが居た。生きている。だってそれは言葉を発した。

 

 「う~ん、どうしよっかなぁ……」

 

 山の上に座り、母と娘に嘆願を受けているのは、少年だ。俺とそんなに年は変わらないだろう。背丈も似たようなモノだ。

 ただ、全体的に線が細い。一瞬女の子かと思ったくらいだが、タロック人の女の子は稀少。そんな者を戦場に連れてくる者はいないだろうと思い直す。

 白い生地に花が散らされた異国の服。そこから覗くのは、剣どころか筆も持ったこともないのではないか。そう思わせるような白い指先。長く整えられ飾られた爪。赤く染められたそれは、場所が場所のせいか俺に不気味な印象を与える。

 

 「とりあえず、異国の言葉は耳障り」

 

 命乞いをしたいのならこちらの言葉で話すのが礼儀であろうと彼は哄笑。

 彼はタロック人。彼女達はカーネフェル人。

 つい忘れてしまっていた。俺にはそのどちらの言葉も理解できるが、彼等にはその片方ずつしか理解できてはいないのだ。

 その全ての顛末を理解出来るのは俺だけではない。セネトレアの人間達も、カーネフェル人達のその無知を嘲笑う。

 

 セネトレアは貿易の国。だからセネトレアの人間はタロック、カーネフェルの言語を共に理解している。ジャネットと男が交わした言葉はカーネフェル語。だから成立していた。けれど今、彼等はタロック語で話をしている。

 だから彼女たちはわからない。その答えの何がいけなかったのか。わからない女達は頭をひねる。助かるために、彼が気に入るような答えを口にするために。それが見当違いの方向へ行ったり来たり。わざとらしいほど娘思い母思いの言葉を言ってみたり。それが駄目なら罵りあったり。

 

 「この椅子も冷えてきたし、そろそろ換えようか」

 

 そんな理由でその足下の人々を、殺していいはずがない。

 少年の口から言い渡された死刑判決。

 俺はそれに異議を申し立てる。俺にはそれを伝える言葉があったから。

 

 「卑怯者!どっちにしろ、殺すつもりなんだろ?」

 

 カーネフェル人なんてみんな馬鹿だと思っていた彼等。

 俺の発したタロック語の暴言。それに男達は振り返る。少年の耳にもそれは届いたようだった。

 

 「面白そうなネズミが一匹混ざってた」

 

 くすくすと小気味よい笑いで彼は死体の山から飛び降りる。

 俺に近寄り、ぐいと顔を近づけ俺の顔を覗き込む。

 あんまり綺麗な黒髪だから、純血……タロック人だと俺は思いこんでいた。

 

 「……混、血?」

 

 少年の瞳は赤でも黒でもない。水の様な透明な硝子に僅かに赤で染色したような……薄い、紅水晶の瞳。

 イグニス達は混血でも金髪。そういう風に、片親の髪の色を継ぐこともある。それならば、黒髪の混血がいても……おかしくはないのだ。

 俺は、混血のために……王になることを引き受けたはず。

 だから混血は、味方だと思っていた。それなのにどうして、混血なのにタロックに味方している子供がいるんだ?

 

 「ふぅん……綺麗な目だ、透明で曇りが無く……それ故盲目に染まりやすい、綺麗な瞳だ」

 

 透明なのは彼の方だ。

 それでも彼がそれを口にすると言うことは、そのままの意味ではないのだろうか。

 

 「染めてみたくなる、それが何色に濁るのか」

 

 彼は俺の横へと視線をスライド。そこには鞘に治められたトリオンフィ。彼の興味は瞬時に俺からそちらに移ったようだ。

 鞘から抜いてそれをクルクル振り回す。剣舞でも舞うようなその姿に、俺の剣は馴染んで見えた。

 

 「コレ、キミの剣?へぇ……綺麗だね、真っ新だ。いい素材を使ってる……でも実践向きとは言えないねぇ。間違えて飾られてた奴でも持ってきたの?こんなんじゃ、何人かしか切れないよ」

 

 それでも、何人かは切れる。彼はそう微笑んだ。

 

 「剣は飾るだけじゃなくてちゃんと使ってあげないと。彼等も泣いてるよ。存在理由を奪われて。可哀想なこの子にボクが理由をあげよう!この子は綺麗な剣だから、ボクも簡単に愛せるよ」

 

 折れそうに細い指は、しっかりとトリオンフィを掴む。俺なんかより手慣れているようにも見えた。

 剣の腕じゃない、人の命を奪うことにまるで躊躇いがないから。そう見えたのだ。

 

 「や、止めろっ!返せっ!俺の、俺のトリオンフィを汚すなっ!」

 「ノン、聞こえない聞こえないー」

 

 空いた方の手で耳を押さえ、俺の叫びを聞こえないアピール。

 彼は手下に親子の瞳を布で覆わせ、どちらにしようかな……と声に上げながら二人の周りをクルクル回る。

 彼がピタリと足を止めたのは、獲物の順番決まったからではない。その背に大声を浴びせられたからだった。

 

 「お前達、何を馬鹿なことをしている!これだから学のない破落戸は困るんだ。お前達は金勘定が出来ないからそういう無駄なことをする。いいか?塵も積もればだ。こんな女達でも集めれば金になる!無駄なことはするな!」

 

 大声を上げた男の服は、他の男達のそれより遙かに上質。

 おそらく彼が略奪船の頭だ。略奪を部下に任せ、船で帰りを待っていたらしいセネトレアの商人頭。

 帰りの遅い彼等を見に来た彼が目にしたものは、値段がつくはずだった商品達の残骸。

 彼の怒りは、無能な部下だけではなくこの悪質な同行者まで向けられた。

 

 「大体お前らタロック軍を乗せてきてやったのは、私の邪魔をしないと言ったから善意でのせてやったのだ!それを、商品に傷をつけるなんて!」

 「よくいいますよ。タロック軍の護衛なしじゃ怖くて大陸まで渡れない癖に」

 

 少年は口を歪めて、男の建前に穴を開けていく。

 怒りに震える男が何かを言う前に、少年はとどめの台詞を彼へと降らす。

 

 「それにお言葉ですけど、俺たちだって金勘定くらい出来ますよ、ねぇみんな?」

 

 少年の言葉に男達は頷く。

 商人が雇ったはずの手下達は、命令を破り好き勝手。彼ではなく少年に従っている。

 金を出して雇ったのに、契約通りに働かない。商人も苛立つのは当然だろう。

 

 「口答えする暇があれば仕事をしろ!これ以上何かしてみろ!後払いの金は……」

 「これで、俺たちの分け前が上がるってねぇ!!」

 

 馬鹿な……そう呟き崩れ落ちる男。雇ったはずの手下に斬りつけられ、彼は絶命していた。

 

 「ご機嫌取りしてたのは船の中だけさ、カーネフェルに着けばこっちのもんだ。何でこんな宝の山を目にして決められた取り分だけで満足できる?そうだ金だ!金さえあれば何でも出来る!金さえあれば、俺達だって!」

 「こんな街一つで足りるかよなぁ!まだまだ焼き足りない!奪い足りないっ!ああ、金が足りないぜ!」

 「女なんてたいした金にならねーし、連れ帰るまでの食料の方が嵩むって!ヤるだけヤって殺しちまおう!」

 

 主を殺したことで、男達は最後の理性も捨て去った。溢れ出した狂気の炎は、その命の炎に重なって……生ある限り他人に悪意を与え続けるだろう。その狂気に女達の悲鳴が上がる。

 その悪意の風景を見て、少年は笑う。自分は傍観者であり舞台の下からそれを観察しているんだと、彼の微笑みは言っていた。

 

 「ふふふ、ははは……キミも見てるかい?なんて美しい景色なんだろう」

 「……どこがっ!」

 

 俺の否定の言葉は、彼に舞台解説を求めたものだと解釈された。彼は評論家にでもなったつもりで俺に流れるような言葉使いで長ったらしい講釈をはじめる。

 

 「彼等は彼女たちを殺すつもりだ。この中で一人でも生き延びれば奇跡。それだけで物語るに値する悲劇。混血がどこから来るか知っている?混血はそんなささやかな悲劇の中で生まれるんだ!ああ、可哀想に」

 「父親の顔も知らない!母にも愛されず、迫害されて生きる!片割れを失い、復讐に走るもいい!涙するもいい!飼い慣らされても悪くない。それは何て美しい物語。そうは思わない?」

 「愛のない場所から生まれた者が、何かを愛することが出来るのか。それはゼロが他の数値に変わることが出来るのか出来ないのか。そういう問題。答えは簡単、あり得ない。ゼロはずっとゼロのまま。滅びの美学、そういう悲劇も美しい」

 「けれど奇跡も悪くない。数式がゼロを超えたとき、それを作り出したボクは神になる。愛無き愛を振りまくだけで、永遠を作り出せる。永遠はとても美しいものだ。人は遅かれ早かれいずれ死ぬ。それでも永遠は残るんだ。悲しみの記憶。永遠に癒えない傷。美しいって思わない?」

 

 要するにこの街は、この国はボクの作品。ボクのキャンパスでありオブジェとなるんだ。……そう語るは無邪気な少年の笑顔。

 真っ白なスケッチブックを手にした子供は、そこに描ける可能性に心を躍らせていた。

 ただ、彼の言う美しいという色や風景は……俺の価値観とは重ならなかった。

 彼は世界を愛しているわけではない。彼の言う美しさを生み出す原因となった彼自身。それを愛したいが為に、人をこうして踊らせる。

 お前は何様なんだ。解説の間、俺は何度もそういう類の罵りの言葉を彼に吐き捨てていた。

 

 「そうか、理解してもらえないか。悲しいなぁ」

 

 言いたいところまで言って満足したんだろう。講釈を止め、顔に手を当てわざとらしい泣き真似をする少年。

 すぐに手を外し、彼は俺の顔を覗き込む。その、背筋が震える満面の笑み。

 彼の信じている当たり前。俺が絶対理解できないその当たり前。

 その当たり前の方法で、彼は俺に歩み寄る。

 

 「君にも傷をあげようか?」

 

 それが、相互理解。それが愛というものなんだと笑う彼。

 さっき彼がトリオンフィで彼女たちを斬ろうとした時。俺が取り乱していたことをしっかり覚えていた彼は、それが俺への贈り物になると思ったようだ。彼はジャネット達の方を見る。

 

 「か、返せ!止めろっ……姉さんの、……俺の誇りを汚すな!」

 

 この剣は、姉さんの夢であり誇りだ。

 継げないはずの家を継いだ証。それを俺に託したのは……俺への優しさだ。

 俺が憎む家名は、姉さんの誇りの家名。

 俺の名前が変わっても、お前は弟だと……姉さんはそれを伝えるためにこれを託した。本当の弟でもない俺なんかを、守ってくれるようにと。

 そしてその誇る家名を持つ者が、カーネフェルの王位に就くという誉れ。

 カーネフェルを守る、立派な王になって欲しいという願いの証。

 カーネフェル人を斬るために、姉さんはコレを俺に預けたんじゃない。

 

 「……斬るなら、俺を斬ればいい」

 

 俺の口から出た言葉。少年が面食らったような顔で振り向いた。

 半分は時間稼ぎの言葉だ。俺が注意を引きつける。その隙に彼女たちを一人でも多く逃がせるように。残りのもう半分は、イグニスと交わした約束だった。

 少年は俺の選択を、酷く気に入ったようだった。自分に酔いしれるように彼は頷く。

 

 「……自己犠牲か、それもまた美しい愛の形ではある」

 「そんなんじゃない。俺の、義務と権利だ」

 

 王になることを約束してから。王とは何か、俺はそれをずっと尋ねられていた。

 言葉で、態度で、眼差しで。彼はずっと俺に問い掛けていた。

 これは、その俺なりの答え。出来れば、彼の前で見せたかった。言えたら良かった。

 俺は声を振り絞る。聞こえる範囲を広げるために。

 

 「金?土地?資源?……下らない下らない下らないっ!そんなものが欲しいなら好きなだけ持って行け!俺が認める!許してやるよ!だが、命は奪うな!俺の許しもなく、一人だって俺から奪うな!」

 

 俺の決意に少年は咳き込むほどに笑いだす。

 それが普通の反応だろう。何事かと集まってきた男達の顔にも次第に笑いが浮かび上がった。人々は何をガキが馬鹿なことを言っているんだろうと爆笑している。

 

 「ははははは!何様って、キミの方が何様って感じだ」

 「俺は……カーネフェル王だ!俺が居る限り、この国の命は俺のモノだ!勝手に奪うことは許さないっ!」

 

 俺の言葉は彼等の耳には虚勢、はったりに聞こえただろう。

 それでも彼等は俺の言葉に、真実を聞く。俺がそれを真実だと信じ切ってそう語るから。

 

 今はまだ嘘。でも俺がカーネフェル王。それを信じ切っている俺の言葉は、彼らにある種の恐怖を与える。

 自分たちより、俺の方が狂ってる。こいつはおかしい。関わりたくない。だって、怖い。

 俺が一瞥するだけで、怯えの炎が彼等に宿る。

 

 「命が欲しいか?くれてやる!俺を殺せ!そうすれば王はお前だ!今度は自分が殺されることに怯えながら生きるんだ!殺されるのが怖いか?それなら殺すな!奪うな!死を恐れないというのなら、俺を殺してみろ。トリオンフィの名において、お前に一時の名声与えてやるよ。出来ないのか、木偶の坊共!こんなガキが怖いのか?俺は剣も死神の鎌も持っていない、縛られた無力なガキだ!そんな子供が怖いのか?逃げも隠れもしない。俺がエースだ!俺が王だ!お前達の、敵だ!」

 

 俺の声が届いた者は、皆俺を見ていた。時が止まったようにじっと俺だけを見ている。

 時が動き出せば、我に返るだろう。そして逆上して俺を殺しに来る。

 

 一人だけ、時が止まらなかった人間が居た。あるいは誰よりも早く、時を取り戻したか。あの、紅水晶の少年。

 彼だけは、俺の言葉に食い付く場所が違かった。

 

 「エース……だって!?」

 

 彼はトリオンフィで俺の手の縄と手袋をを乱暴に切り、俺の右手を掴み上げる。そして彼は、そこに記されていた紋章と刻印に絶句した。

 

 「……ば、馬鹿な……こんな子供がエースだっていうのか!?」

 

 彼が零した呟き。それは彼に現実を教え、受け入れさせる行為に変わる。

 いや、受け入れられなかったのかも知れない。それを否定するかのように彼は、手にしたままの剣を俺の首をめがけて振り下ろす。俺はまだ立ち上がってさえ居ない。今から避けようとしても間に合わないことを俺は理解していた。

 動くことも出来ない時間の中で、俺の脳は考え始める。それがやけにゆっくりに感じられたが、本当は凄い早さで回転していたのだろう。そうでなければ彼が俺を殺すまでそれだけのことを結論づけることも出来なかったはず。

 

 彼はカードとエースの存在を知っていた。カードはカードにしか殺せない。それなのに彼は今俺を目がけて剣を振り下ろしている。

 その点が結びつく答え。彼もカードだ。死の直前考えることにしては、どうでもいいような下らない思考。

 俺は全てのカードに殺されるカード。だからこの死は絶対に避けられない。それを確信した俺はそっと目を閉じる。自分の首が胴体と切り離される瞬間を宙から眺める勇気が俺には無かったのだ。

 やがて触れた冷たさ。耳劈く悲鳴。自分の情けないその声は、閉じたはずの俺の瞼を開かせる程の音量。

 そして俺は宙から俺の胴体を見る……はずだったのに。

 俺が真っ先にしたことと言えばもう一度悲鳴を上げること。

 それは肉の焦げるような熱さから。でも、おかしい。俺の首が切り離されているのなら、俺はもう悲鳴どころか声も言葉も発せないのに。

 

 「……っ、ぐ……っ」

 

 揺らぐ視界。そこは青白い光に包まれていた。俺の首に触れたトリオンフィ。それが青く燃えている。そしてそれは剣を手にした少年の元まで遡り、彼の手を燃やしている。その火は消えずに彼の身体を飲み込んでいく。

 少年は剣を離そうとしているように見えるが、炎の方が彼の手に絡みつき、それを許さない。

 

(……そうか)

 

 あれは、彼の悲鳴だったのか。

 わけのわからないまま、俺はそれだけを理解する。

 

 「……やれ、ミストラル!」

 

 その言葉に起こされる数式。空気中から生み出される突風。それが、彼の腕ごと炎を切り離す。

 解放されたトリオンフィは俺のすぐ傍らに突き刺さる。大地に刺さったそれは、俺に掴めと言っているよう。

 

("炎は俺を傷つけない")

 

 首筋に手をやれば、傷一つ無い。さっき感じた熱さは何だったのか。それもわからない。

 ああそうだ。これを手にしなければ。片腕を失ったとはいえ、相手は数術使いでありカード。俺が勝てる相手ではない。

 だからこそ、力が欲しい。そしてその力は、トリオンフィ。

 切り落とされた腕の燃える臭いが鼻につく。一歩間違えれば、俺もああなる。消し炭になる。今度こそ、死んでしまう。

 

 "お前に勝利を"

 

 静かに佇む剣が、俺にそう語りかける。

 トリオンフィは、俺の力だ。今だって、俺を守ってくれた。

 触れることを恐れるな。信じろ、イグニスを……姉さんを。

 

 両手で柄に触れる。そうすることで身体の熱が吸い取られていくように指先が冷えていく。

 地面から巻き起こる、髪を揺らす熱風。青に染まる視界。

 引き抜いた剣。その刃が触れる場所が青へと変わる。空気を燃やす。さっきとは違う。身体が冷えるせいか、触れていても熱くない。

 炎は柄まで逆流せずに、闇夜を切り裂く光に変わる。指先の冷えた血が脳まで回る頃、炎によって刀身は二倍の長さまで変えられていた。

 少年の腕を燃やした炎は獲物を滅しても姿を消さずに広がり続ける。それでも熱くはない。炎は俺を傷つけない。

 

 

 「う、うぁあああああああああああ!こ、こっちに来るな!この、このっ!」

 

 青い炎はカーネフェルの女を避け、男達だけを燃やしていく。その炎は払っても払っても消えるどころか勢いを増していくだけ。

 そんな得体の知れない炎に囲まれ平然としている俺は、彼等にとって恐怖の権現。

 

 「……あ、悪魔っ!」

 

 侵略者達の間から、悲鳴が上がった。それが自分のことを指しているのだと気付くまで暫くかかった。混血に慣れているセネトレア人から

 見ても、俺のコレが数術とは認識できない力。

 

 「触媒化、したからって純血がっ…こんな力をっ…………うぅっ!僕の未来が…こんな子供にっ!」

 

 唯一数術を理解している混血の少年は、苦しみの中炎と俺を睨み続けていたが、悔しげに一度呻いた後とうとう姿を消した。頭を失った男達は統率を無くし、蜘蛛の子のように散らばっていく。

 その最後の一人を見送った後、気力の糸が途切れた俺は膝をつく。体中の体温を炎に変えてしまったかのような、寒気に襲われる。トリオンフィから手を離すとそれも幾らかマシになるが、寒気から誘発される眠気を振り払う力は持たない。

 眠りに落ちるのは今日だけで何回目だろう、だなんて……また下らないことを考えている俺がいる。多分俺はどうでもいいことを考えながら死ぬんだろうな、こういう風に。

 

(……あれ?)

 

 倒れ込んだ地面が、予想より柔らかい。

 

 「アルドールっ……」

 「ルク、リース……?」

 

 俺が倒れる寸前で抱き留めてくれた温かな腕。

 こんな風に誰かに抱きしめられたのは初めてだった。その温かさに、涙腺が緩んでいくのが止められない。

 たぶん、伝染したんだ。首筋に埋められた彼女の顔から俺の肩を濡らしている温かな雫のせいだ。

 それを少し後ろで見守っているフローリプ。いつもなら使用人が何だとか言ってきそうなものだが、今日は何故か優しげな笑みを湛えていた。

 その隣にいるのはイグニス。俺が彼を認識したことに気付いた彼は、一歩進みしゃがんで俺の片手を握る。

 そこからじわりと広がってくる温かさは、ルクリースのそれとはまた違う。触れた場所の内側から温かさを送り込んでくるような……そんな感覚。

 

 「……お疲れ様」

 「…………イグニス?」

 「じっとしてて……」

 

 体内の数式異常を書換えてくれているのだろう。ぼんやりしていた頭が次第にはっきりしてくる。

 

 「立派な数式書換えだった。君にも数値で見せてあげたいくらい……」

 「見てた、のか?」

 

 そう言えば彼には不可視数術があった。それで男達の目を逃れたのかと聞けば、ルクリースが笑う。イグニスの数術で安全な場所まで送られたのに、彼だけ俺の所に戻るのが許せずみんなでついて来たらしい。

 転送数術で二度も全員運ぶのはイグニスの体力的に持たない。不可視数術を全員にかけ、徒歩で戻ってくることになったのだとか。

 確かに見ればイグニスも顔色が優れていない。今日は何度も数術を使ったからだろう。

 今も彼は俺の回復をしてくれている。それを思い出し手を振り払おうとするが、イグニスは離さない。

 

 「ずっと見てた。君は立派な王だよアルドール……」

 

 胸を打つ言葉に、俺は抗う気力を失う。

 そして思い出すのは宿屋でのこと。うっかり口にした俺は自ら墓穴を掘る。

 

 「ぜ、全部?……もしかして宿でジャネットに張り倒されたのも……?」

 「ああ、ごめん。そこは見えなかった。じゃあ減点10点」

 「なんだよ、それ……」

 

 笑い合う俺たちに、ルクリースは涙を拭って微笑んだ。イグニスへの敵意も疑念もすべて瞳から流してしまったような、暖かな瞳だった。

 

 


 

 


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