7:Oculi plus vident quam oculus.
「精神の病気だよ。月に一度目を覚ますか覚まさないか。彼女は眠り病に冒されている」
数術を自らに作用させるという荒技のせいでフローリプは高熱を出してしまった。数術使いがその数値を彼女の本来のものに安定させてくれたおかげで、目はまだ覚まさないが顔色はいつもの彼女のものに戻りつつある。人が集まれる食堂まで足を運んだ俺たちは、先ほどの事についてイグニスの話を聞いていた。
ギメルは奴隷生活のせいで、精神が不安定になっているのだという。その傷付いた精神を守るために彼女は眠りを選んだ。前に起きたのは二週間前、それからずっと深い眠りは今も続いているのだそうだ。
「僕は確認した。昨日も今朝も……ギメルは眠り続けていた」
「じゃあ、あれは何だったんですか、神子様……」
昨日俺が会ったギメルは、さっき俺たちの前に現れたのは……誰だったのか。
「僕とギメルは双子だ。生身の僕が数術の殆どを持っているから、生身の彼女の力は殆ど無いに等しい」
それでも……イグニスはそう付け加える。
「あれが意識だけの精神体なら……」
「眠りという限定されたの状況下でのみ、ギメルはイグニスと同等以上の数術を使うことが出来る。そういうことか?」
「……わからない。唯、心当たりは一つだけある」
その心当たりと言う言葉に、俺も思い当たる節があった。
「イグニス…………ギメルの手にも、カードはあったのか?」
気まずそうにイグニスは俯く。それは消極的な、肯定だった。
つまりギメルはフローリプと同じで、カードのせいでそのような力に目覚めた。そういう可能性もあるということか。
「話したら、君はカーネフェルに行かないと思った。だから、言えなかったんだ。勿論優秀な部下は傍に付けた。異変がないという連絡だって届いている。眠りという副作用はあっても、彼女は教会側の、大事な切り札。コートカードなんだ」
月に一度だとしても……その力は強大。カードを捕らえるだけ捕らえておいて、目覚めた彼女に手を下させればいい。
そんな彼女には何十もの警備が敷かれているという。
おかしいと思ったんだと彼は言う。
「君は彼女に会ったと言っていたけれど、昨日も今日も彼女への許された訪問客はゼロだったから」
連絡とは、数術を用いた意志通信のようなもの。
その連絡でシャトランジア側に調べて貰ったところギメルは出かけるはずもなく、一日中眠りについていたという。
そして、派遣された兵士が見に行ったところ……トリオンフィ家の人々が惨殺されたことは事実だと教えられた。
その奇妙な話は、何十といた使用人達……その誰一人として、彼等が殺されたことに気付かなかったという事実。
目撃者はゼロ。
だれが、いつ、どうやって、どこから?その全てに答えれる人間が一人もいない。
消された目撃者もゼロ。
殺されたのはトリオンフィの血を引く三人だけ。
「それじゃああの子は……あんなことをしておいて、何も知らずに、眠っているとでも言うんですか!?」
寝ている間に人を殺しました。
普通に考えて、それはあり得ないことだ。
本人がそう言ったところで、そういう夢を見たんだろう。そう思われるのがオチ。
証拠がない。前例がない。だから、そんなことは現実にはあり得ない。
だから誰も信じない。いくら彼女が自分が犯人なのだと語っても。
「そういうことになります。身内贔屓で済まないとは思いますが、最悪あれは、ギメルじゃない可能性さえある……」
数術は幻覚さえ起こせる。
その言葉に俺は、自分が彼女へ語った言葉を思い出す。
あれは、ギメルじゃない?その可能性に俺は泣きそうになる、激しい安堵に襲われながら。
そうだ、ギメルは……あんな子ではない。俺が信じてあげないでどうするんだ。
寝ている間に勝手に殺人犯に仕立て上げられて……そして裁かれるのか?証拠もないのに?
酷い話だ。それは、魔女狩りじゃないか。
「もしどこかでアルドールがAであることが漏れたのなら、そういうプレッシャーをかけてくる者もいるかもしれません」
落ち着いたイグニスの声は、冷静に現状を把握しようと懸命だ。ルクリースも取り乱した俺の代わりに頭を働かせて居てくれる。
俺だけ何もしないというのはどうだろう。俺もない頭で考えを巡らせてみる。
プレッシャー。俺にそんなものをかけて得する者がいるのか?
確かにギメルは、俺の弱点だ。それを付けば、俺は揺らぐ。簡単に。ギメルを疑わなければならないこと。それは既に大きなプレッシャー。彼女を疑うことは、世界を疑うこと。そんな世界の何を信じられるというのか。
「もしそうならば……不和が目的、ということですか?」
「シャトランジアにも派閥はあります。国王派からすれば、別の王を立てたいはず。王家の者をカーネフェルの王座に就かせれば、世界の半分を手に入れたことになる。そうなれば僕ら教会派など、敵ではありません」
人目に付かないように出発したのも、そういう意味があったからか。今更俺は彼の気遣いに気付く。
俺はイグニスに選ばれた時点で、国王派から命を狙われることを受け入れていたのだ。
「しかし神子様、国王派は数術否定派。そのような者達が数術使いを手先にするはずありません!」
ルクリースの言い分はもっとも。
俺をどうして堂々と殺しに来ない?数術で作った精神体なんかで、回り諄く殺しに来た?
そして俺は一つの結論に辿り着く。
いつでも誰にでも殺せる俺。誰より俺を殺したい奴。そして、俺を恐れている者。
「……道化師?」
それは小さな呟きだった。それが思ったより大きく聞こえたのは、その瞬間辺りが静まりかえったからだろう。
イグニスもルクリースも、そんな馬鹿なとか何かを言いかけ、否定する要素が見つからないことに気付き、一気に顔を青ざめる。
「でも、まさか。こんなに早く……バレるなんて。それに、Aはアルドールだけじゃない。他に三人いる。それも、その三人は……考えなくともわかるような相手なのに」
「神子様、逆です。わかりやすすぎて、守りが堅すぎるんです。アルドールの護衛は、こんなに少ない。王都に辿り着く前に狩れれば狩るに越したことはないですよ」
「けれど…………アルドールやギメルのカードまで言い当てるなんて……ここまで見える数術使いは、世界にそんなにいません。それが道化師なのだとしたら……大分的は絞られました」
「お言葉ですが神子様。無礼を承知で言わせていただきます。神子様の周りの方々は……信頼出来るのですか?」
ルクリースの棘を含んだ言葉。
さっきのギメルが本物でも偽物でも……教会内部に、イグニスの部下の中に道化師が居るのでは。そう言っている。
ルクリースの瞳は冷たい。
俺とルクリース以外、ここにいるのは全てイグニスの手下。
「昨日アルドールが妹君に会ったというのは教会の中。今日のように場所を飛んだ可能性も確かにあります。それでも教会内部が白だと証明するにはいささか足らないのでは?そう、それに貴方は神子様。聖教会の神子は、世界でもっとも力ある数術使いがなるものだと聞きました。神子様、先ほどのことは貴方が私達に見せたものではないのですか?理論上数術には不可能はない、貴方が口になされた言葉です」
数術は、証拠がない。少なくとも俺たち才能無き者の目には。
フローリプは倒れた。それに囓っているとはいえ素人同然。数術の証拠なんて見つけられるかどうか。
彼女を除いて数術の証明が出来る数術使いはイグニス含めて6人。その全員がイグニスの、部下。彼等のアリバイは俺たちはまったく知らないことだ。
「はっきり言いましょうか。私は神子様、貴方も信用できません!」
「止めてくれ、ルクリース」
「いいえ止めません。私は貴方をお守りすると決めました」
もし俺に危害を加えるのなら、ルクリースは6人すべてを殺すことも厭わない。毅然としたその態度……彼女は覚悟を纏った顔を上げる。
柄を握る白い手は、何時でも敵を切り裂ける。俺たちにそう宣言していた。
この場で彼女の敵にカウントされていないのは俺一人。だから彼女を諭せるのも、俺だけだった。
「ルクリース、それこそが道化師の思う壺だ」
上手く俺たちを殺し合わせれば、Aどころか生き残る可能性の高いコートカードを排除できる。
あの幻覚は、俺たちの内誰も殺さずに去ったように見えるが、それは違う。より俺が苦しむように、俺たちを俺たちの手で殺し合わせるつもりなのだ。
そんな悪魔の甘言に乗せられたくない。俺は必死に彼女を諭す。
「俺はそんな理由で、大切な友達を疑いたくない」
混血が混血だから。
数術使いが数術使いだから。そんな理由で迫害されてはいけないはずだ。
「確かに養父さんや養母さんは罪を犯したかもしれない。でもそれは法で裁かれるべきであって、こんな風に終らせた奴を、俺は許さない。罪のない姉さんまで傷つけたそいつを俺は許せない……それでも俺は、そんな理由でルクリースに人を殺して欲しくない」
それでは同じだ。俺が憎む相手と同じ罪を、彼女に背負って欲しくない。
「俺はルクリースが好きだ。でもイグニスを……この人達を殺すようなルクリース嫌いになる。そして、そう思うようになった自分がもっと嫌いになる。だから俺に、俺をこれ以上嫌わせないでくれ」
俺の言葉にルクリースの手が一瞬、震える。それでも彼女は柄に手をかけたまま、離さない。
彼女の手を解放するには、俺が彼女以上の決意と覚悟を彼女に見せる必要があった。俺は考える。俺に出来るそれとは何だ?
汗のにじむ掌。それを開いた先に刻まれた、俺の宿命。Aの文字、それが答えだ。
「俺が、殺すよ」
それは俺の存在理由となった。俺はそのために生かされ、必要とされている。
悲しいけれど、それが事実だ。
だから俺は、それを受け入れることで彼女に覚悟を伝えよう。
「道化師が誰でも構わない。Aは俺だ。俺が殺す。俺が殺さなきゃいけないんだ。そのために、俺はみんなに守られてるんだ。だからルクリースは道化師が誰かなんて疑う必要なんかない」
「いいえ、あります。アルドールが道化師を殺せても、道化師だってアルドールを殺せるんですから!」
噛み付くような彼女の言葉。そうだ、それもまた逃れよう無い事実。
「でも、それはイグニス達じゃない!」
「どうしてですか?証拠はありますか?証明できますか?」
「ああ、出来るよ」
頷く俺に氷の眼差しを注ぐルクリース。
その冷たさは、俺を守るためのもの。だからその冷たさにも、俺は微笑む。
「俺とルクリースは友達だ。そして俺はルクリースを殺さないし、ルクリースも俺を殺さない」
「ええ、それは認めます」
当然のことだと彼女は頷く。
それなら、コレに続く言葉だって当然のはずなんだ。
「俺とイグニスだって友達だ。だから俺はイグニスを殺さない」
「だから……神子様もアルドールを、殺さない…………と?」
俺は酷く当たり前のことを言ったつもりだった。
けれど彼女は俺の言葉に面食らい……気が抜けたのか、ルクリースは大きな呆れの溜息を吐く。そして俺の頭を軽く小突いて「馬鹿」と小さく微笑んだ。
「アルドール、一度セネトレアにでも修行に行きなさい。そんな甘い方程式、成り立たないことすぐわかりますから」
珍しく突き放すようなその言葉。
ぴしゃりと俺を叱る声は、それでもどこか不思議な甘さを感じさせる声だった。
そうだ、彼女は俺に甘い。例えあの言葉に納得をしてくれなくても……ああいえば彼女が引かざるを得ないこと、俺は知っていたのかもしれない。
「主の甘さに免じて、今日は剣を収めます。非礼も詫びます。それでも、私は貴方方を信頼したわけではありません。それをどうぞお忘れ無く」
そう言ってルクリースは柄から手を離し、部屋を出て行った。あの方向はフローリプの部屋。
誰もついていないことを心配し、様子を見に行ってくれたのだろう。
怒りを収めてくれた彼女に感謝しながら……そして俺のためにそこまで怒ってくれたことにも感謝して、その背中を俺は見送った。
ルクリースが消えた後、室内からやっと張りつめていた空気が和らいだ。年老いた数術使いの何人かは、腰を抜かしかけていた。それだけルクリースの視線にはプレッシャーがあったのだろう。
俺がここにいたら迷惑だろうと思い、廊下へ出る。何も残っていないとはいえ、あんな事があった部屋には戻りたくない。あの寝台で寝たら、きっと思い出してしまうから。暗い気分を振り払うために、俺はあの甲板へ登る。
いろいろあったせいで忘れていたが、夜風に吹かれながら身体の熱を思い出す。
こうやって昼間も寝転がっていたせいで日射病にになりかけたんだったな。けれど肌が焼けるように熱いのは、そのせいだけではないようだ。フローリプに触れた腕が今更ヒリヒリと痛む。火傷になってしまっていたらしい。
ぼーっとする。あまりの熱さにこのまま海に飛込んでしまおうか。そう思った時だ。額に触れる冷たい手。そこから広がる冷気が俺の身体に広がった。
「僕は医者じゃないから応急処置みたいなものだけど。数値を弄ったからこれで少しは楽になると思う」
記憶の中の彼より、いくらか優しげな声。俺へ向けられる棘が減ったように感じるからか。
「ギメルのしたことは、本当に悪いと思っている……僕がもっとしっかりしてれば」
「まだ、そうと決まったわけじゃない」
「でも、僕の部下かも知れない。それは僕の責任だ」
珍しく弱気なイグニス。彼らしくもない。いや……あんなものを見せられたんだ。俺以上にきっとイグニスの方が信じられないモノを見たはずだ。だって、ギメルはあんな子ではないのだから。当たり前だと信じていたモノを覆される痛み。俺が昨日味わった者ものよりきっと、イグニスの方が痛かったはず。
「ギメルは、あんな事を言わない。だからあれはギメルじゃない……俺はそう信じるよ」
「アルドール……君の言葉は嬉しいけど、残念ながらルクリースさんの言う通りだよ」
俺の言葉にイグニスは、罪を告白するような口ぶりになる。
「僕は君に王になれと言った。その意味がわかるかい?カーネフェルの情勢はお世辞にも良いとは言えない。戦争だって続いている。そんな中に僕は君を放り込もうとして居るんだ。ルクリースさんの言葉は正しいよ。僕は君に死んでくれと言ったと解釈されても仕方のないことを口にしていると思っている」
だらしなく仰向けで空を見上げる俺と違って、行儀良く腰を下ろし同じ空を見上げるイグニス。
それでも彼の目には、それ同じモノには見えていないのだろう。それが少し寂しい。
だから俺は言葉を紡ぐ。そうすることでしか、俺と稀なる数術使いは理解することが出来ないから。
「なぁイグニス……俺はやっぱりあの屋敷の中では生きてるとは思えなかったんだ。そう思えないって言うことは、死んでるのと同じってことじゃないか?」
一つ一つ、言葉を選びながら……言いたい言葉を組み合わせていく。
言葉にすれば簡単な一言。でもそれじゃあ物足りなくて、俺の思うことを完全に言い表せないから。継ぎ接ぎだらけでも手垢まみれでも、思った言葉を完全に近づけたかった。
「でも今日の俺は生きてるって思う。明日はわからない。それでも今日、今の俺は生きている。俺は今日を生きているから、昨日まで知らなかった多くを知った。それはあの屋敷の中じゃ絶対に手に入れられないはずのものだ。何度も何度も逃げだそうとしたあの檻の中から、出してくれたのはイグニスなんだ」
「お前が俺をここに連れてきてくれた。俺に世界と自由を与えてくれた」
死んでいた俺の心を生き返らせてくれた。そんなお前がどうして俺を殺すだろう。
もし間接的でも直接的でも、俺はお前に殺められてもそれを悔やまない。
「もしお前が俺を恨んでいるのなら……今すぐここで、殺してくれても構わない」
姉さんの形見となってしまった宝刀トリオンフィ。
あの時ずっと手にしていたのに、結局それを引き抜けなかった。俺は彼女と同じ顔のまやかしを斬ることが出来なかった。情けなくも涙を流すことしか……
今更引き抜いたその刀身は磨かれたまま、曇り一つ無い。飾りとはいえ古い剣だ。俺に渡す前に丁寧に、姉さんが磨いてくれたんだろう。あの人、そう言うところマメだったから。そんな何気ないことを思い出して、口元は弧を描くのに、目は駄目だ。反射する月明かりが眩しすぎる。目が、痛い。
上手く笑うべきなんだ。じゃないとイグニスが殺し辛いじゃないか。だから、絶対に泣いてはいけない。
切れ味がどの程度かはわからないけど、人一人くらいなら宝剣だって切れるだろう。刃の中央を掴んで柄を彼の方へと向け、切っ先を俺の胸へと向けさせる。このまま彼が押せばいい。そうすれば……終わりだ。
「俺はイグニスにもギメルにも、そうされても仕方がないと思ってる」
イグニスが息を飲む。不思議なモノだ。いつも冷静なのは彼の方なのに、今はずっと俺の方が落ち着いている。そんな彼がおかしくて、涙も自然と引いていく。
「俺はイグニスが、ギメルが好きだ。だから何をされてもいい。許せない事なんてたぶん、ないんだ」
あのギメルが言うように、それは本当だ。俺は二人にならこの首を差し出すだろう、何度でも。
でも、それは俺だけの話なら。そこに誰かを巻き込むというのなら、俺はそれを選べない。
「でも……フローリプやルクリースに何かあってから、俺は同じ事はもう言えない。大切な人がもう、二人だけじゃなくなったから」
多分、誰かと出会うって言うことはそう言うこと。心を開くのは、そう言うこと。自分の弱さを広げること。
元々俺は弱い。それがどんどん目も当てられなくなるくらい弱くなっていくんだろう。
きっともう、一人で立ち上がることも出来なくなる。
姉さんを失った。それでも俺がまだ立っていられるのは傍にイグニスが、フローリプが、ルクリースが居てくれるから。
人間ってどうしてこんなに弱いんだろう。
人形の振りをしていた頃は、誰もいらなかったのに。今はこんなに、誰かが欲しい。誰かに欲して貰いたい。とても、とても弱い心だ。
そうすることでしか、人間は人間の証明が出来ないんだろうか。弱いのは、俺だけではないのだろうか。
だから俺は求めるのか。彼に、俺の終わりを。
「だからイグニス。俺を憎むなら、今ここで殺してくれ」
貴族生活のせいで培われたらしい変な見栄とか張って恰好付けてしまったが、この剣意外と切れる。手の皮膚、切れてる切れてる。そして重い。ペンより重い物持ったこと無い俺に、この体勢はキツイ。早く受け取るなり押し込むなりしてくれないだろうか。寝そべりながら長剣を持ってるのって結構辛いんだ。このままだと自滅とか情けないことをしてしまうかもしれない。俺の手が痙攣し始めた頃、イグニスがようやく柄を手に取った。
「……僕は混血だ」
彼が語るは静なる声。星明かりのようにささやかなその呟きが、最後に耳にすることが出来る彼の言葉かも知れない。そう思った俺は一言も聞き逃す物かと耳を澄ませる。
「これまで多くの人に迫害されてきたし、物扱いされてきた」
彼が自らの身の上を語ってくれることは珍しい。冥土の土産には十分だ。
俺はいつでもその時が来てもいいようにと、そっと目を閉じ声を聞く。
「神子になってから掌を返したような態度の大人達。そして僕を利用しようとする奴ら。それでも僕が意志を持って何かを言えばすぐに顔に出るんだ。"この混血が"って…………そういう風に僕を見ない人もいるけれど、そういう人たちにとっての僕は神子。神の使い。信仰の対象さ」
彼は深く傷付いた、自らの心を俺に明かした。
ルクリースが俺を庇ったとき、彼は悲しそうな目で笑ったのを俺は見た。
彼にはそんな人がいなかったのだ。彼がギメルのために、そうならなければならなかったから。
俺以上に彼が頑なだったのは、世間知らずの俺なんかより現実を知っていたから。君は幸せだよと、彼はどんな気持ちで呟いていたのか。
「混血なんて言えばいつも、何をしてもしなくても、僕らのせい。疑われるのは何時も僕ら。数術を使えない混血だっていっぱい居るのに僕らの仲間は大勢殺された。だから……友達なんて言ってもらえたのも、信じてるって言ってもらったのも君が僕らにとって最初で最後だ。そんな……君の"人間扱い"がとても不快だった時期もある。それでも、どうやら僕はその"人間扱い"が嫌いじゃないらしい」
俺が聞いたのは俺の心臓の破ける音でも、首を切断される音でもない。
復讐のために差し出した刃が、静かに鞘に戻された音。
「友達、なんだろ?僕にお前を……殺させるなよ」
イグニスはルクリースの動作を真似て俺の頭を小突いた後、小さく馬鹿と呟き笑う。
*
「あら、もう着いたんですか?」
ルクリースの言葉は俺の気持ちを実にわかりやすく代弁していた。
シャトランジアの何倍の面積なんだろう。こんな広大な土地を、自分なんかに治められるのか不安になる。そんな俺の不安をいち早く察したイグニスは、俺の肩を叩いて微笑した。その微笑みに俺は思い出す。
俺たちの約束。二人で世界を変える。戦争の、奴隷の無い世界。混血が差別されない世界。そうだ、俺は一人じゃない。そのことに俺は安堵してもいいんだ。
思わず俺が怖じ気づくほどのその広大な大陸が見えてきたのは、目を覚まして数時間……そろそろお昼になるかならないかと言った中途半端な時間だった。その頃にはもうフローリプも、初めて目にする大陸に歓声をあげる元気を取り戻していた。
「お嬢さんと一緒だと命がいくつあっても足りんわい」
「無茶して寿命三日くらい縮んだかもしれんな」
ルクリースを見つめて数術使い達が笑い合う。彼等にはルクリースの脅しが随分利いていたらしい。少なくとも同じ船から一秒でも早く解放されたいという彼等の悲痛な願いが力に代わり、三日のはずの船旅はその半分である一日半で終わりを迎えた。火事場の何とやら……それだけ彼女の視線に彼等は命の危機を感じていたのか。本当に彼女は何者だろう。唯のメイドとは思えない。試しに聞いてみたら「謎めいた過去持ちの女の子って素敵じゃないですか?」と、いつものようにはぐらかされた。謎めいた過去どころか彼女に至っては謎ばかり増えていると思うんだが。
船が停泊したのは小さな港町。大きな港を避けたのは、面倒な身の上と戦争から離れるためだった。
船から降ろした積み荷は全部で5つ。みんなはそれぞれ大きさは異なるが旅行鞄が一つずつ。フローリプだけ鞄が二個。もっともその半分はルクリースのせいだと判明したわけだが。
しかし何入っているんだ。重い。もやしっ子認定された俺にはいささか重い。
王都までは馬車で向かうとは聞いたけれど、宿探しを終えるまで荷物持ちは俺たちの仕事だ。こんな変装したって、荷物持ちが俺の時点で、怪しまれないだろうか。まぁ、年下のイグニスやフローリプに持たせるワケにはいかないけどな。
そう思った時だ。
「アルドール、一人で全部持つつもりだったんですか?」
俺の持っていた鞄の半分以上を軽々と持ち上げるルクリース。細身なのにどこにそんな筋肉がついているんだろう。
「たわけ。自分の荷物くらい自分で持つに決まっておろう」
そう言いながらルクリースから小さめの鞄の方だけを受け取るフローリプ。言ってることは格好いいが、それってなんだかどうなんだ?
俺の手に残されたのは俺の鞄ともう一つ。
「修行だと思って頑張って。日頃の小さな積み重ねが大事なんだよ」
片目を瞑って微笑むイグニスは、受け取ってくれる気がないらしい。ルクリースにこれ以上預けるのも気が引けるし、そこまで重くないし彼の言葉ももっともだ。もやしっ子返上してやらぁ。……というかそっくりすぎてあまり強く言えない。お願いとか言われると断れない。重傷だなと俺は溜息。いやその前に、昔も荷物持ちさせられてなかったか俺……?
「第二教会からの使者は連絡通り、迎えは明日来てもらうようにしていましたから……まぁ、今日はゆっくりしましょう」
数術使い達はこの町で少し休息を取ったらシャトランジアに引き返すらしい。まぁ、それもそうか。あんな年寄り達に陸の旅は辛いだろう。
降り立った先は小さな街だが宿泊施設くらいはあるようだ。ようやく見つけた宿屋で一服しようと思った時、俺はルクリースに声をかけられる。
「それじゃあ出かけますよ」
「え?」
「カーネフェルのこういう所の宿は、基本ご飯は出ません。自分たちで食材集めをしてお金を渡して作って貰う形になります。大丈夫ですよ、この辺は食材も豊富ですし、釣り道具も弓矢もレンタル出来ますし。その気になれば外でバーベキューも出来そうですね、フローリプ様の発火能力もありますし」
何というサバイバル。
「良い機会です。弓の使い方教えてあげます。引き籠もりのアルドールは狩りをしたことがないでしょう?貴族の嗜みですよ?満足に弓も扱えないようでは部下に舐められるかもしれませんから心を鬼にしてバシバシ教えてあげましょう、手取り足取りで」
「……手はともかく足は要らないんじゃないか?」
俺の腰に手をまわしつつ露出した足を撫でているルクリースに俺はとりあえずツッコミを入れてみる。それでも止める気のない彼女に鉄拳制裁を下したのはフローリプ。
「お前が変な気を起こすでない」
「あい痛た…本の角でどつかないでくださいよフローリプ様」
「今度やったら発火してやる」
「ふふふ、返り討ちにしてあげますよ」
こっちもうち解けたようなのに相変わらずと言えば相変わらずだった。
ルクリースが適度にふざけていてくれるのは、俺とフローリプのためだ。彼女が道化を演じてくれているからフローリプは家族を失った悲しみから目をそらすことが出来るのだ。たぶん、俺も。
彼女がついてきてくれて良かったと思う。彼女がコートカードとかそういう意味だけじゃなくて。
だから彼女がそんなことを言い出しす意味がわからなかった。
それは宿の外へ出た時だった。
「やっぱり、ね!私が言った通りだったでしょ?さっき見たって!見間違いじゃなかったでしょ!?」
「男の子!まだ若いじゃない……供を連れているし服も立派、なかなか品のある顔だわ。きっとお忍びでやって来た名家の貴族様よ!」
「上手くお近づきになれないかしら、上手いこといったら人生変わるわよ!?働かなくても一生遊んで暮らせるかも!」
娘達の黄色い歓声。中には強かな計算の声も聞こえたが、住民達は歓迎してくれているようだった。
母親に背を押され「上手くやってこい!」みたいな笑顔で送り出された娘が手にいろいろ抱えて近寄ってくる。
「あのぅ、これ……家で取れた野菜です。良かったら食べてください!」
「狩りに行かれるんですか?遠くまで行かれるのならうちの馬をお貸ししますけど?あ、これ私が作った弓矢です、差し上げます!」
「これ、家で焼いたパンです。ここにお泊まりになられてるんですか?ここ料理出ないでしょう?わ、私でよけでばお料理、作りに行っても良いですか?」
物珍しそうに観察されているのがわかる。居心地が悪いのは確かだが、彼女たちの親切な歓迎を無下にするのも心苦しい。とりあえず苦笑しながら俺は礼の言葉を口にする。その時だった。俺は背後で大きな溜息の音を聞く。どうやらそれはルクリースのものらしい。
「アルドール、ちょっと失礼」
「お、おいルクリース」
ルクリースは俺の背を押し足早に広場から離れ、町はずれの森の方までひとっ走りで連れて行く。振り返れば置いて行かれたことに憤慨しながらフローリプが付いてきていた。ん、よく見るとその手には何かを持っている。怒ってはいるが、機嫌は悪くなさそう。それをどうしたのか尋ねると、嬉しそうに彼女は微笑む。
「本場のわら人形をもらったぞ!」
畑に飾っていた小さな鳥避けの人形。それを持って嬉しそうにクルクル回るフローリプ。その様子から察するに、彼女はわら人形イコール呪術道具だと勘違いしている節がある。
「お二人とも……しっかりしてください」
「俺は別に……それにしてもみんな親切だな、無料で道具貸してくれるなんて」
荷物になる食材は彼女たちが気を利かせて宿まで持って行ってくれたみたいだが、狩りの道具はしっかり俺の手に押しつけられていた。
「そうでした、ここはカーネフェル。迂闊でした。お二人の恰好は少々高価すぎます。今度から変装させて歩かせないと」
「そうか?かさばるからこれでも質素なものを持ってきたのだが」
「服の素材が既に違うんですよ。フローリプ様のリボンや装飾品だって見る人が見れば値段がわかります。もう……どうして貴族ってこう、リボンにまで絹なんか使うんですか勿体ない」
ルクリースは呆れているようだ。怒ってもいた。俺たちだけにじゃない。好色な視線を送る住民達に、変装の必要性を忘れていた自分自身に。
「アルドール、モテモテ気分で悪い気がしないのはわかりますが、くれぐれも油断しないでくださいね」
「油断ってなんだよ……?」
「平和な内はそれでも良いんです。貴方の気を引こうってくらいにしか思いませんから」
「ですがこれだけは忘れないでください。ここはカーネフェルです。この土地は今戦争をしているんです。戦争は、人の本性を現します。迂闊に誰でも何でも信じてはいけないんです。疑ってください。昔のように……私をそう思っていてくださったように」
屋敷にいた頃の彼女の印象。それはこの町の人々のそれと変わらない。当時の俺ならここの人々に溜息をついたことだろう。
けど、今俺は彼女たちに感謝した。それはルクリースへの印象が変わったから。
人は語る言葉、見せる表情に嘘をつく。それは本心ではないこともある。だからそこから受ける印象で人を決めつけてはいけない。人はもっと奥が深い。それを知れば印象なんて変えていける。
そう思えるようになったのは彼女のおかげなのに、彼女は俺のその変化を咎める。
いや、咎めているわけではない。それを告げるように彼女は言葉を言い直す。
「私は貴方が私やフローリプ様に心を開いてくれたことが嬉しい。貴方の世界が広がることが誇らしい。それでも安全な場所に着くまで、その心は忘れてください。それが、貴方を守るためなんです」
*
「イグニス?」
割り当てられた部屋を覗くと、もう彼は帰ってきていた。
初めての狩りは散々だった。
ルクリースに言われたことが頭の中を回っていたせい。そう言訳しても散々な結果だった。
獲物を捕らえるのはルクリース担当。矢を消費するのが俺担当。これは食べられない毒キノコですよと教えられた物ばかりを採取する係がフローリプ。そんな感じで俺たちが食材集めに奔走?していた頃、イグニスは街で情報収集を行ってくれていた。
イグニスは聖教会の聖職者。カーネフェルの国教も聖教会。彼に害を加えるような人間はまずいない。一人にするのが心配と言えば心配だったが、共同墓地の供養から何から頼まれて忙しかったみたいだ。イグニスは混血だったから俺みたいな歓迎は受けずに町を歩けたらしい。目の色一つでそんなにも違うものなのかと俺は愕然とした。
「困ったことになったな」
「それはその貰った菓子が食いきれなくての発言ではないよな?」
宿に戻ると俺たちには食いきれない程の差し入れが届いていた。それで部屋の一角が埋もれている。
「んなわけあるか……って言いたいところだけどそれも半分。後から隣の部屋に分けてこようか」
「……だな」
「そんなことより、コレを見て」
卓上に広げられたのはカーネフェルの地図(と、その横に篭いっぱいの焼き菓子。戦火がここまでやって来ていない長閑さの証拠だが、危機感がないと言えばないようにも感じられる)。書物で見かけたような大きな都市は知ってはいても、所詮は別の国。聞いたこともない山とか川の名前が沢山並んでる。イグニスが指さすのは王都ローザクア。
意味は海上の薔薇。街でありながら大陸全てを表す大それたその名前。しかしその名に恥じない美しい街らしい。その海上の薔薇こと王都は大陸の北部と南部を隔てる大河流域にある。
「都はまだ落とされていない。南部がこんなに平和なのはそのせいだ」
問題は北部だと彼は言う。
「王の不在はまだ国民の知る所ではない。だから彼等は平和を信じてる。王というのは希望と安全の象徴なんだ。それにカーネフェルの人は根がお人好しというか陽気というか……うちより平和ボケしててどうするんだか」
シャトランジアの平和はそれだけの理由がある。けれどここは戦の起きている大地。明日の保証もない。それを理解していないのだと彼は言う。
「絶対ライン。この大河。そうそう、このサビル河の上に平野があるだろ?これまでカーネフェルの地は何度も蹂躙された。それでもコレより南に進軍されたことがなかったんだ」
なかった。それは過去形。イグニスが指さす場所は、大陸半分より上部にある大河。王都はそれと南部に横たわる長い山脈の間に位置している。俺たちが上陸したのは南部の山脈の下方に位置する名もない港。
「それでも今回、彼等は引き返すことなく大陸を横断し続けている。増援は今度は南側から上陸するだろう。上下の絶対ラインが侵されるのも、時間の問題。平和ボケしているけどこの港だっていつ船が来るかわからないんだ」
「イグニス、そんなヤバイ話こんなところで……」
もし住民達の耳にでも入ったら、大変なことになるんじゃないか?俺の心配にイグニスはにっと唇を釣り上げる。
「扉と壁から音を跳ね返すよう防音済み。扉も窓も開かない……というか見落とすように数術の視覚操作をしておいたから大丈夫。そうでもしないと住民が忍び込もうとか企むだろうし。これでも僕は神子なんだ。抜かりはない。他の数術使いに盗聴されれば僕が気付く、安心して。僕が居る」
そこまで言うと彼はまた、真面目な表情に戻り息を吐く。
「さて本題に戻ろう。彼等のこの平和ボケは、このラインのせいだ。自分たちは大丈夫。北の人々も危なくなったらこのラインを渡ればいいくらいにしか考えていなかったんだろうよ。そのせいで、人口減少に伴いラインの内側の人口が増加。ライン外の守りが弱まった。守り手がいなくなったらラインなんて機能しなくなる。唯でさえ、カーネフェルは男がいない。それでもまだ誰かが守ってくれると思っている。この数十年で何倍……いや何十倍にも戦力が離されたことをまだ理解していないなんて」
タロックは女が居ない。カーネフェルは男が居ない。
長い目で考えれば、先に滅ぶのはタロックだ。彼等は混血を受け入れないし、狂王の虐殺もある。
しかし、即戦力で考えれば……今一番苦しいのはカーネフェルだ。男が生まれなくなり、今居る男達も年老いていく。そしてカーネフェルの戦力は年々減っていく。例え先に滅ぶのがタロック人だとしても、その前に地図の上からカーネフェルという国が無くなる方が早いだろう。
「アルドール、僕が思っていた以上にこの国は危ない。僕もシャトランジアを立て直す必要が出てきた。カーネフェルだけの力で、タロックを追い返すことは不可能。表だって十字軍を貸し与えるには、僕が国王派を打ち負かし教皇権でも手に入れなければ難しい」
数術の力でここまでやって来た俺が、この国の現状を聞かされると……悪い意味で時間を逆行している気分だ。
シャトランジアはカーネフェル寄りとはいえ基本は中立国。シャトランジアが襲われなければその強大な力を用いてはならないという絶対の掟がある。イグニスが俺に必要以上の力を貸すことは法を犯すこと。それは教会側の最高権力者の彼と、国王との全面戦争を意味する。
国王派は現状維持の保守党。混血であるイグニスが次期神子であること自体快く思わない者達が大勢いる。それはたぶん、協会内にも。
内乱でも起こったら、それこそタロックに攻め込ませる隙を与えることになる。同じく平和ボケしているシャトランジアも、危うい均衡の上にあるのだ。
「とりあえず、この街の教会から仕入れた情報だと、まだタロック軍の全てが川渡ってはいないのが不幸中の幸い。略奪した物資を本国に持ち帰るため、足になる船が消えた。船が戻るまでここを渡ることは出来ない。戻ってくるまで一月はかかる」
北より南の方が食材も多い。タロックとしては南の方が是非とも欲しいはず。それでも北から攻めたのは、北の方が守備ががら空きだから。王都があるのは南部。兵の数もも南部の方が多い。王都から援軍を送るにも、大陸は広い……時間がかかる。奇襲先制攻撃、戦線離脱。これを行われたら援軍が付いた頃には……既に手遅れ。
そんなことばかり続いたんだ。今回もそうだと思った。カーネフェルの人々は、侵略さえ生活の一部として慣れてしまった。逃げ方、命乞いの方法、隠れ方、逃れ方。村を守らず民は逃げる。国は形ばかりの軍を送る。どうせもう帰っただろうそう思いながら。
そして、殲滅させられた。
その報告に取り乱した王は、都の守りもそこそこに軍を北部に向かわせる。敵が陸路を進んできても絶対ラインが守ってくれる。だから海路で左右から挟み込む。そして王は多くの兵を失った。そして兵の志気を上げるために、自ら戦場に赴かなければならなくなった。そして、それは逆の結果を呼び込んだ。
「セネトレアも良い船を造れるようになったけど、まだシャトランジアには及ばない。うちから船を盗んだ下級兵士のせいで、大砲の作り方は外へ漏れてしまったけれど……造りが甘い。それでもカーネフェルにとっては大きな脅威だ」
カーネフェルは地の利を生かしたゲリラ戦は得意でも、水軍は決して優秀とは言えない。
きちんと動かせる船は、男手のある何隻か。後は寄せ集めの数合わせ。知識はあっても女手で船を動かすのは難しい。力が足りない。だから逃げるにも進むにも……それが現実として作用するのは遅れてしまう。緊急とはいえ海から向かうのは危険なこと。問題はイグニスの言うように、その設備にもあった。
カーネフェルの船にはその大砲というものが備え付けられていない。攻撃方法なんて言ったら投石機か火矢での攻撃がメイン。同じ沈めるのが目的でも、投石機と大砲では命中率が天と地の差だ。
「そんなセネトレア製の船を買おうにも、セネトレアはタロック人国家。カーネフェル側への関税はタロックへの物とは比べものにならない。カーネフェルが物を売ろうにもこっちは食料品とか原材料とかだろ?向こうはそれを安く買って加工して高く売りつけてくる。本当にろくでもない奴らだ。金のあるカーネフェルの貴族達は私財を投げ打って国を守ることもなく、シャトランジアに土地を買って移住して安穏と生活している。遊んでいても領地から金が入ってくるから……」
聞けば聞くほど絶望的。
金を集めて対等に戦える船を買ったとしてもそれでも……女の細腕で船を操ることは難しい。対等な力でも、まだ勝てない。
それに対してタロックはセネトレアの商人まで味方している。
同じカーネフェル人国家であり友好国であるシャトランジアは……それでも中立国である。シャトランジアがそれを沈めるためには、イグニスが国内の改革を成功させるか……敵がその領海を侵してくれなければ。
「一応海上に目を光らせてはいる。南を攻めるには領海を通った方が早いし安い。馬鹿な商人の船はいくつか沈められると思うけど、悪人って大抵悪知恵は働くから……さて、何割落とせるか」
情報通り地図の上に配置されたカーネフェルの軍。運良く生き延びた者達のその殆どが南に逃げ帰っている。北部にも散らばっている残存兵を集めても千まで届かない。
タロックも馬鹿ではない。何もご丁寧に北側からだけ攻めてくれてるわけじゃない。
南側はタロックから遠い。だからまだこちら側に兵が辿り着いていないだけ。海の上には南を目指して進められている船が見える。恐らく彼等の狙いは南と北から挟み撃ち。王家は潰えた。都を陥落させ、その首を掲げれば……今度こそカーネフェルは終る。そうなる前に何とかしなくてはならないのだ。
頭を抱える俺に、イグニスは絶対ライン……ザビル河を指さす。
「ここはかなりの激流でね、慣れない異国の船が渡るのは至難の業」
海に出るのは簡単でも、都を目指すのは難しく、横断するのもまた危険。守りも堅く、便利な反面……一度離れたら、陸路でなければ戻れない。敵が接近していなかったとしても、数術船で都まで行くことは出来なかっただろう。
「何とか川を渡っても兵達はすっかり疲労している。そこを袋だたきにすれば良かった。……それも昔の話だ。セネトレアの船は丈夫になった。今の技術なら無事に渡れてしまう。この川の神話を恐れて兵達は嫌がってたみたいなんだけど、先遣隊が渡るのを成功したせいで一気に志気が高まったんだ。今回の戦争では、彼等はここを越えて来るだろう。いい加減彼等も白黒つけたいはず……王の首も取ったんだ。その勢いで王都まで攻め込むはずだ」
船でそのまま河を駆け上がらなかったのは、敵との遭遇を恐れてのこと。
数術使いに何かあれば数術は解ける。その瞬間を見られたなら、その存在を外に教えてしまう。そしてその技術を外に奪われることはあってはならないのだと彼は言う。想像してみてぞっとする。この技術は争いを好まないシャトランジアが、国内に止めている技術。混血と同じで強すぎる数術使いは恐れ、迫害される。彼等をシャトランジアが受け入れるのは慈悲の心だけではない。技術を守るためだ。セネトレアの奴隷商やタロック軍の手に渡れば、侵略と略奪のために悪用されるだろう。
「そんな話、俺なんかにしていいの?国家機密なんだろ?」
「問題ない、君だから話すんだ。それに歴代カーネフェル王は知ってるよ」
「少し、脱線しようか。息の詰まる話題ばかりじゃ飽きるだろ?」
息を吐き、彼は唇に笑みの形を作る。
「良い機会だ。本に載ってない話をしてあげるよ。初代カーネフェル王そして当時の神子は、タロックを破った古代の技術をシャトランジアに封印することにしたんだ。それが世界を滅ぼすことに繋がることを恐れて」
シャトランジアとカーネフェルはそれ以来互いを監視し、平和を共に作ることを誓ったのだという。力と便利さという概念がいずれ人間を滅ぼすと、その神子には見えていたのだろう。昔話を物語るイグニスの瞳には、それが見えているようだった。
「アルドール。数術がどんなに協力で万能でも、人は数術や武器だけでは生きられない。小さなシャトランジアは、一見平和だけどその食物自給率を知ってる?数術に用いる触媒だってシャトランジアでは掘り尽くされた。カーネフェルに頼りっきり。シャトランジアはカーネフェルと共に生き、共に死ぬんだ」
カーネフェルの滅亡は、シャトランジアの滅亡。
だから中立のはずのシャトランジアの神子が俺に力を貸している。しかし未来を見通す力のない国王派は目先のことに振り回されて融通が利かない。今日の平和を守る手段は昨日の平和を守った方法だと信じ、今日がそれで平和なら明日も同じだと信じている。
しかし未来は常に変化している。先読みの神子ですら、読めない未来がある。絶対は存在しない。
シャトランジアは数術と武器で。カーネフェルはその自然の豊かさで。互いに支え合い、牽制し合う。そして古代兵器の封印を続け、その均衡が平和を作り上げる。再びタロックが攻めてさえこなければそれは上手く機能していくはずだった。侵略で揺らいだ均衡を守るために、セネトレアの技術の発達に合わせて、二国は話し合いそれから数歩進んだ分の技術の封印を解いていったという。
「で、触媒って?」
「ああ、君数術についてはからっきしだったねそういえば」
トリオンフィの家は聖教会を信仰していたが、数術という力を完全に信じてはいなかった。俺と同じように、伝承か何かだと思っていたのだろうな。
どちらにしろ、数術の要素のない人間には理解できないこと。そういうの本なんて書庫にはなかった。フローリプが買い集めたモノならにあったのかもしれないが、こうして共に旅をすることが不思議なくらい……あの頃の俺たちは殆ど接触が無かった。避けていたわけではないが、お互い進んで会いに行くような仲でもなかったのだ。お互い自分のことで手一杯だったから。
イグニスは一度咳払いをし、説明を始める。自分の知識をひけらかすことが少し誇らし気に見え、そんな様子が彼らしくなく……て少し新鮮で、おかしかった。
「普通数術使いが数術を操るにはいろいろ自然の力を借りるんだ。僕が人工物ではなく自然物が全て数字に見えると言ったのを覚えてる?」
「自然物は元素の固まり。それをあの船だって数術使いの力だけで動いていたわけじゃない。燃料は純度の高い宝石や貴金属。それを酸とか起こしたい現象に対応する水溶液で溶かしたり火で燃やしたり、その分解作用や結びつきで生じるエネルギーと書換え効果。そこに数術の原理を十分に理解した術師が自分の数を加えてその数式を書換える。数術使いは自分の体内の数値をいじれるから、好きな数を加えられる。多くを加えればその分力も強まる。もちろん潜在能力によって限界数は定められているからそれなりのことをするにはそれなりの人数が必要」
数術っていうのは錬金術か何かの一派みたいなものなのだろうか。作り出すのが金ではなくて、数式という変わったモノではあるが。とりあえず俺が言えることは……「勿体ねぇ…」の一言だった。
「そうだね、往復だけで幾らかかったか考えたくないね。何人を何ヶ月養えたかとか。だから今がそれなりに緊急だってわかってくれるよね?」
便利でもホイホイ使えないってのはよくわかった。
けれど、俺の怠さを取ってくれた時のイグニスは……俺の体内の数式異常を書き直してくれたんだっけ?あの時、イグニスは宝石なんかをどうにかしていたか?
納得のいかない雰囲気の俺の顔を見て、イグニスもその心当たりを思い出す。
「僕は特別だよ。僕っていうか混血の瞳に刻まれた数字は少々特殊。貴族達は意味も知らずに使っているけど混血が宝石って呼ばれてるのもそこから」
混血達は珍しい色の宝石のような美しい瞳を持ってる。だから混血は宝石と呼ばれている。
けれどそれは間違いだと彼は言う。
「どうして混血が恐れられるか。混血は触媒なしに数術が使える。うちが混血保護をするのもその脅威が一因でもある。フローリプさんが触媒を消費せずに力を使えたのはカードに選ばれたからだと思う。彼女はお世辞にも強いカードとは言えない。けれどその分四大元素の影響を受けている。この数日強さもバラバラな君たちカードを取り巻く数値を見てきたから、それは断言できる」
「ルクリースには使えないって、言ってたのと関係あるのか?」
「コートカードは幸福値で十分強いし幸運値に守られている。だから元素の力は低いんだ。カード属性の相性くらいは影響受けるかもしれないけれど。逆に、Aから10までのヌーメラルカードは……カードの強弱に従ってAに近づけば近づくほど幸運値は下がる。その代わりAに近い数字ほど、四大元素の恩恵を受けるみたいだ」
「だからアルドール、君は世界でもっとも炎に愛されている人間だ。厨房の炎も君には懐いていたよ。君にはわからなかっただろうけど君くらい愛されていれば、火の海に飛込んでも火傷をしないと思うよ。君を傷つけることを彼等は厭うだろうから」
言葉だけ聞いていると、なんだか凄そうだ。俺のカードってそんなに凄いのか?
「もしかして、俺ってあれか?火山の火口に飛び込んでも死なないとか」
「おめでとう、良かったね、君も今日から化け物の仲間入りだ。でも炎に避けてもらえても君幸運値が低いから落下で潰れて死ぬかもね」
「いや、でもカードはカードにしか殺せないんじゃ…」
「基本はね。でもあんまり馬鹿なこととか自業自得なことだと死ぬよ?消極的なものでも自殺ってカウントならカードがカードを殺すことになるから。くれぐれもそういう馬鹿なことを試そうとか思わないでね?」
「馬鹿なこと言ってすいませんでした」
にっこり微笑みながら俺の馬鹿な発言を叱るイグニスに、俺は即座に折れる。笑顔の重圧って結構あるんだな。
話題をそらしつつ、やっぱり不謹慎にもわくわくしながら俺はイグニスに聞いてみる。
「で、でもルクリースが駄目でも俺は何かフローリプみたいなことが出来るってことなのか?」
「勿論。半端な数のフローリプさんが炎を扱えるのなら、君だって使えるはずなんだ」
俺の疑問にイグニスはあっさり頷いてくれた。ただし今度は笑わずに、神妙な面持ち、溜息混じりに。
「ただねぇ……君は数術のイロハも理解していないから君は触媒でもないと数式書換えも出来ないだろうね。さ、そろそろ休憩は終わりにしよう」
パンと手を打ち、イグニスはこの話題を終らせた。
休憩を挟んだせいか、何分かぶりに聞く戦況はさっきより悪化しているような錯覚を感じてしまう。それともイグニスはわざと、悪い報告を後ろの方に残していたのか。
*
イグニスとの密談が終る頃は、お互いすっかり気疲れしていた。
夕飯までその辺を散歩でもしようと廊下へ出た俺の背中に声がかかる。そこに立っている少女は俺とは違う、柔らかくウエーブのかかった金色の髪。そして明るい海色の瞳。
「おでかけですか?もうすぐ食事の支度が調いますが……」
宿の娘だ。ええと何て言ったっけ。確か…
「わざわざありがとう、ジャネットさん」
「え、覚えててくれたんですか?」
少女は意外だと声を上げる。
いろいろ名乗ってくる女の子は多かったが、みんな一遍にしゃべってくるからあれは困った。
みんな似たような金髪で、目の色も見慣れた緑と青。
誰がどの声で、どの名前が誰なのか。自己主張が強すぎて名前ばかり押しつけられて、混乱した。何とか顔と名前は記憶したが、組み合わせが合っている自信はない。彼女のを覚えていたのは、彼女の印象が控えめだったから記憶に残りやすかった。それに彼女は宿の娘だし、何回か挨拶もしている。
俺より頭一つ分低い……イグニスと同じくらいの背だ。イグニスは十四だろ?じゃあこの子も十四?でもフローリプと二歳しか違わないようにも見えないし、ルクリースともそんなに離れているようにも見えないし……、聞いてみたところ俺と同い年らしい。そのせいもあって、記憶に残っていたのだろう。
「あー…それしか取り柄がないからな、俺」
「そんなことないですよ、ええと……綺麗な色をなさってると思います」
元の頭が空っぽの分、スカスカだから覚えやすい。詰め込みやすい。それだけだ。
苦笑する俺に彼女は励ましの言葉をくれるのだが、知り合って一日未満。外見以外に思いつくところがなかったようだ。
「そうか?そんなに変わらない青色だと思うけど」
「そ、そんなことないです!私なんかどこにでもある色ですから」
「俺だってどこにでもある色だよ」
「そ、そんなことありませんよ。わ、私皆さんを呼んできますね!」
ぱたぱたと慌ただしく駆けていく少女の後ろ姿。
年の近い男と話すことに慣れていないのだろう。俺は普通に接しているつもりでも、彼女にとって俺は非日常。どう接して良いのかわからないようだ。俺が彼女の方を向いて話すと彼女は俯き視線をそらす。
俺もこういうタイプの子が近くにいたことは無かったから、そんな風に避けられると嫌われてるんだろうかくらいは思う。それでも彼女の顔は真っ赤だった。女の子ってよくわからないとつくづく思う。
「女ってみんなプライドの固まりだと思ってたんだけどな……」
貴族の娘はみんなそんな感じだ。それも偏見だったのだろうかと俺は考える。
姉さんもフローリプも……プライドはあるけれど、悪い人間ではない。ないし……なかった。
それを知ることもしてこなかった何年か前の俺。だからギメルが新鮮だった。おかしな子だと思った。しかしジャネットもなかなか変な子だ。それでも世界が塗り替えられるほどの衝撃を俺には与えない。
そんなことに気付いたら……ギメルに会いたいな、と思った。寝ていても良い、起きなくても良い。本物の彼女に。会えばわかる。アレは彼女じゃなかったんだと、証明できる。
そうしたら、話したいことが沢山ある。謝りたいことも。
信じてる。そう口にすることは容易くても、思い出の中の優しい彼女を疑う気持ちはゼロじゃない。どんなにゼロに近づけても、完全にそれを殺せない俺を叱りとばして欲しい。
憎むべき対象がはっきりしないから、俺の悲しみも宙に浮いている。それが事実であるのに、あの血の海を幻と認識し出す頭。
あれから、俺が姉さんを思い出したことは何度もある。預けられたトリオンフィの剣が、それを嫌でも思い出させる。
それでも思い出すのは、船を見送ってくれたあの時の姉さん。そうだ、俺の中ではまだ姉さんが生きているから、だから彼女の死を受け入れられていない。だから涙も流せない。
あれが誰かわかったその時……俺はちゃんと、もう一度泣こう。謝ろう。姉さんに、ギメルに……何度でも。
*
食事を終えた後、俺が隣の部屋に遊びに行くと女二人は何やら熱心に取り組んでいた。それでも俺の姿を認めると、二人は俺に声をかけてくれる。
「あれ、アルドール一人ですか?」
「イグニスも慣れない船旅に参ってたみたいだ。部屋戻ったらバタッって倒れるように寝ちまった」
まだ眠くない俺が傍で起きていたら邪魔だろうな、そう思ったから遠慮して避難してきたわけだ。食いきれない菓子のお裾分けもあったしな。それを手渡すと二人は片手だけ篭へと伸ばしてもそもそそれを食い漁る。今、夕飯食べたばかりだと思ったんだが。「女の子は砂糖と蜂蜜でできてるんですよ」とか「あれはあれ。これはこれ。別腹別腹」とのこと。このまま突っ立ってたら紅茶でも入れてこいとか言われかねない気がした俺は適当な椅子に腰を下ろした。
「アルドールもフローリプ様も早めに休んだ方が良いかもしれませんね。明日は馬車旅だそうじゃないですか。あれ、慣れるまで結構辛いですよ、変に力入れて筋肉痛になったりとか。揺れにやられて腰とかお尻とか痛めたりとか」
「私は馬には乗り慣れておるから、それぐらい平気だぞ。そして勝ち逃げなど許さなん!」
乗馬に遠乗りとは……俺が屋敷に閉じこめられている間、フローリプは貴族令嬢としてそれなりにいろいろと遊んでいたらしい。というか現在進行形で遊んでいる。
「お前等よくそんなゲームできるなー……感心するよ」
フローリプとルクリースが遊んでいるのはトランプだ。
自分たちの身の上のこと知って尚、そんな物で遊べる彼女達の逞しさには惚れ惚れするよ、まったく……
「げ、アルドールめ……また帰って来おった。ここまで好かれると少々煩わしい」
「つか、俺をババにして遊ぶな!」
勝負は終盤へと入り、冷静さを欠いているのだろう。ルクリースと比べて彼女の方がカードが多い。苛立っているのだろうな、とはわかる。それでもフローリプに舌打ちされたことは、ちょっと傷付いた。二人はスペードのAを抜き、クラブのA……つまり俺が余るようにババ抜きをしているのだ。
「いえ、さっきまではハートの女王をババにしていたんですけど……」
「ついうっかり燃やしてしまいそうになったのでな、まだ愛着のあるカードで遊ぼうと言うことになったのだ」
「最初の何ターンかは楽しかったですよね、逆に当て合い取り合いして遊ぶ余裕もありましたし」
それで、今はたらい回しにされていると。
「つか……それならジジ抜きでもすればいいだろ。何が余るかわかっててやってもつまらなくないか?」
「いいや!これはれっきとした戦術とポーカーフェイスと騙し討ちの特訓なのだ!」
胸を張ってそう答えるフローリプ。俺には遊んでいるように見えても、二人からしてみれば修行か何かの一環なのか。
「フローリプ様、次は神経衰弱でもしません?ああいうのも直感力と記憶力磨くのに良さそうじゃありません?」
「ふ、私に神経衰弱を挑むか?私は何故かあれだけはとても得意だぞ!」
勝ち逃げされて良いのか?それとも種目は変わっても勝ちは勝ちなのだろうか。不適に笑うフローリプ。
「得意と言えば私はポーカーがいいですね。大きな街だとアレなんですよ、ギャンブルとかして旅費稼ぐことも出来るんですけど……流石にここにはないかな」
「ルクリースはいかさまで大分稼いでおりそうだ」
「ふふふふふ、さぁどうでしょうね」
談笑の間にもカードは捨てられていく。二人がジョーカーを使わないのは、無意識の逃避だろう。悪趣味にもこんなゲームで暇を潰している二人でも、それは目を背けたいカードなのだ。エース以外の全てにとってそれとの邂逅はすなわち、死。逃れられない運命を、恐れる気持ちは痛々しい。
ケースの中にしまわれたままだったカードを俺は手にとって、じっと見つめてみる。
ジョーカー……道化師。俺の殺す相手。どこの国に属しているのか。何人なのか。職業は何なのか。他のカードのようにそれを推測する要素がない、謎のカード。そいつがどんな奴だとしても、そいつは俺を殺したがっている。俺は俺と他のカードを守るためにもそいつを殺したい。
「おっと、いけね……」
床にカードを落としてしまった。持ち主であるフローリプにバレない内に、歪んだ笑みの道化師を拾おうとする。
「……え?」
掴み上げたはずのカードは、俺の手を擦り抜け、また床へと落ちる。
いや……俺の手には、ちゃんと一枚はある。予備の白紙のカードでもくっついていたのだろうか。もう一度床へと俺は手を伸ばす。それに触れた瞬間だ。俺はトランプというカードの枚数について思い出す。
手に触れたカード。それを裏返せば、そこにはもう一枚、歪んだ笑顔の道化師が。
「な、なぁ……どうしてババって二枚あるんだ?」
ジョーカーが、とは言えなかった。
それでも二人はそれがジョーカーの隠語だということを前提に答えてくれた。
「だってそうじゃないと不公平じゃないですか。スピードなんかするときに、一人だけ何でもあり何て狡いですし。確率の公平性のためじゃないですか?銀行だって高価なカードを引く確率の公平性のために、ジョーカーもエースもコートカードも、みんな偶数じゃないですか」
「いや、一枚だからこそ成り立つゲームもあるな。ババ抜きも七並べも……二枚あったらいつまで経っても終らないぞ。考えてみろアルドール。そうなったら決着も着かん」
二人の言い分はよくわかる。だからこそわからない。このゲームはそのどちらなのだろう。
ルクリースの言う公平なゲームなら、道化師は……二人いるはず。そしてそれを多く味方に出来た方が有利なのだ。
逆に、フローリプの言う決着という観点で考えるのなら。ゲーム上に道化師は二枚も存在してはならないのだ。同等の力を持つ物がいるせいでゲームが終らなくなるのなら、それはもはやゲームとは呼べない。
神の審判を、悪魔のゲームとイグニスは呼んだ。
一枚しかいないゲームなら、いつかゲームは終るだろう。二枚あるゲームなら、ゲームは永遠に続けられるだろう。
神は、悪魔は何を考える。終らせたいのか、終らせたくないのか。その目的がわからなければ、このゲームの根本を理解することは不可能。
「やりぃ!これで私の八勝目!」
「何故だ!何故お前はポーカーフェイスでも無い癖に!」
「うふふふふ、騙し討ちは別に無表情だけとは限らないんですよ」
カードを一枚片手に悔しがるフローリプ。彼女を眺めニヤニヤ笑うルクリース。
見つめ合う二人の間、テーブルの上には沢山の捨てられたカード達。
いや、もっと単純に考えろ。足し算引き算の話だ。
奇数ならば、最後に一枚残るだろう。
偶数ならば、誰もそこには残らない。
神は最後の一人の願いを叶えると言った。それなら奇数?
でも一人は必ず生き延びる。そう言ったワケではない。ババ抜きのように二枚ずつ、同士討ちになってくれるなら単純だが、カードの強弱があるせいで、そんな原則はこのゲーム上では成立しない。
(偶数ならば……そこには、誰も生き残れない)
そんな不安を感じてしまうのは、数を司る神々のせいだ。
生を司る壱の神は奇神。死を司る零の神は偶神。それに連なる弐から玖の神々は偶数が死、奇数が生に属する神だ。
生き残らせたいのか、皆殺しにしたいのか。
神のみぞ知るとは何とも不愉快な言葉だろう。
「俺もそろそろ寝っかな……」
「ええ、そうした方が良いと思いますよ。なんなら添い寝でも夜伽でも参りましょうか?」
「何その不法侵入……」
そう言えば昨日、ルクリースは窓を蹴破っていた。鍵を閉めても最悪ドアを破ってでも侵入してきそうだ。
「私、まだ神子様を信頼したワケではないですもの。あの女にあんなにそっくりで……あんな奴と同室にするなんて!アルドールと私で同室でいいじゃないですかぁ!」
本日何度目かの問題発言。
宿の部屋は二人部屋。カードの数値的に考えるならそれが一番安全だが、流石にそれはいろいろ問題だろう。
そんなに疑わしいならルクリースとイグニスを同室にさせ監視させてやればいいとも思った。俺とフローリプは兄妹だし。
でもそれはそれで気に入らないとルクリースが騒いだ。結局男女で分けて落ち着いたわけだが、彼女はまだ不満だったらしい。
「それにこの街の女達が既成事実でも作りやってきたら困ります。さっそくご落胤問題でも起こったらどうするんです?」
「ルクリースは気にしすぎだって。そこまで人間疑うのもどうかと思うし」
「信頼しすぎて涙する者は居ても、疑いすぎて泣く者はいないんですよアルドール。ふふ、良い夢を」
この世間知らずのお坊ちゃんが。そんな含みを持った笑みでルクリースが俺の額を指で弾く。
送り出された廊下で俺は溜息を吐きながら、隣の部屋の鍵を開ける。扉を開けると寝ていたはずのイグニスが起き上がる。鍵の音で起こしてしまったのかもしれない。
「悪い、起こした?」
「いいや、さっき起きたところ」
食後って眠くなるなぁと目をこするイグニスの仕草は少し子供じみている。まぁ十四なんてまだ子供か。
聖教会の権力も、神子なんて肩書きも、そんな子供が本来背負わされるべきものではないはずなのに。力があるからと、それに振り回されるイグニスが、弱音も吐くことはない。そんな彼は強いなと思う。
でも、子供はそんなに強くなくても良いんだ。子供は大人に守って貰っても良いはずなんだ。弱音を吐いて我が儘言って、好き勝手しても許される。それが子供の権利だ。しかし彼はどうだ。決められている将来。それは自由とは程遠い。俺を籠から出してくれた人は、俺なんかより深い籠の奥にいるのではないか。
自分の寝台に腰掛けながら、俺は彼へと聞いてみる。
「イグニスは何かしたいこととか、やりたいことってないのか?」
なりたいもの……そう聞くことは憚られた。俺に出来ることなら何でもしてやりたいけど、何かをしてやることは出来たとしても……俺の力で彼を何かにすることは出来ないんだと思ったから。
「何、当然?」
突然の疑問は疑問によって返される。そう返されると俺も返答に困る。
「……向こうでゲームやってた。フローリプは神経衰弱、ルクリースはポーカーに自信があるみたいだから、是非とも天狗の鼻をへし折って来てくれ」
そう答えることで暇なら暇つぶしやってるぞ、ともっともらしい後付の言葉で意味と修飾すり替える。
「アルドールはもう寝るの?」
「俺もなんか今更食後の眠気が来てなー、あいつら酷いんだ俺をババにしてババ抜きなんかしてんだぞ?不貞寝して眠ってやる……」
「あはは、それは楽しそうだね!僕も混ぜて貰ってくるよ」
「食い付くとこそこか!」
思えば昨日も今日もイグニスとはカードの説明を求めたり、戦況や状況報告なんて言った難しい話ばかりしていたからお互い息も詰まるだろう。俺以外と話してきた方が、イグニスも羽を伸ばせるかもしれない。
イグニスの子供らしい側面でも見れば、ルクリースの誤解も解けるかもしれないし、そうなることを祈ろう。
本当は、道化師の疑問を尋ねたかった。それでも、イグニスにもわからないことはある。昼間に見た答えにくそうな申し訳なさそうな彼の顔を思い出す。それは一日に何回も見たいようなものではない。
少しは自分で考えよう。何時もすぐに彼を頼る癖を、何とかしなければ。せめて自分の前では彼が子供に戻れるように、俺がしっかりしなきゃいけないんだ。
俺は目を閉じ思いを巡らす。瞼の裏で、赤と黒の二人の道化師がずっと笑っている。その歪な笑みが焼き付いて、なかなか頭からはなれなかった。それは俺が眠りに落ちるその瞬まで、続いていたのだと思う。