6:Qui dormit, non peccat.
バトルシーンと呼べるものになったか不明。少々グロいかもしれません。ご注意ください。
この船も魔法のようだけれど、俺にとってはこの景色の方が魔法のようだ。最初は気分転換、風ほしさに来ただけだけれど、ここはいつまで居ても飽きない。見るモノ全てが新鮮で……フローリプのことを笑っていられないなと独りごちる俺。
見たこともない鳥や魚、変わる空の色、風の匂い。
それでも流石に冷えてきた。そろそろ降りようか。そう思った頃だ。甲板に上がってきたのはフローリプとルクリース。
片や、船内の探索にようやく飽きたのだろうか。片や、昼寝を終えたところだろうか。
「アルドール、そろそろ夕飯らしいぞ?気分が悪いと言って昼は抜いておっただろう?夕飯くらい食べろ」
二人はどうやら俺をわざわざ呼びに来てくれたらしい。
言われてみると、腹が空腹を思い出す。そういえば朝昼兼用だった食事は船酔いにやられた俺は放棄していたんだったか。流石にそろそろ収まってきたし大丈夫だろう。
「無理そうでしたら食べやすいものでも見繕って来ますけど」
「いや、大丈夫だ。流石に腹も減ったしな、普通に食べるよ」
「それにしても昨日見た星と全然違うんだな」
「そうですね。よろしければ食後にでも星座でもご教授致しましょうか?」
「私も見たいぞルクリース!百聞は一見にしかず!占星術は知識しかないから是非とも知りたい!」
「いいですよ。代わりに今度何か占ってくださいね」
二人も何だかうち解けつつあるようだ。昨日やりあった同士だとは見えない。下手したら殺し合いをしていて、今ここにどちらかが……もしかしたら俺がいなかったかもしれない。そんなことを思ってしまう。
それでも、そんな相手とこうして親しみを感じられるんだ。旅っていいもんだな。
そんなことを思いながら、二人に連れて行かれた船内の一角。開けたそこは調理場と食堂になっているらしい。
夕飯は新鮮な海の幸。
いつもは原型を止めないように調理された料理を食べていた俺やフローリプにとって、それはいささかあれな素材だった。
白目をむいた焦げた魚。つぶらな瞳でこっちを見ているエビ。次々と出される料理は作りたて。まだこの生魚の刺身なんか時折ぴちぴち動いている。
つい昨日、兄妹で殺し合いかけた俺たちが言うのもアレだが……自分に命の危険がないと知っていたも、こっちの方がお互いいくらか怖かったと思う。未知とは無知とは実に恐ろしいことだ。
(う、動いておるぞ!自称本の虫なのだろう!心当たりはないのかアルドール!)
(あるわけねーだろ……うちには『食材面妖集』とか『THE グロテスク』なんて本置いてなかったんだし。なぁ、昼もこんなのだったのか?)
(昼は保存食だったから……これは想定外じゃ)
こそこそと小声でやりとりをする俺とフローリプ。それに気にせず箸を進めるみんな。ルクリースなんかまかない料理なんかより
いや、でも……保存食じゃないって事はそれだけ手をかけてくれたんだろう。それを食べないのは悪いよな。それにいい加減空腹がやばい。目を閉じれば何とも良い香り。
(ええい、フローリプ!俺は先に彼岸に赴くぜ!)
(ま、待てアルドール!早まるな)
勢いよく齧り付いた白目の焼き魚。
「……あ、美味い」
ほどよく塩味が利いていてなかなか美味。
嫌がるフローリプの口に一欠片放り込んでやると、彼女も驚いたような顔。
「この面妖な生き物はなんじゃ?」
「こいつはデビルフィッシュつー奴ですよ」
気さくな数術使いがフローリプに解説してくれる。
「これを火で炙ってワサビ醤油を付けると美味いんですよ」
「なるほど……」
じっとフローリプが切り分けられた足を見つめる。刹那、その場にいた誰もが感じた熱気。それが引くと香りよい香ばしさが鼻孔をくすぐる。
突然のことに首をかしげるフローリプ。そんな彼女に数術使い達は驚嘆の眼差しを注ぐ。
「……驚いた。純血の……こんな小さなお嬢さんがここまで数術を使いこなすとは」
「…?今のは私がやったのか?」
デビルフィッシュの足を焦がしたのが自分なのだと教えられ、フローリプはますますわけがわからないといった顔。
イグニスもこれには驚いたようだったが、一人だけ納得したように頷いた。
「なるほど……あなた方はクラブのカードでしたね。クラブの性質は炎。そういう風に具現化されることもあるかもしれません」
「どういうことだ、イグニス?」
「もともとフローリプさんには数術の才がありました。けれど普通、この船員達のように何十年も修行を積まなければ、直感が他人より多少すぐ優れている程度……占い師程度が限界でしょう。けれど貴女はカードに選ばれた。その数値改竄がなんらかの変化をもたらしたのかもしれませんね……なるほど、これは興味深い」
「よくわからないが、これで少しはアルドールの役に立てるのか。実は剣は重いし困っていたところだったから助かるぞ」
「えーフローリプ様ずるーい!イグニス様!私も何か使えるようにならないんですか!?」
「貴女はもうコートカードで幸運値に守られてますから、難しいですね」
「えー……がっかりです」
「ご謙遜を。貴女は十分お強いじゃないですか」
「嫌ですわイグニス様ったら。私は普通のどこにでもいるようなカーネフェリーの女の子ですよぅ!そりゃあちょっと非凡なくらい可愛かったりスタイルが良かったりはするかもしれませんけどぉ」
ああ、いつものルクリースだ。そのやりとりに何故かホッとしている自分に気付く。
彼女のおかげでにぎやかになる食堂。船員の一人が俺に話しかける。初老の老人だ。恐らく何十年も修行を積んだ数術使いなのだろう。
混血の方が力に開花しやすく、その力も強大。それでも彼等を連れてこなかったのは、カーネフェルの情勢のせいだろう。護衛もカーネフェル人だった。
「愉快なお連れさんですね。ご兄弟で?」
「え、はい」
一瞬、言い淀んだのはフローリプと俺の目の色の違いのせいだ。それでも兄弟と呼んでもらえるのは嬉しいモノだ。
「よくお気づきですね。どの辺でわかりました?」
「いや、見りゃわかりますよ。そっくりじゃないですか。髪の色も同じだし、目の色もお二人とも……綺麗な青ですから」
「え?」
それが俺とフローリプを差していないことに俺はようやく気付く。老人が見ているのは、俺とルクリース。
俺は老人の視線の先にいる、ルクリースに目を留める。俺たちの視線に気付いたらしい彼女が微笑む。その色……言われて初めて気付く。俺の青に、よく似ている。偶然と言えばそれまでだ。こんな色、どこにでもある色だ。同じカーネフェルなんだから。
「そうですか?俺は貴方みたいな色の方が好きですけど」
「ははは、それは嬉しいですけどな、私の色なんてありふれた薄れた色ですよ」
老人の瞳は明るい空色の青。それを褒めることで話題をそらそうとした俺だったが、それは更なる墓穴に繋がる。
シャトランジアのカーネフェル人は大抵緑の瞳。それに俺は引き籠もり生活。言われてみれば……他に青い目の人間なんて、殆ど見ていない。だから傍にいた彼女のその色が一般的なモノだと思いこんでいた。
いや、思い出せ。読んだことがあるはずだ。記憶の中の辞書を俺は漁る。
曖昧に笑って誤魔化す俺のそれを照れだと勘違いした老人は、答えを俺へと与えてしまう。
「私は貴方のような高貴な色に憧れますよ」
俺の家は、普通の家だったはずだ。高貴さの欠片もないような平凡な生活だったんじゃないのか?上手く思い出せないけれど、それはつまりそれだけ取るに足らない……トリオンフィ家の家の生活の記憶に埋もれてしまうような底辺の生活だったはず。そもそも高貴な家なら、俺を売るはず無いじゃないか、金のために。
俺のことはひとまずいい。置いておこう。
それが偶然だとして。
昨日ほんの少し教えてもらったルクリースの話。西から東、北に南に…波瀾万丈だったらしい船旅の話。幼い頃からそんな生活に追い込まれた理由とは何だろう。
(ルクリース……)
彼女のことを少しわかったつもりになっていた俺だったが、それは誤りだったのだと気付かせられた。
彼女のこと、結局何も知らないんだと実感する。
話したくないような、過去なんだろうか。彼女がそれに触れられたくないのなら、俺はそれに触らない。
いつか話してもらえればいい。今日が駄目でも、明日か……何時か。
*
星空に浮かぶ星座達。それは実に興味深い。
ルクリースは無学な使用人だと思っていたけれど、なかなか見所がある。実学というのだろうか。星座だけじゃない、星の一つ一つの名前まで覚えていたり。風の読み方、方角の調べ方…数え上げたらキリがない。
だから、それなりにこの時間は楽しいはずなのだ。それなのにそう思えないのはすべてあいつのせいだ。
「…………つまらぬ」
「あら?私と二人っきりはお嫌でしたか?」
「そ、そう言う意味ではない。誤解するでない。私は唯……」
「仕方ありませんよ。日中ずっとデッキに出ていたんですよ?日光浴なんて慣れないことするから……」
私の考えもアルドールのことも全て見透かしたようなその声。数術の要素もないのに、どうしてそんなことがわかるのだろう。
昨日から少しばかり気になっていたことを口にしてしまったのは、そんな彼女が羨ましかったから。そんな気がする。
「ルクリースはアルドールをどう思っておるのだ?」
「好きですよ?」
さも当然と言わんばかりの即答に、私は一瞬言葉を失う。
使用人の癖にとか身分を弁えろとかいろいろ言いたい言葉はあるにはあったが、潔良すぎるその言葉にそんな気力も消え失せ「…そうか」と頷くのが精一杯。
「でも、フローリプ様の好きとはちょっと違いますけれど」
「好きに同じも違うもあるのか?」
「ありますよーふふふ、フローリプ様はあれですね。人生分かり切った感じに悟ってる癖に実はあんまりわかってないんですねぇ」
可愛らしいことと笑うルクリース。コレはどうやら馬鹿にされているらしい。
「フローリプ様、私はアルドールが大好きです。だからアルドールを泣かせる奴が大嫌いです。だから私はそんな人にアルドールをあげたくないんです」
お前は何様だ。そう言いたくなるようなルクリースの言葉。言わなかったのは、それは誰に向けての言葉なのか、この頃の私はまだわからなかったから。
言わなくて良かった。そのすぐ後に彼女は私の頭を撫でるのだ。無礼者と振り払いたかったけれど、そんなことをしてくれたのは……アルドール以外に初めて。父様だって母様だってそんなことはしてくれなかった。姉様だって……
「でも、フローリプ様はそんなことしないでしょ?だから私はフローリプ様も好きですよ」
何をしてるんだろうな、私は。
一昨日の夜はこのカードに選ばれて。昨日はアルドールを殺そうとして、ルクリースに止められて……今日はそんなメンバーと船旅。謁見したこともない次期神子様も一緒だ。目まぐるしいくらいいろいろなことがあって、よくわからない。炎の数術を仕えるようになったはいいけれど、先読みの勘は鈍くなっているようで……明日は何が起こるのかもよくわからない。
「頑張ってアルドールを悪い人から守りましょうね」
「……あいつは頼りないからな」
「その内頼もしくなってくれますよ」
「それは今は頼りないのは認めると言うことか」
「あら、バレました?」
アルドールの居ぬ間にそんなことを語り合い、私達は笑いを零す。
「さて、それじゃあ星のお話はこのくらいで終わりにしましょうか?もう目印星が傾いてきています。そろそろフローリプ様のお休みの時間でしょう?」
「ルクリースはまだ帰らないのか?」
「私は昼間ずっと寝てましたから、食後の運動でもしようかと思いまして」
そう言って彼女が服の至る所から取り出すは、ナイフに短剣、何十という刃物。この女はこんなものを忍ばせていたのか。
荷物の少なさには驚かされたが、アレは身の回りのモノなのだろう。
つまり、この刃物達は肌身は出さず身につけているということか?
ぞっとする。昨日は持っていたか居ないかは判らないがそれを磨く手つきは実に手慣れている。昨日彼女を斬っていたら……多分私は今ここにはいない。それを空気と肌が教える。
「都へアルドールをお連れするまで何があるかも判りません。給料分くらいの働きはしませんと」
「それ、どうしたんだ?シャトランジアでそんなものを売っているのは見たことがない」
「そりゃそうですよ。シャトランジアは刀狩りで兵士と貴族以外剣は持てませんからね。兵士は配られますし貴族はセネトレアから買いますし、シャトランジアで売る必要性がありません。売ろう物なら法律でしょっ引かれます」
物珍しげにそれを見つめる私にルクリースが笑う。
「ナイフや短刀なら、女の子でも振り回せますよ?よろしければ一、二本差し上げますか?護身用にもなりますし」
「……え、いいの!?」
良く見てまわると刃物の山はナイフだけではないようだ。
「これは何だ?」
一、二本……その山の中に長剣が混ぜられていた。
どういうものなのかは見てのお楽しみと教えてもらえなかったけれど、どうやら仕込み刀のようなものらしい。作ったのかと尋ねると、まさかと彼女に笑われる。
「昔セネトレアにいた時期がありまして。こんなの使うの、久々でちゃんと上手く使えるか自信ないなぁ」
「あんな危険な国に、お前一人で行ったのか?」
「ええ、どうしても欲しいモノがあったので。でもいい武者修行になりましたよ。強くないと生きられない国ですからねぇあそこは」
驚く私にルクリースはけらけらと笑い飛ばす。
「フローリプ様も安心してお休み下さい。私は強いですから、ちゃんと守ってあげますよ」
「ば、馬鹿にするな!」
子供扱いされたのがなんとなく気に入らず、私はそれこそ子供みたいな態度で腹を立てながら甲板を下る。
そして階段を下り終えた後、なんとなくさっきの言葉が蘇る。
「どうしても、欲しいモノ?」
それはいったい何だろう。
そして彼女はそれを手に入れたのだろうか?
気になったけれど、もう一度聞きに戻るのも何となく癪だ。
しかし、気になりすぎて眠気がさっぱりやって来ない。アルドールの所に遊びに行ってやろうかとも思ったが、あれでも病人だ。夕飯食べ終えた後になんかだるいなーとか言い出して、見て貰ったら日射病だなんて、本当情けない。
でもこんなに情けないんだ。もし、ちょっと目を離した隙に殺されてはいないだろうか。不安に駆られた私はアルドールの部屋へと足を運ばせる。ギィという木の音で開いた部屋。鍵もかけていないのか、不用心過ぎる。明日にでも文句を言ってやろう。そう思ったのに……
「な、何者だ!」
私はルクリースから貰ったばかりのナイフ構える。
暗い室内。寝台の横に立つ人影。その手は寝ている兄の首へと伸びていく。
「アルドールから離れろっ!」
持ち歩いていたお気に入りのカード。そんなことは言っていられない。それを人影に投げつけ、発火。
燃えてしまえ。そう念じるだけでそれは現実へと変わる。
投げつけたカードは人影を取り囲み浮遊し、その姿を照らす。
「……神子、様?」
薄い金色の髪。琥珀色の瞳。それでもそこに浮かぶのは優しげな彼都は違う、邪悪な笑み。
別人なのだと気付いたのは、どうやらそれが女の子らしい服装をしていて、髪の結い方も彼とは違っているを見つけてから。
それでも、そっくり、うり二つだ。
何か悪い冗談で、神子様が女装でもしているんじゃないか。そうでも思った方が余程現実的。
けれどそれが別人なのだとはっきりと教えられる。目を覚ましたアルドールがその人の名を口にしたことによって。
「ギメル、……どうして、お前がここに」
「アルドールったら私にお別れ言いに来なかったでしょ?だから会いに来ちゃった」
そう言えばアルドールは言っていた。かつてアルドールが失った友達。それは、神子様と……もう一人。
彼の双子の妹。それが彼女だというの?
聞いていた話では、可愛くて優しくて天使みたいななんとやらみたいなことを言っていたけど……美化されすぎではないか。
確かに可愛いは可愛いけれどこれは天使なんてものではないだろう。悪魔とか魔王とかもっと禍々しい名前の何かだ。小悪魔なんてもんじゃない、大魔王とか呼んでもまだ物足りないくらいなのに。そんな相手を目の前にして、どうしてそこで照れるの!?今の今までその子に首絞められてたの、忘れたの!?
そんな愚かなお兄ちゃんでも……流石に突然彼女が現れたことには驚いたよう。
「会いにって……」
アルドールが疑問を口にした途端、彼女はにっこりと微笑む。有無を言わせずにっこりと……
「嬉しい?嬉しいでしょ?嬉しいよね?」
「…あ、ああ、うん、はい、嬉しいです」
「あは、よしよし良い子良い子」
わしゃわしゃと乱暴にアルドールの頭を撫でるその女。
ちょっと待て。何この女。
神子様と同じ顔だからって何調子に乗ってるの?気安く私のお兄ちゃんを、何アレ、何アレ……犬扱い?
燃えてしまえ燃えてしまえ、あの女消し炭なれ。なんで効かないんだ。さっきは簡単に燃えたじゃない。
私の呪いの言葉は、ことごとく無効化される。その答えは至極単純。本人が暴露してくれた。
「私は混血。数術くらい使えるよー。アルドールのいるところならーいつでもどこでも飛べるんだからぁ」
私が数術使えても、生まれながらの潜在能力値が桁違い。この女を私がどうこうすることは出来ないのだ。
おまけにベタベタくっついてくれたせいでカードの炎をぶつけようにも、アルドールも巻き込んでしまう。
今の私にはアルドール自身にそれから離れるよう、促すことくらいしか出来ない。
「……油断するな!そいつは今、お前を殺そうとしていたんだぞ!?」
「だってー私遊びに来たのに寝てるとかありえないじゃないー首絞めたら起きるかなって」
「起きるかなって……もし死んだらどうするの!」
「え?どうもしないけど?」
その声が部屋に響いた刹那。風もない部屋の中…ギィイという音を残して背後の扉が閉められる。駆け寄るが、開かない。鍵は内側にある。開かないなんて事、あり得ないのに。私の焦りを、女は嗤う。私が数術を向けたことを根に持っていたのだろう。逃がさないから、と女の口が弧を描く。
そして私の逃げ場を無くして、私がどこにも逃げられないことを知った上で彼女は言う。
「アルドールは私のモノだし。私のこと大好きだし。その時はその時だよねアルドール?」
「アルドールは私には殺されても仕方がないと思ってるし、殺されても良いって思ってるんだよ?貴女には殺されたくなかったみたいだけど?」
「そ、そんなことない!アルドールは、私にも殺されても良いって言ってくれた!」
「あの時だけでしょ?今はもう無理無理。アルドールは国を、国民を、奴隷を、混血を背負わなきゃいけない。天秤が貴女に傾くことはもう絶対にあり得ない」
私が聞きたくない言葉を、雨のように降らせる。
耳から言葉が入り込む度、酸の雨が私の心に穴を開けていく……
「それでもアルドールは私なら別。国も奴隷も混血も投げ出して、私のために何時でもどこでも死んでくれるの。それって凄く特別ってことだと思わない?」
「ギメル……俺をどう言うのも君の自由だ。殺されても仕方がない。それも事実だ」
「なんだ、わかってるじゃない。でもアルドール、貴方の顔はどうもわかってるようには見えない気がするな、私の気のせい?」
「俺のことは良い。それでもフローリプは俺の妹だ。彼女を悪く言うのは、兄として俺が許さない。君を誰かがそう言ったなら、きっとイグニスだってそうするはずだ」
私を庇うように立ち上がったアルドール。その背中は傷付いた私の心も守ってくれているようだった。
情けない。私が守らなきゃいけないのに。
「ふーん……まだわからないのかぁ。私ね、別に起こしたくて絞めたわけじゃないんだよ?」
そんなアルドールの態度が気に入らなかったのだろう。彼女は従順な犬は撫でても、刃向かう犬には容赦しない。
これじゃあまるで……母様だ。
過去のトラウマにより、アルドールの身体が強ばる。
愛する人がもっとも憎むべき人間と同じモノになり果てた今、アルドールはそんなものは見たくないはず。私が、その目を塞いで守ってあげなきゃいけないのに。……それでも、私の足は根が生えたようにその場所から動けない。
私の葛藤の間も時は止まらずすすみ続ける。
彼女は笑顔のまま思い切りアルドールの髪を掴み勢いよく手を横に引っ張る。掴む量と位置が違っていたら、首をひねって殺されていたかも知れない。この女はそれでも構わないと、ついさっき言ったのだ。
「アルドールが、ムカついたからそうしただけ。何女侍らせて優雅に船旅?何様?あはは、王様って?あははははは」
けたけたと笑う愛らしい声。それが突然ぴたと止み、暗い光を宿した瞳が此方を向いた。
「そうそう、それからね、私……ただ手ぶらで会いに来たワケじゃないんだよ?アルドールにね、プレゼント見せたくて頑張って来ちゃったよ」
彼女が指をぱちんと鳴らすと……空中から何か黒いモノが現れる。それは蛙の潰れたような気味の悪い音と共に、床へと叩き付けられて、一面へと飛び散った。
アルドールが庇っていてくれたけど、床からには私の方が近い。私のスカートはその液体に汚される。
頭がくらくらする。嫌な臭い。ここにいたくない、おかしくなりそうだ。
アルドールの足の間から見えるのは見たことのあるような服の切れ端達と、見たことがあってはならない、バラバラにされた何か。知識として知っている内蔵や器官が目の前に転がっている。そんなこと、あってはならないじゃない。どうしてそんなものが、床に転がっているの?ああ、……唯一細かくされていないそれは。大きな鞠のよう。
「父様、母様っ…………?」
やっとの事で絞り出したのは女の嘲笑に掻き消されそうなか細い呟き。
「復讐って楽しいよねぇ!生きてるって感じがしてさぁ!あははははははは、ざまぁ!成金貴族が調子に乗ってるからこういうことになるんだよ!アルドールもこいつら憎かったんでしょ?一緒に笑おうよぉ!アルドールぅ!」
呆然としたまま何も発することが出来ないアルドールの頬を、女はペチペチ手で叩く。女の身長じゃ届かない。
「ねぇアルドールぅ?これ、見覚えない?ないかぁ、無いよねぇ?」
だから彼女はそうした。切り取られた誰かの手を掴み、彼の頬を叩いた。
その手の甲に刻まれた紋章は、私達と同じクラブの紋章。掌に記されたのは、上から二番目。アルドールの次に……弱い数値のその証。
私にはそれが誰のものだか判らなかった。だから、一瞬安堵した。
私でも、アルドールでも、ルクリースでもない。息を吐いたその刹那、私はその息の罪深さを思い知る。
「止めろ、止めてくれ……あの人は、姉さんは何にも悪いことをして無いじゃないか!」
「…ねえ、さん?」
アルドールの悲痛な叫び。
アルドールが姉と呼ぶ人は……それは…………それは、私の姉さんだ!
「あは、正ー解♪」
もう一度パチンと鳴った乾いた音。それが送れてもう一つ分の肉片と首を空中より降り注がせる。
真っ白なシーツの上に落とされたその首は、……今朝別れたばかりの姉さんだった。どうして?朝はちゃんと首が身体についていたのに。当たり前のようにそうなっていたのに。どうして今は、そんな……当たり前が当たり前とは呼べないの?
「アルドール、忘れ物してたでしょ?ハイ、やっぱりこれはアルドールの方が似合ってるよ」
アルドールにリボンを付けて貰った貴女が、ちょっとだけ羨ましかった。
ごめんなさい、お姉ちゃん。
血まみれのリボンは解かれ、笑顔の女は血まみれの手でアルドールの髪を結う。
「カードは、カード以外に……殺せないんじゃ、ないのか。なんで……なんで姉さんが死ななきゃならないんだ」
「だって、この女アルドールに色目使ってたし気に入らなかったんだもん。それに私をあんな所に売り飛ばした、憎い女の血がたっぷり入ってるんだよ?半分血抜いたら許してあげようと思ったけどさぁ、半分抜いたら死んじゃった、あはははは!」
アルドールは泣いている。情けないけど、私はそんな彼の情けなさに救われていた。
だって私は泣けない。この部屋の全てが受け入れられず、思考が宙ぶらりんになってしまっていた。
彼が泣いてくれたから、私は今……泣いて良いのだと理解し、頬を流れるモノが生まれる。
「あはは、私アルドールの顔は好きだから首の剥製でも作ろうと思ったの。でも泣き顔が一番好きなんだってわかったから止めるよ、剥製は泣いてくれないもん、つまらない」
「ねぇアルドール。私のこと好きだよね?許してくれるよね?こんなにやっても許してくれるなんてやっぱりアルドールは優しいなぁ。そんなに私のこと好きなんだ、照れちゃうよ」
跪き嗚咽を零すアルドールの頭をよしよしとなで回しながら女は微笑む。
これまでの邪悪なモノとは違う。無邪気な笑み。
だからこそそれがとてもこの空間と不釣り合いで、彼女の狂気の丈を私の瞳に焼き付ける。
突然女は、思い出したようにぽいっとアルドールの首を放り投げる。
力なく床に倒れた彼に駆け寄ると、心配ないというように無理して彼は立ち上がる。
「ああ、そうだった」
女は今度の標的を決めたらしい。初めて、彼女の視線は私だけに注がれた。
「アルドールどいて。その後ろのもあの血が入っているんでしょ?それならさぁ、殺さなきゃ」
アルドールはどかない。
「どかないの?どけないの?私がお願いしても駄目なの?」
「それじゃあいいよアルドール。わたしはどいてとは言わないよ。私の代わりに、その女、殺してよ」
「お前なんか、ギメルじゃない!」
その一言を発するのに、どれだけアルドールが苦しんだか。そんなこともこの女はわからないのだろうか。
その言葉は自身に跳ね返り、彼の心をどれほど深く抉っているか、そんなこともわからないの?それでこの人を好きだなんて、よく言える。そんな口捻り切ってやりたい。そんな舌この手で今すぐ引き抜いてしまいたい。
「へぇ、私がギメルじゃないなら私は誰?ギメルは誰?言ってみてよ?貴方の大好きなーギメルちゃんはどこにいるの?認めなさいよ、私がギメル。ここにいる、貴方の目の前にいる!」
「俺の好きなギメルは、そんなことは言わない!呪いの言葉なんか吐かない!いつも誰かの幸せを願ってる、優しい子だった!」
「そうだね。でもね、そういう優しい私を殺したのは、アルドールとトリオンフィの家。私が変わったって言うのならそれは全部貴方達の責任。死んで責任取りなさい。そうしたら私も昔のギメルに戻れるかもしれないよ?」
私は母様が怖かった。
関心が向かないことに嘆きながらも、私はアルドールへの偏愛ぶりが自分に向けられることを恐れてもいた。
そしてそれは時折私に向けられた。代理品の、歪んだ愛だ。
それはあの人の気分次第。
アルドールに失望すれば、私を甘やかしてくれる日もあった。逆に思い通りにならないアルドールへの苛立ちを私にぶつける日もあった。
地下室と道具のこと。どうして姉さんが知らないで私が知ってたか。
それは私も連れて行かれたことがあったから。アルドールと同じ。私だって他人に見せたくない傷跡がいくらでもある。
でも、私はこの女がもう怖くない。私以下の、何もわかっていない駄々をこねている子供にしか見えない。
本当の恐怖は、そんなものではない。
私は怖い。怖いよ。最後の家族を失ってしまうことが、怖い。
だから、貴女は怖くない。
「……戻れるわけ無い。貴女がそうなったのは貴女のせい!他の誰かにその責任をなすりつける事しかできない貴女が他の貴女になれるわけないじゃない!貴女はつまらない人間!空っぽよ!復讐?どうぞやればいいじゃない!そんなことしたって、貴女の中身は埋められない!何時までも空っぽのまま!そうやって生きてそうやって死んでいく、つまらない人生!誰かの何かのせいにしなければ生きることも出来ない弱い人間なんだ!あんたこそ今すぐ死ねば?その方がよっぽど貴女は幸せになれるから!」
アルドールの前に進み出た私に、女は満足げに嗤う。
「死刑台立候補?良かったねアルドール、手を汚さずに済んで」
私の首にてをかけようとしたその手を私は両手で掴む。
「……っ、これは!」
その熱さに驚枯れても構うモノか、この手は絶対に放さない。
(燃えろ、私なんかこの女ごと、燃えてしまえ!)
いかに相手が強大な数術値を持っていて、私のコレを無効化できるとしても。触れた手の温度は物理攻撃。数術だって瞬時に無効化できるはずない。
これで倒せるなんて思わない。一瞬で良い。こいつの数術を破れれば!
「……ルクリースっ!」
守ってくれるって言ったんだから守りなさいよ!
他人任せでも構うモノか。こっちは命賭けなんだ。命賭けてまで貴女を信じてやるって言ってるんだ。これで来なかったら呪ってやる。死んでも呪ってやる。絶対に呪ってやる。
私はオーバーヒートで倒れる寸前、ひび割れる大きな音を聞く。
床に私が落ちた音じゃない。だって、私はアルドールが抱き留めてくれたから。
火傷するっていうのに、馬鹿な……お兄ちゃん。
*
異変には気付いた。気付かせてくれたのは、お嬢様の声。
あの子が私を呼ぶなんて、緊急事態。階段なんか降りてられますか。ナイフを片手に私はデッキを飛び降りる。
ナイフを船にぶっ刺して、望みの部屋の外で止まる。勿論船内の構造は最初に点検済みのインプット済みだから間違える理由はない。
身体を船から離し窓硝子を蹴り破る。
「……窓から失礼。でも貴女ほど不作法ではないですね」
緊急事態も緊急事態だ。こんな事が起きるまで外には何一つ音は聞こえなかった。
部屋は血溜まり転がる首を一瞥するが、どうにも見覚えのある顔ばかり。
そしてその顔ぶれは、絶対にこんな所に転がっているはずはない者達。目の前のこの来訪者は、普通の人間ではない。数術使い。それもかなりの力を秘めている。
だが、倒せないわけでもない。
私の方を振り向く少女。その顔に私は息を飲む。事前に聞いていなければ、彼を疑っていたところだ。
昨夜のアルドールの様子のおかしさは、おそらくこの子のせいだろう。
「ふーん、貴女がクラブの女王様?」
手袋の下の数値を読み取るなんて、どこまで見えているのやら。プライバシーの侵害も甚だしい。本当、数術使いなんてみんな死んでしまえばいい。
彼女の後ろにはアルドールの姿が見える。彼が抱えているのがお嬢様。ぐったりとしているが、命に別状はないようだ。
よかった。それなら私はこいつの相手を全力ですればいいだけ。
「でしたら、何か?」
倒すにも転がすにも泣かすにも、まずはこいつがどのくらいの使い手なのか見極める必要がある。
数術使いは厄介だ。しかし本人が筋力や体力まで兼ねそろえている場合はまずない。だから物理攻撃は効くし、接近戦に持ち込めばどうにでもなる。
それでも、数術は厄介。なにせ彼等は私達がこの目で見ているモノの真実を歪めさせる。もしかしたら、この光景は全て偽物、そういうこともある。
だから私は目を閉じる。見て惑わされるくらいなら、見ない方がマシ。守るつもりで守るべき人を斬ってしまう事がないように。
これが、数術使いとの戦い方の基本。万物を司る数術が唯一操れないモノ、それが音だ。
耳から得られる情報も馬鹿にはならない。音の反射で距離、呼吸の数で生きている人数、その気になれば声から相手の表情だって推測できる。嘘だらけの世界だ。こっちの方が余程、よく見える。
「お嬢様達への無礼、ここでまとめて支払っていただきましょうか」
「いいよ、やってみたら?」
声が違う。やはりあの人ではない。
感情も全く違う。悪意を隠そうともしない、こんな声。アルドールより年下の女の子が話すような声じゃない。
なるほど、地獄を見てきたというのもあながち嘘ではないらしい。
セネトレアを生き抜いてきたのなら、内面が歪むことも……よくあることだ。
唯、この子は底が知れない。
何を考えているのか。感情が異常すぎる。シンクロして考えようにも、私はそこまで歪んでいない。
お互い間合いを取ったまま、しばらく無言でにらみ合う。先に根負けしたのは相手の方だった。
「……といいたいところだけど、今日はこの辺にしておいてあげようかな」
「あら、逃げるんですか?」
私としてはありがたい。それでもこれだけのことをしてくれたんだ。これ位は言わせろ。
私の挑発に、少女は考えるような素振りを見せる。そして、非常に腹立たしくも……私の負けを前提に話を続ける。
「別にやってあげてもいいんだけど、早々に退場したい?」
この女は何を言っているのだろう。
この余裕はどこから来る?演技じゃない。嘘もない。彼女はそれを心の底から信じているのだ。
それは、ありえないこと。
どんな猛者とて、常に自らの敗北の可能性を頭の隅に置いている。そうでなければ勝利もまた、その者には存在しないから。絶対も100%もこの世界には存在しない。心身を鍛え狡猾に生きれば、限りなくそれに近づくことは出来るだろう。それでも、ちょっとした些細な変化で、それは揺らいでしまうのだ。そのマイナスを不運と呼ぶのなら、勝負を分ける何%かは運によって構成されている。そう言ってもいいかもしれない。
この女は、自らの幸運の絶対性を信じている。その揺るぎなさは、もはや異常。
その異常さに、私の肌に走る戦慄。
(この子は歪んでいるんじゃない……壊れてるんだ)
人が人であるべき境界。それを彼女は踏み越えた。
だから、理性もない。倫理もない。道徳もない。慈悲の心の欠片もない。
あるのは人が持たざる悪意と残虐性。
そしてそれに罪悪を感じられる心もない。
(人形は……この子の方じゃないか)
悪意の操り人形。その人形から伸びる糸がアルドールに絡まって、彼を同じモノにしようとしている。
そんなの、私が許さない!
私は両手に持てるだけのナイフを取り出し、いつでも標的を殺せるように身構えた。その動作がこの女には、小動物の怯えか何かに見えたのだろう。小気味よい高笑い。彼女は歌うように言葉を紡ぐ。
「……私はハートの女王」
衣擦れの音。息をのむアルドール。それが彼女の言葉が真実なのだと私に伝える。
「ハートはすなわち水の聖杯。ねぇ、火の棍棒のカードさん?貴女達で私に勝てると、本当に思っているの?」
私が数術への知識を持っていることを知った上で、彼女が語る。
万物に宿る数値。彼女の言うように、ハートは聖杯の象徴。それが意味するは四大元素の一つである、水の力。
そしてここは海の上。長丁場になるのは確かでも、彼女が負ける要素はどこにもない。
クラブの私が勝てるとしたら……街中燃やすか火山にでもこの女を連れて行くかでもするしかないだろう。そんな無茶苦茶な。
四大元素が味方したから、だからこそこの女はこんな大それた事を可能としたのだ。
しかし、女王とは。私が勝てると絶対されたのは、ジャックまで。私はキングとジョーカーには絶対に勝てない。
クイーンに対しての明言はされていないが、全うに考えるなら同士討ちが妥当なところだと考えていた。けれども、それは間違いだった。
「私と貴女は女王同士。メイトカードについて、あの詩は教えてくれていないモノ、わからないよね。リスクも何にも教えてくれないんだもの」
私の知る由もないことを嘲笑い、それでも自分は知ってるよと女は自慢げにそれを語った。
こんな女が聖職者のハート?世も末だ。
「コートカードは特別。コートカードのメイトカードの戦いは、数兵を巻き込むよ。例えば今私と貴女が戦ったとする」
「私が勝った場合、クラブは貴女以下のカード全てが殉じる。アルドールも、そこのちっちゃな女の子もね。そんなリスクを抱えたまま、戦っても良いの?私は別に同じスートの誰が死のうがどうでもいいから気にしないけど」
せめて……他の元素。
ダイヤは地の金貨。まだ陸じゃない。それに土は水と相性が良すぎる。お互いの数値を増して、尚更決着が付かない。
窓から吹き込む風。ああ、そうだ。ここにあるのは水の元素だけじゃない。風もあるんだ。
スペードは風の剣。もしここに誰か一人でもスペードが居れば、私達の火の元素を後押ししてくれる。この女の水の力だって蒸発させられるかも知れない。
でも、無理だ。スペードはタロックに配置されているカードだと神子様は言っていた。敵の力を借りなければ、この女を排除することが出来ないなんて。いや、そもそもこの状況が間違っているんだ。
どうしてカーネフェルと友好的なシャトランジア、そのハートのカードが私達に牙をむく?
いや、そんなことは今はどうでもいい。
カードに選ばれたことで私達の身体を構成する数値が、書き換えられたことは神子様から聞いている。
お嬢様の発火能力の覚醒から考えるに、四大元素に感化されやすくなった、そう考えるべきか。
それは事実だとしても、この女が話したことのどこまで本当かわかったものではない。この女は敵だ。それは事実だ。だからこそ私達に真実の情報を与える必然性が、この女にはないのだ。
私達を嘲笑うようなその口調からは、真剣味が感じられない。先ほどのような絶対の自信と言うよりは、無知な私達をからかっている。そんな口ぶり。その言葉が真実かどうかを確かめる術はない。要は私達を悩まし、苦しめられればいい。本当でも嘘でもどっちでもいい。彼女は困らない。
(それでも、それが事実なら?)
惑わされるな。相手は幻覚が効かない私を惑わすために、言葉の魔術を始めただけだ。
冷静に考えろ。私は何をすべきか。アルドールとフローリプを守ること。
「……っ、純血、風情がっ!」
目を開ける寸前。私が聞いたのは、口惜しげな女の声。
数術使いは頭は読めても心は読めない。見事に引っかかってくれたようだ。
「なんでも頭と心を切り離せたら、人間なんかやってられませんって」
それらしいことを考えて、身体が勝手に動いたって奴です。
自分の頭を騙すくらい、何、簡単なこと。伊達に何年も騙してませんから、自分も他人も。
セネトレアから生きて帰ってきたとは言っても、この子は混血。すぐに買われたんでしょうよ。壊れた切っ掛けはあの街じゃなくて、飼い主の方。
このガキが私より処世術に卓けているとは思えなかったし、試してみて正解。
口惜しそうに歯噛みする女。動けない。逃げられないでしょう?無理にそんなことすれば、数術使いだって生身の人間。切れるし痛いし死にますよ。
先ほど私の抜いた剣は、お嬢様が目を留めた一品。
普通の剣にしか見えないけれど、正しい抜き方によってそれは正体を表す。
素早く薙ぎ払う刃は蛇のように伸び、少女の身体に巻き付いた。細かくなった刃は彼女と同じ、悪意の欠片。それを繋ぐ糸さえも、細身で小柄な女の肉など簡単に切り落とせる恐ろしい鞭。奥様が使ってた鞭なんか、まだ可愛げがある。このまま引けば、彼女の身体も床に転がる彼等と仲良く同じ姿になるだろう。こうしてしまえば数術など恐れることもない。私は思いきり彼女を嘲笑う微笑みを向けてやる。
するとどうしたことだろう。それまで口惜しげだった彼女の顔が、突然満面の笑みへと変わる。まるで私の笑顔に応えてくれたようではないか。
まただ、どうしてここでそんな顔になる?一秒後に自分が死ぬかも知れないのに、この絶対に自信……
「………うん、合格!アルドールには勿体ないくらいだけど、暫く護衛任せてあげるよ」
「……何の話ですか?」
「アルドールは私が殺す。でもそれは今じゃない。だからその時まで誰かに取られちゃ嫌でしょ?それまで貴女に守らせてあげる」
彼女が未来に彼の脅威になるのなら。私は迷わず剣を薙ぐいだ。
しかし、少女はそこに立っていた。今も尚、そこに立ち続けている。
「あはは、もし私が実態ごと来てたなら貴女の勝ちだったんだけどね。思念体じゃかすり傷一つ付けられないよ」
見れば、私の手元に戻ってきた刀身は……得物の血を啜りもせずに、綺麗なまま帰されている。
少女の言葉にアルドールが疑問を零す。
「あれが、……思念体?」
「結構力込めたから、最初の何分かは実体並みの働きしてくれたんじゃない?いやー見事にみんなひっかかるひっかかる。おかしいったらないかったよ」
後で聞いたことだが、その数分の彼女にアルドールは首を絞められたらしい。それも、少女の物とは思えない、もの凄い力で。
「あは、残念!ここにあるのは確かに立体映像だけど……今私の足下に広がってる景色をそっちに転送してあげてるだけだから安心して」
これが実体ではないなら、これはまやかし?
そんな希望を無惨に打ち砕く。持ち上げて、すぐ落とす。なんて美しくない落とし方。
「その女の子も馬鹿だね。攻撃なんか効くわけないじゃない。私はここにいないんだから。それで自分で自滅するなんて本当に馬鹿。血も繋がっていないくせにアルドールの妹なんかなっちゃたから馬鹿なところ移っちゃったの?かっわいそうに!」
「それ以上二人を愚弄してみろ。実体だろうが思念体だとうが、容赦はしない」
腹を抱えて笑う少女の目尻には涙まで浮かんでいる。こんなあからさまで安っぽい挑発でも積み重なれば見過ごせなくなる。
それに私の怒りが頂点に達したその刹那、開け放たれる扉。そこから駆け込んでくる少年の姿に、私の頭は冷静さを取り戻す。
「アルドール!」
「イグニス…!」
神子様が扉の数術を破ったのだろう。
窓にもそれはかけられていたけれど、お嬢様がそれを破ってくれたから私はここへ辿り着けた。
私はこの二つの点に、疑問を覚える。
破られていたものが張り直された?その前に私が飛込んだ?
それならその時、扉も開いていたはずだ。声は、聞こえたはずだ。
どうして神子は、このタイミングで現れる?
向こうでも何かがあったのかもしれない。そう考えるのが普通……でもこれだけの悪意を振りまいた女と同じ顔の彼。
彼が悪くないなら濡れ衣。その可能性も高い。
それでも私は、この少女と同じ顔の少年まで……今この瞬間、憎悪の対象として認識していた。
だから彼の驚愕の表情も、私はどこまで信用するべきか考えあぐむ。
「……ギメル!?どうして、ここに!?」
「やっほーお兄ちゃん!ギメルね、暇だったから遊びに来ちゃった☆」
「お前は、そんなこと……出来ないはずじゃないか!それに、数術だって……」
「うん、そうだね。生身の私はお兄ちゃんの足元にも及ばないよ」
「そんなことはどうでもいい!どうしてお前が今ここにいる!?お前はずっと寝ていたはずだ!今日も昨日も一昨日も!」
「イグニス、何を言ってるんだ?だって俺……昨日、教会でギメルに会ったんだぞ?」
「君は、ギメルの部屋まで行ったんじゃなかったのか?」
「いや、違う……俺は、聖堂で」
「そんなこと、あり得ないんだアルドール……」
「ギメルは、……昏睡状態なんだ」
少年達のやり取りに、少女はさもおかしいと言わんばかりの満面の笑み。
「これは夢なの。私の夢なの。夢は眠り、眠りは死。死は零の神。零の神は私の味方。私はお兄ちゃんの片割れ、真逆。だから私は何でも出来るの」
少女はパチンと指を鳴らして……悪夢の惨状を消し去り、もう一度。その音が聞こえたとき、そこには彼女はいなかった。
床には座り込んだアルドール。アルドールに抱きかかえられたお嬢様。扉の近くで惚けている神子様。
そして、そんな三人を観察する私だけ。
死体もどこかへ消え失せて、全ては悪い夢だったのでは……そう思いたくなるほど、彼女は何も残さなかった。