4:Alter ipse amicus.
静まりかえったその場所は、切り取られた美しいだけの四角い箱。
我を讃えよ。そう言外に語りかけてくる煌びやかな装飾に囲まれた神の彫像。
半年前までの俺は、その彫像を何度砕いてやろうかと思っただろう。
所詮神は俺を、彼女たちを救わない。人を不幸にすることしかしない神。俺たちを救わない神など神ではない。
だから、神などいない。それなら彼は崇められる必要性もないはずだ。誰のことも救わないくせに、人から必要とされようだなんて、心も金品も貢がせようだなんて。それはあまりにも傲慢だ。
美しいステンドグラスに描かれるは、創世の二神の戦い。その美しさとは裏腹に、描かれている内容はなかなか残酷だ。よく見れば、神々の足下には無数の骸骨の丘が築かれているし、ここに描かれた人物で生き残るのは最後は一人しかいないのだ。
*
世界の始まりにあったのは、無……零の海。そこから生まれたのが、虚無を司る零の神。
彼が自我を持ったとき、彼は世界から決別し……それは壱という数の概念を生み出す。
その概念が無限を司る壱の神を作り出す。やがて二神は出会い、その出会いが弐という数を作り出す。
弐は争いの数。二人の出会いにより、生まれた弐の神。世界には戦争が生まれてしまう。
しかしそれこそが世界の真のはじまり……人の歴史のはじまる瞬間。
戦争を終わらせたのは平和を司る三の神。その存在が世界を世界に至らしめ、完全なる物へと導いた。
けれど、完全とは……崩壊への序曲。円卓は欠けるために埋まる物。
平和を取り戻したその世界で……生を司る壱の神は世界をよりよい物へとするために、肆から玖までの数の神を作り出す。
その頃世界を統べていたのは始めに生まれた零の神。彼は世界を無へと戻すため、死を司る零の神は神々を殺めようとする。
零の神に呪われた、弐、肆、陸、捌の神は冥府へ下り偶神となり、血を分けた他の兄弟達と刃を交えることになる。
壱の神は生き残った、参、伍、漆、玖の神を率いて奇神を名乗り、地上の平和を守るために剣を取った。
壱の神は無限の可能性を生み出すことは可能でも、彼女自身は何処までも有限な存在。彼女は希望。無限の可能性を生み出せる可能性を持つ、有限存在。けれど彼女が生み出した何億という数兵は、神へは至れず冥府の扉を潜っていく。
神である奇神さえ、零の神の前では無力。最後に残るは壱の神のみ。
彼女のために剣をてにしたのは、唯搾取されるだけの命。地上に暮らすか弱き地の民、人間。壱の神は己の希望の力を彼らに授け、彼らの目にも映れぬ脆弱な存在へと成り果てる。
*
それがこの国に伝わる神話。零の神と壱の神の戦争は未だ終わらず、人は永遠には至れていない。壱に生み出され、零に刈り取られていくだけ。それでも人の中には壱から与えられた希望が宿っている。人は自分一人では有限。人という種が存続し続けるならば、それは限りなく無限に近づける。それならばいつか、人は零に打ち勝てる。
そう信じられていたのだが……この人口減少。それを零の神の呪いであるだとか、壱の神勢力の敗北の兆しだとか言って恐れている者は多い。
(俺は……)
「貴方もお祈りにいらしたんですか?」
後ろから声をかけられる。少女の声だ。振り返るとそこには一人の聖十字兵。軍服は一般兵の赤……年は俺とそう変わらないように見える。長い金髪、澄んだ青色の瞳、それが意味するのは彼女は何処にでもいるようなカーネフェル人だということ。
「ええと……まぁ、そんなものです」
イグニスに急な仕事が入り、それまで時間を潰しているように言われたのだ。教会から外には出るなと釘を刺されて。
でも教会で時間をつぶせる場所なんてそんなに無い。それなら一番静かなこの場所で……ぼーっとしていようと思ったのだが。思いの外無心になれなかったらしく、彼女がこんなことを言い出した。
「お若いのに信仰熱心だなんて感心ですね。でも貴方……そんなつもりじゃないでしょう?だって、凄い目をしていましたから」
少女がくすりと笑う。穏やかな声なのに、唇も弧を描いているのに……彼女は笑ってなどいない。
「そんな目をしてはいけません。壱の神は貴方の中にもちゃんと宿っているのですから」
「……壱の、神?」
「希望です。人は誰も……生きている限り希望の炎をその身に宿しているのです」
そう言った時の彼女は、はじめて心から微笑んでいるようだった。その温かな笑みが向けられたのは、俺が睨み付けていたあの偶像。優しげに、慈しむような穏やかな微笑み。この人は信じているのだろう。
カーネフェル人にしては珍しい。彼女は少しも濁っていないのだ。
軍は危険な仕事故、高給。正義の軍とはいえ、職のため金のために働く者がほとんど。けれど彼女には飾ったところが見られない。その瞳は、先程俺が羨んだあの空の色のようだった。
彼女の汚れなき信仰心に胸を打たれた俺は、その珍しいモノをじっと観察する。
そんな俺の目を見た彼女は、俺の中で神への不信感が消えたものだと笑顔で喜び、更なる神の教えを俺に説く。兵士なんか止めて聖職者にでもなればいいんじゃないか、そう思うような立派な説法だった。
悔い改めて信仰心を持とうなんてこれっぽっちも思わないが、それでもこの少女の話は不快ではなかった。俺は純粋にこの偶像を信じられる彼女を哀れみ……愚かだと感じる心と同時に、ある種の羨ましさと好感を抱いていた。
「ありがとう。でも……俺一人なんかに話すより、あそこに立って日曜に語った方が良かったんじゃないか?俺じゃあ……お礼なんかこれくらいしか出来ないから」
俺一人だけの乾いた拍手。静かな聖堂に響く音が何だかもの悲しい。
「お布施が欲しくて話したわけではありませんから構いません。むしろ迷惑だったんじゃないですか?お祈りでないなら貴方は瞑想に来ていたんでしょう?そういう人も結構多いんです。何も信じていないけれど……ここの空気は落ち着くから好きだって」
「…………空気は、確かに……好きかもしれない俺も」
目を閉じるだけで手に入る静寂。騒がしい街の喧噪、煩わしい家の束縛……逃れられない現実から、一時だけ切り離してもらえる箱の中。
「どうして君はあんな話が出来るのに……軍人なんかやっているんだ?」
静かに俺を見つめる彼女。俺が話すに値するか値踏みされているようだった。
意を決したように彼女はふわりと笑い、その唇を開いてみせる。
「私はシャトランジーではなくて……生まれはカーネフェル。カーネフェル人なんです」
青い瞳が意味するのは、俺も彼女も純カーネフェル人だということ。それが彼女の背中を押したのだろうか。
「私も昔……数年前までは貴方と同じ目をしていました。でもこの空気が好きだから……いつも村の教会に忍び込んでは遊んでいた」
遠くを見て、それを懐かしむような……優しい瞳。それが一瞬苦痛の色に歪み、それはまた微笑みの裏に隠される。一度目を閉じ……開かれる青の双眸に宿っていたのは強い意志。そして彼女は穏やかな声で言う。
「神はちゃんといらっしゃいます。私はその声を聞きましたから……」
「……声?」
声なら聞いた、俺だって。カードに選ばれた時のあの声、あれがそうだというのなら。
(それなら……)
この子も……カードに選ばれたのだろうか。目の前の少女……その腰に下げられた剣。それが自分に向けられるのを想像し、息を飲む。少女はそれに気付かず優しく笑う。
「それに仕事の前にいつもお祈りするんです。そうすると……また必ずここに帰って来られる。ちゃんと私たちの声は届いているんですよ」
だからあんな瞳で彼らを見ないであげてくださいと、少女は苦笑する。
「……神様は、君になんて言ったんだ?」
「戦争を終わらせなさい。祖国を……カーネフェルに平和を築け、と……だから私は聖十字に入った」
軍に入る前に聞いた声。それなら……それは昨日ではない。正式に軍に入るまで少なくとも一年間士官学校に入らなければならないという話だ。つまり……彼女はカードとは無関係。おそらく彼女には数術使いの才能があったのだろう。俺には聞こえないものが聞こえ、見えないものが見える。イグニスと同じだ。
「これから、私は祖国に戻るんです。何年ぶりかの故郷…………出来ればこんな理由で行きたくはなかったけれど」
こんな理由……それはきっと戦争だ。休戦を破ったタロックの、カーネフェルへの奇襲。これは聖十字の正義に反している。そしてカーネフェル王を含む王族全ての死。シャトランジアの平和はカーネフェルからの豊かな食料供給により成り立っているもの。国としても教会の信念としても……どちらに協力するかは明白。
聖十字兵には女性が多いことも知っている。それでも目の前の少女が剣を取り人を殺める……それが上手く想像できない。カーネフェルの第二聖教会に配属させられた聖十字兵は前線送りの地獄、犯罪天国セネトレアの第三聖教会は違う意味での地獄……一番楽なのがシャトランジアの第一聖教会。ここは街の警備が主な仕事で、戦うと言っても大砲が主力の海上戦。実戦なんて言っても、不審船から国境を守ることくらいしかしてこなかっただろう。
その第一聖教会から兵士がカーネフェルに増援に送られるということは……カーネフェルはそれだけ危ないと言うこと。
「女の子を最前線に送るほど、戦争は……カーネフェルは追いつめられているのか!?」
「仕方ありません。カーネフェルには男がいないんですから」
少女は肩をすくめて笑う。
「人が生きるために国を守るために。男だ女だの些細なことをうだうだいってられません、二つの手があるのなら剣が握れる。剣さえ取れれば赤子だって戦える」
それは赤子も戦えと言う意味ではない。もし自分が赤子でも、その声を聞いたのなら……二本の腕が
あるのなら、私は今と同じ道を選んだだろう。おそらく、彼女はそう言いたいのだ。
神を賛美したその口で、彼女は人の命を切り捨てることを認めるのだ。
「斬りたくなんかない。殺したくなんかない。……それでも殺さなきゃ、何も守れないんです!それなら……殺すしかないじゃないですか」
悲しげに微笑み平静を保とうとする彼女は、気付いていない。それか目を背けている。その肩が、手が……震えていることに。地上戦は初めてなのだろう。それも、彼女はこれから最前線に送り込まれるのだ。
どうして彼女は神を恨まないのだろう。殺しのジレンマを自身に与える存在を。
遠く離れたタロックとカーネフェルの戦争は海戦がメイン。物資の補給はそれぞれセネトレアやシャトランジアで行う。
けれど今回のように奇襲が起きた場合……戦場となるのは毎回カーネフェル。カーネフェル側から休戦を破ったことはこれまで一度もない。気候に恵まれた温暖なカーネフェルは略奪など行わなくとも国民を養えるだけの食料を生産できた。だから彼らから仕掛ける理由はない。
けれどタロックは違う。一年の半分、大陸の半分を雪に支配される氷の大地。彼らは略奪しなければ命を繋ぐことなど出来ない場所に生きている。
生きるためには互いに殺し合うしかない。
カーネフェルの平和はタロックの滅亡。侵略者を狩り尽くし滅ぼせば、すなわちそれが平和に繋がる。
タロックの平和はカーネフェルの滅亡。その地を支配し蹂躙し尽くせば、悲しみの雪も溶け、北の荒野にも春が訪れる。
セネトレアが煽っても、煽らなくても……きっと結果は変わらない。どちらかが滅ぶまで、二つの大陸は戦い続けるのだろう。悲しいことだが……この二国は同じ世界に同時に存在出来ない、相容れない存在なのだ。
その片方の王座、それに座ると言うことは何を意味する?
両手で抱えきれない命を守るために、それと同じ数だけの命を見捨て屠れと言うこと。目の前の少女と同じジレンマを己が内に抱え込めということ。それが平和を作り出す唯一の方法だと、馬鹿みたいに信じ続けろと言うこと。
俺の口からこぼれた言葉。少女の青い瞳が静かに開かれていく。
「……それは本当に、神様だったのか?」
カーネフェルを救え。聞こえの良い言葉。それでもそれは、生を司る者の言葉ではない……それはあまりに矛盾している。
「カーネフェル人にとっての言葉は壱の神そのものでも……タロック人から見れば、零の神の言葉だ」
彼女に声を与えた存在は、そこへ至るまでの虐殺を容認しているのだ。
誰も言わない。口には出さない。神と讃える。それでも偶神……特に零の神は恐れからそう呼ばれているだけ。祭り上げられているだけ。
彼らは何か。神?いいや違う……人の命を狩る死神、魂を喰らう悪魔。本当は誰もが知っている。彼らは神などではないのだと。
「……っ、無礼者っ!」
響く乾いた音。頬がジンと痛む。口の中が切れたかもしれない。
それでも、頬を打った彼女の方が痛そうな顔をしていた。青い瞳にはうっすらと涙の跡が見える。
肩で息をしている彼女に、俺は静かに自身の考えを意見する。
「殴ったら殴られる。蹴ったら蹴られる。何かの行動はその理由を相手に渡すこと……報復の理由だ」
「誰も被害者にはなりたくない。その身分から抜け出したい。だから加害者になる。そうすれば何も奪われないから。でも……誰かがその輪から抜け出さない限り、それはずっと続いていくんじゃないか?」
「だからって、ずっと我慢し続けるの?誰かが。ずっと。そんな、おかしい……」
ずっと殴られ続ける。蹴られ続ける。そして、奪われ殺され続ける永遠の被害者。それでもその世界は半分の人間は殴られない、蹴られない、殺されない。被害者が報復すれば、世界中全ての人間がきっと泣くことになる。
「ああそうだ、それはおかしい」
俺の振り上げた手。それに彼女が歯を食いしばり、ぎゅっと目を伏せる。
「……え?」
いつまでも訪れない痛みと衝撃に、彼女がそっと目を開けた。
「………でも、俺もわからないよ。どっちが正解なのかなんて」
「だ、……騙したんですかっ!?」
手を空中でひらひらさせている俺に、怒ったように彼女が声を張り上げる。
「確かに俺は君に叩かれた。右を打たれたら左を差し出すなんてことはしないけど、いちいち殴り返すのも面倒臭い」
「…………何なんですかその無気力は」
俺の言葉に彼女は小さな溜息。無気力が伝染した彼女も、さっきのことはどうでもよくなったようだった。
「仕事頑張って。君みたいな人には是非とも生きていて欲しい。じゃないとこの国もカーネフェルも金の亡者にどうにかされてしまいそうだ」
「………っ、ふふ、あはは!確かに……死ねませんね」
戦争のないこの国だって、平和ではない。犯罪なんて至る所に転がって……はいないが巧妙に隠されているだけで、存在していないわけではない。みんな彼女のように心から国を愛し、正義を信じられるわけではないのだから。
「カーネフェルをよろしく……俺には何も出来ないかも知れないけど、応援してる。貴女と聖十字に正義の加護がありますように」
報復の代わりに差し出した右手。彼女は微笑みそれに応え、握手を交わす。
「ふふ、そこまで言うなら神の加護でもいいのに」
「君の話は良かったけど、生憎俺は無神論者だから。ごめん」
「貴方もなかなか変わった人ね」
手袋越しに掌の温度を感じた刹那、どたばたと駆けてくる足音が耳に入る。静寂をぶち破るよう、勢いよく開かれた扉の音。
振り向こうとした瞬間、背中から思いっきりタックルされる。
「アルドールっ!!!!」
「うぉっ!」
握手をしていた彼女はさっと手を離し難を逃れたようだが、俺はそれをまともに食らい床に顔面から激突。それなりに痛い。それより問題は背中だ。古傷が痛む。重い……何かいる。何かが、乗っている?
「痛っ……背中は止めてくれ、お願いだから。ほんとここだけは止めてくれ、マジ痛いから」
それが俺の背中の上で飛び跳ねている。痛い。意識を飛ばせそうで飛ばせない強烈な痛みだ。これはヒールの靴か?背中に突き刺すような痛みが……
「寝てるの?」
「なっ……寝ているわけがないでしょう!彼の手、痙攣してますよ!?」
「変かな〜……お兄ちゃんが寝てるときは、いつもこうやって起こしてるんだけど。あ、あの時は靴履いてないか」
聖十字の少女のおかげ背中から重みが消えた。
「やほーアルドール、二年ぶり?お兄ちゃんにここにいるって聞いたから仕事抜けて来ちゃった」
床から顔だけ上げた俺を笑顔で見下ろすは、琥珀色の瞳……明るい金髪の少女。髪の長さはイグニスと同じくらい。修道士の服に身を包んだその人は、まだ幼さが抜けきらない年頃。俺よりいくらか年下だろう。そんなことはどうでもいい。問題は彼女の発言。けれど彼女は今……「お兄ちゃん」と言っていた。
「…………ギメル?」
「うん!」
あんな別れ方はあんまりだ。
でも、こんな情けない再会だってあんまりじゃないだろうか。俺がこの二年想像妄想していた再会シーンを返してくれ。再会の感動とは違う意味で涙が出そうになる。
「とりあえずシスター、聖堂内での大声は禁止されています」
「えー……だって二年ぶりにアルドールに会えたのに」
起きあがった俺は聖十字の子がギメルに説教をしているのを目撃した。
「それからシスター……貴女は聖職者でしょう?はしたない言動は慎むべきです。人目も憚らず異性に抱きつくなど……神子の目に入れば職を失いますよ?」
いやあれは抱きつくなんてものじゃなかった。そんな生やさしいものでも可愛らしいものでもなかった。何かしらの殺意すら感じた。もしかしてギメル……二年前のことをやっぱり恨んでいるのか?落ち込みかけた俺だったが、ギメルの軽はずみな言葉に耳を疑うことになる。
「ううん、大丈夫だよ?私のお兄ちゃんが………ふがっ」
咄嗟に彼女の口を両手で塞ぎ、乾いた笑みを俺は浮かべる。
「ああああああああああああああああ、よくわかったからしばらく黙ろうなギメル。この子には俺がよく言い聞かせておくから、それじゃあそういうことで!」
半ばギメルを引き摺るように俺はそこから走り去り、聖堂を後にした。後ろの方からなにやら廊下を走るなとかいう怒鳴り声が聞こえた気もするが、この際聞こえなかったことにしよう。
*
長い廊下を適当に走ったせいでどこをどう来たのかよくわからないが、俺とギメルはやがて中庭のような場所に出た。他の人がいないことを確認し、俺は呼吸を落ち着けながらギメルに言い聞かせるように言葉を紡いだ。
「ギメル、イグニスはまだ正式には神子を継いでいないんだろ?そんなことを迂闊に話したら駄目だ」
第一今の神子には妹など居ない。聖十字兵とはいえあの子はまだ下っ端の赤服。情報に通じていない彼女に聞かれたら俺たちは不信がられたことだろう。
「だって……」
ギメルは不満そうに唇を尖らせる。その子供っぽい仕草に気持ちは綻ぶが、彼女のためだと言い聞かせ強い口調で注意する。
「だってじゃない」
「あの女、気に入らなかったんだもん」
目が点になる。ギメルの言う意味がわからなかった。昔の彼女はこんな口調だっただろうか?あの女とは、聖十字のあの子のこと?それがどうしてここで出てくる?
「だってさどこの馬の骨かもわからない子がアルドールと仲良くするなんて苛つかない?」
「唯、話をしていただけだよ」
言葉だけなら友情の嫉妬か独占欲。素直に喜べないのは、彼女の視線があまりに冷たいせいだ。彼女は俺を怒っている?違う……憎悪している。そして俺の罪を一つ一つ暴いて責め立てる。
「嘘。握手してた」
「彼女はこれから戦場に行くんだ。俺の継ぐ国を守ってくれる人にお礼を言いたかったんだ」
「そっか、それなら仕方ないね」
その仕方ないに、背筋が震える。彼女の目が残酷に笑う。「どうせ死ぬ人間なら、優しくしてあげてもまぁ仕方がないか」と。
「でも気をつけてね、アルドールは私のなんだから」
「……ギメル?」
彼女は俺の所有権を主張する。俺が否定することも反論することも全てあり得ないことだと認めた上で。
「アルドールは私の言うことだけ聞いてればいいんだよ。だって君は私のことが好きなんでしょ?」
喉が鳴る。飲み込んだ息が胸の中で石のように重くなる。ああそうだ。おれはギメルが好きだった。今だって……好きなはず。それなのにどうして……笑う彼女を見ても、胸が温かくならないのだろう。こんなに近くにいるのに……この鼓動の早さは何かが違う。それは警笛を鳴らすように俺を脅かす。
「断らないよね?断れないよね?君のせいでこの二年間……私とお兄ちゃんがどんな目にあったか、知ったなら」
俺に微笑み、彼女は他の選択肢を切り捨てさせる。噴水の縁に腰をかけた彼女は虚ろな視線を空へと戻して俺へと尋ねる。
「先代神子がお兄ちゃんの存在を認識し、教会に助けられる前……私たちがどんなところにいたかわかる?」
知識としてならわかっている。けれどそれを体験したことがない俺には何も言えない。その権利がないから。
「貴族のお屋敷で飼われてる奴隷。飽きられたら殺される。だから飽きられないように、頑張るしかなかった。従順なだけじゃ駄目、だってそれじゃあみんなと同じ、飽きられる。だから生き延びるためなら何だってやった。そんな汚れきった私とお兄ちゃんが聖職者?シスター?はっ、笑わせないでって話」
「法律もない、モラルもない……でも禁忌もない、何もない。……それでも自由は絶対にない、そんな地獄みたいなところ。貴方が知らないようなこと、私たちはずっと見てきた。してきた、されてきた。貴方がされてきたことなんか比べものにならない酷いことばかり」
「わからない?想像できない?したくない?でも駄目。ちゃんと考えて、その義務が君にはあるから」
「想像できないならしてあげよっか?私がされてきたのと、同じ事を君に」
俺に向けられる、物を見るような冷めた彼女の瞳。年に似合わない退廃さと色香を漂わせ、氷の温度を宿しながらも艶やかに微笑む彼女。
無邪気に笑う記憶の中の少女と二度と重ならないだろうその姿。
「お兄ちゃんは絶対に本当を話さない。言えるはずがないんだよ。だってプライドがあるから。私はないよ。そんなもの捨てなきゃ、生きられなかったから」
「どうして助けてくれなかったの?どうして救ってくれなかったの?私が変わったと思う?そう思うならそれは全部、貴方のせいだよアルドール?」
「だから貴方は私に償わなきゃいけないの。一生かけて、命も私に捧げて、私に忠誠を誓わなきゃいけないの」
彼女の中の何かに脅える俺の頬にのばされたその掌の温度。それがやけに冷たい。
「大丈夫、大丈夫!私も君が大好きだよって昔言ったでしょ?だからそんなに酷いことはしないから」
昔はあんなに温かかったのに、今の彼女の指先は……その視線のような氷の温度。そんな目で、彼女は愛を語る。
「ねぇアルドール、私の人形になって?」
貴方は人形じゃない。人間だよ。
そう言ってくれたその口で、彼女は俺に人形になれと言う。
ガラガラと、何かが崩れていく。記憶の中の美しい思い出、その全てを打ち壊し、彼女は俺の現に現れた。
写真も絵も必要ない。鏡のようにそっくりなイグニスとギメル。けれど……中身は全然違う。笑い方も、同じじゃない。
暗い、暗い歪な笑顔。この世の者とは思えない美しさを持って彼女は笑う。嘲笑う。
耳元で唱える悪魔の囁き。背中に回された腕……彼女の細い指は背中の傷跡を優しくなぞり、それを抉るように爪を立てて笑うのだ。苦しげな俺の表情に満足そうに微笑んで。
「優しく、可愛がってあげるよ?私の掌の上で……」
嬉しかった。彼女と彼が生きてくれたことが、とても嬉しい。
それなのに、悔しい。彼女を変えてしまった時の流れが。その原因を作った己自身が憎らしい。彼女は何も悪くない。彼女にそれをさせているのは……俺の方だから。
だから俺は、例え彼女に首を絞められる日が来ても、それを甘んじて受けなければならないだろう。それが、彼女の望む償いならば。
頬を伝う生ぬるい液体の温度。それが自分の物なのだと気付くまで、俺はしばらく時間を費やした。