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2:Nomen est omen.

というわけで過去回想。本編二大ヒロインの一人が登場です。

 挿絵(By みてみん)

窓があった。僕は虚ろにそれを眺めていた。酷く悲しいことがあった。そのせいで、僕は悲しいと思う心が壊れてしまった。空っぽの僕は人形のように無感動な日々を送った。

 窓の外。移ろう季節の風景も、変わっていくのに。四角い部屋に取り残された僕の心だけ、変わらないまま。バラバラにされたままの心を組み合わせることさえ放棄して、ずっと停滞した心の欠片を胸に抱えていた。


 そんなある日のこと。僕は聞いた。誰かの声だった。それは僕自身の声だろうか。そう思ってしまったのはそれが悲しげな泣き声だったから。泣けない僕の心の声が聞こえたのだろうか、そう思った。

 でもそれは違うようだった。だってそれはこの部屋から聞こえるんじゃない。外……窓の外。そこに誰かが居る?その声に引き寄せられるよう、僕はふらふらと椅子から立ち上がり、窓の外を覗き込む。


 屋敷の裏に続く生い茂った森。その影にその少女はいた。

 色素の薄い明るい金髪は、月明かりを糸にして織り合わせたような儚げな色。泣きはらした大きな瞳は………透き通った琥珀色。僕はそこに奇跡を見た。

 こんな綺麗なモノが地上には存在していたのか。そう、感動して動けなかった。

 だから先に気付いたのは彼女の方だった。もっとも彼女が気付いたのは僕ではなく、屋敷の存在だったが。


「あれ……?この森って何処かに繋がってたんだ」


 彼女は薄暗い森を越えたことに安堵したのか、ぴたりと泣きやんだ。おそらく迷子だったのだろう。その心細さから泣いていたのだ。


「綺麗なお家だなぁ……」


 キョロキョロとあちこち見回しながらこちらに近づいてくる少女。そこでやっと彼女は僕に気付いたようだった。


「あ、……ここ、貴方のお家?素敵なところね」


 そういって微笑む少女。それは先ほどまで泣いていた人物とは思えない程、明るい笑みだった。

 素敵なところ。それを肯定すること否定すること……どちらが正しいかわからなかった僕は、僅かに首を傾げるだけ。表情を変えないその動作に彼女はびくりと驚き……僅かの沈黙の後、くすくすと笑い出した。


「ふふっ、貴方ったらカラクリ人形みたい!」


 僕の名を知った彼女は大きな瞳を丸くした。


「ほんとにお人形だとは思わなかった。アルドールはどうしてそこにいるの?」


 僕が僕だから。そう答えると今度は彼女が首を傾げた。


「それじゃあここはドールハウスなの?」


 僕は義母の命令を聞き続けるだけの道具。ここは彼女好みの内装。これは彼女好みの服。ああ、この部屋は確かにドールハウス。


「綺麗なお洋服なのに、貴方全然楽しくなさそう。どうして?」


 それならきっと僕は楽しくないからだろう。そう答えると、窮屈そうで見ているこっちが苦しくなると少女はつぶやいた。


「……息、してる?」


 謎の言葉。何度か反芻し、それがこの部屋の息苦しさを指し示す言葉なのだと気がついた。僕は酸欠で死にかけている、彼女にはそう見えていたらしい。

 息はしてる。そう言えば、安堵の息の後彼女が窓の向こうから手を差し伸べてきた。


「ねぇ、お外で遊ぼうよ!こっちの方が空気とっても綺麗だから」

「母様がここから出るなって言った」


 事実を事実として述べるが、彼女は引き下がらない。そして飛躍した言葉を紡ぎ出す。


「貴方は人間に見えるよ。私よりずっと人間らしい色の目をしてる。羨ましいくらい綺麗な…青」


 彼女は何を言いたいのだろう。僕の虚ろな目に浮かんだのは、おそらく不可解という文字だったはずだ。彼女の言葉を理解したのは続く言葉を聞いてから。


「でも、そのままだったら人形になっちゃう。お兄ちゃんが言ってた。人は見た目じゃないんだって!人の心を持っていればそれはみんな人なんだって」


 人の心。それこそ人の意志である……彼女はそう言いたいのだろう。


「だから、こっちにおいでよ」


 いつまでも応じない僕に、彼女は悲しそうに目を伏せる。それでもその手は降ろさない。

 あのね……小さな声で彼女は言葉を紡ぐ。これまでの言葉は彼女にとって、建前だったのだろう。恥ずかしそうに、頼りなさ気に……彼女は本心を打ち明け始める。


「私ね……迷っちゃったの。お兄ちゃんが、迷ったらそこで待ってろっていつも言ってるの。迎えに来てくれるまで動くなって。お兄ちゃんはすごいんだよ?いつも必ず見つけてくれるの」

「でもね…………それまでひとりぼっちは嫌なの。だから……一緒に遊ぼう?私も一人。貴方も一人………ふたりでいれば一人じゃないよ?私も、貴方も……」


 琥珀色の瞳が問いかける。

 私は寂しい。心細い。一人は嫌。貴方は……一人で大丈夫なの?


 やがて僕が窓から外へ降りたのは寂しさを感じたからではない。目の前の少女が……なぜだか放っておけなかっただけ。単に面倒くさかったのかもしれない。応じるまでずっとこんな泣きそうな顔で説得を続けられるのが。

 唯、聞きたくなかったのかも知れない。また、あの悲しそうな泣き声を聞くくらいなら……僅かに見下ろす目線の先、少女が嬉しそうに微笑んでいた。再び感じた不可解という思い。でも今度はそれだけではなかった。なんだか、彼女の笑顔の温かさが僕の方まで移ってきたような不思議な感覚。

 ぎこちなくはあっただろう。それでもこの国に来て始めて……僕は笑ったのだ。





 ギメルと名乗った混血の少女は、僕が知らない草木の名前まで事細かに教えてくれた。これは薬になる草、これは根っこに毒があるの、だとか。

綺麗な野花を見つけてはその花言葉を楽しげに語る。その表情を見ていると伝染する。とりとめのない会話なのに、僕まで楽しいような錯覚に陥った。それは……こういうことが久々だから?友達らしい友達なんてこの国には居なかったから?ああ、そうかもしれない。

 僕が年の近い子供達と遊んだ記憶は随分久しい。シャトランジアに連れてこられて五年間……僕はどうやっていたんだろう。礼儀作法に一般教養……貴族の嗜みと言われダンスまで教え込まれたような気がする。毎日毎日勉強勉強勉強勉強……正気が残っていたら発狂していたかもしれない。

 そうやって過ごしてきた僕は、なんと言うことのないその遊びに……故郷を思い起こさせた。二度と帰れない家。帰る気もない。二度と……顔も見たいと思えない実の両親。それでもあのカーネフェルの地が不意に恋しくなった。もう顔も名前も思い出せない故郷の幼なじみ……彼らとも、こんな遊びをしたかもしれない。

 その懐かしさから、僕の口が軽くなった。静かにそれを聞いていたギメルだったが、カーネフェルの名が出ると小さく笑った。嬉しそうに振る舞ってはいるが、どこか苦しげな笑みだった。


「アルドールは、カーネフェルから来たの?私たちもだよ?」


 そう言っておきながら、彼女は矛盾したことを言う。


「どんな所だった?」


「私のお母さんが、私とお兄ちゃんが生まれるちょっと前にカーネフェルからシャトランジアに移住したから、向こうのこと全然知らないんだ」


 戦争から逃げてきたのだとギメルは言った。故郷を知らないというその言葉に僕は同情したのかもしれない。朧気な記憶の糸を辿り始め……その風景を彼女に伝えてみた。


「家のそばには畑があって……近くには緑がたくさんあって……右も左も山ばかり」

「…………うわ、やっぱりここでよかったかも。私絶対迷うよ?山で遭難してたよ絶対」


 本気で焦り出すギメル。どうやら彼女は迷子が日課という極度の方向音痴らしい。


「でも……一回くらい、見てみたいな……」


 掻き消えるような小さな声でつぶやく言葉。それをごまかすように、彼女は微笑み僕へと何かを差し出した。


「アルドールが、本当のお父さんとお母さんの所に帰れますように」


 そう言って頭に乗せられたのはクローバーで作られた花冠。無表情より冷たく凍り付いた僕の表情に気付いた彼女は、己が何か失態を犯したことだけ理解する。


「……帰りたくない」

「だって、家族なのに?」


 母と兄を心から愛しているらしい彼女は、僕の境遇を理解していなかった。大好きな家族から引き離され、人形にされた可哀想な子供だと彼女には見えていたのか。


「売られたんだ、僕は人間じゃない……道具だ、奴隷だったんだ」


 勉強によって押しつけられた知識が僕に教える。嫌でも理解した。


「帰る場所もない。ここも僕の居場所じゃない。だから僕は……人形で良いんだ」


 人形に居場所は必要ない。必要なのは、所有者だけ。それで僕らの関係は成り立ってしまうから。


「アルドールが、幸せになりますように」


 ぎゅっと僕の両手を握りしめ、祈るようにギメルがそう言った。手のひらの温度は彼女の笑顔のように温かで、不意に泣きそうになる。ああ、この数年間……僕は他人の温かさすら忘れていたのか。

 祝福を説いたその口で、彼女は優しく言葉を紡ぐ。


「言葉はね、剣なの」

「……剣?」


 彼女の言葉はいつも突拍子がない。それでいて……興味深い。

 そんなこと、家庭教師の先生からは習わなかった。教えてくれなかった。そんな迷信や雑学を教える暇があったら多くの歴史や法、国の仕組みを教える必要があったから。


「両方に刃が付いてる剣……片側が良い言葉でもう片方が悪い言葉。悪い言葉は人の心を斬ってしまって傷つける悪い刃。でも良い言葉は違う。悪いモノを壊して、願いを叶えてくれる優しい刃」


 彼女は言う。これじゃあアルドールは、自分で自分を不幸にしたがっているみたいだよ、と。


「言霊ってお兄ちゃんが言ってた。悪いこというと悪いことが起こる。良いことを言えば良いことが起きる。だから、いつも良い言葉を作りなさいってお母さんが言ってた」

「だから、悪い言葉言っちゃダメだよ。悪いことしかやってこないよ」


 彼女の言葉にはっとする。胸が揺さぶられるようだった。

 言葉は諸刃の剣。だからそれを恐れて口を閉ざして言葉を殺す。だから僕は……いつまでも停滞したまま。これ以上幸せにもなれない。この不幸から抜け出せない。そういことだったのだ。

 気付かせてくれた彼女に、お礼を言いたかった。

 ありがとうという薄っぺらい言葉。そう言うより、もっと良い言葉があるとたった今教えられた。


「……ギメルも、幸せになりますように」


 いつか叶えばいい。カーネフェルを見たいという彼女の願いが。

 僕の言葉に一瞬驚いたような表情を浮かべた彼女だったが、次の瞬間にはえへへと嬉しそうに笑ってくれていた。自然と僕の口元もゆるみ出す。そんな風に笑い会っていた時のことだった。


「ギメルっ!」


 響いた高い声。ギメルのそれによく似た、それでも違う。穏やかな彼女の声とは異なるそれは酷く焦った余裕のない声。


「あ、お兄ちゃん!」


 木陰から現れた少年はギメルとうり二つ。髪の色も目の色も同じ。見分ける箇所といえば……その髪型と服装だろう。ギメルは髪の一部を縛りふたつの三つ編みを作っていたが、彼の三つ編みは一つだけ。ギメルは安っぽいサマードレスだが、彼はズボン。もし彼がスカートだったらお兄ちゃんとは認識できなかったと思う。それくらい二人はよく似ていた。

 たたっと駆け寄りぎゅっと彼に抱きつくギメル。兄妹とは聞いていたけれど、双子だとは知らなかった。僕が混血を見たのはギメルが初めてだったから……混血の法則なんて知るはずもない。


「もう!探したんだよ!?居住区域の何処にも居ないと思ったら、森を抜けていたなんて……僕じゃなきゃ見つけられないところだった」

「……ごめん、なさい」

「君が見つけてくれたんだ?ありがとう……」


 優しく微笑む少年だったが、彼は背後の屋敷に気付いた途端、その瞳に嫌悪の色をにじませる。


「ここ、君の家なの?」


 射抜くような鋭い言葉と氷のような冷えきった眼差し。その威圧感に、否定も肯定も出来ない僕の代わりにギメルが口を開く。


「違うよ。アルドールの本当のお家は……カーネフェルだよ」

「ああ、そっか。その色!純血のご養子様か!いいね……君は」


 明るい彼の瞳に宿るのは、敵意と憎悪の暗い炎。僕の肩書きが彼の気に障ったようだ。彼はそのままギメルの手を引き森の中へと引き返そうとする。


「帰るよギメル。彼は僕らとは違うんだ」

「アルドール!また一緒に……遊んでくれる?」


 振り返りながらそう問いかけるギメル。頷きかけた僕を制止させる、少年の怒声。


「ギメル!ダメだ!僕らは混血なんだよ?わかってるの?」

「だってお兄ちゃん言ってるじゃない!混血も純血も、同じ人間なんだよって!それなのにどうしてダメなの?」

「いいかい?僕らは移民。彼は貴族の子供なんだ。友達なんかなれないし、なっちゃいけない。そんなことしても、お前が辛いだけだ!」

「どうして?楽しいよ?」

「今はそれでよくでも……いつかお前もわかる。同じになんかなれないんだ」

「同じなのに同じになれないの?」


 兄の言葉の真意をくみ取れないままのギメルは言葉遊びのように揚げ足を取る。それが少年に怒り注ぐ。けれどギメルは純粋な疑問を口にしているだけ。彼女は悪くない。それならば悪いのは誰?


「僕も楽しかった……また、いつでも………遊びに来て」


 あえて言うなら、僕は間が悪かった。そのせいで彼の怒りの矛先はすべて僕へと向けられることになったのだから。


「君みたいな幸せな人に、僕らの何がわかるんだ!綺麗な服!立派な屋敷っ!その日の食に、寝床に困ったこともないんだろう?そんな人間にお情けで遊んで貰いたくなんかない!ギメルは僕のたった一人の妹なんだから!」


 唯の一時もお前なんかに渡せない。敵意を隠そうともせずに、彼は僕へと向けてくる。その真っ直ぐすぎる憎悪に、僕は不快感を抱けなかった。いいな、と思った。僕はギメルが羨ましく感じるほど、彼の敵意に好感を抱いたのだ。

 こんな風に自分の身を案じてくれる血を分けた肉親の存在。彼に言わせれば僕の無い物ねだりなのかもしれないけれど。だから聞きたかった。そして言いたかった。


「…………君、誰?いや、……何?」

「お兄ちゃんだよ」


 ギメルがきょとんとした表情で教えてくれるが、それは僕も知っている。

 どうやら聞き方が悪かったらしい。少年に至っては引きつった笑みを浮かべている。


「喧嘩売ってる?買ってあげようか?そっちがその気ならいいよ?君が寝静まった頃に屋敷に火でもつけてやるけど?」


 ギメルと同じなのは外見だけらしい。彼の中身はなかなか物騒だ。

 家が燃える。→母さん達死ぬ。→僕は自由。それでもそれも良いかもしれないと思った俺はやはり何かが欠けているのだろう。だが僕は彼に喧嘩を売りたかったわけではない。だから言い直すことにした。


「いや……名前」


 言い直した言葉。これは何とか伝わったよう。


「一応妹が世話になったし名乗っておくよ。僕は……イグニス。これで気は済んだ?それじゃ、もう二度と来ないよ。さようなら次期トリオンフィ」


 不思議な少年だ。僕は名字を彼にもギメルにも名乗っていない。始めてここに来たらしい彼が、屋敷を見ただけで僕の正体を知った?これはどういうことだろう。


「まぁ……いいか」


 どうでもいい。だから気にしない。

 そんなことより僕が言いたかったのは……


「……イグニスが、しあわせになりますように」


 ギメルに聞いた祝福の言葉。けれどそれは火に油だったようで彼のこめかみには怒りのあまり青筋が浮かんでいる。


「なっ……馬鹿にしてるのか?」

「あのね……違うの。お兄ちゃん言ってたでしょ?あれアルドールに教えたの。お兄ちゃん今、悪い言葉ばかり作ってた。だから不幸になっちゃう。だからアルドールが良い言葉を贈ったんだよ、ね?」


 ギメルの言葉に僕が頷くと、がくりとうなだれるイグニス。


「は……なんか力抜けてきた。こんな馬鹿に腹立てるのも阿呆らしい。こんな馬鹿が貴族の跡取りなんかで大丈夫なのかな……没落するんじゃない?つか没落しろ、路頭に迷え」

「アルドールは馬鹿じゃないよ!字読めるし書けるんだよ?難しい本とか読めるんだよ?ちょっとお人形さんなだけだよ!」

「……………………………………ギメル、それわけがわからない。あと文字くらいなら僕でも教えてあげられるから」

「嫌だよ。面倒くさいもん」


 馬鹿はこっちだったかとでも言いたげに嘆息するイグニス。


「またね、アルドール!」


 元気よく手を振り森の中へと消えていくギメル。

 その声に続くイグニスの声は怒りと呆れと僅かの疲労が感じられたものだった。


「またなんてないからな!誰が二度と来るか!来させるか!」





 二度と来るか!そう言いながら彼は何度も現れた。


「ギメルがどうしても行くって言って聞かなかったんだ」

「方向音痴のギメルを一人で行かせるわけにはいかないから」


 主にそんな理由をつけながら、彼はこの裏庭にやって来た。

 先生が来ている時でも二人は現れた。窓の下に隠れてこっそり一緒に授業を受けていたりしたこともあった。つまらない退屈な時間に、彼らが居る……それだけでなんだか楽しかった。知識吸収が好きらしいイグニスは、むしろ授業のために来ているようだった(もっとも、勉強嫌いなギメルはほとんどうたた寝をしていたらしいが)。

 授業があった日は比較的機嫌が良くて笑顔を見せてくれることもあった。逆に授業がない日は長く一緒に遊べるのに、始終嫌そうな顔をしていた。時折舌打ちまでされた。

 そんな彼の遠慮のなさとギメルの明るさに感化され……次第に僕は少しずつ自分の意志と気持ちを表に出していけるようになった。二人には感謝してもし足りない。バラバラになった僕の心をつなぎ合わせて再び僕を人間にしてくれたのは、ギメルとイグニスだったのだから。


 いつだかもう休んだふりをして、こっそり屋敷を抜け出して闇市に連れて行って貰ったことがあった。森を抜けた先……そこにあったのはふたりが済む移民居住区。

 お世辞にも綺麗とは言えないその場所。町はずれの広い空き地で市は行われていた。そのそばにある廃墟群。あそこが彼らの住処だという。社会の底辺を見せるつもりだったらしいイグニスは、俺の反応に重い溜息を吐いていた。


「君……ほんと貴族らしくない」

「ん?どーかしたかイグニス?」

 

 殆ど外を知らない俺にとって、目に映るモノ全てが新鮮だった。嫌悪感なんて抱く暇もない。


「十五代続いた君の家も終わりだねって言ったんだ」

「よくわかったな。俺がこの家継ぐ気ないっていうの、流石は俺の親友だな」


 と言って微笑めば、心底嫌そうな顔をされた……が、僅かに顔が赤い。イグニスは出会った当時の俺とは逆ベクトルの意味で感情表現が下手だ。混血の迫害を受けて育ったらしい彼の性格はねじくれ曲がっている。俺が何かを言っても絶対に肯定だけはしないだろう。でもその歪みはギメルへの想いから。彼がギメルの盾になってその敵意を受け止めていたおかげでギメル自身は純真なまま。本当は彼は優しい人なのだ。それがわかっていて嫌味に嫌味で返す押収をするなんて無意味だし不毛だ。

 でも、それなら俺が変わればいい。そう思った。

 俺が馬鹿みたいに正直でいればいい。母さんや姉さん達にはどれだけ嘘を吐いたとしても……このふたりにだけは絶対に嘘を吐かない。正直でいたい。心の内全てを根こそぎ暴かれたとしても構わない。そうされても、何をされても許せてしまう。だって彼らが俺を人にしてくれたんだ。


「だって、仕方ないだろ?カーネフェルの男は目立つんだから」

「ああ、そうだね。言い出した僕が言うのもあれだけど……なんでそんなにノリノリなんだよ!なんで抵抗しないんだよ!女装だよ女装っ!!」


 主な移民は数に溢れたタロック人男性、カーネフェル女性……そして混血。ここで生まれた混血もそれなりの数がいるらしい。移民居住区には教会からの支援も行われているが、数が多すぎる。教会の与える職は高給とはいえ、殆どは他国に飛ばされるため……幼い子供を抱えた者は断念せざるを得ない。両親が揃っていれば半年交替などで勤めることも出来るが……イグニス達のように片親しかいない混血児も数多くいる。

だから俺が普通の姿でここにいたら、目立つ。だからこその女装。服はイグニス達にお使いして調達してもらった移民らしい平凡な服。


「人生一回きりだしさ、何事も楽しまないと。羞恥心なんてモノとうの昔に無くしたし……いつも母さんが買ってくる悪趣味なフリルとかリボン付きの洋服着せられてるんだ。まだスカートの方が余裕っていうか」


 楽しげに女装している俺に、イグニスは本気で悔しそうだった。


「くそぅ……いい嫌がらせになると思ったのに!ギメルなんか第一声が“わぁ!アルドール可愛い!”だよ!?ああもう!僕の計算だったら今頃ギメルの中で君の株大暴落してるはずだったのに……ちっ、なんで喜んでるんだよギメルぅぅぅぅ」


 泣きそうな顔でギメルを見つめるイグニスに、ギメルは無邪気に微笑むばかり。


「だって、お姉ちゃん出来たみたいで嬉しい。アルドール!お姉ちゃんになって!お姉ちゃん、あのお店みよう!」


 そう言いながら女の子の服を取り扱った露天へと俺の手を引いていくギメル。

 そんな俺たちの背中を追うイグニスの切羽詰まったような脅え声。


「止めてよギメル!今もの凄い恐ろしい家系図想像する羽目になった!嫌だ死んでも嫌だ!こんな嫁お断りだからね僕!」


 お兄ちゃん=イグニス

 お姉ちゃん=お兄ちゃんのお嫁さん。

 お姉ちゃんになって=お兄ちゃんの……

 一体何を考えて居るんだイグニス。その飛躍論理はどこかギメルの突拍子のなさに通じるものがある。


「え?お兄ちゃんアルドールと結婚するの?」


 そしてどうしてこういうときばかりすぐ理解してしまうんだギメル。


「しないから!お前の言葉で想像しちゃったって言っただけだからね!」

「そうそう!絶対あり得ないから!」


 必死にまくし立てる俺とイグニスにギメルは怪訝そうに眉をしかめた。


「……………ダメだよ、あげないから!」

「お兄ちゃんはギメルのお兄ちゃんだし、アルドールは…………アルドールだもん」


 どちらをどちらに渡したくないと言っているのかわからなかったが、ふてくされたようなギメルの表情に俺はつい吹き出した。


「アルドールの馬鹿!」


 第一印象が儚げだったなんてもう思い出せないくらい活発にギメルは俺の背中に拳を降らせる。


「あはは、ごめんって。お詫びになんか奢るよ」

「え?いいの!?」

「そういうの、僕ら見下されてるみたいで気に入らないな」


 そう言いながらもぽいぽいと籠いっぱいに商品を詰めているイグニス。主に食料品や生活必需品なあたりしっかり者というか……何とも言えない。


「連れてきて貰ったお礼もかねて。二人には日頃から世話になってるし」

「まぁ、そこまで言うなら仕方がないか」


 イグニスの籠はもう二つめに突入しだした。


「う〜……」

「迷う必要ないよギメル!」


 迷ったら即買い。籠に入れろというイグニスだが、商品選びに没頭しているギメルの耳には入らないようだ。

 彼女が見ているのは、アクセサリーや髪飾りといった装飾品。やっぱり女の子なんだななんて何だか感慨深いものがあった。迷うなら全部買い取ってもいいのだが、そんなことをしたら目立つ。そして他の店にも悪いような気がする。そう思っていろんな店で買いまくったら、余計目立つ。それが風に噂になって母さんの耳にでも入ったら困る。無断外出と女装。二重の意味で困る。


「へぇー可愛いな、これ」


 ギメルの傍に行き、並べられた商品に目を向ける。闇市場はセネトレアからの密貿易のモノばかりだというが、価格の割に商品の質は悪くない。十分な支援を行えていない以上、聖十字も黙認し厳しくは取り締まらないようだ。


「お、お姉ちゃん達お目が高いな」


 商品に見とれていることに気をよくした店主が俺とギメルに声をかけてくるが、ばれてない。俺、裏声の天才かも知れない。


「どれでもいいよ?」


 ギメルがそっと手に取ったのは海の青を思わせる石の付いた指輪だった。ネックレスや髪飾りとも見比べていたが、たぶん指輪が一番安かったからこそのチョイスだろう。この謙虚さに、イグニスとの血縁を疑いたくなってくる。


「これ……」

「いいのか?こっちのでもいいのに」


 ゼロが一つ二つ多いのを指さしてもギメルは首を振る。


「この色が一番綺麗だし、似てるから」


 何に似ているのかわからないが、ギメルがコレを気に入ったというならそれでいいだろう。


「よし!お兄さんこれちょーだい!」


 おっさんといいたいのを堪えて俺はにこりと微笑む。





「いや〜女装って良いな!随分値引きしてもらえたぞ」


 ほくほくした顔で帰ってきた俺にイグニスが冷たい視線を注いで迎えてくれる。籠は最終的に三つになっていた。


「…………君、ほんとに貴族?」

「仕方ないだろ、根は生粋の庶民なんだ」


 支払いを終えると嫌がらせか「ありがとう母さん」とイグニスが微笑んでくる。店主が勘違いして悪ノリをしてきて困った。


「“いや〜若いのに大変だね……何歳の時の子だい?”って失礼にも程がある……」


 流石に落ち込んだ俺に、してやったりと微笑むイグニス。


「嫌だな感謝してくれよ。僕の機転のおかげで割り引いてもらえたんだろ?」

「こんなでかい子はいねぇー!俺まだ十三なのにっ!」

「僕は十二だから……引き算的に一歳の時の子だね。君ってそんな年で産むなんてなんて恐ろしい……」

「こんな性悪に育つなんてあの男に似たのかしらって……そもそも産めないって!」

「あーからかい甲斐あるね、流石僕の親友!(笑)」

「かっこ笑いは止めてくれ!絶対あれだろ?お前の言う親友って玩具とか書いて親友って読ませてるんだろ!?」

「君……数術使いだったの?どうして僕の思ってたことが……」

「そんなに俺を凹ませて楽しい?」

「うん、とっても」

「ああもう…………………………………イグニスが楽しいなら、それでいい」

「うわ、その悟りきった態度が苛つく。やっぱり楽しくない。それでも僕の友達名のってんの?口だけの男になりたくなかったらさっさと楽しませてよ。じゃないと絶交ね……ってギメル?」


 会話に加わらないギメル。彼女がはぐれたのかと思ったイグニスキョロキョロ辺りを見回すが、ギメルはちゃんと俺たちの後ろを歩いていた。

見ているこちらもにやけてしまうような幸せそうなその笑顔に、心が温まる。


「アルドールっ!お前何したんだ!えへへ、えへへってずっと笑い続けてるじゃないか僕のギメルがっ!」

「別に。指輪買っただけだって」

「なっ!お前この僕に隠れてギメルになんてものをっ!」

「え?お前達の宗派ってアクセサリーダメなのか?」

「ちがうっ!そうじゃなくてっ……あーもう!わかってないならいい!唯一言言っておく!僕は絶対に認めないから!調子に乗るな!」


 何故か思いっきり足の指を踏まれた。地味に痛かった。でもそんなことより今俺が言いたいのは……


「……イグニス」

「何?」

「これ、重い」


 両腕が痙攣している俺に、イグニスははぁと大げさなほど大きな溜息を吐く。


「満足に荷物持ちも出来ないの?君って」

「自慢じゃないがペンより重いものはナイフくらいしか持ったことがないんだ」


 余談だが籠三つの内二つは俺が持たされていた。


「……死ね」


 そう言いながらイグニスは片手の籠を引き受ける。今度は彼の両手が塞がったが、その重さにも表情は変わらない。不機嫌面のままだった。


「いいか!僕は認めてないからな!僕より強くて優しくて格好良い奴じゃないとギメルを渡さないから!悔しかったらさっさと強くなれ!こんな籠くらいどうして持てないんだ!」


 先を行くイグニスは真っ直ぐ歩けていなかった。



 二人の住処に付く頃は、最終的に荷物の一つはギメルの手にあった。


「馬鹿!女の子に荷物も足せるとか何考えてるの!?」

「お兄ちゃんだってアルドールに持たせてた!」

「こいつは女装してるだけだからいいんだよギメル」

「どうして?」

「どうしても!」

「とりあえずごめん。俺が悪かった」

「そうだぜんぶ君が悪い!でもさ、悪いと思ってないなら謝らないでくれない?全然誠意が感じられないんだけどその顔!」

「もともとこういう顔なんだ」

「デフォルトが満面の笑みってどういうこと?気味が悪いよ?ってそれはそこじゃない!こっち!」


 ああでもないこうでもないと言われながら商品をしまう俺。俺を指図していたイグニスがはたと思い出したかのようにギメルに声をかける。


「ギメル、僕はこれ片付けてるから先に水浴びておいでよ」

「わかった」


 イグニスの言葉に素直に頷き、着替えと布を持ってたたたと外へ駆けていくギメル。

 連れてこられたのは例の廃墟群の一角。元々移民のために作られた住居だったというが、随分昔に建てたれたものでそれ以来修理補強も行われていないようで、窓硝子は割れていたり扉が無かったり壁が崩れていたり……あちこちがガタが来ているようだった。なんでも作り直す金で新しい住居を造り、数だけ増やす必要があったらしい。移民は年々増える一方……話は理解できるが、これはあまりにも酷い。すきま風が絶えないし、家だと通された部屋のドアの鍵も十分に機能しているとは言い難かった(移民同士の盗難が絶えないため上手く隠さなければ食料も金銭も奪われるのだとイグニスが言う)。

 そんな場所に浴場のような施設があるとは思えなかった分、イグニス達の会話には驚かされた。


「……ここにも風呂があるんだ」


 感心したような俺の言葉にイグニスがすかさず釘を刺す。


「君の家じゃないんだからそんなものあるわけないだろう?井戸水汲み上げたシャワーがあるだけだよ。水浴びするなら昼間に近くの水辺まで行くこともあるけどね」


 そうかと俺が頷くと、しばしの沈黙が訪れる。それを振り払うようにイグニスが口を開いた。


「何も聞かないの?」


 彼がギメルを遠ざけたのは何か彼女に聞かれたくない話があったから。やはりそうだったかと心の中でそう思った。それでも彼は天の邪鬼だから、俺から切り出したら何も言えないままだっただろう。


「聞かれたくなさそうだったし」


 そうつぶやけば、イグニスの軽い嘆息。


「はぁ……馬鹿のくせに、時々困るよ君は」


「わかってるくせにわからないふり。君が人形だなんてギメルは言ってたけど、そんな可愛いもんじゃない。君は道化だ」

「道化?」

「見たこと無い?街にはよく来るよ。王宮にもお抱えの者がいるらしいけど」


 それに俺が似ている?彼のいう意図が理解できない。


「馬鹿みたいに笑ってさ、周りを笑わせてさ……何も得られないくせにそれで満足なふりをしてる。馬鹿だ、馬鹿みたいだ。正真正銘の馬鹿だ」


 もの凄い馬鹿にされているようだ。それでも、いつものように俺をからかうような対どれはなかった。むしろ……俺は、気遣われている?


「僕は君なんかみても笑えない。せいぜい失笑が関の山。だからさ、もう僕らに関わらないでくれるかな?」


「他人を幸せにしようとしても、それが叶ったとしても……それじゃあ君はそうはなれないんだよ。君は報われないんだ。無意味なんだ。だから……帰りなよ、君は君の世界に。君が幸せになれるのは、こっちじゃないんだから」

「……俺は幸せだけど。イグニスとギメルと一緒にいれば楽しい。あの家じゃ……一度もそう思えなかったから」


 幸せとは楽しいこと、嬉しいことじゃないのか?たぶん、精神的なもの、それを幸せとよぶのではないだろうか。イグニスのいう物質的な幸せは、どうも俺は幸せとは思えない。全然満たされているように、心が思えないんだ。


「君はそれでいいかもしれない。ギメルも今はそれを望んでいるかも知れない。でも……君とギメルは本来交わるべきではない別の世界の人間なんだ。本当はこうして話すことも許されない……それが罪になるくらい、遠い世界の存在なんだ」


 俺から視線を外したまま、イグニスがぽつりと零した言葉。手を伸ばせば届く距離にいるのに、彼がとても遠い。俺は彼の心が閉ざされているのを感じていた。


「だからこのままじゃいけない。いつかその溝がギメルを傷つける。僕はそんなことは絶対に許せない」

「それなら……俺は」


 家を出る。そう言いかけた俺の言葉を彼が見透かし噛み付いた。


「それじゃあ君も移民になる?無理だよ。すぐに見つかる。君は稀少で貴重だから。逃げられないんだよ、どんなに君が家を嫌っていても……君はそれでも愛されてるんだ。それじゃなきゃ、君の養母さん達は君に何も与えないだろう?」


 望まなくとも、贈られる物質……それを愛だと貴族は履き違えているのだと彼が言う。自分で買った物ではない物で溢れた僕の部屋、それを彼は歯噛みしながら見ていたのだろう、窓の外から。


「僕らの母さんは、聖十字の仕事で外に飛ばされてる。だから僕がギメルの親代わり。守らなきゃいけないんだ、絶対に」


 突然イグニスは自分達の親について話し出す。先ほどの話の比較だろう。

 浮かんだ疑問口にしかけた瞬間、イグニスが答える。思い起こせば彼はいつも俺を見透かしていた。冷えた視線、彼には一体何が見えていたんだろう。


「父親なんかいないよ。聞いたことくらいあるだろ?戦争って、そういうものなんだ。母さんは優しいよ、愛もなく望みもせずに生まれた僕らのために働いてお金を稼いできてくれるんだから」


 彼は言う。母は戦争の時に敵国の兵士に襲われたのだと。そして生まれたのが自分とギメル。俺はその時はじめて理解した。彼がギメルを慈しむのはそのためだ。顔も知らない父親。優しいけれど愛はない母親。誰にも望まれず、世界にたった一人で生きているような感覚。それでも彼が立っていられるのは、偏にギメルの存在があってこそ。

 一人は寂しい。でも、ふたりなら大丈夫。かつてギメルの瞳に浮かんだ言葉だ。口には出せないだけで、イグニスもギメルと同じ孤独を抱えていたのだろう。


「実の親に売られた?奴隷上がりの養子?は、確かに君は不幸さ。可哀想に。それでも君は気付くべきだ。世の中にはね、もっともっと苦しい思いをしている奴らがいるんだってこと」


「君はまだ幸せなんだよ。目もくらむようなハッピーエンドの中を生きてる」


 イグニスが付いて来てと奥の一室に俺を誘う。


「ほら、見て」


 彼が指し示すのは扉の向こう、その……ゴツゴツした床。歩くだけでギィギィ音が鳴る。今にも底が抜けそうな頼りない薄い板。そこにしかれた一枚の布。それを指さし彼は自嘲気味に微笑む。


「ここが僕らの寝床。夏は暑いし虫も湧く。冬は寒くて眠れない。最低な寝床だ。君みたいに豪華な天蓋ベッドで寝てる奴には理解できないだろ?」


 否定も肯定も出来ない。どちらも彼の心を傷つける……言葉は剣だから。慰めも労りも彼にとっては侮辱としてしか移らないだろう。それでも彼は俺の言葉を待っている。やがて俺の口から出てきたのは素直な疑問。


「背中、痛くないのか?」

「もう慣れたよ」


 淡々と答えるイグニスは、そのままのトーンの声で言葉を続ける。


「今日連れ出したのは、僕らと君が生きているのは違う世界だっていうことを教えたかったから。本当はわかっているんだろ?」

「僕は君と居ると苦しい。自分の惨めさを思い知る、だから君なんか嫌いだよ。僕が手を伸ばしても絶対に手に入らないモノを持っているくせに、それで君は満足できない。それどころかそれを捨てたがっている。何を考えているんだか理解できないよ」

「いつか、ギメルもそう思うはずだ。あの子は君を気に入ってるから……尚のこと」


 聞きたくない。それでも彼はそれを言わずにはいられない。それなら俺は……それを受け入れるしかない。


「いつか君は貴族として、相応しい相手と添い遂げる。それがわかった時ギメルは今まで通り君の傍にはいられない」


 彼の告げる言葉は事実。目を背けたい、俺の現実だ。

 定められた人生。

 そこから逃げたい。助けて欲しい。ここから攫って欲しい。救って欲しい。

 そんな縋るような想いを、人形としての俺は抱えていたんだ。心が死んだようなふりをして……それでも完全には死ぬことなんか出来なくて。だから苦しくて。


 ああそうだ、これは刷り込みだ。あの息苦しい部屋から解き放ってくれた彼女だから。だから大切なんだ。だからコレは……恋なんかじゃない。そう否定しようとする俺の心を彼は一別し、彼は即座に切り捨てる。


「わからないとか気付いてないとか言わせない。あの子は君が好きなんだ!君だって同じなんだろ!?僕はギメルの片割れだから、わかるんだ!」

「あの子を傷つけるなら許さない。いつか君は絶対あの子を傷つける。……君もそうしたくないならさ……………死んでくれないかな。それが出来ないなら、もう僕らの世界に関わるな。向こう側で幸せになってくれ、勝手にさ」


それに僕らを巻き込まないでくれ、イグニスがそう吐き捨てた。


「……わかった、もう関わらない。約束するよ」


 自分から言い出したくせに、彼は俺がそれを受け入れるとは思っていなかったようだ。驚いたような……本人は否定するだろうが傷ついたような、そんな顔で彼は俺を見ている。


「今まで楽しかった、ありがとう……」


そう言って指しだした手は、力強く振り払われた。

 挿絵(By みてみん)

「僕は全然……楽しくなんかなかった…………」


 今にも泣き出しそうな表情で背中を向けたイグニス。彼は俺にここにいて欲しくはないだろう。俺はそのままギメルが帰ってくる前にそこを去り、そして二度と足を運ばなかった。

 イグニスがギメルに言い聞かせたのだろう。それから二人は屋敷にやって来なくなり…………一度だけギメルが一人で現れた。でも俺はそれに応えなかった。すべて見ないふり、聞こえないふり…………視界に映る彼女の存在を否定した。最後、彼女は泣いていた。始めて会ったときのように泣きながら、彼女は消えていく。思わずその背を追いそうになり、立ち上がり……………俺は窓を閉ざした。これで良かったんだとそう言い聞かせて。


 彼と彼女がしあわせでありますように。小さく一度つぶやいて。





 終わりは突然だった。


 諦めたくせにまだすがりつくように、俺は窓を眺めていた。来るはずがない二人が現れるのをどこか心待ちに、外を眺めている俺。その部屋の扉を叩く者が居た。

 豪華なドレスと装飾品に身を包んだその女性。俺はその人を知っていたが、驚かずにはいられなかった。


「……か、母さん?」


 いつもならメイド以外の人間が俺を呼びに来ることはない。母さん自ら俺の部屋を訪ねるなんてこれまで一度もなかった。だから………嫌な予感しかしない。


「貴方に見せたいモノがあります。広間までいらっしゃい」


 行きたくない。足が重い。それでも俺はついて行くことしかできない。人間の心を取り戻した俺でも……彼女はの枷は外れない。彼女は今もなお、俺の絶対的な所有者だったのだ。


「アルドール、うちの庭に侵入者が現れたの。見覚えはないかしら?」


 広間に居たのは警備の者に取り押さえられたギメルとイグニス。

 来てしまったのか、そう思いながらも心は正直だ。こんな形の再開なのに、不謹慎にも俺の心は弾みかける。おそらくイグニスの言葉を破りここへ来てしまったギメルを追って、イグニスも来てしまったのだろう。


「さぁ、道に迷って入り込んだんじゃないですか?裏山に薪か山菜でも取りに来たんでしょう」


 俺は感情の殺した声と表情で他人のふりをした。それが彼らのためだと思ったから。傷ついたようなギメルの顔から目を背けて。


「そう、それならば…………処分しても構わないわよね?」

「母さんっ!ここはシャトランジア王国!いかなる人間であっても人が人の命を奪うことは許されないっ!道に迷っただけでしょう?帰してあげればいいじゃないですか!」

「ここを何処だと思っているの?トリオンフィの敷地を混血風情が踏み込んだのですよ?汚らわしいっ!」


 国法など関係ない。この土地は、自分こそが法だと彼女は言い放つ。


「アルドール、この娘はねどこから聞いてきたのか知らないけれど何故か貴方の名前を知ってたの。友達だなんて嘘を吐いて、貴方に会わせろだなんて……どうせ金目当てだったんでしょう?汚らわしいっ!」

「貴方は今、知らないと言ったわよね?こんな女、知らないって。友達のわけないわよねぇ?それとも私の可愛いアルドール?貴方は母様に嘘を吐いたのかしら?」


 刻まれた恐怖に身体が震える。彼女は俺に従順さを求める。大人しく従えば優しく愛してくれる。それでも刃向かえば容赦しない。屋敷の懲罰部屋の拷問器具にはもうしばらく会っていないが……トラウマだけならいくらでも残っている。


「嘘つきには罰が必要よねぇ……でも私のアルドールは素直な良い子よね?」


 否定すれば、俺は助かる。それでも否定すれば……二人が危ない。でも……


「…………知ってる!俺は嘘を吐いた!イグニスとギメルは俺の友達だ!」


 敬語も僕も止めた。わざとだ。これでいい。怒ればいい。罰すればいい。悪いのは、俺なんだから。


「ふぅん……そうなの、嘘を吐いていたの」


 頬へのばされた白い手。伸ばされ整えられ赤く染められたその爪が、容赦なく俺の頬に突き立てられる。皮膚が裂かれる感触に俺は目を伏せそうになったが、それでも必死に母を見つめ続けた。


「そんな泣きそうな顔してるくせに、怖いんでしょうあの部屋が。それなのに、庇うの?こんな下賤を!そんなに大切?この二人……いえ、二匹が」


 わざわざ言い直す言葉が憎らしい。目の前が霞む。悲しいんじゃない。これは憎しみの涙だ。


「アルドール、答えなさい。私と“友達”。どっちが大切?」

「そんな……答えられるわけ、ないじゃないか!」


 悲痛な俺の叫びに、この女は恍惚の笑みをもたらした。とても愉快そうに俺を見ている。


 もし母を選んだら、彼女はこう言う。“それならこれは要らないわね”と。

 もし彼らを選んだら、彼女はこう言う。“私より大切なの?そんなもの、生かしておけないわ”。


 どちらにしろ、彼女はふたりを殺すつもりなのだ。それがわかった。


「どうして……そんなこと聞くんだよ」


 情けない。それでも俺は半泣きしながら母に問いかけた。


「友達くらい別に良いじゃないか!僕は勉強だって宿題だってちゃんとやってる!良い子にしてるだろ!?友達と遊ぶくらい……」

「アルドール、貴方はこのトリオンフィ家の次期当主!このような下賤の民に関わってはいけないの!どうしてそれがわからないのです!この家の品位を貶めたいのですか!?」


 彼女から笑みは消え、代わりに凄まじい怒りの形相がそこへ浮かぶ。


「友達は選びなさい!貴方にはこんなモノ必要ないの!友達が欲しいのならいくらでも作らせてあげてるじゃない!きちんとした身分と家柄の、貴方に釣り合うような子を!」


 彼女が引き合わせる友達は……家名とプライドのことしか頭にない偏屈な余所の名家の次期当主と、俺の婚約者候補のどこかの令嬢ばかり。財産目当て、腹の探り合い、そんな者達話しても全然楽しくない。


「嫌だ……俺はイグニスとギメルがいい!」


 友達は作らせてもらうものじゃない。なりたいと思うもの。一緒にいるのが楽しくて、ずっと一緒にいたいって感じるもの。代わりなんてあり得ない、かけがえのないものだ。

 それをさっきの答えと彼女は受け取ったのだろう。緑色の瞳が、今は俺の青よりずっとずっと冷たい色に見えていた。


「アルドールっ!」


 俺の言葉に嬉しそうに笑うギメル。ああ、彼女は何もわかってない。その事実に俺の涙は止まらない。

 イグニスはもう気付いている。さっきからずっと、俺と同じような絶望を宿した瞳で俺を見ていた。


「そう……わかったわ。貴方がそこまで言うのなら、殺さないであげましょう」

「母…さん」


 嫌な予感がする。母さんが、善意で言い出すわけがない。プライドの高いこの人は、俺に選ばれなかった屈辱を晴らすためのより残酷な方法を編み出しただけに違いない。ああ、でもどうかそうであって欲しくない。


「知ってるアルドール?死はね、時に救いなの。この二人には後悔させてあげる!生まれてきたこと、生きていること!貴方と出会ったことを!」


 俺の願いむなしく、想像が当たってしまった。


「混血はね、高く売れるのよ?どこに売り飛ばしてあげましょうか」

「母さんっ!俺が何でもするから!だから、止めてくれっ!」

「はしたないその言葉遣いは何ですか?これだから下々と関わるとダメなのよ。俺ではなくて僕。それから“なんでもしますから”、でしょう?」

「う、うあぁあああああああ……」


 もうちゃんとした言葉にならない醜い嗚咽だけが喉から溢れた。何を言っても無駄だ。もう駄目だ。彼女は聞いてくれない。聞くつもりが無い。


「泣いても駄目。そうね?何でもするの?それなら靴でも舐めて貰いましょうか?出来る?出来るわよねぇ?大切な友達のためなんですもの」


 やればやったで貴族としての誇りはないのですかと罵るくせに。やったとしても助ける気なんてこれっぽっちもないくせに。単に俺の屈辱的な姿を見せたいだけなんだ。見たいだけなんだ。


「アルドールを、いじめないでっ!」


 跪かされ靴を眼前に差し出された俺を庇うギメルの声。


「アルドールは人形じゃない!道具じゃない!人間なのに、どうしてそんなこと、命令するの!?」


 人は誰にも命令される謂われはないし、命令できる権限なんか無い。ギメルが悲しげに叫ぶ。


「そう……貴女がそんなことを教えたのね?せっかく良い子に調教したこの子を誑かしたの……?」


 母はギメルへ詰め寄り、嫌らしい笑みを浮かべる。


「知り合いのお家にね、セネトレアで奴隷商をやっていた人がいるの。いい貰い手を探して貰うことにするわ。うふふ、お嬢ちゃん貴女はこれからどうなると思う?」


 状況について行けないギメルにも、母から向けられる憎悪は見えているようで、声も出せないほどに震えていた。


「最低な店!最低なご主人様!死んだ方がマシ、そう思いながら惨めな道具として一生を終えるの!楽しみねぇ……これはささやかなお礼。私のアルドールを誑かしてくれた売女へのねぇ!」


 残忍に嗤う母からギメルを庇うように、強い口調でイグニスが言葉を紡いだ。


「………………例え神が許しても、僕はお前を許さない」

「へぇ、どう許さないのかしら?」


「良い言葉を贈ってあげるよ。この家は今代で終わりだ。二人の娘も、跡取り息子も皆、近々死に絶える。これは零の神の呪いだ!」

「お兄ちゃん、駄目っ!」


 叫ぶギメルの声を無視し、イグニスは呪いの言葉を続けた。


「これは言霊。僕の悪しき言葉は必ず現実となるだろう」


 そこまで言って、彼は狂ったように哄笑する。


「あんたがやってきたことは全て無駄なんだよ!アルドールにつぎ込んだ金も!すべて無に帰す!平和なんか続かない!戦火から逃れられると思ったら大間違いだ!あんたは背負ってるその家名の意味を理解しているの?誇り?嗤わせるな!人間風情が永遠などたどり着けない!名声だって無理さ!あんたらは死で終わりなんだ!」


 それを負け犬の遠吠えだと母が笑う。全然痛くない、そんな表情で。


「強がってられるのも今の内だけ、可愛いものね。ねぇお坊ちゃん……貴方だって同じよ?混血好きの変態貴族に何をされるか、わかってないの?あの人達は美しければ、珍しければそれでいいのよ?男だって、女だってお構いなし。ああ、可哀想に……何をされるのかしら?朝から晩まで玩具のように弄ばれるのかしら?下のお口も上のお口もきっと静かになるんじゃないかしら、咥えさせられたらしゃべれないでしょうから。違う目的で使うのですもの、さぞかし痛いでしょうねぇ……ふふふ、あら嫌ね、私としたことがはしたないことを口にしてしまったわ」


 全ての元凶が嘲笑う。吐き気がするような母の言葉。それにもイグニスは負けずに食いかかる。


「変態貴族はあんたじゃないの?養子息子に拷問?何考えてるの?どれだけ国法犯せば気が済むの?人間風情が女王様?神様でもなったつもり?笑わせないでよ……何も見えていなくせに!濁った目!醜いのはあんたの方だ!」

「人間以下の家畜が何を言っているのかしら?笑わせないでとは私の言葉だわ」


 そこまで母が言ったときだった。母が呼んだ商人の手の者が現れ、高額な金を置き、二人を縛り連れて行く。二人の背中に向かい、名前を呼び続けることしか出来ない俺に、振り返ったイグニスは、初対面の時以上に暗く染まった憎悪の瞳を俺へと向ける。


「嘘つきっ!……君なんかどうして信じたんだろう!君がくれた言葉は、まったく真逆にしか作用しないんだ!」


 かつて二人へ贈った、しあわせになりますようにという言葉。それはまったく機能せず、二人を不幸へ導いた。


「アルドール、僕は運命を呪うよ。そうだね君は悪くない。それでも僕は君をきっと許せない。君なんか大っ嫌いだ!君になんか、出会わなきゃ良かったのにっ!」


 イグニスの痛々しいその叫び。家に贈られた不吉な言葉より、その一言が胸に深く突き刺さった。力なく項垂れる俺の耳に届けられる、俺を呼ぶ声。


「アルドールっ!」


 それが彼女が意図しての言葉だったかは不明だ。イグニスの呪いの言葉、そのマイナスの分を良い言葉でプラスに戻したかっただけなのかもしれない。それでもその言葉は絶望の暗闇に飲み込まれていた俺を救ってくれた。


「大好きっ!不幸なんかじゃない!出会えて、私は嬉しい!」


 これからどうなるのか、恐ろしいだろうに。怯えを必死に隠して彼女は強気にそう言い放った。


「さっさと連れて行きなさい!耳障りだわっ!」


 母が不快そうにそう叫ぶ。


「ギメルっ……俺はっ……」


 俺が言葉を紡ぐより先に、目の前で重い扉が閉ざされる。もう何も聞こえない。嬉しげに嗤う……母の笑い声以外、何も……何も、聞こえなかった。


「さぁ、それじゃあ地下に行きましょう?あの部屋にはいるのも久々ね…………使い方忘れてるかもしれないわ。きっと痛いわね。でも仕方ないわね。貴方は悪い子なのだから」

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