20:Veritas vos liberabit.
「とりあえず……アルドール、君の話を聞かせて貰える?」
ユーカーには、何を話して良いのか。何を話しかけてもいけないような。そんな気がした。
イグニスもそんな空気を感じ取ったのだろう。
俺の方の話を求める。彼がどうにかしてくれたらしい……その怪我はどうしたのか。
「転ん……」
包帯の上から思い切り蹴飛ばされる。痛い。一応加減はしてくれたのか……血は出ていないが、内蔵が裏返ったような痛みだ。やっぱり加減してくれなかったのかもしれない。彼は怪我を負ったことより、見え透いた嘘を語ったことにキレているようだ。
「へぇ……アルドールの癖に僕に嘘をつけるようになったんだ」
「痛い、痛いですイグニスさん」
掴まれた肩にギリギリと力を込められる。目の前のイグニスが満面の笑みだからこそ、怖い。此方も笑顔で応対するが、泣きそうだ。
そんな情けない様を見た彼が乱暴に手を離す。
「そんなの僕相手に通じると思わないで欲しいね。君は数術使いを舐めてる」
とりあえず他の傷について、彼が聞いて来なくてほっとした。
見られただろう。それでも……彼にだけは言いたくないのだ。
話題をそちらに振られる前に、今の傷のことを白状すべきか。
「……フローリプに、刺された」
まぁ、他に相手は居ないだろうね。そんな平然とした顔でイグニスが頷く。
「俺、そんなに嫌われてたんだな。いや……わかってたけどさ」
俺は最悪な兄貴だった。兄と名乗ることすら烏滸がましい。
俺が養親を憎んでいたのは確かだ。だけど……フローリプにとって、それは掛け替えのない両親だ。俺があの家に来なければ、彼女の両親は、姉さんは死なずに済んだ。
「……アルドール。君は彼女の兄じゃない。赤の他人だ」
蹴りを止めたイグニスは、言葉の刃を俺へと向けた。癒えたばかりの傷が内側で疼く。
「君は、カーネフェルの王になるんだ。彼女が君を兄と思っていなくても、君が彼女を妹だと思っていても。君は彼女を斬る必要がある。彼女はたかだか数兵だけど、君はAだ。価値が全然違うんだ」
「価値って……そんな言い方」
「君がふざけるな」
否定しようとした言葉。全てを言い切る前に言い換えされた。
「いいかい?君はこの僕がカーネフェル王にと認めたたった一人の人間だ。関所の人々だって、今もタロックと戦ってる。君がすべきことは、彼らの希望であることだ」
「他のカードは……あいつが言ったように、駒なんだ。王は犠牲になってはならない。ゲームが終わってしまう。君は誰を犠牲にしても、盤上に残る義務があるんだ!それが、犠牲を糧に存在する者の宿命なんだ!」
正論だ。正論過ぎて、俺には痛い。
償いのため。そして、あの時自分は……確かに奴隷貿易を憎んだはずだ。
だから、目の前の彼の手を握り替えして、彼の力に。王になることを決めたはず。
それでも、殺すべき……見捨てるべき人間が、こんなに身近にばかりいるなんて……思っていなかった。どうして彼が、彼女が選ばれる?
「その都度君は99のために1を見捨てる者でなければならない。それが姉でも、妹でも……僕でもだ」
「お前ら、馬鹿だろ」
それまで一言も発さなかったユーカーが、ぽつりとそう言った。
「お前は何を願うんだ……アルドール?今生きてる。妹を見捨てて。そんで生き延びて?それでお前はどうするわけだよ?それで最後にそれを願わないとどうして言えるんだ?」
死んだ彼女を、もう一度……
イグニスに託されたこと、全てを忘れて。
仮に辿り着けたとして。その時、自分が願うこと。
わからない。
でも、願わないという保証を持てない。
「生き返らせたいなんて思うくらいなら……、最初から見捨てんな!死ぬ気で守れ!お前は俺とは違うだろ!?何まだ生きてる奴相手に、諦めてんだ!?」
扉を思いっきり蹴り開けて、振り返らずに彼が言う。
「付き合ってらんねぇ……俺は行くからな。何時までも時間数術なんかにかかってられるか!」
「ユーカー……」
「仮に手が滑ってお前の妹殺っちまっても俺のせいじゃないからな。怪我も治った癖にそこでうじうじ落ち込んでた野郎が悪い!」
脅迫のようなその言葉。それでもそれは俺に、立ち上がる力をくれる。
「……俺も、行く!」
最弱のカードでも。何も出来ないと嘆くより、何かを。
何かが出来るなら。出来るのに、しなかったら。
それは、もっと強い後悔だ。
そうだ。こんなの、前にもあった。フローリプに殺され掛かったのは、これは二回目。
一度は解り合えたんだ。それだって、もう一度無いって……一体誰が言えるんだ?
「数術も使えない癖に、いい音だね……僕の言葉より」
背中に掛かるのは、驚いたようなイグニスの声。振り返る内に、もうユーカーは走り出している。
「上手くいったって、事なのかも。それなら僕は……喜ばないといけないな」
溜息ながらにそう言った後、イグニスに腕を引かれる。
「さっさと行こう……君が諦めないのなら僕も力になるよ、最後まで」
扉の外。廊下にはユーカーが通り過ぎたと見られる跡。
傀儡の骸骨達が容赦なく、打ち砕かれている。ここまでされれば操ることも出来ないのだろう。
自分に同じ事が出来るか、自信はない。それでも、やるんだ。
俺の意思に呼応するよう体温がじりじり上がっていく。いつでも数術を紡げるようにと言っているみたいだ。
長い長い舞踏の終わり。死者への死神は、今を生きる人間。
長い長い廊下を駆けて、曲がった先。ここを抜ければホールに繋がる。そこでようやく見つけた金髪。
追いついた先。そこにはユーカーと……一人の女。女は立ちはだかるようそこに立っていた。
それは夢の中に現れた少女。それと同じ服……薄汚れて、変色して、ボロボロになっていたけれど……それはあの子だった。それがわからないはずがないユーカー。彼はそれを「まやかしだ」と吐き捨てる。
躊躇っても、殺されてやっても。目の前の彼女は生き返らない。それを彼は理解した。
それなら、糸を切って眠らせてやる。
見捨てた罪は、罪のまま……背負って生きる。精一杯生きて、死ぬ。
あの夢が嘘でも、本当でも。許されたと彼は思わないだろう。
だからいつか彼女の所に行くまで、それまで誰にも許しを請わない。生を諦めない。それを諦めることが、見捨てた者への裏切りだ。
世界か、自分か……その全てか。息を吸い、駆ける彼。一気に間合いを詰める。
「土産話……持ってくから。お前が見れなかったもの、場所……全部もって会いに行く」
真っ直ぐに両目で彼女を見据え…………力任せに振り払う。その一撃は、背骨を砕き彼女を上と下に……二分する。
「それまで待ってろよ」
床へと叩き付けられる上半身。それに続いて、糸の切られた片割れも……それに習って力を失う。衝撃と共に瓦解する機関。バラバラになった骨。欠けたピースはあまりに大きく、彼女というパズルは元の操り人形には戻れない。戦う力を無くした彼女。その頭蓋骨……カタカタと呪いの言葉を発するように口を動かす。それが何を、誰の名前を呼んでいるか……すぐにわかった。
「イグニス……数術、使っても」
「……そうだね。何もしなかったら、君は本当にただ居ただけだし。……好きにすれば?」
気配を場所を……なんて言葉。イグニスは言わなかった。気付いていたのかもしれない。
廊下の道々を思い出せばわかるがいずれにせよ、道化師には居場所がばれていたんだろう。だったら、今更だ。
「……カーネフェル人には火葬が一番。火に愛された民だから。僕の力じゃ水葬になってしまうから、譲ってあげるよ」
付け加えるイグニス。
教会で襲ってきた人々は土葬。ここにいる人々は……それさえ許されなかった晒しの……
権力争いに巻き込まれた、可哀想な人達だ。
カーネフェル王が悪いとかユーカーの父親が悪いとか……自分にはよく分からない。ただ、このままカーネフェルが傾いたままなら……こんな家は増えるのだろう。
混血のため。奴隷のため。勿論それも大事だ。
それでも貴族でも……純血でも……、思い悩み……苦しんでいる人はいる。フローリプに、ユーカーに……出会って教えられたこと。
「…………お休みなさい」
剣を向ける気には慣れなかった。跪き彼女の手を握れば、こちらの骨を折ろうと力を込めるその白い腕……
もう片手を補助具である剣に添え、俺は数式を描く。
どうか安らかに。
触れた場所から、燃え上がる青い炎。それは辺りに広がり彼女を……もと来た道を包み込み、起き上がれない彼らを照らし出す。触れた場所から存在の引き算、割り算。焼けるでも焦げるでもなく……彼らはそこから消えていく。
ユーカーはそれをじっと見つめていた。瞬きもせずに、彼女が完全に消えるまで。
数術の炎は、死者だけを完全に飲み込むと……吹き消されるよう消えていった。屋敷の壁も、俺たち自身も燃やさずに。燃える音が空中へと掻き消され……、静けさを取り戻す屋敷。それも、暫しの事だった。
心の底から面白がる、女の哄笑。ホールへと続く反対側の通路。そこから彼女が現れる。
「なんだ、つまらないな。もう克服しちゃったんだ?統計データからしてそこのJ君にはまだ無理だと思ったんだけど」
つまらないと言いながら、彼女の顔は満面の笑み。それを目にした、同じ顔のイグニスは「道化師め」と忌々しげに吐き捨てた。
「そうだよね、未来は視えないからこそ面白い!ねぇ?聖教会の“神子”?私の知る未来とは盤面が随分違う。これは嬉しい誤算だよ。アルドール?精々仲間を、家族を、友達を大切にね?あははははははは!時期的にはさっきみたいに良い勝負が出来ると思うけど……今度は私の勝ちかなぁ?」
「……フローリプは、何処だ?」
笑う道化師を睨み付け、素直に答えるとは思えない妹の情報を探る。
「…………おい、アルドール」
その声は、尋ねる声。疑問を宿した声色のユーカー。
こんな時に何を不思議がるというのか。邪魔しないでくれと、そう言おうと思った時……
「この女、誰だ?」
的外れなその問いに、道化師が笑う。
その瞬間、俺たちは反射的にその言葉を推測する。
推測による憶測。それが脳内に広がる。それは認識すると言うこと。その認識が、薄っぺらな数式を砕く。
「私は何時、死んだ人間“だけ”操れるって言ったかな?」
耳に痛い、硝子の割れる音。
思わず瞑る目。
聞こえた声は……それまでのものとは違う。
俺たちを見ていたのはイグニスと瓜二つの少女ではなく、すらりと伸びた長身……金髪の少女。若草色の瞳がそこへと現れる。俺が中庭で見た……数年後のフローリプ。
「何をそんなに驚いてるの?“お兄ちゃん”に出来ることが、妹の私に出来ないわけがないよ。だってたった彼は私の片割れなんだもの。お兄ちゃんも私も数術使いだもの。数術使いに不可能事は、あり得ない」
お兄ちゃんが、自分ではなくイグニスを差していることに気付くまで、しばらく時間がかかった。そのくらい、強い衝撃を俺は感じていた。
「視覚、……数術?!」
その絡繰りを名付けるイグニスの声。それは耳に覚えのある単語。
「……視覚って……不可視数術?」
それでもそれは、見えなくするもの……ではなかったのか?姿を隠すときに、気付かれないように……
「不可視数術は視覚数術の一派……見えなくする数術じゃない。実際に消える訳じゃない。消えたと、相手に錯覚させる術。つまり……全く違う相手をそうだと誤認させることだって可能なんだ」
それが、視覚数術。視覚を司る脳を麻痺させる数式。
イグニスの言葉から、それを知ったが……一体何時、俺たちはそんなモノをかけられていた?
「人の得る情報。それは、五感から」
視覚情報。聴覚情報。触覚情報。嗅覚情報。味覚情報。
そこに込められた嘘。
「!?そうか!あの時っ……」
イグニスの遮断数術。
腐敗臭にやられた俺を助けるために、イグニスは意図的に嗅覚を麻痺させる数術を紡いだ。
俺たちはその際に、敵側から嗅覚から脳へと作用する数術が展開されていることに気付けなかった。暗闇で視覚不足を恐れ、聴覚に頼っていた俺たちは……もっと先に恐れるべき事に気付くべきだったんだ。
「私の数術を恐れるのなら、達磨にでもなってからまた挑戦しにおいで?はははははは!それじゃあ簡単過ぎるか、私が勝つのが!」
数術使いの勝負は、狸と狐の化かし合い。今回それは、相手が上手だった。それを俺は認めざるを得ない。ここが敵陣だったこと。受け手に回った時点で、不利な勝負に挑んでいるのはわかっていた。
(だけど……っ……)
どうすればいい?
イグニスの言葉が、ユーカーの言葉が……今更のように、唯重い。
「あはははは!それじゃああんまりだよねぇ。いいよ、ハンデをあげるよ」
そう言って操られたフローリプが、髪を解き……器用にリボンで両手を縛る。
「私はここから動きません」
「思い切り殺せば?私の本体にもシンクロして、ショック死させられるかもしれないね。やってみる?どうせこの子は大したカードでもないから、一対一じゃアルドールくらいにしか勝てないし、Jが二枚も居る現状じゃどうにもならないから」
手が滑って殺すかも。そんな脅迫をしたユーカーも、動けない。
俺の決断を待っている。
諦めないのなら、最後まで。そう言っていたイグニスは、俺の心を見透かした。
「……ルクリースさんは、何処だ」
イグニスの言葉で、俺はもう一人の仲間を思い出す。
なんで今まで忘れていた?自分自身を責める声。
どうして今まで彼女の話をしなかった?イグニスを責める声。
だけど……気付く。これは、時間稼ぎだ。
俺がまだ選びきれていないことを感じ取ったイグニスは、より多くの情報と、時間を引き出す作業へ入ったのだ。
「ああ、彼女ね。本当に残念。Qって駒が手に入れば、ここでチェックメイトだったんだけど」
もしも操られたのがQのコートカードのルクリースだったなら。
Aの自分は勿論、コートカードのイグニス、ユーカーでも彼女には勝てない。Jの彼らはQには絶対勝てない。それがこのゲームの大原則だ。
(………あれ?)
イグニスは、どうして今まで話さなかった?どうして今、彼女のことを?
ルクリースとフローリプ。二人の違いは?
カードの強弱。身分と地位。年齢、身長……それから、それから?
諦めなければ、最後まで力になる。
これは、イグニスからの……俺へのヒントだ。
フローリプは、俺に何を言った?何を聞いた?
どうして彼女は……あんなに悲しそうに微笑んだ?
フローリプは誰?
俺の妹。姉さんの、アージン姉さんの妹。
姉さんは……姉さんは。
(フローリプ……お前、まさか)
「あははは、怖い顔。安心しなよ“お兄ちゃん”?彼女はまだ小鳥ごっこをやってるよ」
道化師とイグニスの会話。その時間稼ぎの中、俺は必死に考える。
一つの疑念。あり得ない。まずそう思った。だけどその仮定なら……全ての点が繋がるかもしれない。……いや、繋がった。それを認めれば、全ての式は解ける。
「でも、どうして俺なんか……」
「あら?嘘は良くないですねぇ」
突然、割り込む女の声。それに驚き顔を上げたのは、俺だけではない。
イグニスも、フローリプもその方向に目をやった。ユーカーだけがそっぽ向き「あいつは殺しても死なねぇだろ」みたいな顔で一度頷いた。
「ルクリース!?」
道化師のバックを取った形で現れた彼女。彼女の登場で、俺たちは道化師を囲んだ形になる。
「使えるメイドというものは、呼ばれず現れ飛び出ず現れ、です。ご機嫌如何ですアルドール?あら?私のこと忘れてたって顔ですか?」
「……!?クラブの女王!?凡人が!?純血があの檻を破ったっていうのか!?」
いつもの言葉遣いも忘れるほど、道化師は追いやられている。型破りなメイドは、最強カードの予想すら超えていた。
「小鳥なんて柄じゃなさそうだしな、この女は。檻でも壊して来たんじゃねぇの?蹴りとかで」
「ふふふ、またつまらないものに投げてしまいましたわ」
「っ!……お前、いつか絶対ぶっ殺す」
まさかナイフを投げられるとは思っていなかったのか、綺麗に避けるのに失敗、転倒するユーカー。転がる彼の様に、くすくす笑う道化師。余裕を取り戻させてしまったようだ。
「今殺さない?私の駒になると良いと思うよ?」
「なるかボケっ!俺は誰の駒でもない。それからこいつの駒でもない。誰かのもんになるなんかまっぴら御免被るぜ」
“貴方は自由に”
遺された言葉通り、力強く言い放つユーカー。
台詞は格好良いが、受け身を取り損なったままの体制で言われてもあまり格好はついていない。だが、……彼が前を見据える様に、背中を押された気がした。気がしただけで、彼にそんな気は無かったと思うけれど。
彼が彼女に立ち向かったよう、自分も……やらなければ、言わなければならないことがある。
「フローリプ……」
「は?」
剣を鞘へと戻し……俺は道化師へと歩みを寄せる。ルクリースがそれを制止しようと動くのを、視線を向けて止めさせた。彼女は不満そうだったが、何時でも仕掛けられる位置で、ナイフを構えたままそれを見送る。
イグニスは俺を止めない。こんな時真っ先に止めそうなのに。
そして俺は道化師のすぐ傍まで辿り着く。怪訝そうな道化師の若草色の瞳をじっと見据えて、その内側にいる妹に呼びかける。
「間違ってたらそうだって言ってくれていい。」
「だからアルドール?」
何言ってるんだこいつは。そんな呆れた表情の道化師。
「俺は……ギメルが好きだった。今だって……」
本当の彼女には、まだ俺は再会できていない。未だ眠り続けている彼女。
ギメルの名を出した途端、緑の瞳が見開いたのは……どちらの意思なのかは、わからなかった。
「だけど、今はよくわからない。どういう気持ちがそういう好きなのか」
彼女が何もしていないのに、道化師がそれを騙っただけで……俺は彼女を、見損なってしまった。酷いことだ。けれど、彼女が本当に道化師ではないという確信はない。
信じたい、信じられない。心が右に左に傾いて……俺はそういう感情を見失った。
「あの家にいた頃はどうでもいいものが多くて。イグニスとギメル以外……何にも見えていなかった。あの日、ルクリースが止めてくれなかったら。俺はお前を殺そうとしたと思う」
「だから俺はルクリースに感謝してる。だから俺はルクリースが好きだと思う。だけどそれがどういう好きなのか、俺にはよくわからない」
「そうしてカードに選ばれて……俺は外を知った。外にはいろんな人がいて、いろんな事を考えて……今までのちっぽけな自分が馬鹿だと思った。そうやって新しいことを知る度に、俺は大嫌いだった世の中が……少しずつ好きになっていくような気がした」
フローリプの屋敷とは違う側面を見て思った。ああ、普通の女の子なんだなって。身分とか立場とか、そう言うモノに縛られて生きてきた彼女は俺と同じ、人形だった。だけど彼女は笑えるし、泣くことも出来る。それが許されるべきだったのに。だから彼女が笑ったとき、俺は嬉しかった。自分のことのように嬉しかった。
ルクリースのこと……この旅に出るまで、俺は誤解していた。よくいるカーネフェリーの女の子らしく、俺の顔が金にしか見えていないんだろうと思っていた。だけど彼女は弱い俺を守っていてくれる。力だけじゃない。その強い心で何時だって支えてくれている。
ランスは親切で優しい、騎士の鏡だ。料理も美味いし……でも魚料理が多いことと見た目が酷い料理が多いのが……欠点というか面白い。あんな兄がいたら毎日が面白いと思う。
ユーカーはいつも怒ってばかりで、捻くれていて口も態度も悪い。でも何だかんだ言って彼も優しい。強さという殻を求める彼は、優しく脆い心の持ち主。彼を見ていると放って置けない。何が出来るとは思えないけれど、何かできたらいいのにと思う。
他にもいろんな人にあった。タロック人にも、カーネフェル人にも。
苛ついたことも、泣いたことも。それでも、その全てをひっくるめて……
「確かに嫌なことも不条理なことも、この世界には沢山あるんだと思う。俺が知らないことも沢山あるんだろう。それでもそんな最低な世の中があったから、俺はいろんな人に出会えた。そんな世界が俺は好きだと思う」
俺以外にも、相応しい人はいるんだろう。自分が王に相応しいとは思えない。だけど……俺の役目は王になる事じゃない。
終わらせること。戦争を、差別を。審判を。
そんな平和な世界になったら、相応しい人に明け渡せばいい。
誰もいないことでこんなに世界が狂いだしているのなら、その椅子に一時でも座ろう。その日が来るまで。そうすることで守れる者、変えられるものがあるのなら。
「俺なんかに抱えきれるかどうか解らない。不安で仕方ない。それでも支えてくれる人がいる。だから俺は……その人達の大切なものを守りたい。カーネフェルを、守りたい」
緑の瞳が揺れる。
フローリプ。その怒りが表面に表れる。息を吸う彼女。数術を描こうとしている。俺が彼女を選ばなかったと確信したのだ。
「だけど、俺にとってのカーネフェルには……フローリプもいるんだ。俺はお前を守りたい。兄としてじゃない、王としてだ」
五月蠅い。黙れ。燃えてしまえ。彼女の怒りが炎を纏い、燃えるカードが宙を飛ぶ。
近すぎる。避けられない。俺は咄嗟に目を瞑る。
聴覚に届く、風の音。燃える音じゃない。続く金属、衝撃音。恐る恐る目を上げれば何ともない。
「まったく……うちの坊ちゃまはこれだから……」
ルクリースのナイフが燃えるカードを突き刺し壁へと飛ばしたのだ。
溜息で一度区切った言葉。伏せた目を開き、深海の瞳が微笑んだ。
「これだから……大好きですよ、アルドール」
彼女の目は、僅かに濡れていた。
「さて、そこの道化!よくもいろいろやってくれましたね。覚悟はいいですか?」
「違うんだルクリース!あれは、フローリプなんだ!」
ルクリースは、まだ……視覚数術にやられていた。
「イグニスっ!」
視覚数術を解いてくれ。ルクリースとフローリプを戦わせてはいけない。
縋るよう、振り向いた先。
「……イグニス!?」
「馬鹿だよね、“お兄ちゃん”?そんなに今の場所にしがみつきたい?そんな技以外にも、いくらでも方法なんかあっただろうに」
金髪の少年が、イグニスが倒れている。
俺を見ていたユーカーも、今更気付く。
視覚数術に冒されたルクリースの言う「いろいろ」。それにはそれがどのように映っていたのだろう。道化師は、どんな演出を彼女に見せたのか。
「いいこと教えてあげるよ、アルドール」
道化師は……含み笑い。
抱き上げたイグニス。軽い。軽すぎる。これじゃあ……音が聞こえなかったかもしれない。聞こえても、気付かなかったかもしれない。目の前の少女に語りかけることに集中していた自分では。
「“零の数術使いは、本当の意味で回復術は使えない”」
その言葉に、触れた腹の傷跡。俺の刺された傷は治っている。
俺の回復術のような一時的な回復ならば、時間が経てばまた現れるけれど……俺には怪我が戻らない。
(そうだ、イグニスも言っていた)
道化師の言葉は記憶の中にあった。
俺は見たことがない。イグニスが回復術を使ったところを。
「身代わり数術。自己犠牲精神の優しい優しい神子様が、肩代わりしてくれたんだよ、あの大怪我を」
彼の服から、赤い色が滲み広がる。
「イグニスっ!?イグニスっ!?」
「馬鹿だね、“お兄ちゃん”。そんなに今にしがみつくって事は、結局貴方は何も信じていないってことじゃないか」
「おい、馬鹿!お前その場凌ぎでも回復出来んだろ!やれ!」
「や、止めろ!僕は……大丈夫、だから。今は、ルクリースさん……の解かないと」
起き上がろうとするイグニスを止め、一度使った一時回復数術。ユーカーに怒鳴られるまま、式を展開。自信はない。だけどイグニスが。血が、こんなに沢山……!患部を診るためイグニスの修道服をユーカーが捲り……絶句した。
「…………なぁ、アルドール。神子って、神子だよな?」
「え?」
こんな時に彼は一体何を言っているんだろう。そう思った。思ったが……さっきの事を思い出す。彼は自分たちと別行動を取っていた。それはつまり……?これは耳を傾けるに足る話?
「神子っていうか、巫女だったり……しないか?」
「イグニスはイグニスだろ?」
「放せ……!セレスタイン卿っ!?」
「……暴れんなっ!いいから、片手貸せ」
ユーカーに引っ張られた片手。押しつけられる。感触。柔らかい。小振りだが、これは……
「…………………………イグニス、太った?」
無神経な言葉だったかもしれない。イグニスから蹴りを食らった。
怪我人とは思えないいい蹴りだった。頭がガンガンする。
起き上がれば一メートルほど吹っ飛ばされていたことがわかる。
「馬鹿!馬鹿っ!馬鹿っ!馬鹿っ!どうしてくれるんだ馬鹿っ!」
イグニスは半泣きだ。半泣きでユーカーを両手で叩きまくっている。
「もうっ……お終いだっ!」
「そ、そりゃあ……いろいろあるのかも知れないが、隠すほどのことじゃねぇだろ!?言わなかったお前が悪いんであって!暴れるなこらっ!傷が悪化するだろ!?」
「そういう次元の話じゃないんだよ!!」
「次元ってなんだよ……カーネフェル語で話せ」
「もうお終いだって言ってるんだよ!!これまでのデータ通りならっ!」
「こっちだって初耳だ!なんだよお前神子の偽物か!?聖教会は女は神子になれないんだろ!?」
「変態っ!変態っ!変質者っ!夜道にせいぜい気をつけろ!馬鹿っ!」
一触即発だった女二人も、あまりの外野の騒がしさに毒気が抜かれ、バトル中断させられていたよう。遠巻きに此方を見ている。
ユーカーの大声。その単語。ぐるぐると、頭を掛け廻るのはその単語と……あの感触。
「イグニスが、女の子……?」
ということは。俺が好きだったギメルは。ギメルは。
ギメルが?俺の初恋が?
「あれ……?」
混血。確か、混血って……混血ってなんだっけ。
確か男女の双子で生まれる……なんとやら。
(うわあああああああああああああああああああああああああああああああああああ)
頭の中が真っ白になる。
別にそういうのもありだとは思うけど。人それぞれだとは思うけど。
思うけど、初恋がそれって俺……
(うわああああああああああああああああああああああああああああああああああ)
「……ケチるんじゃなかった。やっぱり触覚数術も使ってればこんな凡ミスは」
イグニスが泣きそうな顔で頭を抱えている。言われてみれば睫も長いし可愛いし女の子に見えるかもしれない。
「と、兎に角よくわかんねーが、回復術やれ馬鹿!この女暴れたせいで血が止まらない!」
ユーカーに殴られた。
そ、そうだ。今はよくわからないが、イグニスの怪我をなんとか、出血くらい止めなければ。混乱で中断してしまっていた数式をもう一度紡ぎ始める。
「…………やっぱり」
背後で上がる声。フローリプの声。悲しげに笑う顔は、道化師ではなかった。
彼女を完全に呼び覚ましたのは、俺の声ではなく……イグニスへの嫉妬だった。
此方に向かってくる彼女。何のため?殺すためだ。
嫉妬に駆られた彼女は、倒れたまま動けないイグニスを標的に定めた。
直線上、飛ばされるカードの刃。浮遊数術でスピードを付けたそれはナイフと同等の殺傷能力を持って飛ばされる。
お人好しの騎士は、俺には関係ない……とも言って居られなくなったらしく、「正当防衛だ」と吐き捨て剣を抜く。彼が向かってくる刃の相手になろうとした時。
フローリプが笑う。それはダミー。
彼女の刃が狙ったのは天井。
「っ!?」
シャンデリア。炎で焼けこげたそれ。カードの刃がそれを、焼き切った。
真っ逆さまに落ちてくる。没落貴族とはいえ、立派な大きなシャンデリア。急いで避けなければ、間に合わない。
躊躇えば、間に合わない。
ユーカーを突き動かしたのは、彼女との約束。
それが反射的に彼を退避距離まで遠ざけた。
彼は気付く。しまった。そう思い振り返る。その頃には、先程より差し迫ったシャンデリア。飛び込めば、間に合わない。自分も。
飛び込んでも、間に合わない。助けられる可能性は低い。
間に合うか間に合わないか、その躊躇い。一秒に満たないそれでも、その間も距離は縮まるばかり。
無理だ。そう彼が完全に思った時、それは確かに真実だった。もう、間に合わない。
こんな時に何を見て、何を考えて居るんだろう。
上を見るのは怖い。だけど足は動かなかった。だから目に入ったものを見た。
一人でなら、十分間に合っただろう。
だけど施術を行っていて、シャンデリアに気付くまでのタイムラグ。
ユーカーが跳んだのを見て、上を見上げてようやく気付いた。
いや……それだけではないのかも知れない。
俺を縛り付けたのは、過去のトラウマ。
悲しげに微笑んだ後、フローリプは養母さんと同じ表情をしたのだ。
私の物を盗らないで。奪わないで。
そんな切なる悲鳴。
あの日イグニスとギメルを憎々しげに睨み付けた女と同じような、その眼差しに、俺の身体が凍ったのだ。
我に返ったのが、ユーカーが離れた後。そういうことだったのかもしれない。
イグニスだけでも突き飛ばそう。そう思った。だけどまだ彼の腹からは血が出ている。運ぶとしたらゆっくり、深長に。
そんなことを一瞬でも考えたのが、既に間違い。
ユーカーのように、反射的にイグニスを抱えて逃げるべきだったのだ。
しかし膝をついた自分が立ち上がり、抱えて逃げ去るには……もう、時間がなかった。
自分に出来ることと言えば、彼女を守ることくらい。
テーブルのように手足をつき、覆い被さる。
彼女は小柄だから、十分隠せる。
大事なのは隙間を空けること。何秒かでいい。
支えられれば、そこから彼女が抜け出せる。
ああ、こんなことならもっと鍛えていれば良かった。部屋から出られない生活でも、鍛えようと思えばもっと出来たはずだ。
イグニスは驚いている。
「どうして?」そんな顔だ。「99のためなら僕でも見捨てろ」と言ったのに。泣きそうな顔にも見えた。
だけど、俺にはそうするのが反射だった。
最初の願いは、二人に会いたい。会って、二人を助けたい。
許されなくても。二人に嫌われていても。怨まれていても。
困っているなら力になりたい。呼吸をするよう当たり前に、自分にとって、二人は大切だったのだ。
外に出て、いろんな事を思い、考え……あの頃の当たり前という認識が、よくわからなくなった今でも、長年の認識はそうそう覆るものではないのだろう。
「イグニスは、言ったよな」
「俺の即位は決まった未来。絶対そうなる」
「俺を即位させるのはイグニスだ」
「だから、絶対大丈夫だよ」
人間、不思議なものだ。怖くて逃げ出したくて仕方がない。
それでも不思議と、なんとかなりそうな気がして……俺はイグニスに微笑みかける。
笑えば、きっと。
やっぱり俺はおかしいのかもしれない。
それでもいいか。
苦笑か失笑か……自嘲か。それでもイグニスが笑ってくれたから。