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19:Ubi spiritus est cantus est.

 俺は俺自身、アルドール=トリオンフィという人間と十五年間付き合ってきたわけだけれど……ここまでの痛みを俺は今まで知らずに生きて来たように思う。

 倒れ込み見上げた空。必然的に目に飛び込むのは灰色の雲………ではない。

 俺は前のめりに倒れた。見下ろすことになるのは地面。雨水に湿った土が俺に張り付いて……俺の体温を奪っていく。顔の向きを変えなければこのまま窒息しても死ねそうだ。

 そんな下らなくもなにげに恐ろしい考えが浮かび、無性に笑いたくなり口から息が零れるが、……その拍子に鋭い痛みを思い出す。

 

(ああ、そう……だった……)

 

 眼球を動かす気力はない。それでも痛みが俺に教えてくれる。これは現実で、それは事実だ。俺は刺された。背から感じる異物感。これにもう少し長さがあれば、刃は腹を突き破り、おれは地面に縫いつけられていたかもしれない。

 俯せになって地と接している側は冷え切っているのに、背中だけが熱い。その痛みがまだ自分が生きていると言うことを教えてくれる。

 それはあとどれだけ続くんだろう。保証のない痛みを耐えるのは辛く、苦しい。

 母さんは、俺が脱走する度……俺が言いつけを破る度、俺を傷付けた。人前じゃ肌を見せられない程度には、俺にとってのトラウマだが、俺自身はそう深くは考えていない。それを見た人が俺を哀れんだり、心配そうな顔になるのが嫌なんだ。

 どれがどの時に何を使われて付けられたものかなんていちいち覚えていないし、その時は痛かったけど、思い返して恨み言を言う程暇でもなかった。俺は俺自身のことも母さんのことも、心底……どうでもよかったんだ。

 母さんは決して俺を殺すことはない。だから楽なものだった。今を耐えれば、今さえ終わればそれでその痛みから解放される。それが約束されていた。

 だから俺はこう考えていた。痛みは刹那。その一瞬を耐えれば、後は意外と慣れてしまうもの。それは時折痛むけれど、いずれは治る。だから平気。……そのはずだった。

 身体の傷なんかより、心の傷の方がずっと痛い。だからこのくらい平気。そう思ってきた。

 二度とイグニスとギメルに会えないって事の方がよっぽど痛かった。二人を失うことがただただ恐ろしかった。

 それなら今は……?俺は何が痛いんだろう。どこが痛いんだろう。

 何時まで待てば終わる?わからない。終わりが見えない。でも終わる。でも続く。終わりの刹那が繰り返す。耐えても耐えても……まだ、俺は生きている。痛い呼吸を繰り返しながら、俺の脳は考える。不意打ちとはいえナイフ一本。余程いい場所に当たらなければ、そうそう死なない。人間は脆いようでしぶとい生き物。人体構造に明るくない者が適当に刺して、その一撃で殺せたなら、その人には才能があったか、或いは運が良かったか。言い方を変えれば刺された方の相手が余程、運が悪かったか……だ。

 俺は最低幸福値のカード、A。相手がコートカードでもない数札だったとしても、戦闘という土俵において俺の最悪は明らか。つまり、俺はとことん運がなかった。そう考えていたのだけれど、こうしてまだ何かを考えられるということは、まだ俺も脳も生きている証拠。即死……でもないらしいから急所直撃ってことは免れたのだろう。あぁ、意外と頭が冷静だな。でもこんなものかもしれない。人間なんて案外最後までくだらないことをごちゃごちゃ考えてぽっくり事切れるものかも。いや……あれか。頭が冴えているような気がするのは、もう俺が理解しているからだ。たぶん、もう手遅れなんだろうなって。

 それでもごちゃこちゃ言葉が浮かんでくるのは、俺の面倒臭い性格のせいなんだろう。

 これは俺の強がりで、言い訳で。誰に伝えるでも伝われるでもない建前言葉。

 心で感じた事を処理する頭が嘘を吐く。自分で思ったことにさえ言い訳をしている俺が居る。

 痛いとか苦しいとか助けてくれとか死にたくないとか。本当は思ってるはずなんだ。それくらい今、俺は痛みを感じている。迫り来る死の足音に脅えている。

 それでも俺はそういう事を素直に言葉に出来ない人間だ。

 自分にはそんな資格がないと思ってきたし、口にしたところで何も変わらないということも知っている。

 だから俺は知らないんだ。そう言うとき、なんて言えばいいかわからない。

 どうでもいい人に助けを求めるようなことを俺は考えつかないし、どうでも良くない人にそんな言葉をどうして言えるだろう?

 迷惑かもしれない。嫌な顔をされるかもしれない。

 疑うわけじゃない。それでも心配だってされたくない。

 困らせたくない。悲しい顔をして欲しくない。俺なんかのことで。

 それならどうすればいい?何も言えなくなる。

 ほら、何も言えない。

 

「……っ」

 

 熱い。背中じゃない。目が。ああ、泣いている。俺は今……泣いているんだ。

 “彼女”は俺を、人形だと言った。

 その通りじゃないか。

 何も言えない。自分の思ったことも、口に出来ない。大事な人に嫌われたくない。だからその人に言われるままのことをする。都合の悪いことは何も聞かない。

 信じるって事は、自分の意思を手放すこと。人形であることを自ら認めていることだ。

 

(でも……)

 

 俺を好きだと言ってくれたギメルは、俺を殺したがっている。

 俺を嫌いだと言っていたイグニスは、こんな俺を認めてくれた。親友とまで呼んでくれた。だから、俺は恐れている。彼に蔑まれるのを何より、恐れている。

 俺には……他に何もないのに。

 帰る場所も、相手もいない。最後の家族であるフローリプさえ、こんなに俺を憎んでいた。

 彼だけなんだ。こんな俺を、必要としてくれたのは。

 

(ごめん……イグニス、俺……)

 

 謝りたい。

 勝手に逃げ出して。こんな所で死にそうになってて。また迷惑を掛ける。嫌われる。

 ああ、それなら……死んでしまいたい。

 もう一度、あの日の様な目を向けられるくらいなら……その前に、今……ここで。

 

(約束……破って、ごめん……)

 

 やっぱ、俺なんかが王になんか……なれないよ。

 俺、やっぱり……人形なんだ。

 死ねば……糸が切れるんだろうか。自由に、今度こそ人間になれるんだろうか。

 でも死んだら……もう、会えない?

 

(イグニス……)

 

 イグニスとの約束を破る。また混血が傷付けられる。戦争が終わらない。ランスはどうするだろう。タロックとの戦い、どうなるんだろう。カーネフェルは大丈夫なのか?ユーカーもどこかに行ったままだ。彼に何かあったらランスだって悲しむ。

 

(ユーカー……探さ……ない、と)

 

 ルクリース……俺を刺したのがフローリプだって知ったら、どうするだろう。せっかくあいつら仲良くなったのに。また、ああなるのか?

 

(嫌だ……)

 

 フローリプ……彼女の悲しそうな顔。俺は何かを間違えた。ずっとそうやって生きてきたんだろう。きっとそうだ。

 だからギメルは俺を憎んだ。だからフローリプも俺を憎んだ。

 俺が居なければ。幸福者の証がA……の刻印?

 俺が幸せなんじゃない。これは何かの間違い、偶然だって……そう思っていた。だけど本当にそうだろうか?

 カードに選ばれた時、俺は自分が幸福な人間だとは欠片も思っていなかった。だけど、どうだ?思い返してみればそう……

 俺が養子に買われたせいで、姉さんもフローリプも不幸になった。俺と出会ったギメル達は不幸になった。トリオンフィの家を継ぐどころか俺は、その終わりを運んできたようなものだった。

 俺は周りを不幸にすることで、幸せを手にしている生き物だ。なるほど、それなら俺は確かに幸せだろう。

 だとしたら、これは報いだ。この痛みは、俺が享受していたものに対する罰だろう。あんなに悲しそうな目。屋敷にいたときより酷い。あれが、俺のせいだって言うんなら、俺は彼女に謝らないと。

 彼女と話がしたい。俺が何かをしたんなら、ちゃんとそれを教えて貰いたい。

 死にたくない。何もわからないまま、何も知らないまま……こんなところで。

 

(俺は……俺は、死にたく……ない!)

 

 *

 

 俺は俺自身、ユーカー=セレスタインという人間を罪人だと考える。

 何も知らないということは、罪の温床。悪の苗床。

 それこそが最悪の逃げ方。

 俺は知らない。あの日彼女がその目に何を映したか。それを推測、妄想で補うしか術を持たない。

 親が俺を愛せないのが、青と呼べないほどにこの薄すぎるという色ならば……人が人を見限るのは、そんな些細な、ちっぽけな理由で事足りるのかも知れない。本人にはどうしようもないことで嫌われる、憎まれる、愛されない。そんな事象がどれだけ世界に溢れているのか。

 他人の不幸と自分の不幸を比べる趣味はない。俺より酷い境遇の奴だっていくらでもいる。誰かはきっとそう言うだろう。

 だけど、その誰かは俺じゃない。

 だからその誰かは俺の方がマシとは絶対に言えない。言うことは許さない。心の中なんて誰からも見えない。

 だから俺はその誰かが傍目から見れば俺より全然マシだって、そいつの傷を軽んじない。比べない。そいつが苦しいと思うなら、俺にはそう見えなくともそれはそいつにとっての真実なのだろう。そいつが俺に関わらない、境界線の向こう側にいるのなら取り立てて詰ることも慰めることもしない。それが互いの幸福だとも知っているから。

 反対に客観的に見て、そいつが俺より酷い立場でも同情はしない。“知らない”人間からの哀れみこそ、最も愚かで手酷い行為だと俺は知っている。

 胸の内が100%他者に伝わることはあり得ない。だから人が完全に理解し合うことはない。

 だから誰も誰かを知ることは出来ない。

 

 だからあの頃の俺は、それがとても辛いと感じた。これは俺の真実。

 彼女と出会って、救われたと思った。それも真実。

 それは100%ではなかったかもしれない。それでも俺たちは似ていた。だから解り合えた。……そんな気がした。お互いに。

 人を嫌うのが些細な理由なら、人が誰かを好ましく思うのも……そんな些細な理由なんだろう。

 だけど俺は多くを求めすぎた。彼女だけでは足りなかった。広い世界が欲しかった。もっと多くの人間に……例えば両親に、姉たちに。認めて貰いたかった。

 俺は人間なんだと。家の道具じゃない。ましてや欠陥品でもない。生きて、呼吸をしている……たったひとつの存在なんだって。

 彼女との結婚は、屈服すること。諦めること。認めて欲しいという心を殺すこと。道具の自分を認めてしまうこと。

 幼い俺は、知らなかった。自分より大切な何かがこの世に存在するなんて。

 最後の最後で選んだのは、人としての自分。

 死にたくなかった。道具になりたくなかった。

 それまで表向きは従ってきた父に、初めて反抗した。家の道具になんかなるもんかと心からの叫びを伝えたんだ。

 その時の、あの人の冷たい目。路傍の石を見るような……いや、もっと下らないものを見るような目だった。

 売る価値もない砂利石、それに躓いて転んだ。よくもこの私に恥をかかせたな。

 そんな風に憤る価値もない、下らない存在が俺。

 彼は怒鳴り散らすことも手を挙げることもなく、溜息ひとつ吐いた後、それならそれで構わないとそう言ったんだ。

 自由に生きろ。その言葉。どこかで望んでいたその言葉。

 それなのに、どうしてだろう。あの日の俺は、それが全く嬉しくなかった。

 籠の外へと逃げ出したというよりは、荒れ野に一人……捨てられた。そんな風に感じていたからだろう。俺が見放したんじゃない。見放されたんだ。

 そう思った刹那、襲いかかってくる後悔。最後の繋がりが切られた。修復不可能な。どれだけ縋っても、たぶんもう……認めさせることはきっと出来ない。半ば諦めかけた俺の心は、次第に怠惰になっていった。

 何をしても何もしなくても、結果が何も変わらないなら。何かをする意味はない。何もしない方がそれならずっと楽だった。時計の針がぐるぐると……回っていくのを見守りながら、ただ当たり前のように日が昇り沈んでいくだけ。それが俺にとっての日々だった。そんな俺に不満を抱える煩わしい人間が、身近に一人いた。それは俺を思ってのことだったんだろうけど、当時の俺はそれを心底うるせぇとしか思えなかった……ガキだった。


挿絵(By みてみん)

 

「ユーカー!」

「なんだよ……うるせぇな」

 

 欠伸をしながら足の下を見下ろせば、昼寝をしていた木下に見える従兄の姿。毎回昼寝場所を変えているのにさぼる度、小言を言いに俺を捜しに来てた。俺は逃げる才はあってもアスタロットのように隠れる才はないらしく、毎回奴に見つかり説教地獄に陥るのが当時の俺の日課だった。

 

「護衛の件だ。勝手にサボっていいものじゃない!今回だけじゃない!これで何度目だと思ってるんだ!?王にどれだけご迷惑がかかったか考えたことはないのか!?」

「俺なんかいなくてもランスがいれば大丈夫だろ、俺より全然強いんだから誰も困らないじゃねぇか。それに都貴族様の物見遊山なんかに付き合うために騎士になったわけじゃないんだよ。大体見たかあれ。有名所の箱入り窓際令嬢とか聞いたけどほんと無理。あれ本当に人間か?何食ったらあんな風になるんだよ?箱入りは箱入りでもパンドラの箱入りだろ。今まで封印されてたんだろ?その封印が解けて外界に放出された系のあれだろきっと。ぶっちゃければ俺のストライクゾーンから逆ベクトルまっしぐらだ。あんなの見たらダメージ喰らった精神を昼寝で癒すしかないと思わないか?思うだろ?結論、俺は間違ってない」

「……本気で言ってるのか?おまえは」

 

 半分くらいは本気だったが、ランスの声がクソ真面目で、冗談でごまかせる雰囲気ではないことを知り……面倒臭いが本音を彼に打ち明けた。

 

「俺が騎士になったのは……そんな下らないことをするためじゃない」

「下らない……?」

 

 もともと俺が騎士になる決意をしたのはあの人に言われたからじゃない。戦で勝って武勇を立てて……欠陥品じゃない、立派な人間だってと認めさせるためだった。それがどうだ?

 ああ、くだらない。

 こんなくだらない任務。俺を子供扱いするカーネフェル王。ガキの使いだってもっとマシな仕事を任せられる。

 こんなくだらないことで腹を立てるランス。

 毎日がつまらない。籠の外には自由のだと信じていたのに、まだまだ俺は縛られる。地位だの家の名前だの……なんてくだらない毎日。

 

「俺は戦うために剣を取った。勝ち取るために。認めさせるために……あんな下らない任務で親父が俺を認めるなんて、本気でお前も思うのか!?」

 

 俺の言葉に言い返せなかったあいつは、俺に手を挙げた。あいつも仕事の馬鹿馬鹿しさやくだらなさには気付いていた。葛藤はあったんだと思う。だけどあいつは上の命令と言われたらそれを断れない。主の顔を立てることを考えて。でもその任務自体が主の顔に泥を塗るような馬鹿げた仕事だってわかってたはずだ。

 国王の手下が、わざわざ都貴族のクソくだらない用事の護衛だなんて……。王は都貴族の傀儡です、奴隷です、手下です。それは王宮騎士の奴らも同じです。あなた方の犬です。どうぞご命令を。

 そんな事を言ってるようなものだった。

 貴族なんて本当、下らない。プライドばかり高くて、権力の誇示ばかりして、相手を蹴落とし辱めることで自分の優位を確認し、それに浸っていたい四六時中年中無休二十四時間営業サディストっていうある種の変態だ。

 そんな奴らから命じられて、それを断るだけの権力がない王。その命令に従っても従わなくても、王の地位は失墜していく。なら、どうしろっていうんだ。

 

「それならっ……どうしろって言うんだ」……響いた音の後、悔しそうなあいつの声がした。その直後の表情から察するに、考えるより先に手が動いてしまった。そんな感じだ。

 怒りとやるせなさ。それが誰に対するものなのか。それは俺じゃない。それに気付いた。殴ってから気がついた。……あいつの呆然としたような顔。

 あいつに殴られたのは後にも先にもそれっきり……(ああ、最近また殴られたけどあれは本気じゃなかったな。それなりには痛かったけど)。

 小さく「ごめん」と呟いて、背を向けるあいつの方が傷ついているのを知りながら、追いかけるような気にはなれず、俺はまたくだらないと呟きながら昼寝を再開させたんだ。

 

 それからだ。あいつに殴られてから、俺には下らない任務が寄越されることは減った。あいつが王に何かを言ったんだろう。カーネフェル王が俺にそういう任務を与えないことくらい、わかってた。子供の手を血に染めさせたくなかったんだろう。いくら剣の腕を磨いても、大人を打ち負かせるほどになっても、俺は彼から見てまだ子供だったから。でも彼のそんな配慮も、俺から言わせれば実に下らない。

 遅かれ早かれ汚れる手なら、それが何時でも構わない。戦いに身を置いて。そんな刹那を渡り歩いた。セレスタイン領とシャラット領以外の物騒な任務は片っ端から手に取った。二つの領地は、故意に避けていた。

 北に南に遠出することも多々あった。忙しさは至福だった。つまらないことを考える暇もない。敵を斬れば斬るほど、俺は願いに近づけているような錯覚を感じた。何かが欠けている、満たされない、つまらない日常が……それで埋まっていくように思っていたんだろう。でも忙しさを失えば、退屈はまた俺を襲ってくる。何も考えられなくなるくらい、もっと……もっと敵が欲しい。殺し合っているときだけ、俺は今を忘れられた。ただ、この一振りに心も意識もすべて持って行かせて……

 いつだか南部に赴き侵略者と海賊退治を終えて、砦に顔を出したときだっただろうか。アスタロットが死んだと、サラから聞かされた。滅ぼしたのはセレスタイン卿……俺の父親。

 

 俺はそこでようやく“知った”のだ。

 どうしてあんなに日々がくだらなく、クソつまらなかったのか。

 それは彼女が欠けているからなのに。そんなことも知らなかったのだ。

 彼女に出会う前の当たり前。ランスと馬鹿やるのもそれなりに楽しかったはずなんだ。そんな当たり前が、前ほどそこまで面白くなく感じて……だからこんなにつまらなかった。

 そのはずだ。だって、従兄は俺とは違う。正反対と言っても言い。人間的なベクトルの方向が真逆なんだ。だから一緒にいるのは楽しいけれど、絶対に解り合えない相手。その話の噛み合わなさを俺は面白がっていただけ。

 あいつは俺を知らない。俺もあいつを知らないんだろう。

 腐れ縁で表面上は互いに知ったかぶりをしているだけで、その本質を知ることなんか出来ない。いっつもやる気がなく適当に生きている俺を、あいつは不真面目だとかそんな名前を付けて決めつけている。逆に俺はそんなあいつを堅物とか名付けて。

 あいつは俺がどこまで考えて、こんな風に生きてるかなんか知らない。本性からこんな感じの困った奴だとか思っているんだろう。

 生まれも育ちも立ち位置も全然違う。近くにいたけれど始まりの土台が違う。土の質が違う、撒かれた種が異なるから……鉢が同じだって咲く花は同じものにはなれない。

 どんなに言葉を交わしても、結局のところ俺たちは解り合えない。だから俺は日々を充実しているとは感じず、こんなに物足りない。

 

 不思議な感覚だった。

 髪の色合いも、目の深さも。演じている性格も。性別も、声の質も、手の大きさも。何もかもが違うのに、本質はそんなに変わらない。

 複雑な環境が形成した俺たちの中身は類似していた。だから言葉を交わさなくても解り合えているような気がした。言葉を交わせばもっと解り合える気がした。

 それくらい近しく、大切に思っていたのに俺は、それに付ける名前を知らなかった。

 失うまで、全く気付けなかったんだ。

 話すと楽しいとか、心が軽くなるとか。そんな風にしか認識していなかった自分は救いようがない馬鹿。

 婚約破棄のせいで気まずくて、すっかり遊びに行くことはなくなっていた。

 彼女が殺された日、俺は……どこで人を殺していた。剣を振るうことに価値と意味を見出して、それが生きる意味だと履き間違えて……

 そんな時に彼女は、領地が燃やされて。大勢の悲鳴を聞きながら、あの部屋の中で息を殺していたんだ。

 どうして俺は考えられなかった?

 俺という駒を見限ったあの人が、次……どんな一手を繰り出すか。

 俺とアスタロットを巻き込んだゲームは終わったと勝手に決めつけて。駒の俺たちはもっと自由に生きられて、やっと人間になれるんだと思いこんでいた。ハッピーエンドにしては物足りない日々だと文句を言いながら。

 それがなんだって?ゲームは終わっていなかった。終わるはずがない。生き続ける限り、人は欲を殺せない。

 シャラットとセレスタインの家は互いに駆け引きというゲームを続けた。父は勝利に拘った。勝てば官軍。勝てばすべてが許される。そのためにはどんな手を使ってもいい。彼はそう考えたんだろう。

 この世にとって正義なんてこじつけ臭い脚色された創作物だということを、俺が知ったのも……彼女の死を知った時。

 プライドをもっと簡単に捨てられたなら……こんなことにはならなかった。

 ああ、下らない。世界で一番、この俺が。何より誰よりちっぽけで、醜く、下らない存在。

 補われた言葉、観測を行ったのは第三者。それは俺にとって都合の良い真実。だから俺はそれを信じた。そうしなければ俺は……自分という存在を肯定できなかった。

 死にたくない。生きていたい。誰に望まれなくても、ここにいる以上俺は俺の存続を希う。

 それを肯定する彼女の遺言。それを自分のためだと認められずに、自分を毛嫌いしたまま……それを彼女の願いとそう呼んで、今日まで俺は俺を肯定してきた。

 死にたくない。殺されて堪るか。

 それでも、一人いる。一人だけいる。俺を殺してもいい、憎んでもいい。そんな人間が。

 彼女だけなんだ。彼女にならそうされても仕方がない。それだけのことを俺はしたんだ。

 

 殺したいなら殺せばいい。他でもない、彼女になら。

 俺はそれを受け入れる。冷たすぎる白い指先。それがもう一度、この喉元へ伸ばされるのを……俺は待っているんだ。

 それがなんて感情なのか、未だに俺は知らないけれど。

 

 *

 

 

 静かに目を閉じて……その内水の引いていく音がする。それからしばらく佇む静寂。

 そんな静けさの中に生まれる音。

 声が聞こえる。それは歌だ。歌詞はない。旋律だけの歌。

 何故人は歌うのだろう。歌いたいから?歌が好きだから?声があるから?咽があるから?

 いや、違う。それだけで人は歌わない。

 感情の宿らない薄っぺらい歌なら紡げるかもしれない。それでも歌は、心がなければ歌えない。そんな気がする。

 人は嘘を吐く。言葉で文字で、相手を惑わし欺き、嘘を重ねて生きていく。年輪のように嘘は心の壁を厚くして、内に宿る真実を、外には決して映さない。

 だから歌う。届けたい。知って欲しい何かがある。

 歌は繋がり。決して解り合えない心の奥底、それを託すための術。

 言いたいこと、言えないこと。

 歌は祈りだ。祈っても何も変わらないのだとしても、人々が祈り続けたように、人は歌わずにはいられない。どうか自分の本当に気付いてと、ありったけの想いを旋律に乗せて……人は歌う。

 音の消えた部屋。

 意識のある者は僕だけ。僕は謳わない。けれど歌が聞こえる。

 誰も歌うはずがないその場所で、僕は歌を聴いていた。

 感情の旋律。心の鏡。彼の、セレスタイン卿の感情数……その記憶が回る音。

 短気な彼の内面は、とても弱く脆い……見かけによらず繊細な作り。彼の中で最も強い感情は後悔。言い換えるなら悲しみだ。

 その悲しみが決して埋まることがないから、彼は怒りでそれを補う。欠けた数を別の数で補っている。それで全体の合計は変わらないから、彼が欠けていることに気付く人間は居ない。彼は不器用な人間。それを誰かに伝えることも出来ない。

 過去を見据え続ける瞳。過去に囚われている人間。彼は僕と同じ種類の人間だ。今という時間を大切に思えず、未来には何の希望も持てない。思い出ばかりを美化し、それと今あるものを比べては、この世の全て絶望するんだ。

 彼を殺さなくて良かったのかと、当たりに浮かぶ数字達が僕に語りかける。ある数は非常に残念そうに、ある数はほっとしたように。それに僕は首を振って「いいんだ」と小さく呟いた。

 《偶神法廷(イーブン=コート)》は過去の善悪から罪を裁く。人間なんて生きていれば大きさは異なれど何かしらの罪を犯しているものだ。つまり《偶神法廷》……あの術は最初から殺すためのものである。

 求刑までの仮定に被告の罪を暴くため、その記憶を僕らは盗み見る。そこから陪審員たる数字達が多数決の原理で三人が有罪と決めれば三つの死刑が速やかに行われる。精神死、肉体死、存在死のこの三つ。だけど裁判官は僕。彼に刑をくだすのも僕。

 《偶神法廷》による効果で、彼の記憶は読み取った。その結果僕は、術を解除し彼の死刑を取り消した。

 最近の記憶……彼は道化師にいろいろ吹き込まれていたけれど、彼は道化師への疑念を抱えている。余程追い詰められない限り、道化師の言葉に縋ることはないだろう。

 彼に僕を信じさせるには……ある程度彼には真実を教えておいてやる必要があるかも知れない。情報の少なさは、此方を誤解させる原因……そしてセレスタイン卿を道化師の手駒にされてしまう要因。

 言葉の魔術なら僕の方がまだ強い。まだ破れる。渡してなるものか。彼は、僕の駒なんだ。

 幸い、手遅れではなかった。殺す必要はない。彼をここで失うのは痛手だった。

 

(ああ、もう……面倒臭いな)

 

 ある程度僕を信用させるには僕と彼との間にも信頼関係が必要になる。アルドールと仲良くさせるためいろいろ考えたのが間違いだった?いや、今のところは有効に機能している。別に間違いではない。どうすれば彼を最大限に有効活用できる?時間がない。僕じゃアルドールを、最後まで守れない。

 焦り出す気持ちに共鳴するようどくんと、大きな音が鳴る。胸を締め付けられるような痛み。……心臓を、力一杯握りしめられているようなそれ。

 咳き込みそうになる咽。必死に堪えて、静かに息を整える。黙れ黙れ黙れ!思い切り首を絞め、それに爪を立てる。外の痛みで中の痛みを紛らわす。その場凌ぎでも、今を欺せればそれでいい。

 座り込んだ床から立ち上がり、そっと顔を上げてみるけれど……寝台の彼が目覚めた形跡はない。アルドールの閉じた瞼……それに僕は静かに安堵した。

 

「ごめん……アルドール」

 

 何重もの意味を持つ謝罪の言葉。何度繰り返しても、僕の罪が消えることはない。

 あの頃とは違う。こうして君の顔をはっきりと認識できていることが、もう既に僕の罪を証明している。君が君として見えていると言うことは、僕が僕ではない何よりの証拠なのだ。

 僕が重ねた嘘はいったいいくつあるんだろう。数え上げればきりがない。大きなものから小さなものまで僕は君に嘘を吐いている。

 嘘は、鋭い刃に変わる。でもそれを間違えなければそれは盾にも変わる。言葉通りの矛盾武具。真実もそれに同じ。

 どんなに正しい言葉だって、人を傷付けない保証はない。正しいからこそ、言葉は人を傷付ける。言えない。言えるものか。僕の真実は彼に絶望を与えるだけなんだ。

 君は悪くない。君のせいじゃない。そう言っても届かない。それなら絶対に言うものか。時がそれを許しても、僕は死ぬまで口を割らない。

 言葉は無力で、無意味だ。

 それを操る僕自身がそれを知っている。言葉は時に鋭い刃物……だけど、それは明確な悪意がなければ意味がない。

 壊すことは出来ても、守ることも直すことも難しい。

 たった一つの言葉で、人の精神を殺すことは可能。

 だけどたった一つの言葉で、人を救うことは出来ない。幾千も幾万も積み重ねたからって救える保証もない。

 言葉は金とは違う。重なった言葉は価値が下がり、死んでいく。良い言葉の鮮度と寿命はとても短い。悪い言葉は簡単に永遠を作り出せるというのに。

 何を言っても僕の罪は消えない。君に償えない。

 だから僕は何も言わない。それも許されてはいないから。

 言葉で君を救えないのなら、僕は行動するしかない。善意も悪意も言葉に宿して、その切っ先を君以外の全てに向けて、欺こう。

 悩むな。悩む暇があったら行動しなければ。

 暗い決意を決め、新たな術を紡ごうと両目とそこに映るものに集中させ……そして僕は気付く。見えるものがおかしい。

 以前とは違う視界。あの頃ほどはっきりと見えない数字。そこに記されている数値配列……それに僕は首を傾げる。

 

「……あれ?」

 

 数字の言うまま耳を澄ませれば、そうだ……確かに歌が聞こえる。

 それは一つじゃない。相反する歌。打ち消された片方の歌。それを上回る片側だけが音として僕の耳に聞こえていた。

 ……その歌は重なっている。聞こえない。それでも見える数字の旋律は、確かに二重に記されている。同調していたのは、本質がよく似ているから……だからこんなに微かに聞こえていたんだ。

 

「……!?」

 

 そうだ、おかしい。そろそろ目覚めても良いはずなのに。二人の内、どちらも目を覚まさないなんて……

 

「どうなって……るんだ?」

 

 二つじゃない。数字が言う。

 聞こえる歌は、3つだと。

 

 *

 

 声が聞こえる。

 その声は言う。殺してくれと。そればかりを繰り返す。

 それは俺の声だろうか。

 

(違う、俺は……死にたくない)

 

 必死に言い聞かせてもその声は消えない。それどころかもっと大きくなっていくよう……

 

「だぁあああああああああああああああああああうっせぇえええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!」

 

 感じたのは背中の痛み。傷口を思いっきり蹴飛ばされた俺は言葉を失い倒れ込む。

 

(倒れ……込む?)

 

 表現がおかしい。そもそも俺は最初から倒れていたはずだ。中庭で。

 その俺がどうしてさらに倒れる?それならここはどこ?

 

「………あ、れ?」

 

 中庭とは違う。ここは、屋敷の中だ。俺が見ているのは、倒れているのは廊下の床。

 暗くもない。傍に数術を紡ぐイグニスも居ないのに、腐敗臭さえ感じない。元々色を感じさせない場所だったけれど、今のここは更に……薄い?

 さっきまで居た屋敷は暗さで色を失っていた。けれど今のは……虚ろ?ぼやけているというか、色が霞んでいる。夢心地を感じさせる、不安定で朧気な色彩を纏うその場所。

 天気が悪いわけではない。窓からは微かな光を感じる事も出来るのに、この場所は現実味を感じない。

 

「……ん?」

 

 よくわからない。どうして俺はこんな所に居るんだろう。

 

「ったく、喧しい野郎だな……」

 

 さっきの声。いくらかは落ち着いている。それでも刺々しいその声。

 恐る恐る振り向いた先、目にはいるのは一人の少年。年はイグニスと同じくらい。ただ比べて違うところはと言えば、彼の第一印象が物凄く生意気そうな感じの悪い子供だと言うこと。どのくらい感じが悪いかと言えば……何か一言でも発すれば、それを合図に今にも襲いかかってきそうな猛獣みたいな。要するに目の前のそれは、年相応の可愛げというものを極限まですり減らした子供らしかぬ子供のような……しかしそれでいて子供の悪い部分はしっかり残っていそうな雰囲気。我が儘さとか、自分を中心に世界が回っているとか平気で言い出しそうな目をしている。

 

(……目?)

 

 この色素の薄い世界にある彼の目も、それに習っているのか目立たない色。左目は青空の色だとすぐにわかるが、右目はよく見なければ解らない……雲の白に僅かの空色を混ぜ合わせたような……薄い、薄い水色だ。

 彼の髪は綺麗な金髪。瞳も青だしカーネフェル人と考えるのが自然だろうか。

 

(……でも)

 

 頭を掠めたのはタロックに属する混血の風使い……エルス=ザイン。彼は混血だった。赤の薄い色。そういう紛らわしい色の混血も居る。

 彼は敵か、味方か?目の前の少年は俺に敵意を抱いているよう……油断は出来ない。思い出したように痛み始めた背中。蹴られたことを思い出す。

 幸い蹴飛ばされたお陰で距離はある。この距離を保ったまま逃げるか戦うか、考えないと。

 

「……ってアルドール!?なんでてめーがここにいるんだ?つかここ何処だっ!」

 

 そんな風に思った矢先、あっという間に距離を詰められた。足が速すぎる。背中を見せるのが怖くて後ずさりで逃げようとした俺がそもそもいけなかったような気もする。

 

「……あれ?」

「あれ?じゃねぇし。おーい生きてっか?起きてっか?」

 

 名前を呼ばれた。俺を呼んだその子は俺の前でひらひら手を振っている。その手は目を瞬かせる俺に近づき、……思いっきり指で額を弾いてくれた。

 痛い……ような気もしたが、思ったよりあっさり痛みは引いていく。さっきの蹴りもそうだ。よくわからないけれど、これはどうも現実味のない痛みだ。

 

「おい、人が助けてやった恩も忘れたか?この俺に貸しを作るとは良い度胸じゃねぇか。何してもらおうか」

「ごめん、話がよくわからないんだけど」

「お前な……この雨ん中!この身体で運ぶのどれだけ苦労したと思ってるんだ?……まぁ、こうなったのは途中からだけどな」

「そ、そうか……ここまで運んでくれたのか。どうもありが……ごふっ」

「礼一つで俺の苦労がねぎらえるとでも思ってんのか?このクソA!厄介事に巻き込みやがって!」

「え……どうして俺がAだって……ま、まさかお前もカードぐふっ!」

「直ったか?まだか。とりあえず叩けば直るよな。直ったか?まだかそうかそんじゃもっかい、とぅっ!ていっ!たぁっ!」

「そろそろ目ぇ冷めたか?………ああ、そういやそうだった。おまえちょっとそこいろ」

 

 近場の階段まで俺をずるずる引き摺って、少年は階段一段踏み台にし……「いや、俺もっとあるよな」と呟きながらもう一段上に踏み出す。

 踏ん反り返って俺を見下す少年。何か感じが悪い。三割り増しで感じが悪い。その子は片目に手を当てて、「これでも解らなかったらお前は阿呆だ」と罵った。

 俺をここまでズタボロに言う人間。一人称が俺。隻眼。それでここに一緒に来た人間…………心当たりがあるにはあった。

 

「もしかして、ユーカー?」

「もしかしなくても俺だ」

「そうか、違うのか」

「だから俺だって言ってんだろ!遊んでる暇はねぇって言ってんだよ!」

「でもユーカー……俺より身長低かったっけ?まさか今までシークレットブーツとか?まさかユーカーも数術使い?それで視覚数じゅ……うわっ!」

「よし、そんなに死にたいか。そうかそうか……死ねっ!」

「ちょっと本気!?剣しまえって……しまおうよ。しまってくれません?むしろお願いします」

「はぁ……馬鹿らし」

 

 馬鹿にされた仕返しにちょっとからかってみた悪戯心を逆ギレで返されるとは。

 この偏狭さはユーカーに違いない。彼、基本的にランスと前王の件以外には心が狭いし視野も狭い。妙な確信を得てしたり顔で頷く俺に、心が読めないはずのユーカーがどつく。

 

「何も言ってないのに」

「何か苛っとした」

「あ、そう。流石ユーカーだな!あ、痛っ」

「お前俺を馬鹿にしてるだろ?」

「し、してないって!唯なんかユーカーっぽいなぁってむしろ感心して」

「お前に俺の何が解るって……つか感心して人馬鹿にするってマジで質悪いなお前っ!……ほんと、お前とだべってると馬鹿らし。俺がいいって言ったとき以外勝手に喋んな、馬鹿が移る。はぁ……っておい、何だそのガン見……こっち見んな!気味悪ぃ!わかった!喋って良いからっ!」

 

 散々な物言いだ。別に俺目を合わせたら相手を石にする怪物でもないし、目を合わせたら三日くらい眠れなくなる絵画でもないし。

 

「正直に言え。お前今……何した?あれだろ。絶対あれとかしただろ……呪い的な何かみたいなあれ」

「え?なんだよそれ……?いや、目は口ほどになんとかって先人が残した諺があって」

「せめて瞬きしろよ。こえーよ……俺はてっきりまた呪われたのかとでも思ったぜ」

「え?ユーカー呪われたの?」

「ああ、ったくほんとムカつくぜ。あの野郎……いや、あれは野郎じゃないのか?ああもうどっちでもいい!ほんと腹立つ。神子もあの女も!あいつらの顔見ただけで殺意が芽生えるっ……………」

 

 苛々と明るい髪を掻きむしりながら舌打ちをしていたユーカー(仮)。それが思い出したように俺の方を見て、ていとか言いながら一発叩く。そんなに痛くはなかったが、なんだか釈然としないものを感じた俺は小さく不満を零す。

 

「何で今俺、殴られたんだろう」

「いや、何か今殴られたそうな顔してただろお前」

「してないって!」

「じゃあお前の前世は太鼓かドラムか木魚だったんだよ。だからお前が悪い。基本的に」

「うわ……何それ」

「それに俺がこんなことなったのも基本的に全体的に全面的にお前のせいだからな。連帯責任で殴られとけ」

「どういうことだよ……?」

「俺が若返ったのは神子と同じ顔の女のせい。俺がこんなわけわかんねー場所に飛ばされたのは神子のせい。俺があいつらと出会ったのはお前のせい。よって専らお前が悪い」

「………………そ、そうか。ごめん」


 俺が謝罪を口にすると、彼は幼さの残る顔に不釣り合いなほど眉間にしわを寄せながらはぁと重すぎる溜息。そして彼が俺に言う。


「謝るな」

 

 これには俺も怪訝そうな顔になる。不可抗力だ。

 

「だって今!謝れって言ったのお前だろ!?」

 

 彼の理不尽もここに極められたか。流石にそろそろ俺も腹が立ってくる。

 ユーカーは変わってる。俺は基本的に自分のことを悪く言われても、そんなに気にしない方だと思っていたけど。何故か彼に悪く言われるのは腹が立つ。

 彼は俺を苛立たせる天才なのかもしれない。ああ、馬鹿なこと考えるな俺。そっちに意識持って行かれてなんか腹が立つより、笑えてくる。何ちょっと感動したみたいな清々しい気持ちになりかけてるの俺!駄目だろここはびしっと!最後までちゃんと怒りを怒りのままがつんと何か言い返してやらないと。ここで笑ったら俺が彼を小馬鹿にしてるようにしか見えないじゃないか。

 

「何わらってんだてめぇ……」

「ご、ごめん……思い出し笑い」

 

 俺なりに誤魔化したつもりだが、今度は足を蹴られた。殴るよりこっちの方が身長差的に楽だと彼は考えたようだった。

 

「お前があいつに何したかなんて知らねぇけどな、あの女がお前がムカつくってのは俺もなんとなく解る」

「お前、鏡って知ってるか?」

「当たり前だろ」

「それじゃあ見たことはあるか?」

「それくらいあるよ」

「そうか。でも意外と知らないもんじゃねぇか?自分の顔って」

 

 頭ごなしに彼は俺が間違っているという前提で話を進める。それをわざわざ教えてやってる。そんな言い方。

 人のことが言えないみたいだ。俺も……心が狭くなっている。たったこれしきのことで苛々する。彼の怒りが俺に伝染しているみたいに、彼の怒りに呼応する。

 

「お前、バラバラみたいだぜ。“俺は全然悪くない。俺のせいじゃない”そんな面で謝られてもこっちは苛つくだけだ。本気でお前は悪いと思ってないんだろ」

「……そりゃ………まぁ。世の中の偶然とかまで俺のせいにされたら流石に」

 聞かれたから正直に答えた……ら、もう一発殴られた。

「また殴るし……」

「正直に言えばいいってもんでもないんだっての」

 

 ああ、そうか。

 俺は認めている。イグニスやルクリースに怒られたこと。それを自分の欠点として素直に受け入れられる。……ギメルに言われたことだって、そう。俺は認めている。

 だけどユーカー。彼に言われることを、俺は自分のこととして認めていない。だからそれを理不尽に感じている。

 

「……ユーカーはさ、だから謝らないんだ?」

 

 呟いた言葉。それに今度は彼が怪訝そうな顔に変わる。

 

「不器用だな」

 

 彼の不機嫌に引き摺られていく俺の心。だけど脳は動いてる。プラスとマイナス。心の熱が上がる程、脳は冷めて冴えていく。空っぽの脳細胞が今聞いたこと全てから、状況を分析していく。

 

「ユーカーは俺と逆だ。“謝りたいのに、謝れない”!本当は悪いと思ってるんだろ!?今も、あの時も!」

「はぁ!?」

「ユーカーだって鏡くらい知ってるだろ!?でも知らないもんなんだよ!自分が今!どんな顔をしてるのかって!だってそうだろ?ユーカーの言うことももっともだけどさ!だけど、だから拗れるんだよ!ランスと揉めたのだって、お前が一言謝れればもっと簡単に和解できたんじゃないのか?」

「……っ!」

 

 あ、やばい。感じる既視感。

 言ってしまった。俺はまた……踏んでから地雷だって気がついたのは、相手の顔が見えるから。彼女はそれに悲しんだけど、彼はそうじゃない。彼は怒り狂った。

 彼は俺を刺す代わりに俺の胸ぐらを掴み上げる。

 彼の縮んだ背のせいで、彼が俺を見下すと言うよりそれは、……俺が彼を見下ろす形。怒りが浮かんだ彼の目が、震える小さな両手が……違うものへと見えてくる。彼が怒っているのはひしひしと伝わってくる。凄まじい殺気に呼吸さえ忘れる。

 それでも……彼が、泣きそうだ。

 

「馬鹿にすんな!養子貴族がっ!」

 

 そのままと思い切り壁に叩き付けられ頭を打つ。その衝撃で息をすることをなんとか思い出す。その内にも彼の言葉の雨は降り注ぐ。雨なんて生温いものじゃない。

 それは明確な悪意を持って紡がれる刃。俺を滅ぼす酸の雨。

 

「お前なんかお前なんか……どうしてお前なんかがカーネフェリアなんだよ!」

「あの人のこと何にも知らないっ!そんなお前が血ぃ!?どっか一滴あの人と同じ血があるってだけで偉ぶりやがって!」

「てめーみてぇなプライドもっ!誇りもないっ!奴隷根性丸出しの飼い犬がっ!お前が王だって!?この国を継ぐって!?嗤わせるな!」

「国がどんなに重いものか知ってるか!?ガキの遊びじゃねぇんだよ!お飯事がしたいんならとっとと自分で首吊って!冥府でひっそりやりやがれっ!」

「命の重さを知ってるか!?立場のせいでっ!失う重みを知ってるか!?」

「誇りってのは下らねぇっ!捨てちまえたらいっそっ!ずっと楽になれるんだ!だけど……捨てらんねぇんだよ!家の血が!名前がっ!それまで守ってきた重さ!それがわかるか!?それだけ犠牲払って他人踏みつぶして!骸骨の丘の上に家建ててんだよ!他人の生き血啜って生きてんだ!貴族ってのはっ!!」

「だから俺たちは絶対にプライドを捨てちゃ、いけねぇんだ!見下していなきゃいけねぇんだよ!自分がいつでも正しいって信じられなくてもっ!信じてる振りしなきゃいけねぇんだよ!!」

「じゃなきゃ……これまで踏みつぶしてきた命っ!まるっきりっ……無意味じゃねぇかっ!!!」

「俺は絶対!死んでもお前を認めねぇっ!」

 

 雨。冷たい雨だ。でもそれは俺を打っているんじゃない。

 それはユーカー自身を打っている。自分で自分を傷付けているその言葉。それに彼は気付いていないのか。

 俺を否定し拒絶する言葉……それを吐いて小休止。肩で息をする彼。新たな言葉を考えているのか。そんな彼の方が、寒そうだ。駄目だ。このままじゃ……彼の言葉は彼を、壊してしまう。

 そう思った俺は、両手を伸ばす。それで彼の両耳を塞いでやると、彼が大きな瞳で瞬いた。


挿絵(By みてみん)

 

「……言えよ」

 

 馬鹿みたいだとは思う。これから罵られ馬鹿にされるというのに、俺は今……笑っている。鏡を見なくても解る。引き摺られていた怒りもどこかに風が連れ去って……今は穏やかな風がそよぐだけ。これじゃあ俺がおかしな人間みたいだな。まぁ……彼がそう思うのならそうなのだろう。それならそれでも構わない。

 

「なんでもいいから。俺がどんなに駄目な人間で、どんなに王に、お前の主に相応しくないかって」

「……っ!?」

 

 彼の言葉は彼自身を傷付ける。それならこれが正しい方法だろう。

 俺は彼の言葉でもう傷つかない。今は、そんな彼を見ている方が……なんだか苦しい。

 

「好きなだけ言えばいい。何だか……もう、腹が立たないんだ」

「だから、俺は気にしないからさ……罵りたいなら罵れよ」

 

 正論に聞こえているんだ。認め初めているんだ、俺も。

 彼の言うことは俺個人の立場から聞けば、そてはとても理不尽だけど。彼の立場で聞いたそれは、筋が通っている気がする。でも客観的に考えればそんなことはないんだろう。逆恨みとかそういう名前を付ければそれまでだけど……俺は彼の思いにそんな名前は付けたくなかった。

 だって、こんなに強い感情。人が生きている証。それが誰かから見て、悪いことだと決めつけられるものだとしても、その心は絶対に否定してはいけないんだ。そんな気がする。

 心が感情を生む。強すぎる思い、それが引き起こす言葉なら、それは間違ってはいないんだろう。それがどんなに酷い言葉でも、それを喜ぶべきなんだ。だって、彼はこんなに生きている。羨ましいよ。そう思う。怒りはそれだけ何かを憂いている証。涙は何かを許せないという気持ち。こんなに一生懸命生きている。こんなに人間らしく生きれる彼を、どうして俺が羨まないだろう?何も感じず、無感動にただ日を送ってきただけの俺が、どうして彼の心を責められる?

 それが誰かを傷付けると知っていても、そんな風になれたらどんなに良いだろう。そう思ってしまう、強い光だ。その光は誰かを焼き殺す悪かもしれない。それでも……その鮮烈な生の輝きを愛しく思う。それは俺……自分を持たない人形の嫉妬なんだろう。

 来るなら来いと笑ってみるが、駄目だった。天候悪化の土砂降りだ。何か言えばまた殴られそうだから、俺はしばらく目を伏せることにして、雨が止むのを唯待った。

 ユーカーが再び喋り出したのは、その暖かな雨が止んだ後。

 ぽつりぽつりと話し出したのは、俺への罵り言葉ではない。

 あの騎士のことでもない。先王のことでもない。それはこの領地の名を冠する、一人の少女の話だった。

 

 *

 

 このシャラット領の領主には大勢の娘がいた。アスタロット=シャラット。彼女はそんな領主の数ある娘の中の一人。彼女の上には大勢の姉が居て、下には僅かの妹もいた。

 それでも彼女を知る人間は、そう多くはない。名前くらいは聞いたことはあっても、その姿を見た姉妹達はそんなにいない。

 それは何故か。彼女は隔離されていた。

 

 そう……行ってみるか?この先だ。どうせこの仕掛けも解らないんだ。宛もないなら暇つぶし程度にはなるだろう。

 この廊下を進んで、ここ。気付き辛い場所にあるだろ?だから結構みんな見逃す。ここの段差。階段になってる。その先にある扉ばかりが目に入って。ああ、そっちは物置。彼女の部屋はこっち。

 扉の前まで進んで、左を見てくれ。ここにも扉があるだろ。

 

 見て解るよな。異常だろ、こんなの。

 娘の部屋に外から鍵。それも扉への仕掛けじゃない。だから内側からはどうしようもない。鎖の封印。…………よし、開いた。おかしなもんだな。さっきもここに来たのに。ああ、お前は覚えてないよな。中庭から運んでやったんだ。ああ、さっき言ったな、それは。丁度ここまで運んだ時だった。俺がこんな身体になったのは。

 後ろから現れた神子にさっさと開けろって言われてお前を部屋まで運んでな。……あいつ、何なんだろうな。俺には割と容赦ない癖に、お前には甘いよな。あ?甘くない?馬鹿かお前は。甘いだろあれは絶対。いいや、ここは絶対譲れねぇよ。お前はあの時の神子の目を知らないからそんなことが言えるんだ。あれカタギの目か?半端ねぇ迫力だったって。あいつが真剣になるのっていっつもお前のためだろ。たいしてよくは知らねぇけどよ。心配してたみたいだぜ……必死にお前の怪我どうにかしようと頑張ってたし。そういや治ったのか?……てい、ああ……痛くは無さそうだな。傷口もない……やっぱ俺ら殺されたんじゃね?うわ……マジかよありえねぇ。よりによってお前と一緒とかありえねぇ。……真に受けるなよ馬ぁ鹿。

 言ったろ、あの神子はお前を殺したりはしねぇよ。俺ならさくっと殺りかねねぇけど、今はその線は消えたな。

 お前が一緒なら俺を殺すって事はないだろ。人質って奴だな。ったく、冗談だっての……2割くらいは。だってよ、あいつ俺のこと嘘付いたらはい殺すー♪とか言ってたんだぜ?あ、信じてねぇな。ほんとあの神子むかつくぜ。お前の前ではあれ絶対猫被ってんだって。え?…………そんな可愛いもんじゃないって?……あー、そんな事されたのか。んじゃ割りとあれが素?

 

 ってあんな神子のことなんかどうでもいいんだよ。あいつと話してる内に何か術かけられて……気がついたら俺もこの屋敷に倒れてたんだ。なんか死にたくねぇって何回も同じ事繰り返すうぜー声が頭ん中から聞こえて目ぇ覚めて、声のする場所けっ飛ばしたらお前が出てきたと。後は……まぁ、お前も知ってるだろ。はい、この話お終いな!終わりったら終わりだ!俺の話聞く気ねぇなら止めるぞ!?

 ……とまぁ、見て貰って解ると思う。貴族の娘の部屋にしては簡素……つか質素なこの部屋。メイドの部屋だってもう少しマシな日当たりなんじゃないか?

 調度品も決して高価とは言えない。金が愛情の全てだとは思わないが、ここまであからさまだと金も愛情の一種なんだと思わされる。金をかける価値すらない。この部屋は……彼女にそう言っているんだよ。

 彼女の病だって、決して治らないものじゃない。没落貴族とはいえ、手が届かない額じゃない。それでもシャラット卿はそれを治さなかった。そんな金があったら都の社交界に顔出した方がずっとマシ。そんな風に考えていたんだろう。

 彼女を治したところで、彼女が欠陥品だっていう一度貼られたレッテルは消えない。下手に身体が丈夫になって外をうろつかれても恥になるだけ。

 だから病弱ってのは彼女をここに閉じこめておく、いい言い訳であり隠れ蓑でもなったんだ。

 純血貴族ってのはどいつもこいつも、外見ばっか気にする。いくら俺が稀少で貴重な男でも、目がこんな色じゃお払い箱。嫁ぎたいなんて馬鹿はいねぇんだ。いたといても財産目当ての平民女。親父がそんなの認めるはずもない。

 でもアスタロットは貴族の娘。政敵に弱みを握らせることはしたくなかった親たちが、俺たちの似た境遇を使うことを思いついた。そこの写真、見てみろよ。あっちが俺で、こっちが彼女。俺の目も、彼女の髪も……純血のカーネフェル人とは思えないだろ?

 真純血ばっか掛け合わせた弊害さ、俺もアスタロットも。親たちは利益のために、俺たち欠陥品同士くっつけさせようって婚約させたんだ。よくあることだよ。お前だって一応貴族やってたんだろ?お前が良いか悪いかは別として、今までだってそう言う話くらいあっただろう?

 ……んだよそんな所に突っ立って。座れよ椅子あるし。あいつ、良い奴だから。不法侵入者に椅子を貸すことくらい何とも思わないぜ?ほんと……良い奴、だったから。

 気になるか?だよな。

 どうしてシャラット領があんな廃墟と化したのか。

 

 全部、俺のせいだ。今と同じさ。

 俺が下らないもんを捨てられないせいで、俺は彼女を捨てたんだ。

 彼女との結婚を、俺のプライドが許せなかった。俺も彼女も欠陥品だと言う大人達の言葉を認めたくなかった。

 その結果がこの様だ。

 親父は地方領主。都近くの領地が欲しかった。

 俺がここに婿入りすれば、親父は土地を。

 シャラット卿は、うちの親父の後ろ盾を得る。社交界に返り咲けるくらいまでの援助はしてやるつもりだったんじゃないかと思う。お互い、家の恥を使って家のためになる事が出来る。喜んだはずだ親父も、アスタロットの親父さんも。

 だけど俺がその婚約を蹴った。一生結婚難かするもんかって言って、もう騎士として剣の道を極めるくらいのつもりだった。

 馬鹿だよな。立派な騎士になれば……いつかあの人が俺を、自慢の息子だって認めてくれるんじゃないかなんて……馬鹿っぽい夢を見ていた。

 でも親父にとって俺は……駒の一つに過ぎなくて、手駒からポーンが一つ消えた程度にしか思ってなかったわけだ。

 それで親父は違う手を使うことにした。欲しいものが手にはいるなら、何したって良い。ぞっとした。

 それは……王のため。都貴族達に奪われた権力を取り戻すための布石。王の近くに手勢を置けるよう、この領地が欲しかったってのは俺も解ってた。

 それでも、存在しない罪をでっち上げて。それでシャラットの一族を反逆者として血祭りに上げて。

 何が正しいのか。騎士って一体何なのか。もう俺は生きる目標を見失っていた。それだけじゃない。

 ほんと……俺は馬鹿で。彼女を失うまで、どんなに彼女に支えられていたかも知らなかったんだ。

 

 俺のせいで彼女は死んだって言うのに……彼女は俺に、生きろと言った。

 聞いたのは人伝に。それが最後の言葉だったと。

 馬鹿な俺はそれを本当だと信じて、それを守ろうとした。何があっても生きて生きて生き続けようと思った。

 一分一秒でも長く生き、ずっと彼女を忘れない。彼女を知っている人間が居なくなったら、彼女が生きていた証も消える。彼女は何も残せなかった。ここにいたのに、証明出来ない。

 そんなに悔しいことがあるか?本当なのに、それは嘘だって言われてるようなものだ。

 ここには彼女がいたはずなのに、この国は彼女がいたことさえ覚えていない。名を口にすることさえ禁忌。シャラットの名前は議会にも国王派にも忌むべき名前となったんだ。

 

 *

 

「……なぁ、アルドール……お前なら、どうする?」

 話の終わりに、ユーカーは俺にそう尋ねてきた。

「この審判とやら、最後には何でも願いが叶うらしいぜ……あの女が言うには死者さえ蘇る。嘘か本当か知らないけどな」

 

「俺はあの女に言われた。彼女を甦らせたいんだろうと」

「ユーカーは……その子を生き返らせたいんだ?」

「会えるものなら会いたいさ。もう一度彼女の声が聞けるなら……何人殺したっていい。そう思う…………もしそれが本当なら、俺は……あいつだって、殺すかもしれない」

 

 一瞬、声が震えた。あいつ……彼のことだろう。彼は決めている。最後の最後に選ぶのは……彼ではなく、失われた彼女なのだと。

 

「でも、それは俺のエゴなんだろうな……」

 

「彼女はそれを望むだろうか。あいつは優しい奴だったから……たぶん、悲しむ。今だって悲しんでる。俺の薄汚れた手ぇ見てさ、この部屋のどこかで泣いてるんだろう」

「そんなこと……」

「なくないんだよ。俺とあいつはよく似てたから、今の俺を見て彼女がどう思っているかくらい……わかってるんだ

 

 溜息混じりの彼の声。それが諦めを醸し出しているのに俺は気付いた。

 目を伏せて、鼻で自分を笑って……吹っ切れたように笑うけど、生憎俺にはそうは見えない。

 

「ユーカーは……間違ってる」

 

 今度震えたのは、俺の声。他人事なのに……余計なお世話だとわかっているけど。なんでかよくわからないけど……鼻の奥がツーンとする。目の奥が熱い。彼との怒りが繋がったように、誰かとの悲しみがリンクしているみたいだ。だけど引っ張られているわけじゃない。俺は俺で今、ちゃんと悲しい。こんなに当たり前でわかるはずのことから目を背けている彼の姿が、何故だか……とても。

 

「だってユーカーは……そのアスタロットさんが、最後に何を言ったのか。本当は何を思っていたのかわからないんだろ?それなのにどうして、今彼女がそんな風に思っていると思うんだ?ユーカー……彼女だって人間だろ?そのくらい想われて、そんな風に想えるわけがないだろ!?」

 

 決めつけられることを嫌いながら、それを自身が犯している。自分にも嘘を吐いて生きる盲目の生。彼は覆う瞳を間違えている。隠すべきは自身ではない。それ以外の全てを、だ。それが個人にとっての正解。世界にとっての誤りだとしても……

 

「それがどんなに間違ってても、彼女は悲しまない。泣いたとしても、それは違う涙だ。何人人を斬ったって、そこまで罪を恐れずに、強く真っ直ぐ想われて……嬉しくない奴がいると思うのか?」

 

 自分もその人を想っているのだったら尚更だろう。その時、彼女はどんなに幸いだろう。

 

「不謹慎だとか、罪深いと懺悔したって……彼女はきっと喜ぶよ。嬉しいはずだよ。だってお前はその子をそんなに想っているんだろ!?さっきと同じだ。わかってないのにわかったような振りしてる!わかったような振りしてるけどお前は何にもわかってない!!似てるんなら、同じなら……そのくらい彼女もお前を想うなら、彼女だってそうする。その手が汚れていたからってお前は彼女を見限るのか!?その程度なのかよ!?」

「…………俺は」

「なぁ、ユーカー……お前のプライドが俺の考えてるよりずっと、重いものなんだって……わかってる。何もない俺とは違う。でも……だから意味がある」

 

 プライドのない俺がそれを捨てても何の意味もない。だから簡単。彼には山より高いプライドがある。それを捨てることは難しい。

 

「大切な誰かを殺すことを思い悩む前に、もっと先にやることあるんじゃないか?」

「…………なんだよ、それ……?」

「別に……プライド全部捨てろだなんて言ってない。誰にだって、譲れないものってあると思う。だけど、一つくらい……なら、捨てられたんじゃないか?家とか立場とか名前とか。そんなものじゃなくて、もっと簡単で、小さくて……でも彼女が何より喜んでくれただろう、それ。わからないじゃなくて、わかりたくない……だろ。好きだって言ってやることくらい、叩き折れたんじゃないか、お前のプライド?」

「…………」

「じぁないと成り立たないだろ。行動の理由と意味」

 

 ただなんとなく、もう一度会いたい。そんな風に中途半端な捉え方で、願いまで辿り着けるんだろうか?それは目隠しをしたまま山を登り切れと言ってるような無謀な賭けだ。

 

「俺はさ、もしお前がそのために俺を殺したいって言うんなら、……俺が負けてもお前を怨まないよ。そうだな、呪ったりもしないと思う」

「……思うって、なんだよ」

「あはは、呪わない呪わない。第一俺そんな力ないよ、たぶん」

「たぶんってなんだたぶんって」

「うぅ……それじゃあ絶対呪わないよ」

 

 やけに食い付いてくる彼に苦笑した後、俺は強く言葉を紡ぐ。少し彼を見習って……人間らしく、自分の意思を言葉に託す。

 

「だけどよくわからないまま、はっきりしないまま殺されたくはない。意味も理由もない死に方なんか俺は…………俺は、絶対嫌だ!」

「…………お前」

 

「……調子乗んなよ馬鹿」

 

 放たれた蹴りは、避けられる速度。手加減してくれたんだろう。それなら最初から蹴らなきゃ良いのに。そう思いながら避けた俺は、バランスを崩して棚にぶつかる。流石幸福値最低の俺。ぶつかった拍子に棚から本が倒れる。落下し身体にぶつかった本は床へ転げ落ち、ひらりと何かをはじき出す。

 僅かに遅れたそれが床に落ちたのを拾い上げる俺。

 差出人はない。宛名もない。一通の手紙。

 だけど聞こえる。歌が聞こえる。その声が届かないことを知りながら、いつか届きますようにと……切なる祈りを込めた歌。

 彼は気付かない。俺に小言を言いながら、散らばった他の本を棚へ戻す作業に夢中だ。

 

「ユーカー……お前に、だよ」

 

 俺は白紙の手紙を差し出した。彼には聞こえていないんだろうか。彼女は一番彼に聞いて欲しいだろうに。

 文字がなくても、そこに宿った感情数。薄ぼんやりとしたそれは、手紙がユーカーの手に渡ると突然姿を変えた。この空間に存在するすべての2という数字に祝福されて、光を帯びる。

 数術だ。それがどんな数術か解らない俺には、奇跡のように見えていた。

 

『セレス様……』

「アスタロット!?」

 

 手紙は姿を変えて、一人の少女の姿を映す。手紙を手に取ったユーカーの手に握られているのは白い手紙ではなく少女の手。数字に祝福された少女が微笑む。

 

『セレス様……生きてください』

 

 彼が彼女を美化するのも仕方がない。

 事実、彼女は美しい。嘘のない声。表情。彼女の声は、彼への許しだ。

 

『貴方が何時何処で何をしていても、何もしていなくても。貴方が何を思おうと誰を想おうと……私は貴方をお慕いしています』

「でも……俺は、俺はそんな価値ないっ!俺が……俺のせいでお前はっ!」

『私達は、道具じゃない。私も貴方も……人間です。自由に生きられる、人間です』


 恨み言を期待した罪人に与えられるのはまるで感謝の言葉。それを受け入れられずにユーカーは狼狽える。


『だから私は貴方の自由を縛れないし、縛らない。縛りたくない。そして私も家や貴方に縛られることはありません。それでも私は、貴方が好きです。私が自由に、自分勝手に……我が儘な人間として……貴方を想い続けます』

『ありがとう、セレス様。私を……人間にしてくれて。それだけ、言いたかった。貴方に……私は』

「俺を、怨まないのか……!?俺を殺さないのかアスタロット!?俺はっ……俺はっ!」

『私は貴方が何をしても何もしなくても……私は貴方が貴方なら』

「アスタロット……俺は……俺を…………殺してくれっ!そんな言葉っ!……俺は、お前に許されたかったわけじゃないんだ!!」

 

 手紙は一方通行。手紙に宿った想いと今の彼との時差。

 声と、言葉と姿をもう一度。その願いは叶った。だけど……二人の会話は成り立たない。

 いくら彼があの言葉を伝えても……それはもう、彼女には、届かないのだ。

 彼女が優しく語る言葉も……彼の今を見据えない。彼も彼女を想っていること。それが彼女には決して届かない。

 時は虚しい。こんなに互いが思っても……時間の壁はそれを隔てる。

 薄れていく彼女の姿。途切れて消えていく想いの旋律。それの代わりに歌うのは、縋るような彼の悲しみ。歌だ。……歌が、聞こえる。深い、深い……悲しみの。

 目に眩しかった光が消えているのに気付いた頃、部屋は色を取り戻していた。目の焦点を取り戻した俺に、安堵の息を漏らすイグニス。

 視界の端に映ったユーカー。俯いた彼の横顔が……物語る悲しみ。

 夢であれば良かったのに。

 もう一度目を閉じて……もう一度それを開いて彼を見たなら、彼らしい不敵な笑みやつまらなそうな顔、苛立った表情……そんなものに変わっていてくれればいいのに。

 

「……痛かった?傷」

 

 俺を気遣うようなイグニスの声。それに俺は思い出す。背中に手を当て……手当が為されていることを知る。身体を起こせば、痛みが走る。そうだ、刺されたんだった。

 こうしてまた目を開けられたこと自体が、奇跡のようなものだ。

 

「大したことない。ちょっと急に動いたらあれだっただけで」

 

 手当の時に他の傷も見られただろうか。見られたんだろうな。彼には見られたくなかったそれ。

 でもそれも今はどうでもいい、ちっぽけなことのように思える。

 

「応急処置だから、まだ痛むと思う。ごめん……」

「イグニスのせいじゃないって。これは……俺のせいだし」

「何か……嫌な夢でも見た?君……泣いてたから」

「……よく、覚えていないな」

 

 見て見ぬふり。気付かないふり。それも人間らしさなのだとしたら、……俺は少しは人に近づけているんだろう。だとしたら、これは喜ばしいことなんだ。

 

「…………でも、悲しい夢なら……見た、かもしれない」

 

 何も言わない彼の代わりに。そんな風に人形が泣き、声を上げる日があっても良いのかもしれない。人間も人形も、それぞれ不器用で生き辛い生き物なんだと知ったから。

 

「だからかなぁ……なんか………悲しいよ」

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