18:Ira furor brevis est.
暗い場所を歩いていると心安らぐなんていう話……聞いたことはある。でもそれは、こういう不気味な場所を歩いたことがない人間が、夜の不確かさに憧れていただけに違いない。
誰もいない場所に行きたいとか何も聞こえなければいいのにだとか、一人になりたいとか。きっとそんな後ろ向きの感情を包み込んでくれる包容力を夜は持っている。
けれど今は夜とは呼べない時間で、かといって昼と呼ぶには暗すぎる……歪な暗闇。
一歩踏み出した先で、床以外の何かを踏んでしまうのではという恐ろしさもここにはある。
強すぎる腐敗臭の立ち籠める部屋。どれほど多くの亡骸が転がっているのだろう。ああ、もしこの足を前に出して、それに気づかず踏んでしまったら?そう思うと、この一歩一歩が怖くなる。けれどそうしていくら進んでもそういうモノには出会さないから、いつの間にかそれに関して慣れていく。ないのが当たり前だと安心しきった俺は、自分を省みて人間って薄情な生き物だと思う。
恐怖に麻痺した感覚は、その安堵に浸りきり、それがおかしいと思うことさえ出来ずにいた。よくよく考えればおかしな話。何年前にここで事件があったのかは知らないけれど、ユーカーの知り合いということは、そんなに昔のことでもないはずなんだ。だから骨さえ残らないはずがないのに。
後にそれを教えられるまで愚かな俺はそんなことにも気づかずに、心に出来た余裕で別のことを考える。
目の前に見えるのはゆらゆらと先を照らす小さく頼りない灯り。そしてそれを支える彼女の背中。
暗い屋敷の中、明かりはこれ一つだけ。明かり取りの窓は高い場所にあり、そのカーテンは閉め切られている。外の雨と相まって、昼だというのに薄暗く肌寒い室内。
入り口付近の散策で見つけた蝋燭と燭台。それを片手に前を行くのはルクリース。俺はそんな彼女の後ろ。そして俺の後ろがイグニスだ。
この隊列を決めたのはイグニスだ。戦闘の勘は文句なしにルクリースが一番鋭いし、殺気を読むのにも長けている。イグニスも数術を駆使すればそのくらいは可能だろうが、暗闇は視覚情報が限られる分、イグニスが視界数値から収集出来る情報も少なくなる。正確に言えば、情報収集の間合いが狭まるのだとかなんだかとか言っていたが、俺にはよくわからない世界だ。まぁ……実に情けないことだが最弱の俺が殿じゃ、背後から襲われた際太刀打ちできない。それを考えてのこの順序。最善だと思う。思うけど、心のどこかが納得していない。
何でも出来る分忘れがちになってしまうが、数術使いといえど超人だとかそういうわけじゃない。魔法使いみたいなものだけど、身体は普通の人間で、疲れるし過労死することだって十分あり得る。
そんなことを思い出し、振り向くものならばさっさと歩けと睨まれるか、情報収集の邪魔と睨まれるかどっちにしろ睨まれるだけなのだが、それでも俺は時々後ろを振り返る。背後から敵がくるのが心配?もちろんそういう気持ちもある。だけどそれ以上に俺は、彼が心配だった。
彼の強さは俺も信頼している。あんなわけのわからない死者たちを数術ひとつで一掃できる彼。でも、イグニスは俺に教えてくれない。
数術代償。イグニスは言っていた。どんな数術使いでも数術を操るためには代償が必要で、誰もがリスクを背負ってそれを行使しているのだと。脳内計算を補い間引かれるのが、大多数は幸福値……俺の場合は体温で、イグニスはそのどちらでもないような話だったけど。
イグニスは教会で大きな数術を使ったからだろうか。本人は絶対認めてくれないけれど、彼の足取りはおぼつかない。足を引っかけたら間違いなく転倒するだろう。
今回だけじゃない。空間移動をした後も、大抵彼は苦しそうだ。疲れただけだと彼は言うが、どうにもそれだけだとは思えない。
せめて明かりくらい役に立てれば、そう思った俺はトリオンフィに炎を纏わせようとしたが、イグニスに蹴飛ばされる羽目になった。
彼曰く、「数術による人為的な炎は数術使いにとっていい目印」なんだとか。つまり俺はここにいますよと、教えたようなものらしい……彼女に。もっとも彼女は俺たちがここに向かっていることも知っているだろうから、大した意味は持たない。「ああ、来たの?別にわかってるよ」とか思われるのが関の山……なのだが、イグニスの機嫌を損なうには十分だったよう。まぁ……それもわかる。俺はいつもそうだ。何かしようと思ってもそれが空回ってばかり。
だからあの家では何もかも諦めていた。何もしないと諦めた。どう頑張っても俺は養子で、赤の他人で……本物の家族になんかなれないと諦めていた。養母さん(あの人)も姉さんも、俺を本当の息子として、弟としてみてくれたことなんて結局のところ一度もないのだ。あの頃のフローリプは……彼女だって俺を兄と思っていてくれたとは思えない。
諦めるのに慣れるということは、何にも執着しないと言うこと。だから何でもかんでも簡単に捨てられる。でも俺は、そう思いこもうとしていただけで、本当は慣れてなんかいなかった。だから、諦められない。
そしてその頑なさが今の俺を空回らせる。そしてこの様だ。救えないと自分の浅ましさに失笑さえ凍る。俺の数術はひどく不安定だから、思い通りに出したり消したりという制御が難しい。もし火の手が広まればイグニスに消化でもしてもらわないといけなくなる……そうなれば手助けどころか今以上のお荷物、足引っ張り。少し考えればわかる話なのに、その少しすら俺には見えていないのだ。
何もしないというのが今できる自分の最善。そう思うとため息も出る。そう、そんな“今”でさえ、俺はイグニスに助けられている。こうして吐き気もなくちゃんと息をして足を動かすことができるのは、イグニスの数術のおかげ。
「イグニス……」
「……何?」
無駄口は喋りたくないんだけど、そんな含みのあるイグニスの声。ああ、機嫌悪いなとすぐわかる。無駄口……というより俺と話すこと自体が不利益で無駄で酸素の無駄とかそのくらいに考えてそうな声。昔は……出会った当初はいつもこんな声色だった気がする。本当あの頃はずいぶん、嫌われてたな。それだけギメルが大事だったのはよく知っていたけど。
そう思った時、ある疑問が俺の頭を横切る。再会した時のギメルとイグニスの態度の変化。
優しかったギメルは残忍になり、冷たかったイグニスが俺を助けてくれる。奴隷時代に何があったのか、イグニスは語らない。ギメルが少し俺に漏らしたそれは……点のようなもので、俺の頭の中では結びつかない、そんな理解できないようなこと。彼女の狂気のはじまりがそこにあるのなら……イグニスだってそうなっててもおかしくはなかったはずなんだ。
イグニスは知っていると言っていた、この臭い……腐敗臭。シャトランジアでの普通の生活では、遭遇することもないだろうそれ。ましてや俺みたいに貴族の家にもらわれた奴が、出会すことなんて皆無に等しい。そんなものに慣れるような環境での生活ってどんなものなんだろう。脳細胞をいくら捻ってもうまく想像できない。それくらい俺から遠い場所に彼らはいたんだ。そんな場所に連れて行かれたギメルが俺を憎むのは当たり前だ。むしろ、イグニスがおかしいんだ。こんな俺に手を貸して、助けてくれる。
「イグニスは……どうして俺を助けてくれるんだ?」
なんだそんなことかとでも言いたげに溜息を吐いた後、イグニスはくだらないと言うようあきれた口調で言葉を紡ぐ。
「僕は神子だ。だから僕は君を利用してるんだ。僕は僕のために君に力を貸して、君の力を借りている。それが世界のためだから」
返される答え。あらかじめ用意していたような早すぎる解答。それは真顔で嘘をつくような、言葉に等しい。いつもの俺ならここで引き下がる。ああ、言いたくないんだ。これ以上追求は出来ない。話してもらえるだけ俺は信頼されていない。もっと頑張らないと。そう思う。悪いのは彼ではなくて、俺なのだ。
頭では、いつも通り……そう納得している。それなのに胸の奥、心だけがわかってくれない。脳と心が別の生きものになったよう。
「わからない。もし俺が生き残れたとしても、俺がイグニスの望むような願いを望むとは限らないじゃないか」
「僕にはわかる。信じてるんだ」
「それが……わからないんだ。イグニスは、そうやって俺を信じてくれるけど!俺には何もない。信じてもらえるだけの過去を、俺は持っていない!どうして……俺を恨まないんだよ!?イグニスっ!本当は……イグニスだって、ギメルと同じ気持ちだったって言われても、俺はよっぽどそっちの方が納得できる!」
堰を切ったようにあふれ出す言葉。その暴走を俺は止められないまま。今度は口だけが別の生き物としての自我を持ち始めた。それに連れて行かれるように熱くなる心ともう一つ……耳から聞こえる声を、他人事のようにぼんやり聞いている冷え切った心。自分でもどっちが本心かよくわからず、それが俺の混乱を加速させていく。
「……アルドール」
見開かれた彼の琥珀色。彼の驚愕の中に映るのは俺の情けない顔。どうしてあんなことを言ってしまったんだろう、後悔が変わり自己嫌悪。彼を傷つけた。彼が傷ついている。俺は、なんてことをしてしまったんだろう。
「信じてる……信じてるんだイグニスは!でも俺は……俺は俺が信じられない!」
縋るような、許しを請うような自分の言葉が許せなくて。もうどうしたらいいのかわからない。逃げ出すように俺はルクリースを追い越した。
「アルドールっ!」
背中に届いた二人分の声、それが俺の背中を押すように……走り出したこの足は止まらない。今の俺は赤い靴でも履いてるんじゃないか?自分のものなのに、足を止めることさえ今の俺には出来ないのだ。
そうやってどれくらい走っただろう。息切れで俺が足を止めてしばらく……頭に酸素が回ってきたようで、ようやく頭が落ち着いてくる。頭が冷えると今度は心も平静を取り戻し……そうなると急激に寒気が身を襲う。
「……はぁ、何……やってるんだ、俺」
振り返っても二人の姿はない。弱い俺が二人から離れることは、今一番してはいけない……それが何より二人の足を引く行為。わかっていたはずなのに、ああ……どうして俺は、今ここに居るんだろう。
自分はこんなに自分本位の人間だったのか。フローリプやユーカーの心配をしてたつもりなのに、いつの間にか自分のことばかり。情けなく、恥ずかしく……気持ちだけなら首をくくりたい気分だ。暗い中を走っていたような気がするけれど、壁そのものが真っ黒というわけでもなく、まだ夜というわけでもないし、完全な闇ではない。
それでも明るい場所に出た気がするのは、窓が下まで降りてきたから。それは明かり取りの役目ではなく、手入れのされていただろう庭を見せるためのモノだろう。廊下を走った俺は中庭近くの突き当たりまで出てきていた。
色を失ったようなその庭園。草木は伸びたい放題。元がなんの植物だったのか俺にもよくわからない状態だ。
そんな庭園に見えた影。漆黒を纏うのは一人の少女。黒の合間から覗くのは、冷たい風吹き付けられても輝きを失わない長く豊かな金糸の髪。喪服のような黒いドレスを身に纏い、黒のリボンで髪を束ね、黒い傘で雨をしのぐ少女の横顔は、俺が探していた妹……
窓は錆びて開かない。叩き割れるほどの根性も教育もされていなかった俺は、中庭への扉を必死に探す。あった。そう遠くない。走ればすぐだ。
扉を力一杯で開け、息を切らし駆け込んだ庭園。俺と彼女を遮るように、足に絡み付く草。それだけじゃない。雨のせいもあり足下がぬかるんでいるせいで、酷く走り辛い。
急げばバランスを崩し、倒れかけ……それを踏みとどまってまた走り出しその繰り返し。
そうやって少女のそばに来るまでに感覚が麻痺したのだろうか近づきすぎた?いや、だからといって俺より低いはずの彼女が俺より高く見えるなんてことは、遠近法的にもおかしい。
「フロー…リプ…………?」
そう呼んでしまってから、俺はもしかして間違えたのだろうかと不安になる。別人?いや、別人だとしても、味方とは限らない。もしかして、また彼女の手下の死人のお出迎えだったり……?だとしたら俺はまた余計なことをしているんじゃないか?イグニスに怒られる……のはまだいいとして、これ以上迷惑をかけるのは……
「アルドール……」
内心はらはらしていた俺を呼ぶ声。顔を上げればいつの間にやら振り向いていた少女。
雰囲気や色は俺の妹そのもの。けれどその少女はルクリースと同じくらいの背格好。
伸びた髪と、丸みを帯びた身体のライン。小柄な妹とは似てもにつかない体型なのだが、別人……というには似すぎていて、本人と言うには年が合わない。あと……三、四年後くらいのフローリプ。そう言われれば納得できるようなその姿。
けれど今その少女は俺をなんと呼んだだろう。こんな見ず知らずの土地で俺の名前を口にする人間なんているはずがない。
「フローリプ……なのか?」
弱い語尾で訪ねた俺に、頷く彼女。その若草色の瞳が追い詰められたよう、縋るように俺を見ている。
「あいつに……何か、されたのか?」
俺を憎んでいる彼女に攫われたんだ。彼女はトリオンフィの家を憎んでいる。姉さんを殺して、フローリプを殺さない理由はない。こうして生きて話をしていられることが奇跡に近い。
だからこそ、何もされていないとは思えない。けれど彼女は首を振る。
「違う、違うんだ……」
俺の懸念を否定した後、しばらくフローリプは黙り込んでいた。すうと息を吸い、決心したように俺を見る。
「アルドール、私は……どう見える?」
「どうって……?」
「だから、どう見えると聞いているのだ!」
よくわからないが怒鳴られた俺は、彼女に言われた言葉を反芻した後、その真意を量りかねたまま口を開いた。
「そうだな、可愛いと思う」
「……そう」
思ったままを口にしたけれどお気に召さなかったような反応だ。子供扱いだと思ったのかもしれない。俺は言葉を選び言い直す。
「綺麗だと、思うけど」
「……他には?」
ずいと迫られた俺は、その迫力に押され答えに行き詰まる。
「え、ええと」
「これは何年か後の私の姿らしい」
「視覚数術みたいなもの?」
「違う。時間数術」
「時間数術?」
「教えてくれたんだ。あの女が。私には、一年以上の未来はない。だから……見てみたかったんだ。私はどんな風に変わるのか。それを見て、お前がどんな言葉を口にするのか」
フローリプが小さく語る言葉。
選ばれた彼女は未来を奪われたに等しい。そうだ。彼女はもっと背だって伸びるだろうし多くの可能性が眠る未来を持っている。本当はもっと夢を見ていい年なんだ。それをこのゲームは彼女から奪った。父も母も姉も、帰る家も、場所もない。大人になることだって、たぶん出来ない。決められたルールの上では一人しか、生き残れないんだから。
「似合ってるけどさ。ずっと、このままなのか?」
「直に、元に戻る」
ほっと息をつく俺に、フローリプは不服そう、そして心配そうに俺を見る。
「……今の私は、嫌なのか?」
「いや、そうじゃない。ただ……」
そんな風に生き急がなくていい。そうさせてしまっているすべてに俺は、苛立つ。たぶんそこには俺自身も含まれている。彼女を追い詰めたのはきっと俺だ。道化師に何を言われたかは知らないが、きっとそれは俺にもフローリプにもためにならないこと。それは間違いないのだ。
これがどんなものであっても数術は数術。それはフローリプの命を危険にさらしているのだ。本当は俺が守りたい。俺が兄なんだから。
フローリプが成人するまで俺が親代わりとして、大事にして。イグニスがギメルを守っていたように、俺もいい兄になりたいんだ。そんなささやかなことも、許されないというのだろうか。
「ただ?目のやり場にでも困るか?」
答えあぐねて目を伏せた俺に、何故か嬉しそうな顔でそう俺をからかうフローリプ。
「な、なんだそれは」
改めてそう言われると意識してしまう。これは妹だからと必死に言い聞かせて、妙な気分を振り払い、顔の熱と気恥ずかしさを口調を荒げて必死にごまかす。
「俺は妹に背を追い越されたっていうのがなんか気まずいだけで」
その言葉に、フローリプの表情が凍る。まずい、何か失言を知ってしまったようだと俺は知る。
それがどうしてだとか、そこまで人の心がわからない。でもやってしまった、そういう空気は何故だかわかる。
「い、いや!で、でもお前がこんなに美人になるなんてな!いや今が美人じゃないとかそういうわけじゃなくて今だって十分綺麗だけどさ!なおさらこのゲームなんとか崩壊させないと。お前の未来の旦那が可哀相なことになるよな、こんな綺麗なお嫁さん逃したら」
「アルドール……」
取り繕うような俺の言葉に、妹は冷ややかな眼差しを向ける。
それを何とかしたくて口が埋め合わせの言葉を紡ぐのだけれど、その一言一言がぐいぐいと俺の首を締め付けているよう、気まずさだけが膨らんでいく。
「お前が認めた相手なら俺も嫁にやらなきゃいけないんだろうけど、嫁に送り出す父親の気分ってこういうものなんだな。本で読んだときはよくわからなかったけど、今ならなんとなくわかるな。結婚式で泣いても他人の振りとか止めてくれよ、それこそ俺泣くから」
「そうか……」
あの屋敷にいた頃のように、すべてを諦めたような表情のフローリプが、小さく笑う。
口元だけでの笑い。緑の双眸は涙で揺れていた。
あっと何かを口にしようとした俺だったが、何も言えなかった。
俺にぎゅっと抱きついて彼女は一言囁いた。
「さよなら、……お兄ちゃん」
消え入るような声で、フローリプが別れを告げる。その真意を測りかね、俺から離れ背を向ける彼女を追おうとして、俺は地面に膝をつく。
そして立ち上がろうとして、身体に力が入らないこと……背中の痛みをようやく悟る。深々と差し込まれたナイフ。このゲーム開始の日から、ずっと止まっていたそれが、今やっと……俺のところまで届いたのだ。明確な殺意と憎しみをそこに彼女は携えて。
*
小さくなる背中。それを追おうと踏み出した先に生じた壁。見えた僕は止まったけれど、先行く彼女は見えずにそれにぶつかった。僕が彼女に謝るより先に、閉じこめられたことを僕らは知った。見えない壁、数術障壁……いわゆる結界数術に分類されるもの。
「これって……イグニス様の、あの結界と同じ?」
「……いえ、もっと悪質なものです」
振り返った先にも不可視の壁。ご丁寧に窓と壁にも天井にも結界は行き届いており、僕らは四角い檻の中に閉じこめられた形だ。
その箱の中央部分に、先ほどまでなかった数値が見える。あの数字だと……あれは鎖?手錠だ。……いや、ただの手錠じゃない。強化数式が刻まれている。あれは……怪力だけじゃ破壊できない。壊すには……よほどの運に恵まれていなければ……
どうやってこの状況を打破するか。それに縛れた僕は一瞬判断が遅れる。
背後から聞こえた声。この術を紡いだ本人様の登場だ。そして僕は思い出す。数式が先じゃない、数術使いがいるからこの術がここにあるってことを。
「数式結界、名付けるならば《身代わりの檻》。解析して打ち破るのはものすごい時間のかかる複雑な式。だけど、簡単な条件で扉は開く……面白い式」
背後から迫る足音。その足音の主は不可視の檻の中に自らをも招き、獲物二人を歓待するよう笑みかける。
「……っ、やってくれたな道化師」
睨み付けたその先で待つ、僕と同じ琥珀色。僕の苦しむ顔が愉しくて仕方がないと、それは愛らしく……そして憎らしく僕らに微笑みかけた。
本当に腹立たしい。血染め赤を身に纏い、聖杯女王を騙る道化師。僕の片割れそのもののその顔は、ここにあるべきものではないのに、こうして僕の前に姿を現す。僕の心変わりを責めるよう……
「兄妹の感動の再会に水を差すのってよくないよ」
「それなら貴女が最初からフローリプを攫わなければよかっただけじゃないですか」
もっとも過ぎるルクリースさんの嫌味にも、彼女はくすくす笑うだけ。上品そうにくすくすだろうと下品にがげたげただろうがなんだろうが、快く思わない相手の笑みは、いつ何時だって腹立たしいものには違いない。よって彼女のそれは僕らを不快にするには十分すぎる対応だ。
「厄介だよね、感情って。腐敗臭でお兄ちゃん、嗅覚遮断したよね?」
やれれた。そう口にした僕の失点がそれだ。そのために彼女はここに拠点を置いたのだ。
嗅覚は臭いという数値をかぎ分ける器官。脳の仕組みから、臭いと感情は結びつきやすい。
香り一つで感情数を書き換えることだって可能。
才能のない数術使いなんかはそれを触媒として売り、香具師みたいなことをやってる者もいるくらいだから、それも数術と呼べないこともないのかもしれない。もっともこの場合、才能があるのはその素材の方なのだけど。
僕の数式は臭いを完全に排除したのではなく、不快に感じないよう嗅覚を麻痺させたもの。もちろん僕らの周りの腐敗臭は自動分解式を組み込んだけれど、建物自体にこびりついた臭いまで完全分解するとなると、僕の労力も大きくこんなところで力の無駄使いはしたくない……ということで省エネで数術を紡いだ。つまり、空気自体は僕らの体内に入ってくる。
(……道化師が)
本当に、僕の考えそうなことをよく……理解している。あの時と、大分盤面が変わったせいで、今回は僕にも不測の事態が多すぎる。こんな僕が予言の神子だって言うんだからお笑い草だ。
「気に入ってくれた、お兄ちゃん?」
そう呼ばれるたびに虫ずが走る。僕の多くの偽りを嗤うその言葉。すべてわかった上でそういっているそいつは道化失格だ。いや、僕だけならまだいい。だけど眠る彼女さえ弄び、その名を騙ること自体烏滸がましい。
観客を笑わせるためにいるのが道化。けれどこいつは、観客を嘲笑う傍観者。それが道化だって?それこそ嗤わせるな。
「……気に入ったよ。今すぐおまえを殺したいくらいには」
「喜んでもらえて私も嬉しいよ」
くすくすと笑う鏡のようなその笑みに、僕の奥歯がぎりと鳴る。ああ、これが鏡なら話早いんだけど。今すぐ叩き割ればいいだけなのに、こいつは鏡じゃないからそうもいかない。
だいたい鏡はただそこにあるだけで、悪さなんかしない。こいつがあれこれやらかすのはこいつが無機物じゃないという嫌な証明だ。
そんな悪さ。彼女が空気中に流したのは、精神に揺さぶりをかける毒。もちろん無臭とはいかず、今の僕たちはそれを感じられない状態にあった。臭いも数字に見える僕だって、所詮は人間。嗅覚を麻痺させ体内の作用を狂わせれば、見える景色も狂うのだ。バラバラの数字配列に、別のものが混ざっても気づけないのは言い訳といえば言い訳だが。
それで僕は怒りに囚われ、アルドールは不安に駆られた(ルクリースさんだけは何ともなかったのは、おそらくセネトレア時代に毒への耐性でも付けていたのだろう)。
浄化式を紡ぎ毒を相殺させようとしたが、まだ毒が効いている。やっぱり、こっちの数術は慣れない。零の数術のように何年も使ってきたわけではないから仕方がないけれど。
舌打ちをしながら僕は感情数を弄る式を立て、怒りを悲しみで相殺させる。それでようやく冷静さを取り戻した僕は、彼女のことを考える。今の発言の意味?それは……?
自分の手の内の種明かしを始める理由。それには主に三つある。誰も自分を不利にする情報を敵にもたらす意味などない。一つはそれさえわからない馬鹿が行う。彼女はそこまで愚かではないからこれではない。
二つは相手を嘲笑い、激高させるためのもの。あるいは自分の完全優位を過信し自身のゲーム難易度を上げるため。要するに二つめはその人物が自信家か性悪だという場合。彼女の場合、これもまぁ……あるだろう。
そして三つ目。それは……途中まで二つ目と同じ意味合い。相手をあざ笑い激高させることで相手の注意をよそからそらす。つまりは、時間稼ぎ。
今回はその三番目だと見抜いた僕は、檻の解析に挑む。……が、彼女の言うようこの式は複雑だ。解の桁が多すぎて、片っ端から試すには膨大な時間が必要。三日三晩寝ずにやっても無理だと思う。脳内計算じゃまず打ち破るのは不可能な式。純血ならまず打ち破れない。幸い僕は混血、解けない式じゃない。やろうと思えば三秒くらいで余裕で打ち破れる容易い式だ。でも……僕は知っている。僕の限界は、そう……長くはないのだ。
(こいつ……僕を、ここで……殺すつもりか?)
香自体は数術を使わずに使える。つまり数術代償を削らない。そしてこの《身代わりの檻》。
さっきの《死の舞踏》は契約数術だから幸福値にも響かない。こいつには僕とは違ってまだまだ時間がある。
カードの差は幸福値の差……だから幸福値でも駄目。持久戦でもこんな初盤じゃ万が一でも勝てない相手。今の僕が相手より勝ってるのは、二重契約での技の数。僕がここにいることで、あいつは二重契約が出来ない。僕が生きている限り、あの頃ほどの驚異にはならない。
場所さえ、元素さえ揃えば……壱の数術でやり合えるかもしれない。壱は外から数を取り込めるけど、零は体内の数しか使えない。相手は零の数術しか使えないんだから、長期戦なら僕にも勝機はある。
でも今は、奇神の数術は使えない。奇数は壱の数術。
ここには炎のカードのルクリースさんがいるだけで、長年閉ざされたこの屋敷は四大元素の加護も薄い。それでもカーネフェルの地だからかろうじて火の元素は感じられる。でも、僕は水のカード。この地は僕にとってホームとは呼べない、完全にアウェイなフィールド。今の僕は本調子とは呼び難い。炎が水を蒸発させるように、長時間力を使うことは不可能に近い。短期戦なら全然余裕なんだけど。
くそ、道化師め。お前はいいよな本当に、無属性だからどこでもなんでもそれなりに出来るんだから。本当に憎らしい。
契約数術でしか勝機がない僕が、どうやってここでこいつを殺す?偶神の零数術対他の偶神の零数術はやりあえるけど効率が悪い。出来ることなら奇神の壱数術で迎え撃ちたい。その方がよっぽど効率的。契約条件は数神ごとに異なると言っても、こんな場所でそれを使えば彼女の幸福値を代替消費しかねない。それは勿体なさ過ぎる。
第一僕は零の数術使い。偶神の力しか使えないと、彼らに話した。もし使ったこと判明したら彼女に疑念を抱かせる。ルクリースさんには数式は見えないからいくらでもごまかせるとはいえ、この道化師に僕の手の内を晒すわけにもいかない。数術使いであるこいつには見える。僕が使った術がどんなものか、わかってしまう。そうだ、それは危険だ。こいつが僕をどの程度まで理解しているのかわからないし、切り札は温存しておくべきだ。
晒すとしたら……絶対に殺せるときだけ。今はその時……?
(いや……もう、遅い……のか?)
これを解くには、数術代償をかなり削る。そんな後で……彼女と戦って、仮に数値破りを行ったとしても勝てる保証はない。競り負ける。幸福値で僕が彼女に勝てるはずがない。
幸いここにはルクリースさんもいる。彼女の幸福値があれば、なんとか……ここでこいつを殺すことは出来るかもしれない。でも……こんな初盤でコートカード二枚もアルドールが失うのは酷い痛手だ。確かに未来は変わるけれど、道化師は一人じゃない。タロックとセネトレアとの戦いも、今のアルドールじゃ駄目だ。勝てない。他の奴の願いが届いてしまったら、今度こそ終わり……見放されることだって大いにあり得る。それだけは絶対に阻止しなければ。続かせなければ。
今はここにはないけれど、一時的に力を貸すようにし向けているコートカードは何枚かある。そのための布石は配置している。でも、絶対に裏切らない……いつでも彼の味方であるコートカードはそんなにない。だからルクリースさんは貴重。そうやすやすと消費していいカードじゃない。
カードの価値なら僕の方が下。消費するなら……彼女ではなく、僕の方だ。
せめて、あと一枚。キングとは言わない。ペイジかナイト……僕以外にもう一枚コートカードがここにいてくれれば。……いや、いるにはいるんだ。ただ、今……いつもいて欲しいときに彼はいないだけで。
(セレスタイン卿……、だから嫌いなんだ)
トランプを使ったチェスとは嫌な例えだ。ナイトの変則的な動きはチェスそのもの。それが役に立つときもあれば、こうやって悪い方向に作用することもある。そりゃあもちろん、敵将を討ち取るのも大事だけど、王を守らなきゃゲームが終わってしまうじゃないか。……今の彼にとって、アルドールは守るべき王ですらないということなのか?ゲーム崩壊もいい加減にして欲しい。
そうだ、だからだ。だから連れてきたのに。いや、連れてこられるだけは、手懐けられたのか?そうかもしれない。でも、まだ足りない。
コートカードの彼を手懐けなければ、これからが辛い。そのためにさっさと彼のトラウマを克服させる必要があった。あの時だって、彼がもっとしっかりしていれば変えられたはずなんだ。彼にあのトラウマがあったからあそこで彼が裏切ったんだ。ここさえ潰せば、彼の手綱を握れる。暴れ馬には違いないが、カードとしてはまだまだ役に立ってくれる……というか何が何でも利用したい人材だ。
でもこんな初盤で連れてきたのは時期尚早だったか?いや、僕が憎まれ役を買った分……前回より僕と彼の仲は悪い。その分アルドールとはあの時よりは上手くいってる。そのはずだ。
例えばだ。一人かけだしたアルドールが敵に襲われたとしたら、少なくとも彼は助けるだろう。見捨てるはずがない。彼は捻くれてはいるが基本的には人の死を嫌っている。仮にも騎士だ。弱者を助ける程度の心は持ち合わせている。
従兄の彼に比べれば、ずっと心は狭いがその分大事な人間を十分思いやる心はある。下手な博愛主義者よりはある意味信頼の置ける人物だ。中盤までに、なんとかそこまでアルドールを入れ込ませられるかどうかが大きな鍵だ。アルドールにとっても彼は苦手なタイプの人間だったみたいで、前は全然駄目だったな。でも、今回のアルドールは違う。彼を理解しようとし始めている。今の彼は他人を思いやれるだけの余裕が生まれた。
フローリプさんがここまで生きていたのが大きい。あれが今回一番変わったことだ。ルクリースさんが彼女を殺さずに済んだのもよかったんだろう。
妹に殺されかけ、目の前でその妹が自分を守るためにと殺される。どんなにルクリースさんがアルドールを思っても、妹殺しの女に心を許させない。
アルドールは、家族に愛されたかったんだろう。その縋りたい家族に妹に、憎まれ殺されかかるという経験は、後々まで禍根を残した。疑心暗鬼に囚われ他人を疑い、僕しか信じられなくなる。それじゃあ、駄目なんだ。
でも今のアルドールはルクリースさんを信頼している。フローリプさんのことも大切な家族と想っている。アロンダイト卿ともそれなりにやってるみたいだし、セレスタイン卿とも前よりはずっといい感じに来ている。
ここまで削られたカードがアージンさん一枚というのは、喜ばしいことだ。彼女はその堅実さから、敵に回ると非常に厄介。そしてそれはフローリプさんの時同様、アルドールにトラウマを植え付ける。彼には悪いけれど、道化師のあの一手は僕にとっても都合がよかった。
……と、解析を行いながらいろいろ考えてみた結果、僕はもう……そうするしかないんだろうなと一つの答えを見いだしていた。
《身代わりの檻》……悪趣味な技。セネトレアの貴族お抱えの数術使いが生み出した悪の数式。教会では禁術認定された異端数術。
檻は開く、簡単に。一人を残せば開くように設定されている。
これは時間稼ぎの術じゃない。それだけじゃない。確実に、殺すための式なんだ。
囚人や奴隷を何人か入れて、誰が生きて脱出するか。つながれたモノはどのくらい生き延びるか。そんな賭をして遊んでいる商人がいたというのだから救えない。むしろ地獄に堕ちろ。誰が救ってやるものか。
何が酷いって、解けないレベルの数術使いでもこの式が紡げるのが始末に負えない。
そういうめちゃくちゃな式は円周率より奥が深い。いろいろ間違って作用して出来た偶然の産物を自分の才能だと言い張る勘違い術師もいるから困る。本当の数術使いっていうのは等号で結ばれた式から解を、解から式を完璧に組み立てられる者のことだ。その一方通行な力じゃただの公害だ。僕にとっては。そういうのの後始末のために優秀な数術使いが何人命を落としたか、数式を紡いだ人間は理解しようとも思わないんだろうな。
文字さえ書ければめちゃくちゃでも文章を作れるように、数術概念を少しでもかじれば存在作用の数式を使えるようにはなるのだ。まぁ、脳みそが沸騰しない程度の才能とか知識は必要だけど教会が生み出した公式が広く流用されているのは安全だから。公式には解も決まっている。だからイコール右左を変えることで壊すことも直すことも才能があれば出来る。でも、独学で生み出された私式はそうもいかない。
式は決まっている。だから何かを作ることはできる。こんな檻みたいなモノも。
ただ、作り出した本人もその解までたどり着けなかった。そんな数式が世界にはいくらでも転がっている。答えのない式、だから壊せない。この状態は式の途中。中途半端が意味を持ってしまった。
それが破壊のための式なら別にかまわないけど、こんな風に作り出したまま放置されるのは非常に迷惑。
こういうのを壊すには、解そのものを見つけ出すことよりも手っ取り早く、数式すべてを打ち消す式を紡ぐ方がよほど簡単だ。だけど、これは消費式。数術代償が半端じゃない。
全盛期の僕ならいくらでも壊せたんだろうけれど、今じゃ関わりたくもないっていうのが僕の本音だ。いっそのことこんな術作った奴も紡いだ奴も鎖につないでこの数式の中に放置してしまいたいくらいだ。立場上あんまり大きな声で言えないけれど、これも本音だ。
世のため人のためなんて聞こえのいい言葉のために命の安売りなんかしたくはない。神子なんて祭り上げられてはいるけれど、僕はこの世界自体を愛しているわけでも何でもなくて。むしろ憎んでいるといった方が正しい。罪を認めた僕でさえ、まだこの世界をそういう風には思えていないのだ。
(でも、だから。だからこそ、僕は)
命の安売りを厭わない。彼だからなんだ。彼ならこんな世界を変えられたんだ。変えられるんだ。……例え今度の彼が届かなかったとしても、僕はそれを憎んだりはしない。彼のために死んだことを、どんな結果になろうとも……僕は胸を張って誇りだったとそう言うだろう。
「ルクリースさん……」
僕は決めた答えを告げるべく、彼女の方へと振り向いた。
「これは、一人残れば……あの手錠に繋がれることで、檻が開きます」
聡い彼女はそれだけで、すべてを知ってしまったよう。その表情は優れない。
驚愕、反感、悲しみ。そういったモノが一瞬で彼女の瞳を通り過ぎる。そして残ったのは、諦観を超えた理解の色だ。話が早くて助かる。彼もこうだといいのに……と思いかけ、取り消した。僕は制約上いろいろ彼に言えないことが多いから、感づかれたら困るんだった、そういえば。
「追ってください、アルドールを。彼には、貴女しかいないんだ」
「イグニス様っ……」
せっぱ詰まったようなルクリースさんの声。
僕が今まさに手に付けようとしていたモノを、彼女は僕の手から奪った。
「…!?ルクリースさんっ!?」
アルドールを追いたい。でも僕をここに残すということは、僕の死。目の前の彼女がジョーカーでもクィーンでも、ナイトの僕じゃ勝てない相手。彼女はそう考えたのだ。
優しい人だな、と思う。彼女は僕も見捨てられないのか。こういうところは、彼そっくりだ。抱え込んだものを捨てられない。一回心を許した相手への、情を断ち切れないのが彼らの美徳であり……愛すべき欠点なんだろう。たぶんアルドールは……まだギメルの虚像を追っている。ちゃんと殺せるだろうか、今度こそ。殺してもらわないと困る。敵に優しさなんかいらないんだ。ちゃんと、その手で……息の根を。
不安になった、また少しだけ。彼に似たまなざしの彼女は、いつかの彼と同じ答えを導き出した。その答えは……自己犠牲。
「ここは、私がやりますから!貴方がアルドールを追ってください!」
女王同士なら、やり合える。仮にあれがジョーカーだったとしても……
「あの子は今頃後悔してる。貴方に追って来て欲しいはずなんです!アルドールには、貴方が必要なんです!」
そうだとしても、悔いはない。そんな力強い声。
歯車がずれ始めている。それがいいことなのか、悪いことなのか見えない僕にはわからない。盤の展開が早まっている。それでも駒はまだ、あの時より多い。願わくばそれが、あの未来を打ち破るためのものであって欲しいと、僕は思う。それを神には願わない。仮にすべてが救われるのなら、僕は悪魔にだって願うだろう。罪に汚され薄汚れたこの命なんか惜しくはない。それでも悪魔だってすべてを救うことなんかできないから、僕は彼に願うのだ。
ガシャンと、彼女を捕らえた鎖の音。重々しいその音に、道化師が僕らをせせら笑っているのが聞こえる。どちらを選んだとしても、だぶんあいつはそうしただろう。だって、どちらでも構わないのだ。
「へぇ……そっちの女王様がダンスの相手?」
道化師が指揮するように、指を振って三拍子。檻の中に現れる死者の群れ。腐敗臭の源たちは、肉はごっそりそげ落ちて……強烈な匂いだけこびり付いた白い骸骨。
どこかで来るとは思った。臭いはするくせにどこにも姿がないからおかしいとは思ったんだ。でも、これはまずい。
そうだ。彼女では普通に戦っても《死の舞踏》は倒せない。
あれは糸人形。奏者たるこの道化師が術を解かない限り何度でも甦る。数字の見えない彼女では、あの糸を断ち切ることも出来ないし、対の力で眠らせることも出来ない。
それだけでも頭が痛いのに、不安要素は山ほどある。僕が離れたことで、嗅覚麻痺の数式も直に霧散する。長期式にかけ直す手もあったが……もう僕は檻の外。内側には入れない。檻とはいえこれは結界。外からの攻撃を完全に防いでくれているため、外から僕は彼女を支援出来ない。そしてこれを破壊することも今の僕の寿命では怪しい。
ルクリースさんがあいつらに勝つためにも、この檻から脱するためにも幸福値が要る。幸運なカードの彼女が望めばそれは叶うだろう……でも、それがあいつの狙いなんだ。
「ルクリースさんっ……貴女は死なないっ!まだここでっ!」
己の失策に歯噛みしながら、僕は今できる最善を考える。そして壱の数術、正の言霊を解き放つ。なればいいじゃない。
保証なんて雀の涙程。それでも、そうなるんだと確信をその言葉に託して。
「神子様の予言、確かに聞きました」
今ではもう目にも見えない不確かなその先。予言と言うよりは予想とか、その程度のものだけど。
彼女にも言えない。でも、少なくともまだあいつは彼女を殺せない。塔が目覚めるその日まで、コートカードの大きすぎるリスクとメリット。長く楽しみたいあいつなら、まだアルドールは殺せない。だから、彼と同じクラブのコートカードを殺せない。大丈夫、きっと大丈夫だ。
(今なら、まだ……間に合う)
そうだ、こんなのでもあの頃よりはずっとマシなんだ。
ひっくり返されて堪るか。こんなにいい盤面はそうそうない。僕なら上手くやれる。今はまだ僕がプレイヤーなんだ。僕も盤上の駒一つに過ぎないことは知っているけれど。
*
イグニス様の姿が消えてしばらくして、あの腐敗臭が戻ってくる。それもそのはず。今の私は一つ屋根の下……どころか一つ檻の下……ていうか中、で同居しているわけだから。
こういう時は口から呼吸するのが一番。でもなぁ、鼻から吸っての腹式呼吸の方が気合い入るんだけどそういうことも言っていられない。
とりあえず私の両手がふさがってると近づいてきた能無しを回し蹴りで二体ぶっ飛ばす。ああ、脳無しでしたね。骨だし、相手。
女だからって嘗めてかかってくる奴は世の中嘗めているに等しい世間知らず。死んでもそれって情けなくないですか?と同情しないこともないけれど、そんな世間知らずだったから死ぬ羽目になったのかもしれないと思い納得。馬鹿は死んでも治らない、格言ですね
「そうだな、彼の読みは正しいよ。私はまだ貴女を殺したくはないし」
読心術だか千里眼か知らないですけど、なんか人の脳内思考に加わってきた人がいる。しかもなんだかとっても失礼な言い方。貴女なんかお呼びじゃないんですけど。まぁでも黙々と単純作業してると腹式呼吸に切り替わり強烈な腐敗臭にやられてしまうので、会話というのも悪くはないかも。必然的に胸式呼吸になりますし。それにしても……
「……あら、あのお兄ちゃん……括弧はぁと括弧閉じ口調はもういいんです?」
目の前の女はお兄ちゃん(仮)ことイグニス様が消えた後、すっかり猫かぶりは止めたようだった。男の前だけで裏声使うような女はろくな奴が居ない。大抵裏でろくでもないこと考えてる。もしくはただの男好きの遊び人か××××か。平たく言えば×××ってことでしょうね。まぁ、私が言っても自虐ネタにしかならないので口には出さないでおきましょう。それにしてもなんて恐れ多い。聖教会の神子様と同じ顔を模っておきながらそんな底辺女を演じるなんて。
「あー……あれね。別にご希望とあれば続けてもいいんだけど、意味がないことはしたくないから」
「意味のないこと、……っ、ですか?」
「うん。だってああ言えば彼は凄く嫌がるだろうし」
嫌がらせとは……やっぱり性悪、腹黒だったか。こんなのに目つけられるなんてアルドールったら何やってるんですかね。まぁ私の弟だし可愛いから仕方がないですけど。いや、冗談ですけど、いや……半分くらいは本気ですけど何か?ああもう可愛かったなぁ……あの子お化けとか苦手みたいで、馬車での旅疲れ忘れ怪談大会(発案、主催、火の玉演出フローリプ)でも、今日も暗いところも駄目みたいで廊下歩いてた最初の方なんかこっそり私のスカートの裾とか掴んでたなぁ……アルドール、アルドール、今何してるのかしら。イグニス様ちゃんと追いついたでしょうか。
(って心配すぎんだろぉがあぁぁああああああああああああああああ)
心配と焦りとやるせなさを込めた上段蹴り&反ひねりで両腕旋回。おー……飛んだ飛んだ、人間(骸骨)ドミノ。巻き添え食って飛んだ骨達はそのまま不可視の壁にぶつかってけたたましい音を上げながら床に散乱。死者に鞭を振るのはどうかと思いますけど、正当防衛なら仕方ないですよね。襲ってくる方が悪い。
しかし骨の癖に骨のない奴らばかり。この私相手に素手って本当馬鹿にしてる。殺す気がないの?
ちらりと檻の外へ向けた視線。《身代わりの檻》の外から夏休みの自由研究よろしく蟻の観察か昆虫バトルを見守り観察日記でも書いてる子供みたいに、水の聖杯女王様(仮)はにこにこと微笑みながら、こちらを見ている。
それに私は確信する。これは時間稼ぎ、それか足止め。あるいはそのどちらをも兼ね揃えているのか。
「ねぇクラブの女王様、貴女は彼が誰だかわかる?」
女がそんな風に聞いてきたのは、私がこんなことを考えていた頃でもあり……
(ただ倒すのも飽きてきたし、サッカーとか足ボーリングの要領でやっつけられないですかね。スカッとしそうですし)
同時にこんなことも考えていた時でもあった。相手の話を話半分に聞いていたわけではないが大まじめに聞いていたわけでもない。だから前後の文脈から私は彼女の言う“彼”とは誰を示すのか首を傾げることになる。
「……さぁ、どちら様のことですか?」
それを好都合と私はどちらにも解釈出来るように返してやった。それに対し相手はくすくすと意味深に笑うだけ。
(もったいぶりやがりますね……こういうお預け女は嫌われますよ。あんまり軽いのもあれですけど)
まぁ、相手の身持ちの堅さとかフットワークの軽さとかは私にとってはどうでもいいことなのでこの際スルー。そんなことより私としてはこの女王様(仮)が何を企んでいるのかを突き止めておきたい。だからこの骨っ子達を、あんまりさっさと倒してしまっては困るのだ。引き出せる情報は引き出しておきたい。こいつの精神に揺さぶりをかけるためには、もう少しを観察しなければ。
あの女王様が私を見ている様に、私も彼女を見ている。これまで私は生きてきて、結構な数の人間を見てきている。様々なタイプの人間、そしてその悪意とそれが向かう先。そういったものをよく観察してきた。だから最初にこいつを見た時……船の中。あの時感じた得体の知れなさ。それをこれ以上先延ばしにはしたくない。今ここで突き止めたい。それがアルドールのためなんだ。
理解しなければならない。思考を完璧にトレースする。そしてこいつの次の手を読む。もっと、もっとだ。まだ、足りない……こいつの情報!
だけどあんまり長引かせてしまって連続戦闘に響くことになっても困る。だから私はウォーミングアップってキリのいいところで骸骨達を仕留めたい。
さてさて、ここで一つ問題が。イグニス様みたいな数術が使えない私がこいつらを倒すには、どうすればいいだろう。教会で蹴り飛ばした奴らと構造自体は同じと考えてまず間違いない。
「神子イグニスのことだよ。貴女の大事な弟が友と慕う男のことだ」
「イグニス様はイグニス様。不本意ですが貴女の言った言葉通り、一字一句違わずその通り!アルドールの大切で、頼りがいのあるお友達です」
「どうだろう。彼はそんなに信頼に足りる男だろうか?貴女だって彼を疑ったんじゃない?彼が私なんじゃないかって」
「どうせ貴女の姿は幻覚でしょう?」
「そうかな。正直なところ私……いや、もう止めようかな、意味もないし。そう……“僕”もよくわかってないんだ。君たちが僕をよくわからないのと同じようにね。クラブの女王様、君には僕がどう見える?」
口調ついでに一人称まで変える彼女。僕なんて……そんな風に言うと、ああ、よく似ている。声まで彼を模している。
だけど私は目に見える物だって偽りがあると知っている。信じない。私に見えない世界ごときが、私の世界を歪めるな。数字?数術?そんな魔法みたいなもの。
信じない。私が信じるのは……私が信じたい人だけ。私はイグニス様を信じた。彼の言葉を信じた。だから同じ顔のまやかしが何を言ってもすべては戯れ言。それ以上の意味なんか持たない。持たせない。
こいつの狙い……ただの時間稼ぎじゃない。これは、洗脳。私に誤認をさせたい。そして味方同士殺し合わせたいんだ。それなら聞くだけ無駄。
「失礼ですけど私今忙しいんで!貴女の放り投げた骸骨さん達の相手!なんですかこの起き上がりこぼし作業。時給の発生しない労働はあんまり好きじゃないんですけど!これならまだ半日かけて穴掘って半日かけてそれ埋める方がよっぽど有意義ですよ」
「雇ってあげようか?一日百万シェルでどう?帰宅前に手取りで一括」
「あら、短期がっつり高収入っ!」
「穴掘って埋める前に貴女がそこに埋まってくれるだけでいいんだけど」
「貴女の正体実はセネトレア人だったりしません?払う気ないですよねそれっ!大体半日以降埋まってる人間がどうやってそれを埋めるって言うんです」
「ああ、それは他のバイトの子が埋めてくれるから安心していいよ」
「お言葉ですがっ!」
私は何もただこの女と談笑していたわけではない。私をナイフ投げだけの女と侮るなかれ。手錠なんかで私を縛れると思ったら大間違いです。
私の足下にはバラバラに散らかった骸骨達。どれが誰の骨なのか私にも本人達にもわからないくらい混ざり合っている。リアル死屍累々ってこういうことでしょうか。
「そういうわけにも参りません。私の主人はカーネフェル王アルドール。一国の主を相手に二重契約は罰金どころの話じゃありませんよ」
「へぇ、流石はコートカード……やるね。あんなに送り込んだのにもう片付けたんだ」
ざまぁみやがれと胸を張る私を素直に褒める相手。純粋に驚いているみたいな口調。その様子がたまにあの子を褒める彼に、凄く似ていて嫌だった。
「それ生きてるときに食らったら痛いって話じゃないな、間接部分の骨複雑骨折通り越してる。粉砕骨折?」
彼女の操る骨人形こと骸骨は大小様々なものが組み合わさって出来ている。それが組み合わさる場所さえ壊してしまえば、いくら甦ってもどうしようもない。
糸を切ることはできなくても、人形そのものを手から足から首から胴体から全部バラバラにしてあげればいいだけ。教会ではこいつらが骨だって知らなかったら後れをとったけれど、今回は生きた人間の幻覚オプションは付けられていなかった。だったら楽勝でしょう?
生憎セネトレアを生きてきた私にとって死者は恐れるに足りない。本当に怖いのは生きた人間。何時だって生きる人に害を与えるのは生きた人間。物を盗むのも、命を奪うのも呼吸をしている人間だ。
だから殺される前に殺さなくては。息の根を止めなければ。目の前の相手も、生きているからアルドールを傷つける。だから私がこいつを殺す。そうすればこいつはもうあの子を傷つけない。
「お望みとあらばその首、私の足で吹っ飛ばして差し上げましょうか?運が良ければ死ぬ前に一瞬スカートの中身が見られるかもしれませんよ?すぐ後に違う天国に行けますけど……ああ、失礼しました。貴女ほどの方なら地獄ですよね」
「一つだけ教えてあげようか?」
「意味のないことはしないんじゃありませんでした?」
「そう。だからこれはちゃんと意味があるよ。貴女にとっても“僕”にとっても」
そうして相手は教会での彼の言葉を同じ声でなぞり出す。
「彼が言ったように、“僕”はギメルじゃない」
「……え」
その言葉は私の思考を一瞬止めるには充分だった。
(まずい、油断したっ!部分でも操れるの!?)
肩を壊した。手だけでは歩けない。そう思ったのが間違いだった。
運良く指が五本とも残っていた腕。伸ばされる死者の白い手。見える、でも間に合わない。私はこれから襲う不快感を覚悟して、最後に息を吸う。
「僕は探してるんだ。それはアルドールじゃない。僕が探しているのはこの姿の、本物のハートの女王」
「貴女に敬意を表して教えてあげるよ、僕の名前は……」
*
我に返ると、俺の前には離れていた重ならない風景が真ん中で合わさった。
家具の配置も違う。あの日のままそこにある景色に重なるのは、埃かぶっていたり倒れていたりどこか欠けていたりする調度品。
戦場よりももっと酷い腐敗臭に気づき、右と左のどちらが現実なのかと尋ねられ、答えを眼前に突きつけられれ聞かれればそれを真実と受け入れざるを得ない。
しばらく惚けているうちに、アスタロットの姿は消えていた。あの女の姿もない。
俺に言いたいことだけなんだかんだ言うだけ言って、さっさとどこかに退散したようだ。
しかし何考えてやがるんだ、あの女。
(アスタロット……)
首に触れた冷たい手、触れたら折れてしまいそうな白い骨。それが力一杯俺の首を……
締めているあいつの方が苦しそうだった。あいつの指の方がどうにかなってしまうんじゃないかなんて……心配なんて、お門違いだよな。今更……俺が。
ずっと逃げていた。一度も墓参りなんか来られなかった。どんな顔をしてあいつの墓前に立てばいいのかわからなかった。
はぁと溜息を吐いたと同時に、治ったはずの痛みが瞳の奥でズキズキ鈍い痛みを発し始める。
精神的なモノだとわかってはいるが、右目をいつものように眼帯で隠したくなった。けれど今ある景色を知ることが出来るのはこっち。見えるモノを見ない振りして、過去の幻想に囚われ今に躓くわけにもいかない。
だからといって、大嫌いなその目をそのまま外気に晒す気にもなれず、水気を吸って大人しくなった前髪でそれを隠し、客室を後にする。
薄暗い廊下。それを普通に歩けるのは、俺の右目が夜目だからなんだろう。普段闇に閉ざしている分、こういう時だけ重宝できる。
廊下にまでこびり付いた腐敗臭に、俺はシャラット領侵攻時のえげつなさを知る。あの部屋では誰も死ななかったんだろう。ここまで酷くはなかった。
ここを親父が攻めたのは三年前か。
カーネフェル王も親父もサラマンダーも教えてくらなかったが、都で貴族たちにいろいろ言われてたから多少は知っている。
嫌味をスパイスに脚色、誇大誇張した話だったしどこまで本当かはわからなかったが、これに関してだけは完全な間違いってわけでもなかったようだ。
籠城責めには確かにいい手だとは思う。侵略者のタロック人共にやるんだったら俺も反対しないだろう。
だけどそれを同じカーネフェル人に、それも仮にも息子の婚約者の家にやるってどういうことだよ。まともな神経してるとは思えない。それが血の繋がった実の父親だと思うと溜息も尽きない。
そして失った分の空気を取り入れようとして、腐敗臭まで吸い込んで……死者の無念が俺の内側で暴れまくる。その気持ち悪さを必死に押さえて歩いていくが、思考は後ろ向きになってしまうのは否めない。こんなに臭う腐敗臭の立ち籠めるところを歩いていて今日の夕飯のことを考えてウキウキ出来るような奴はそれはそれで馬鹿だと思うが、生憎俺はそんな稀な才能はないらしく、一歩進むたびに気持ちが沈んでいく。ていうかこれが普通だ。
それでそんな普通の俺は思うわけだ。会いたくないなって。あのガキ(アルドール)にも、メイド女にも。
「苦手なんだよな……あの色」
カーネフェル王の血縁だというあの二人は海みたいな真っ青を瞳に宿す。青空色の俺の左目。それよりもずっと色素の薄い水色の右目。俺が欠陥品たる所以の目。あいつらの側にいるとそれだけで苛立つ。貴族らしく王族らしく威張り腐ってくれていればこっちとしても正当に苛立つことが出来るのだが、あいつらはなんて言うか……そこら辺の一般人みたいな雑草オーラってか、そんなどこにでもあるような雰囲気がある。その癖目だけ立派な色しやがって、雑草の癖に自己主張をする。それがなんだか不愉快なんだ。
でもそれはあっちに非がある苛立ちではなく、俺の劣等感から来るモノだからいまいち怒るに怒れない。それでムシャクシャして、結局俺が怒る……が、なんだか腑に落ちない感じが残る。それが気に入らなくて……それがエンドレス進行するわけだ。
そんな時分を馬鹿みたいだとかガキ臭ぇとか思わないでもないが、人がどんなにほしがっても手に入らないモノをそこらの踏まれ潰されかけたような雑草がしっかりちゃっかり持ってたりするのがいけない。よって悪いのはあいつだよな。以上のことにより俺は悪くない。
まぁ、あいつらもあいつらでいろいろ大変だったみたいだけどそのあたりに酌量余地なんかとってやる義理ねぇし。カーネフェリアの癖になんであの女はメイドなんかやってるんだとか、あの三つ編み野郎は奴隷商に流されて脳みそ弄られたみたいだとかなんだとかあるみたいだけど。ていうかそんなわけのわかんねー奴を玉座になんか据えて大丈夫なのか?心配要素しかないような気がする。このまま放置しててもこの国滅ぶだろうが、あいつが居るから持ち直すとも思えない。
大体あの神子って奴もいまいち信用出来ない。シャトランジアの秘密主義も結構だけどな、何企んでるんだか、怪しいったらない。アルドールの奴があの神子に心酔しまくってるのも不安要素だ。何でもかんでも言うことを聞く王を玉座に座らせて、シャトランジアがカーネフェルを乗っ取るつもりなんじゃないか?別にこんな国どうなろうと俺の知ったことじゃない。優しかったおっさんのいない国に俺は未練もクソもない。そんな俺の心残りは……
(アスタロット……)
神子そっくりの数術使いに言われたこと。
俺の罪。彼女の言うよう……この惨状こそが、俺の罪。
俺さえいなければ、こんなことにはならなかった。
俺が一言愛していると、そう言えたのなら……親父はあんな強引な手段に出なかっただろう。家の道具という立場を受け入れて、プライドひとつ捨てられたなら……たぶん、きっと。
彼女は何も残せなかった。ただ生まれ、ただ死んだ。そこに生きた証もない。だから俺がその証になった。彼女を忘れることはもう一度彼女を殺すこと。だから俺は絶対に彼女を忘れてはいけないし、そう簡単に死んでもいけない。
名誉も地位も金も要らない、そんなもので命を繋げるのならいくらでも捨てよう。蝙蝠でいいんだ。危なくなったら移動する。そうやって渡り船を飛び移り、生にしがみつく。
それが彼女に報いる唯一の方法だと信じていたんだ。
彼女を知る人間は少ない。身体が弱く屋敷にこもりきりだったし、第一彼女は欠陥品だ。
この家が滅んだときに多くの家族と住民は殺された。彼女を知っているのは俺と処刑から逃れた僅かな彼女の姉妹が何人か居る程度。その中のほとんどが、同じ家で育ちながら彼女の顔を知らない者も多い。見たことはあってもその顔を思い描ける者なら皆無に等しい。かくれんぼが得意。そう言っていた彼女。
それは、息を殺すこと。気配を消すこと。……存在を他人に気取られないようにする術に長けているということ。
会ってはいけないのだ。お互いのために。それを学んだ彼女の自己防衛。会えば向こうは不快になり、心ない言葉を贈る。それにこっちは傷つく。だから会わないのが一番いい。
彼女の母親も俺の母親も、家の恥である欠陥品を人目に晒すことを嫌う人間だった。
生憎俺の方は彼女と違って、かくれんぼではなく脱走の才能に目覚めてしまった。ついでに言えば縄抜けとか鍵開けとか、貴族らしかぬ特技ばかり身についた。
俺が来るたび彼女は本当に嬉しそうに笑うんだ。話したこともない兄弟たちのことをよく見て知っている風に、毎回毎回その時節の違う話題を提供してくれた。彼女の話術の巧みさに、それはとても面白く聞こえるのだけれども。
でも、やっぱり俺たちの会話はどこかおかしかった。子供の俺がそれに気付くくらいには。
俺たちは家族との会話がほとんどないから、彼女の話は彼女の主観に限定される。彼女が何かを見てそれを思ったこと、聞いたことから考えたこと、そんな風な語り。誰かと話をし、その誰かが彼女にくれた言葉を俺に話すと言うことは、まず……起こりえないのだ。変わらない視点に違和感を感じることがあった。俺には居て当たり前みたいなランスのような存在が彼女には欠けていた。
彼女は遊びに来た俺を楽しませるために、面白い話をしようと思うらしいのだが、そこには彼女が含まれない。髪の話も、たぶん彼女の作り出した創作。もしくはそんな夢でも見たのかもしれない。それをさもあったことのように俺に語ったのか、そんなこともあったのだと信じていたのか。
以前顔を合わせたシャラット婦人は、そこまで彼女に関心を持っていないように見受けられた。遊びに来た俺と彼女の部屋に外から鍵をかけるような母親だ。帰宅時間が来るまでそこから動くなと、客に対してあんまりなそういう仕打ち。
彼女の話は面白いけれど、それに笑うことで彼女を傷つけているような気がして、何時からだろう。俺の方が一生懸命話すようになったんだ。
実家にいた頃は無理だった。話せるようなことがなかった。たぶん都に来てからだ。近場になったし任務帰りに顔を出したりすることが増えて。
実家になんてほとんど帰らない俺が話せる内容なんてランスがまた変な料理作っただとかランスの育て親の精霊がまた魚送り付けてきただとか、おっさんの案がまた議会で却下されただとかそれでおっさんが城で肩身狭そうで俺が鍵開けで夜中こっそり気分転換に連れ出して遠乗り行っただとか、その時起こしたものの寝起きで機嫌が悪かった俺の馬に蹴られただとか、あとサラの奴が目あけたまま居眠りして無言門番やってたら怖くて誰も通れなかったり声かけれなかったらしく兵士達が俺に何とかしろって言ってきたりとか…………
…………言ってて空しいが、俺の話す内容にまず家族は出てこない。五割が従兄関連……
まぁ、身近にいるしあいつよく真顔で馬鹿やるし話のネタになりやすい。それから二割が砦の奴ら。生活圏だから話題になりやすいってことだろうな。
そんで残りの三割がおっさん……大体そんな内容だ。一応恐れ多いってことでよっぽどの話じゃなきゃネタにするのは悪いと思って自重していた。自重しても三割ってあのおっさん……本当ネタに尽きない人だった。絶対上手くいく……だけの力はあるのに、何やってもなんでか上手くいかない。本人曰く王位後継者に生まれて玉座に着いたことで一生分の幸運のほとんどを使い切ったに違いないとか。最初はまさかと笑っていたが、だんだん俺もそんな気分になってくる程、何やっても駄目だった。たぶん百回賽子を振ったらその百回とも一しか出ない。
国に関わることなら笑えないが、日常の些細なことなら笑い話にもなる。だからか?なんか憎めない人だった。そんなコントみたいな馬鹿を素でやる人だった。それにうっかり吹き出してしまった奴がいて、取り押さえられ剣を抜いて無礼だ無礼だ処刑だ処刑だと騒ぎ立てた後、「……なんちゃって」と言い出したりする。
三十超えたおっさんが言う台詞かよとかぼそっとつぶやいた無礼すぎるツッコミが聞こえていたらしく、何を血迷ったのか俺の階級上げられたし。ちなみに吹き出した空気読めない奴がランスだったな確か。それであいつも気に入られたってんだからよくわからない。
でも二番煎じは嫌いらしく、故意的な仕掛けは二度と行わない。戦争のない期間はよほど暇らしいなカーネフェル。他にやるべきことあるだろうがとかいろいろツッコミを入れてみたかったが、おっさんはお飾りの王だったから……やることがないんじゃなくて、何にもやらせてもらえないってことだったんだと後に知った。
陽気な人だったな。あんなうじうじしてるアルドールがあのおっさんの血縁とは思えない。血縁って言ってもたぶんあれだ。凄い末端の遠くの遠くの向こうの隅っこの一番下とかそういう奴に違いない。そんなんでカーネフェルを継ごうっていうんだから王位簒奪ものだ。
……っと、まぁ普段あんまり喋れないせいで喋り出すと止まれない。どこで区切っていいものかわからない。そんな俺のせいですっかりアスタロットは聞き上手になってしまった。
彼女の聞き方が上手いからだろう。俺が従兄以外と長時間話すってことはあんまりない。大抵俺が途中でふらっとばっくれる。面倒だし付き合ってらんねーし、付き合う義理もねーし。……ん?いや、従兄とだってそこまで喋らない。会話っていうかあれはただのツッコミだから。あいつがボケてるのを俺が解説してるようなものだからな、あれは会話ともちょっと違うよな。ってことであいつは却下。会話なんて崇高なものじゃない、あれは役割分担みたいなものだ。カーテン開け係とか、施錠係とか食事当番とか。その程度だ。誰も引き受ける奴がいない……つか、ボケ殺しが多すぎて誰もツッコミをする気力がないんだ。従兄の顔がいいからってそれだけであいつの天然ボケを肯定する奴のなんと多いことか。あーもう見てらんねぇ!ってことでがーっと片っ端からツッコミを入れるんだが。なんつーか、係っていうか……癖だな、習慣?って今はそんなことはどうでもいいわけで……
「…………何やってるんだ、俺」
前言撤回だ。よっぽどの馬鹿じゃないか俺。腐敗臭の中で何こんなどうでもいいこと考えてるんだ。
「これも……癖、なんだかな」
過去の空気に触れ、彼女と語っているような気分になる。あれから三年、いろいろなことがあった。話したいこともいろいろ増えた。それを誰にも話せないまま、俺の内側に降り積もっていったから。気がつけば心が彼女と昔を求め、視界が瞼の裏の幻想を追っていく。
俺の利き目は左。歩き辛いったらないが、今は弄られてない方の右目で歩いてる。必然的にまやかしの映る利き目は邪魔なわけで頭痛を抑えて歩くためには瞑るしかない。眼帯で覆っても良かったが、左右場所の変わった眼帯の理由をあいつらにいちいち説明するのが面倒。あいつら絶対聞いてくる。特にあのメイドは絶対聞いてくる。三つ編み野郎は聞きたいけど聞けないけど聞いていいなら教えて欲しいとかそんな風に顔に書いてるおせっかいな詮索好きが覗いてる。ああいうタイプに関わるとろくなことがない。話しても絶対何も解決しない、でも聞きたがる。首つっこまれたこっちはいい迷惑だ。あの神子あたりに持ち上げられてて見えるものも見えなくなっているんだろう。大した力もない癖に、自分に何でもかんでも救えるとでも思ってるのか?救う義務でもあると思ってんのか?そういうところが変なんだ、あいつ。
従兄もそういう傾向はあるけど、あれは逆だ。力があるから守る義務があると信じてる。ランスの優しさは力の鞘。騎士にとっての力が剣なら、騎士道って奴はその鞘だ。戒めとか縛めとか言ってもいいかもしれない。力を得た人間の多くは歪んでしまうから自分を律する必要がある。
でもアルドールのそれは……なんだろう。消えかけそうな蝋燭の炎?そんな頼りない物。それならあいつはマッチ売りか何かか?人々に暖を与えようとそれを配るんだけど、薪の一つも持ってはいないからすぐに炎は消えてしまう。それであいつはどうするか。なくなるまでそれを配り続ける。そしてそれがなくなったら?たぶん、共に凍えるのだろう。今日は風が冷たいですねなんて愛想笑いで隣に座って。そうして名前も知らない人間の側で凍死するに違いない。要するに馬鹿だ。ただの馬鹿だ。いや……とんでもない馬鹿だ。
見返りを求めない好意を与える人間なんかこの世には存在しない。ランスの鞘だって結局は自分に返る。あいつは自分のために他者を救っているに過ぎない。
そんな者が居るとしたらそれは人間じゃない。それ以外の何かだ。だからあいつからは、人の温度を感じない。
悪い奴じゃないのはわかる。でも、脳を弄られたあいつはきっと……人じゃなくなっちまったんだ。
ほっといて欲しいってのに俺の側に寄ってきて、俺と従兄の問題に首つっこんできたりして。解決してくれるわけでもなく……ただ、話を聞いてくれるだけ。それで何が変わったって?何も変わらない。変わらないはず……
(でも……)
そんな風にわざわざ俺と話をしに来た人間なんて……いただろうか?
窓の外。重なるはずのない二つの色の髪が、過去と現在の狭間で揺れた。
*
どうして俺がここにいるんだろう。
それは幾度となく繰り返されてきた問い。幼い頃、あの家の中で。何処かで、従兄の側にいる時に。
どうして俺はそこにいなかったんだろう。
先の疑問と同数繰り返された問い。物心ついた頃、日常の輪を外から覗き込みながら。あの日、彼女を失った時。
二番目のどうしては、いつも結局同じ答えに辿り着く。それは……俺では駄目だから。
「お、おいっ……!」
窓から見えた拓けた風景。中庭で、倒れ込んだ金髪。
あり得ないことだけどそれが一瞬彼女に見えて。雨にも構わず俺はそこまで走った。
某々に伸びた雑草をかき分け、その姿が確認できるところまで来て、それがまったくの別人だと俺は知る。別人と言っても、俺の知るそいつとも別人のようなその有様。
雨水に体温を持って行かれてる。顔色が悪い。
「お前、何やって……」
彼の身体を揺すり、起こそうと手を伸ばし……俺はその鈍色の存在に気づく。深々と背後から差し込まれた凶器。顔色が悪い?それどころの話じゃない。この水、……赤い。墓地で見た、あの幻覚みたいに。
こいつと、アルドール達と別れたのは何時だ?日は沈んでいない。ということはまだ一応は昼。あの幻覚がどのくらい続いたのかは量りかねるが一、二時間……そのくらいが妥当な線。その間に何があったんだ?
ああ、違う。そうじゃない。そんなことを考えてる場合じゃない。そうは思うのに……
眼前の死への階段。それを下っている人間に、俺は取り乱している。
そんな頭が思うことは、俺じゃなくて従兄だったらこれを治せるのに。ああ、“どうして俺がここにいるんだろう”?
応急処置で間に合うのか?つか、大体あの感じの悪い神子と口うるさい女はどうした。あいつら背後霊とか生き霊みたいなレベルでいっつもべったりくっついてる感じじゃなかったか?それだけの何かがあったってことだろうか。
見た感じ、やばい。刃先が見えない。これは殺すつもりで差し込まれたもの。それでもまだ息があるってことは急所は外した。つまり相手は素人か。この辺りに数術の気配はないからただの刃物なんだろう。毒なんか仕込まれていた場合俺には解毒なんて出来ないってお手上げだった。
しかし背中からこんなの食らうだなんてこのガキ、間抜けにも程がある。剣囓ってんなら殺気くらい読めるようになりやがれ。いや、エルス=ザインとの戦いっぷりは滅茶苦茶だった。型も流派もあったもんじゃない。数術の炎を出せるから何とかなってるだけで、あんなの騎士の俺から言わせれば剣とは呼べたものじゃない。
「………ったく」
なんて責任転嫁をしているわけにもいかない。このまま捨て置くのは目覚めが悪い。助かる命、助けられる命。自分との天秤ならそれは選ばない。
でも今の俺は安全で、出来ることは何かあるはずで。面倒臭ぇと口は独りごちるが、身体の方は勝手に救助を始める。取り敢えず患部を圧迫しないよう慎重に半死人を抱き起こす。止血するにも手当てするにもこんな雨ざらしの庭じゃ駄目だ。
これは俺の自己満足。見返り無しの善意なんて面倒臭ぇことを俺はしない。後からきっちり恩に着せてやる。そうでもしないと割に合わねぇよ。
ランスの奴も自分の居ないところで二度もカーネフェル王を失ったら、敵軍に討ち死に覚悟で挑むとかそんな無茶し出すに違いないし、ユーカーお前が付いていながらなんだのかんだのまた言ってくる。
厄介ごとばかり持ってくる死に損ないの少年を一発蹴り飛ばしたい衝動に駆られるが、それが決定打になって死なせてしまったらこれまたいろいろと面倒臭い。
「くそっ……死んだらぶっ殺してやる」
文脈が破綻しているが、そう思ったのだから仕方がない。
そんなことより、だ。これ以上うだうだしてるとこいつ本気で死ぬかもしれねぇ。どこへ運べばいい?きちんとした手当の出来るような……
(……Aって、疫病神か?)
一番行きたくない場所。でも俺が考え得る限り、もっとも医療品の整っている部屋。
彼女は病弱だった。……だからもしもの時に備えて、いろいろ手の届く場所に常備されていた。
そしてここは中庭。彼女の部屋は、ここからすぐ。俺が目指すは、今は亡き……アスタロットの私室。
仕組まれているような薄気味悪さを幸運と感じるならば、こいつか俺はよほど悪運が良かった。いや、良くもないな。俺はこんな七面倒臭い役回りをさせられて、こいつはこいつでこんなところで刺されてぶっ倒れてるんだから。俺は進みたがらない足を無理矢理ねじ伏せ歩みを進めた。
そうして辿り着いた彼女……アスタロットの部屋。
アスタロットの部屋は変わっている。外に鍵がある。外から彼女を閉じこめていたのは事実。だけどそれは元々そうだったわけではない。だから他の部屋同様、内側からも施錠を行うことは可能。
鍵は二つ。その二つともが外にあるわけではない。
内側と外側に一つずつ。その両方が彼女の外出を許可しなければ彼女を外へは出さない仕組み。内側に閉じこめられると鍵開け縄抜けエキスパートな俺でも少々手こずる。……というより不可能だった。外の鍵は扉自体に付いている鍵なら内側から弄っても開けられるが、チェーンで封印されているこんな鍵じゃ、手持ちの道具じゃちょっと無理……大分無理、……絶対無理。手が届かないんじゃ話にならない。長い針金なんかこっそり忍ばせ遊びに来ても、鍵穴から覗くだけでそれを施錠できたら苦労しない。まぁ、そんな鉄壁の扉も今日みたいに外側からだと簡単に開けられる。怪我人を背負ったまま片手でだって余裕余裕。さっさと外の鍵を解錠した俺は、もう一つの方を確かめる。内側の鍵はかかっていない。それならばと、それを開け放とうと急ぐ手と心を止め……俺は扉の向こう側を読む。普段からいろいろと見えないようにしてる分、気配を読むのは結構得意。それを駆使して覗いた室内。その中から生きた者の気配はしない。よしと決意し扉を引こうとして……手が止まる。
それは不安だ。さっきのむき出しの骨になった彼女が生きた者だとは思えない……だからそこまで俺の感覚が研がれているかは自信ない。もしいた時は……その時はその時だ。戦うのか、死を受け入れるのか、わからない。
だから、その時もその時だ。その時になってみなきゃわかんねぇ。だって俺は自分が何を感じて何を思ってここにいるのか、よくわかってないんだ。
ただ何となく、或いはどうしようもなく。俺は俺であることをずるずると引き摺って生きて来た。だから……それを終わらせるというのも悪い話じゃないようにもさっきは思った。
あの言葉が他人の創作だったのなら、俺はこうやって生きている意味すらなくなる。どこかほっとしたような気持ちもある。あの約束がなくなれば、俺はランスを殺すことを考えずに済む。さくっと退場するってのも悪くないかもしれない。後はどうにでもなれ。死んだ後のことまで心配してられっか。
(もう、投げ出して……楽になってもいいのか?)
生きて苦しむことが償いだと思っていた。でも、苦しんで死ぬことが償いだと彼女が言うならば。
「何をぶつくさと。こんなところで死なれては僕が困る」
なんかいろいろ悟りかけてた俺の心を全否定するその声。突然あがったそれに、俺の心臓が跳ね上がる。後ろから脅かすなんて、こいつ俺を殺す気か!?この際殺気がどうとか気配がどうとか云々はどうなったとか自分につっこんでみる。空気中に残るピリッと走る電気。耳鳴り、頭痛。こいつ数術でここまで来たな。現れたのはあの数術使いと同じ顔、同じ色、同じ高さの少年。お前何様だってくらい偉そうな不遜な態度に俺に対するありありとした嫌悪の色。ああ、こっちは女じゃない。神子の方だ。
「み、みみみ神子っ!?どっから来やがったっ!?脅かすな馬鹿っ!!」
「さっさと開けてください、そこの半死人が完死人に進化していまいます」
「お、おう」
こんなちっこいガキに気圧されるなんて。それを屈辱と思う暇もないことを俺は思い出す。そうだ、今日の俺はひと味違う。オプションで死に損ないを抱えてるんだった。独白とかモノローグなんかやってる場合じゃねぇぞ。
数年ぶりに触れた扉は、俺を出迎えるようギィと声を上げて後ろへ下がる。簡素なベッドに古ぼけたお下がりの調度品。メイドの部屋だってもう少しマシな設備が整っているだろう。
あの女に見せられた生きた彼女との会話。その半分くらいは本当に言われたこと。だけどあれは虚実を織り交ぜた創作幻想。彼女が使用人に命令なんかしたことも、自由に居間を使うことを許されたこともない。さもこの館の主のように振る舞う彼女は、たぶんきっと……俺の夢。
だからこれが現実。豪華とは言えない。それでも……ここが暖かく感じるのは、ここは彼女の生きた空気。その残滓が感じられるから?
主の居ない空間。それが俺を拒絶する様子はない。右目も閉じれば、……聞こえそう。左目には見えて居るんだ。あの日と変わらない景色が。
(え……)
見えてる。右目にも、見えてる。右と左の景色がピタリと重なって……
その刹那、俺の視界がガクンと揺れる。違う。揺れたんじゃない、落ちたんだ。
「なっ!?」
見下ろしていたはずの神子と同じくらいの高さにある視界。急激に重く感じ始めたお荷物男。
「……んだこりゃあああああああああああ」
それでも俺は偉いと思う。こんなに動揺して叫びながらも荷物を落とさなかったんだから。
でも何これ。手ちっせー……背を比べるよう俺と神子の頭で交互に手を動かすが、空振り、空振り、エンドレス………同じ高さってことないだろ?!同じっつか俺の方が若干低い。髪のハネで競り合ってるようなもので……
そんな俺の外見変化に神子も驚きを顕わにしている。
「時間数術!?代替変換式!?」
「標準語で喋れ!」
取り敢えず混乱してても縮んでも俺のツッコミは機能しているようだった。
「……っち」
「おまっ……今舌打ちしたろ!?聞いたぞ俺っ!」
「五月蠅いな、ジャック風情が」
「な!喧嘩売ってんのか!?」
気が長くないのも変わっていないあたりから、変わったのは外見だけだと推測してみる。そんな俺に神子は言う。
「セレスタイン卿、貴方はあいつに会いましたね?僕と同じ顔の人間です」
「そん時に……何かされたってのか?」
「……でもあいつは壱の数術を使えないはず。代替変換なんて零の術師が使えるはずないのに」
「無視すんなっ!」
「そっちこそボサッとしないでください!さっさとアルドールそこに寝かせて!」
「あ、わ……悪い」
半ば条件反射のように神子に言われるまま荷物を彼女の寝台に下ろした後、俺は心の中で手を合わせる。ごめんアスタロット、こんな血まみれ野郎に使わせて。
棚やら引き出しを開け、消毒液やら包帯やらの位置を確認してみたが……やっぱりあの頃のまま。使うだろうかと尋ねようかと思ったが、どうやら邪魔のよう。神子は治療を始めるみたいだ。
ちらりと視線を向けた死に損ないは生きてるんだか死んでるんだかよくわからない顔色の悪さ。その半死人から神子はためらいなく刃を引き抜いた。吹き出すだろう血に俺は身構えるが……不思議なことに血は出てこない。代わりに肌をチリチリ走る微弱な電流気配。今俺のすぐ側で数術が展開されている。
そして漂う緊張感。それに俺は呼吸を忘れる。この部屋中に目一杯の水が注ぎ込まれ、息が出来なってしまったみたいだ。
それがしばらく続き、どうやら施術が終わったらしい。息苦しさも数術気配もなくなった。
「……大丈夫なのか、こいつ」
「僕は世界最高の数術使いですよ?この程度、治せないわけが無いじゃないですか」
一応気にかけてやったら実に可愛くない返答が。俺が縮む前はまだマシに思えたが、大差ないこの高さで見る神子は、実に不貞不貞しいむかつく野郎だ。可愛げの欠片もない。見た目だけなら欠片くらい、いや塊くらいあるかもしれないが、如何せん中身が悪すぎる。プラスマイナスマイナスだ。
「あっそ……そんならよかったな」
本人が自負するよう、確かに腕は悪くはないようだ。死にかけ野郎の顔色が元通りになっている。すーすーと寝息さえ聞こえそう。何優雅に寝てやがるんだこいつ、お前運ぶの俺がどれだけ苦労したかその辺しっかりわかってるんだろうな?ん?
……なんて起きない怪我人(完治?)に悪態つきたくなるのは確かだが、こいつにこれ以上構ってて時間無駄にするのも馬鹿らしい。
それより気になることはいくらでもある。このまま置き去りにされていちゃ困る問題。
「……で、なんなんだよこれ。俺だけじゃない。この部屋……全然、あの頃のままだ」
掃除もされていないはず。屋敷中漂っていたあの腐敗臭すらしない。俺でもわかる、はっきりってここは異常だ。
「……それはただの気のせいですよ。ほら、ちゃんと埃がある。高さが戻った分、そういう風に見えるだけ。臭いがしないのはここで死人がいなかったからでしょう」
「う、……言われてみればそんな気がしないでもないけどな……それなら、これはどういうことなんだよ。時間数術?そんなの聞いたこともない」
神子にそれを錯覚だと言われても、俺のこの姿までそれとは思えない。
「……それはそうです。そうに決まってる。こんなものを外に漏らせるわけないじゃないか。……これは、聖教会の禁術の一つ。余程高位の教会関係者しかこんなもの知りませんよ」
「ほぉ……んじゃあの女はお前の身内ってことなんだな」
「…………そうなりますね、残念ながら」
「で、これどうやって直すんだ?あんたに直せるもんならやってもらうくらいいいだろ、運賃代わりだ。あとこの目も直せ」
「……左目の幻覚でしたらすぐに解除できますが、こっちは僕じゃ無理ですよ」
「そうか、ってえええええええええ!?あんた神子だろ!?世界最高とか言いやがってたよなたった今っ!」
「そんな簡単な術じゃないんですよ、これは。時間数術は物質の針を弄る術……有り体に言えば貴方の身体は時間を遡らせられた。そういうことです」
「しかし……時が、遡る?そんな数術……なんか現実味のねー話だな、……こんなんになってなかったら絶対否定で論破してやるのに」
「……ありますよ。ただ、代償は大きい」
相変わらず勿体ぶりやがった神子の口調。こいつと話してると本当、苛々するわ。アルドールとはまた違った感じの苛つきだが。
「何だよ代償って?」
「人には寿命がある。それ以上の時を人は進めることも戻ることも出来ない」
「簡潔に言え」
「早く戻さないと、取り返しの付かない……とんでもないことになる。そういうことです」
「それは誰が?術者のあの女か?」
尋ねる俺に、しれっと返す神子の言葉。
「いいえ、それは主に貴方です」
「……やりやがったなあのアマ」
毒づく俺の脳裏で俺の反応をせせら笑う女の顔が見える。それが目の前の神子と重なり、やっぱり苛つく。
「じゃあ尚のことさっさと解けよこれ」
「だから僕じゃ無理だってさっき話した」
キレ気味の神子。
気に入らない奴とはいえ、神子は神子。嫌味なくらいしっかりしてるって言うか妙に大人びて見えるのが常(もっとも隣のアルドールが情けないだけかもしれないが)。
だからか?普段の姿とのギャップがある。
最初に見た時から従兄が知らないようなでっかい数術バンバン使って……物腰は丁寧な癖に口は悪いし態度もでかい、嫌味な奴で……
(…………………ん、ん?)
取り乱していた。こんな風な神子を見たのはこれがはじめてか?
違う、そんなに前じゃない。どこでだ?俺は知っている。これは初めてじゃない。いつか、どこかで、こんな神子を見たことがある。それはどこ?それは何時?
俺は呼吸さえ忘れるほど、思考の方に脳細胞をフル回転させ考える。思い出せ思い出せ思い出せ!
(思い出したっ!)
夢だの幻覚だのいろいろ見せられたせいで感覚狂ってたが、あれはつい今朝のことじゃないか。あいつの脳が弄られてるって気づいたときだ!こいつが自分を出すのは、アルドールに関わること。いつもは取り繕った神子顔やってる中から、子供の顔が現れる。その時だけ、泣いたり怒ったり……素直な感情を表に出すことが出来る人間になっていた。ここ数日のつきあいの俺でも認めざるを得ないくらい、イグニスという人間はアルドールを大切にしている。
だけど客観的に考えるなら、イグニスという神子は、アルドールを利用している。そのためにこれをやっているのだとしたら……策士というより役者だろう。確かにアルドールはこいつに懐いてる。傀儡にするのはあまりに容易。数日程度の浅いつきあいの俺じゃ、神子がそのどちらなのか判別できない。
だけどかんがえなければならない。俺の未練を断ち切るために、これは必要なことなんだ。
(こいつはその、どちらのために生きている?)
どちらかが嘘なら、結果はまるっきり反対になる。……俺にとってはそのどちらの方がありがたい?いや、どっちもありがたくない。
個人のためにも国のためにも……この神子はランスを切る。一番にあいつを選ぶことはあり得ない。いかに優れた騎士だって、所詮は世界の駒一つ。
チェスのゲームがそれだ。どんなに強い駒……女王だって勝利条件には要らない。要るのは王。優秀な駒は、どれだけ敵を倒すか。そして、いかに役立って死ぬか。
こいつにとっての王は、アルドール。それでまず間違いない。
こいつの企み通りアルドールがカーネフェルの玉座に据えられたとして……その先はどうなる?
ランスは生き残れない。それなら俺は……いつかあいつを殺せるかを悩むべきだったんじゃなく、いつこいつらを殺すか。それを考えるべきだったんじゃないのか?そうだ、俺はそれを考えるべきだったんだ。でも、それは何時?
アルドールを助けるんじゃなかった。殺しておくべきだったんだ、中庭であいつを見つけたときに。アルドールさえ居なければ、神子の企み……もしくは生きる希望、それが潰える。
数術使い。こいつには俺に見えないモノが見えている。俺のナンバーがこいつにバレていると考えた方がいい。
俺はこいつのナンバーを知らない。一人でインディアンポーカーでもやってる気分だ。こいつは俺が何か知っているのに、俺はこいつが何かは知らない。理不尽過ぎる今の状況。
俺は、クラブのJ。俺もランスもアルドールもメイド女もカーネフェル人。クラブのカードの大半はカーネフェリーだと考えて間違いない。
はじめにこいつらと会ったとき、エルス=ザインと戦った。あいつは自身を道化師だと言っていた。それが本当かどうかはわからない……わからない、があの時俺は絶対的絶望を感じるような戦いだとは思わなかった。やりにくさはあったが、逃げ出したいと……命の危険を感じるほどではなかった。もしそんなことだったら、俺はあいつら見捨ててとっとと逃げ出していたはずだ。
そういう命の危険…………これまで俺にそれを感じさせた人間は、二人だけ。一人はタロック王……二人目は、あの女。神子と同じ顔をした、琥珀瞳のハートの女王。
そして神子はあの女が教会関係者であることをたった今認めた。
つまり教会関係者、或いはシャトランジアに関係する者……そいつらがハートの大多数。
よって神子はハートのカードと考えてまず間違いない。カードではないという線は捨てた。
カードであることが前提でなければ成り立たない話を俺の居るところでも何度か神子は話していた。ああ、ってことはやっぱり俺もカードだと気づいていたってあれは確実に黒だ。
こいつらはカード。第一カードでなければこんなところまで付いては来ないだろう、神子もメイド女も。最弱のAを守っているということは少なくてもそこそこ強いカード。最悪、コートカードの可能性もある。
だけどエルス=ザインの話を仮に真実だとして……俺は格上のカードと戦ってたわけだ。格上のカードは俺にとって本当に、殺せない相手なのか?それとも……俺には知らされていない何かが、この審判には隠されているのだろうか?あり得る。この神子は……信用できない。こいつは、生かしておくべきではない。
(でも今は……)
こいつが死ねば、真実の口が閉ざされる。すべてを洗いざらい吐いてもらってからじゃないと、俺が困る。だからまだ……その時じゃ、ないのかもしれない。
「時間数術ねぇ……この場所自体が過去に帰ってるんじゃなくて、俺の身体の年齢だけ逆行してるってことになるのか」
独り言のようにつぶやく言葉に神子は小さく同意。時間は未来に向かって進んでいる。時計が戻っているんじゃない。このまま過ごせば日は落ちる。だけど俺の姿だけは過去へと帰っていったまま。そういうことらしいが。
「大体なぁ……見た目が変わるだけ……?それなら視覚数術でいいんじゃないのか?」
「欺くためならそれで充分。でも意味はあります」
たいして興味なさそうに、面倒くさそうに、怠そうに。そんな風に尋ねても、神子は性格なのか説明を義務のように怠らない。職業病なんだろうか。
「貴方の身体は若返っている。それはつまりこの数年生きて消費した分の幸福値が無かったことにされている。だから、逆を言えば危険なんだ」
「幸福値?」
「カードの力の源みたいなものです」
「つまりあれか……チビになったのはついてねぇけど、つまりカードとしての力みたいなのは強くなってるってことだよな」
「そうなります」
ほれ見ろ。ちょっと探りを入れただけで俺の知らない話がいくらでも出てくる。
俺を顎で使ったのを少しは気にしているのか?いや、こいつにそんなしおらしい部分は期待しない方がいい。アルドールを運んだことへ礼か?そうだったら儲けもんってくらいにしておこう。
それでも端から全部鵜呑みするわけにはいかないから話半分くらいで聞いていた方がいい。だけど知っていると知らないのは全然違う。
「それで、俺が代償払ってるとして?俺に何か危険があるのか?」
「いいえ、背が伸びないだけです」
「それは割と深刻に危険な問題だな」
「代替数術と言いましたよね。だから貴方が若返った分、年を重ねた誰かがいる。危険なのは、そっちの方です」
「つまりそいつは……俺が使った三年分の幸福値。つまりはカードとしての、力が減少している?」
「……その通りです」
「じゃあそいつ、早く探した方がいいんじゃないのか?ここにいないあの女とか……って可能性もあるんだろ?」
「いえ……たぶん、彼女じゃありません。彼女は数術を使えませんから」
「素人にもわかるように言え」
「計算式を書くのは術者。それでも式を展開させ解を導くまでの労力を払うのは別の誰か。それが代替と呼ばれる所以です。代償数術はある種の呪いと言ってもいい。だから代償数術は基本的にすべて禁術なんです」
「つまりあれか。あの女が指揮者で引き起こされる結果が旋律。俺は管楽器を無給で演奏させられてる奏者って話?」
「有り体に言えばそうです」
神子が俺の例えを肯定。頷いた。
「そしてこの術を継続させているエネルギー……貴方が奏でる楽器、それに送り込まれる空気……それがもう一人の代替者」
「ってことはそいつ、危ないんだろ?助けに……」
「行きません」
きっぱりと俺の言葉を拒絶する神子。俺の勘が言う。こいつはそれが誰かきっと解っている。
(解ってて……見捨てるっていうのか?)
そいつが誰かは知らないが、まさか敵が自分の味方にそんな不利な術を使うはずがない。ってことはつまり……それは俺たち、いやこいつらにとって不利な条件だと言うこと。それなのにこいつは、アルドールを選ぶのか?怪我は負ったとはいえ、もう治療も済んだみたいな奴の方が大事だって言うのか?これから誰かが死ぬかもしれないのに?
こいつは逃げいている。その誰かを救うことから。人間って、逃げでこんなに開き直って大口たたけるものなのか?後ろめたさを感じさせない、胸を張ったようなそんな風に。
「今、アルドールから離れるわけにはいかないんです」
俺の責めるような視線に神子は一言付け加えた。それが何を意味するのかまでは教えてはくれなかったが。これ以上追求しても無駄か。こいつは口を割らないだろう。それならこの話はここまでか。俺も暇じゃない。別にこいつらの事情なんか知ったことじゃない。今俺が考えるべきは……
(時間数術……か)
今俺にかけられているこの呪いめいた術。俺に課せられた代償っていうのは背が縮んだことくらい。その時間数術。過去に遡る。それはつまり……
「無理ですよ。死人は決して甦らない。時間数術は存在数を持つ確かな存在にしか作用しない」
人の心をあっさり見透かし、淡い期待をばっさり神子は叩っ斬る。
こんな風に考えを見透かされることが最近やたらと多い。この神子とあの女のせいだ。それは凄く感じが悪いし気分が悪い。それに付け加えるならば、基本的に俺は否定されることが好きじゃないんだろう。よって今の気分は最悪だ。
「あんたさ、俺に嘘付いてねぇ?」
「……何に関してのことでしょうか?大きいものから小さいものから心当たりが多すぎて、少々判断に困ります」
開き直りやがった。そうくるか。見直した、ほんの少しだけ。
下手にここで嘘をつく奴だったら完全に黒。この言葉さえ嘘だって言うんならそれはそれで策士だって感心してやるが。……その可能性もあるな、俺がこいつを探ってるのと同時に、こいつも俺を探ってる。嘘は嫌いだが、俺もそれなりに多くの嘘を抱えている。それでもこの件に関しては俺側には嘘をつく理由がない。ここは正直に話すのが得策だろう。
「あの女は言ってたぜ。“願いは死者さえ甦らせる”。んなもん信じたことねーけど、聖教会の作り物語でも審判の後はすべての死者が甦るって言ってなかったか?」
どうしてそこまで知っている?いや……どうしてあいつはそこまで話したんだ?そんな驚愕に揺れる様子は、あの女の言葉の一部が真実だと俺に教えた。
「あれは教会の話じゃありません。伝承のようなモノ……こちら側では異端の話です」
「でも実際それは行われている。だからカードは存在する。俺も、あんたもだから……カードなんじゃないのか?俺だってあの詩を聞いた」
「……どうなんだよ。俺は正直あんたが信用できねぇ。そんな奴に俺の従兄の命を任せることなんか出来ねぇ……」
やっぱ信用できねぇ、どいつもこいつも嘘ばっか。虫のいい言葉に騙されるところだった。あの女が俺に話したこと。それは何を企んでの言葉?
この男が俺に話すこと。それは何を隠しての言葉?
こいつらの話には含みがある。あの女は飴と鞭……俺の傷口を抉って傷つけて、そしてそこに目一杯砂糖を塗り込む甘い言葉。弱った心はそれに流されそうになる。
この男の言葉は氷の鏡。真実らしい真剣味を感じさせる確かな言葉。それでもその言葉は凍っている。俺に見える真実はその表面だけ。氷の中に何が眠らされているのかは全く見えない。だから訳がわからない。
さっきキレかけたような……あれがイグニスっていう一人の人間の本来の人格なんだろう。いつもああいう風ならもう少しはわかるのに、それをこいつは内に閉じこめ神子らしい言葉の仮面を身に纏う。
こいつは何のために、アルドールを助けるんだ?
馬鹿っぽいアルドール自身は友達だからに決まってるとか臭い台詞を吐くんだろうが、こいつはそんな単細胞じゃない。腹に一物どころか百物くらい隠し持っていてもおかしくない。
あの女とこいつに近づくのは危険行為だ。のぞき込んだ穴。その深さがわからないまま飛び込むような、そんな愚かさ。それが地の底ならまだいい。それは奈落まで続いて居るんじゃないか?そもそも底なんかあるのか?どこまでもどこまでも……ただ、落ちていくだけなんじゃないのか?
(ランス……アスタロット……)
ランス。お前は馬鹿だ。こんな胡散臭い奴ら、どうして信じちまうんだ。綺麗事だけなら誰だって言える。こいつらが正しいと、誰にどうして言い切れる?
アスタロット。俺はこの件だけ片づけないと、お前に殺されてやれない。もう少しだけ、待ってくれ。終わらせる、もうすぐ……終わらせるから。
「セレスタイン卿、一つ……いいですか?」
話の間、ずっと俺の方を見なかった。アルドールばかり見ていた神子が初めて顔を上げて、俺を見る。透明な琥珀の瞳。そこに捕らえられた虫のよう、ちっぽけな俺がそこにいた。見つめられた俺は動けない。まるで金縛りにあったようだった。
「答えによっては僕の嘘を貴方に教えます。このゲームの真実も」
緊張のせいなのか、俺が息も出来ないでいるっていうのに、相手は一息吐いてから……再び言葉紡ぎ出す。
「だけど、貴方が彼の敵ならば……僕はここで、貴方を殺す」
今なんて言った?不殺を掲げる聖教会の神子が?
「お、おい!本気か!?俺はただ……」
「2《デュース》、4《ケイト》、6《サイス》、8《エイト》!《偶神法廷《イーブン=コート》》っ!」
神子の言葉とともに鳴り響く耳鳴り。数術の瞬間発動。あり得ない早さで、展開されていく膨大な数式。それは俺にとってすべてが耳鳴り。頭が割れそうに痛い。これ……生半可な術じゃない。
俺にはそれが見えないが、これが甘っちょろいもんじゃないのはわかる。見えない、見えないからこそ……俺は、こいつが恐ろしい。そして信じられない。信じたくもない。十をちょっと超えた程度のガキが出せるような殺気じゃねぇだろ、これ。
(お前ら……いったい、“何”なんだ!?)
尋ねたいのはこっちの方。自分勝手な質問者……そいつは敬意のかけらもない声で、俺に言葉の刃を向けている。
「答えてください、セレスタイン卿ユーカー……真実を」
答えろってんな無茶な。声出ねぇし!頭いてーしそれどころじゃねぇっての!俺を殺してーだけだろあんた!……そんな俺の悲痛な叫びは肺に留まったまま外には出られない。
思いっきり口の肉に牙を立て、その痛みに集中。耳鳴り、頭痛が一瞬和らぐ。その隙になんとか愛剣の柄まで指を伸ば……せない!?なんだこれ!?浮いてる、俺の手が浮いている。それはさながら水。
さっきの例えは間違いじゃなかった。溺れる。沈められる。注がれている、この部屋いっぱい不可視の水が。俺から行動の自由を奪っていくのだ。
「でなければ、貴方は……死にます」
罪を償え。そう言った女と同じ顔で、神子は俺を糾弾。そして……
「殺します」
落とされた声、死刑宣告。その小石。
それは波紋のように俺の心をざわつかせ、水底深くに眠る俺のすべてを暴くよう……深く、深くに落とされた。




