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17:Amor vincit omnia et nos cedamus amori.

 「セレス様?」


 俺の顔をのぞき込む少女。

 何故だろう。胸がざわつく。何かを忘れているような……

 彼女の顔を真っ直ぐ見つめ返せない。俺は何か彼女に引け目を感じているのだ。何故だろう。そんなもの……無いはずなのに。


 「アスタロット、身体の方はもういいのか?」

 「はい。セレス様のお顔を見たら大分加減もよくなりました」


 俺は何も出来ない。傍にいることだってままならない。そんな俺に、優しい言葉をくれる必要なんか無いのに。

 バツが悪そうにそっぽ向いた俺の背後で、くすくすと彼女の笑う声。

 笑われるのは不快だ。基本的に。それは俺を嘲笑う行為だから。

 それでも彼女のそれはそんなに嫌じゃない。ほんとうにおかしいと思って笑っているのだ。俺は彼女の、そんな嘘のないところが嫌いじゃないのかもしれなかった。


 「そ、それにしても凄い雨だな。こんなんじゃ庭を見にも行けない」


 ここの庭師の腕は見事だ。落ちぶれてるとはいえ都貴族の家。美意識が違う。室内の装飾や家具一つでも俺の実家とは比べものにならない優雅さを誇る。前に見た庭園は一種の芸術品のようだった。

 けれどアスタロットはそんな庭が息苦しいと言っていた。それは何時のことだったか。

 そうだ、俺の家を一度尋ねたときだった。あの時はまだ彼女がそんなものとは知らなくて一緒に裏庭で遊んだものだ。雅やかとは言えない田舎の空気を彼女は気に入ったらしく、何と言うこともない庭をとても褒めていた。都貴族の娘にしては気取ったところがない、変わった女だと思った。

 変わったと言えば、彼女の髪の色。血を重んじる近親婚、濃すぎるカーネフェルの血は多くの弊害を生んだ。生まれつきの病弱、そして彼女の髪は金じゃない。

 くすんだその色は、カーネフェルの色と言うよりは……タロック人の様な黒みがかった暗灰色。俺の片目のようにそれは、忌み嫌われてきたのだろう。

 けれど、彼女は笑うんだ。

 いつぞやは髪を切ろうと……いいえ、羊の毛を刈り取るように、母親が追いかけてきて。もっと酷いときは酸を持ってきて髪を脱色しようとそれはもう恐ろしい形相で追ってきて。身体が弱い彼女は走って逃げられないから、息を殺して隠れていたのだとか。そんなことばかり続いたからかくれんぼは得意なんですとか。

 彼女が愉快気にそう語るから、辛くないはずなかっただろうその過去も、何かの喜劇のように聞こえてくるのだ。彼女は身体は弱いけれど、心は俺何かよりもずっと逞しいのだなと感心する。

 そんな風に彼女の日常を耳にしていると、感じる既視感。なぜだろう。俺は彼女がとても懐かしい。こんな風に昔のように笑い合ったのは何年ぶりだろう。一年?二年……?いや………もっと…………


(………?)


 おかしい。何かが変だ。脳内に外の霧でも入り込んでしまったように、よく……思い出せないのだ。

 俺は、……彼女を嫌ってこそいなかったが、俺たちの立場は嫌っていたはず。欠陥品同士、それでも真純血。そんな理由が俺たちを結びつける。厄介払いの婚約。


 「なぁ……アスタロット、俺は」

 「私は嬉しいです」

 「……え?」

 「だってこの雨が止まなければ、貴方はずっとここに居てくださる。ずっと………この雨が続いていてくれればいいのに」

 「それ…………」

 「……セレス様?どうかしましたか?」

 「前にも……お前に、言われたような気がする」

 「そうでした?」

 「……ああ」


 それならそうなのかもしれませんねと彼女は笑う。


 「今回寄って下さったのは、また遠征帰りですか?珍しいですね、ランス兄様も一緒にいらっしゃらないなんて。姉様達も妹たちも寂しがってるんですよ。誰がランス様の婚約者になるかって言い争って」

 「ああ、あいつは今回は…………北に遠征、いや……あいつが南で、俺が北で……」


 やっぱり、おかしい。ここは何処だ?ここは……都から南に位置する。北に遠征に行った俺が、その帰りに……寄れるはずがない。


 「あれ……俺が、南?」


 駄目だ、頭が混乱してきたのか酷い頭痛がする。当たり前だとわかっていたことが、あやふやになる。まるで天地が逆さになるようだ。

 考えれば考えるほど、酷い吐き気と不快感。何故だろう、口から吸い込む空気が悪い。ここは、ずっと締め切っているから?それとも……窓の外の暗雲のせい?

 あの暗い灰色。確かにあまり良い物には見えない。


 「大丈夫ですかセレス様?……あ、すみません私ったら!お疲れの所を付き合わせてしまって。すぐに部屋を用意させますね」

 「ん、……ああ、悪い」

 「いいえ、お気になさらず。これくらい、なんてことはありません。妻の役目ですから」


 彼女が「未来のですが」と付け加える頃、俺は盛大に咳き込んでいた。器官に紅茶が入った。

 そっちだけじゃない。鼻にもだ。これって結構苦しいんだがランスの奴はなかなか理解してくれない。「え?どうやったら鼻に?」と真顔で尋ねられてもなんて言えばいいのだろう。やりたくてやってるわけでもないのだこっちとしても。


 「………レモンティーにするんじゃなかった」


 鼻に染みてヒリヒリする。


 「あ、ははははははっ!」


 彼女は笑っている。腹を抱えて。ここまで笑われると、いっそ清々しい。……なんて思える心の余裕はあまりない。ちくしょう、鼻だけじゃない。目まで来やがった。レモンの野郎っ、目が痛くてよく開けてられないじゃないか。

 痛い、痛い……痛い。だからだ、きっと。涙で視界が霞むのは。


 *


 「……な、何だ……この臭い」


 扉を開けてすぐ、俺の鼻に届いたのは……これまで嗅いだこともないような、強すぎる臭い。良い香りとは思えないが、他に例える言葉が見つからない。俺にとって、その臭いは全く未知の存在だったのだ。


 「イグニス、ルクリース……?」


 二人は鼻をつまむことはしなかったが、その表情は険しい。俺以外の二人の表情から察するに、これは良くないものらしい。


 「腐敗臭です。アルドール……イグニス様、また、あれが来るかも知れません。素材がここには多すぎます」

 「腐敗臭……?素材…?」


 そこまで言われ、俺はようやく気付く。さっきの死体。あれをもっともっと強くしたような……これは、そういう臭いだ。


 「知らないには越した臭いだよ………屋内は厄介だね。さっきのは連れてこられた奴らだからまだマシだったけど」


 口から、鼻から……吸い込んでしまっていたそれが、そんなものだと教えられた途端、生じるのは涙と吐き気。死んだ人に罪はない。わかってる。必死に嫌悪感を押さえ込もうとしてみるが、胃液が口元までせり上がってくるのを止められない。


 「だから言ったのに」

 「なんでお前ら……平然と、してられるんだ……?」


 ガタガタと、身体が震える俺を余所に、二人はもうすっかりいつも通りを取り戻している。


 「セネトレア時代にこれくらい、慣れました」

 「僕も奴隷時代に慣れた。君は温室育ちのお坊ちゃんなんだから仕方ないよ」


 そう言ってイグニスが軽く片手を振る。


 「……あれ?」


 急に息をするのが楽になった。彼が何かをしてくれたのだ。彼の方に目を遣ると、溜息ながらに彼が俺を仰ぎ見る。


 「僕らの周りにあの臭いを弾く数式を書いた。少しは緩和されたと思うけど?」

 「そんな調子の所、攻め込まれたら困るだろ。もっとしっかりしてよアルドール」

 「ご、ごめん……」

 「先を急ぎましょう……フローリプが心配です」

 「……それにセレスタイン卿も」


 せかすルクリースの言葉に一言付け加えるイグニス。おまけのような言いぐさだったが、彼がそんなことを言うからには……何かがあったのだろうか。


 「イグニス……、ユーカーに何かあったのか?」

 「……シャラット卿とセレスタイン卿は因縁浅からぬ関係なんだ。馬車で待ってる彼以上に、本当はセレスタイン卿がここには来たくなかっただろうと思う」


 そう言ったっきり、イグニスは口を閉ざす。無駄話をしている場合じゃない。あるいは自分で考えろ。おそらくどちらの意味も含まれているのだろう。

 馬車の彼…………それはサラのことだ。サラには馬車の守りを頼んだ。さっきの今だ。一人残すのは心配だったが、イグニスが辺りの空間に結界数術を書いていたから一番安全な場所にいると言ってもいい。それに彼自身長年関所の守りをやって来た番人なんだから、俺なんかよりずっと強い。心配する方が失礼な話。

 そんな俺より強い人間でも、苦手なものがあるのだ。彼にとって、ここがその場所。どんな人間にも忌むべき記憶が在る。そんな当たり前のことを漠然と思い当たった。

 そりゃあ、生きていれば嫌なこともあるだろう。誰だって。純粋な力とか……身体をどんなに鍛えても、心に隙は生じてしまう。

 そんな風に考えたら、らしくもなくユーカーの身を案じるイグニスの考えが解ってくる。

 ユーカーは強い。カードとしても、騎士としても、どちらの意味合いでの戦力としても。それでも、今の彼は…………ここが彼にとって居たくない場所なのだとしたら。


(……ユーカー)


 俺にもある。そういう場所が。

 どうして彼を一人で行かせてしまったのだろう。ついていけば良かった。例え彼に邪険にされても。

 いや……それで何が変わった?俺はAだ。最弱の、カード。足手まといだ。


(フローリプ……)


 傍にいても。一緒にいても、守られるばかりで……守ってやれなかった。俺は……俺が兄なのに。



 *


 雨を吸った眼帯が鬱陶しくて布を外した。別に目が悪いわけではないのだ。誰もここには居ない。この色を晒したところで俺は何も言われない。

 それでも何かが聞こえる。そんな気がするのは、過去に浴びせられた心ない言葉の剣が今もまだ……この心に刺さったままだから。

 抜けない。抜けずに傷が治った。塞がった傷は棘を孕んだままズキズキと痛む。もう一度それを抉る勇気もなく、傷口に手を突っ込んで引っ張り出してくれるような相手も居ない。

 一人だけいた。今は居ない。目の前にいるけど、何処にも居ない。"綺麗な空"と微笑んでくれた彼女は冷たい土の中。

 雨は良い。頭が冷える。血が引いていく、温もりと共に。

 いっそこのまま雨が俺を殺してくれないだろうか。このまま立ち尽くすだけで死ねるなら……いや、馬鹿な考えだな。過去に何度か試したことがある。風邪引いただけだった。高熱を出すだけ出してランスに馬鹿にされて。


(つまんねーこと思い出しちまった)


 人の手を忘れた庭は、荒れ放題。在りし日のここと相違を見つけては、憂鬱の息が口から漏れる。

 あの日見上げた空は青。今は曇天。端から端までが彼女の様な暗灰色。


(アスタロット……)


 前に墓参りに来たのは何時だったか。随分昔のことのように思う。前に俺の添えた花はもう枯れて、風が連れ去った。あれ以来誰もここには来ていなかったのか。バロンの奴も、ここには来ていなかった。来たくないだろうな、俺なんかよりもずっとあいつの方が。

 墓に話しかけるなんて下らない、馬鹿げたことだ。返事がないことを解って、それでも話すのは滑稽だ。そしてそれは生者の自己満足だと俺は知っている。死者のためにならない、押しつけ。そんなの御免だ。

 そう思うから、俺は唯そこに立っていた。馬鹿みたいにそれだけを続ける。冷たい石に刻まれたその名をじっと見つめて。

 名とは呼ばれるためのもの。呼ばれることもなくなり、呼んでも返事のない言葉の虚しさ。それでも忘れられない名前。もしお前の名前を呼んで、お前が再び目を開けるのなら……俺は何度だってその名を呼ぶだろう。


 「セレスタイン卿」


 不意に呼ばれた俺の名。幻聴?だってここには俺しか居ない。感傷に浸りすぎたせいで、そんなものまで聞こえるようになったのか?

 けれどそれだけじゃない。耳に慣れた雨音に加わる、パシャと何度か水の跳ねる音。雨を髪と服が吸ったせいか、振り返る動作も緩慢。雨に冷たくされた身体と脳は怠惰で憂鬱。感情という感情を洗い流されたよう。


(人……?こんな所に?)


 何時から居たのか。目に映るのは喪服のような黒。それに身を包むのは小柄な金髪の女の子。背はあの神子より更に小さい。黒いリボンで髪を二つに結んでいる。そこまで遠い距離ではないが、俺と同じで髪が雨を吸っているため、目の色まではよく見えない。あの神子達のように金髪を継いだ混血という可能性もあるが、その可能性は低い。

 カーネフェルでも一応混血に戸籍があるが、肩身が狭いのは事実。あの神子のように純血の俺に食ってかかるようなケースが珍しい。普通は逆だ。混血が暮らすのは街道から外れた辺鄙な場所が多い。

 都の近くで混血を見ることはまずない……となると、十中八九カーネフェル人。


 「あ、お……おいっ!」


 俺が視線を彼女に留めて数秒。向こうから話しかけてきたにもかかわらず、彼女は踵を返して走り出す。失礼極まりない態度だが、雨に冷えた自分はすっかり毒気を抜かれてしまった。唖然とその後ろ姿を見送る。その背中が、何歩目だろう……俺はそれを見失う。突然消えた。

 彼女のあの喪服のような格好のせいで、最初に感じたのは薄気味悪さ。しかし雨の冷たさが俺に冷静を訴えかける。


 「向こうは確か……」


 埃被った古い記憶を引っ張り出して、俺はこの辺りの地形を必死にたたき起こす。


 「段差かっ!?」


 確か屋敷裏にはちょっとした傾斜がある。濡れた草に足を取られ、転げ落ちたのだ!

 どこから迷い込んだ子供かは知らないが、このまま放っておくわけにはいかない。俺はその後を追いかける。それほど高くない段差とはいえ、あの位の子供が足を滑らせたら自力で這い上がるのはまず無理だ。


 「おいっ!くそっ……何処行った!?」


 段差を覗いてみてもそこに彼女は居ない。飛び降りて、俺は草木を掻き分け彼女を探す。

 気が急いたせいだ。ぬかるんだ土に足を取られ俺は体勢を崩し倒れ込む。咄嗟に受け身は取れたが片手は地に。払うため返した手袋は泥とは違う色に染まっていた。


 「血……!?」


 俺のじゃない。俺が手をついた場所には真新しい血だまり。

 その向こうに目をやれば、何人も倒れている人間が。さっきの子じゃない。ここに倒れているのは大人ばかりだ。


 「おい!大丈夫か!?しっかりしろ!」


 抱き起こした身体を深く抉る傷。何があった!?この傷……浅い傷なのは一人もいない。どうしてこんな所に人がいる!?

 先ほどまで心地よかった雨が今は邪魔。手にした体温を奪う悪魔の水。

 胸中で付く悪態は、どうにもならないことを悔やむ気持ちと、どうにも出来ないことへの歯噛み。ランスの馬鹿、連れてくれば良かった。俺じゃ駄目だ。俺が見つけても……何が出来るか。あいつなら……怪我をしても治してやれるのに。そこまで思ってこの身を苛む、二重の自己嫌悪。


(くそっ……どうして俺はそう、いつもいつもいつもっ!)


 あいつならあいつらなら。気がつけばいつもそうだ。あいつのことばかり。すぐにあいつと自分を比べてしまう。

 あいつなら何でも出来る。俺とは違う。数術も出来る、剣も出来る……何でも出来る。何やっても上手くいく。かといってそれを傲ることがなく、努力を惜しまないのも一つの才能だ。

 何も出来ない。何も勝てない。心配だって無駄。きっと俺が知らせに来なくても……あいつは。あいつは何も悪くない。それでも無力を感じる度俺は、自分の無力さとあいつの有能さを恨む。


 「雨は良いね、涙も無かったことにしてくれる」


 叫びだしたい俺の心を見透かす言葉。それが雨のような何気なさで背中に掛かる。声の高さからさっきの子供?この惨劇の中でもその無事を知ったことに僅かの安堵が胸を突く。俺が振り向いた先、微笑みを湛えていたのはあの少女ではなく……それでもそこにあるのは子供の姿。金髪の……


 「それでも雨は罪だけは洗い流してくれないんだ」

 「お前……神子?」


 さっきまでの彼との服とは違う。それならこれは彼ではない?そうだ服装だけならあの時出会った彼の片割れ。

 それでもそう感じてしまったのは、口調だ。それが真面目な話をするときのあいつに似ていた。

 雨に濡れた髪は彼のと彼女の僅かな境界を更に薄める。そのせいもあったのだろう。髪の分け方、跳ね方、結い方。その違いもそこには無かった。どちらにしても俺は彼も彼女も嫌いだ。普段なら何か一言怒鳴り返していた。けれど今は、それすら億劫。


 「私はその片割れ。私はお兄ちゃんの対極。同じで真逆……お兄ちゃんが嫌いなモノは私は大好き。だから私、貴方のこと気に入ってるんだよ」


 神子ではないとすれば……あの赤服の女。あの日俺を嘲笑ったあいつ。それが今は俺を気に入っているだと?僅かに芽生える感情は、普段なら怒りに変わるはずのモノ。小さな、疑念。

 見ず知らずの人間に理由もなく敵意をぶつけられるのも不快だが、突然好意を口にされても判断に困る。それが自分にとって有害と判断した人間による者なら尚更……


 「…………道化師が、俺に何の用だ?」


 雨はあの日の恐れも俺から洗い流した。開き直りか命知らずかわからないが、どちらにしても無謀なことだ。そんな無謀も目の前の少女は軽い笑みでなんなくかわす。それが一層不可思議で、この雨のよう……拭えない不信感。けれどこの少女は俺に表面上は友好的な態度を保つ。少なくとも今ここで俺を殺すつもりはないようだ。


 「……違うよ、どっちも半分不正解」


 その口から零れる呆れの息は、俺ではない誰かへのもののよう。この子供は何かに対する軽い失望を感じている。


 「セレスタイン卿、貴方は償わなければならない罪がある」

 「……はぁ?」


 何で赤の他人に。罪なんて言葉を吐かれなきゃならない。あいつの苦悩から察するに、この女の方が余程罪深い行いをしてきたんじゃないか?そんな奴がこの俺に向かってそんな口をきくだと?


 「それが見えているって言うことは、貴方はこの地に負い目を感じている証。それでも貴方がそれを今のことだと思うのは、逃げているから」

 「逃げてる……俺が?」


 その言葉に感じたのは、不快と……そして妙にすんなりとそれを受け入れる、納得している俺の心。それが不愉快で、俺は苛立つ。

 何時まで逃げるつもりだと、少女は俺に問いかける。俺が何から逃げている?尋ねた問いには答えぬままで、さらなる言葉を投げかける。


 「見てご覧よ、貴方の両手……その服、真っ赤じゃない。それを心配するなんて。烏滸がましいとは思わないの?これは誰かがやったことじゃない。貴方が貴方であろうとしたがために起こったんだ」

 「だって、そうでしょ?貴方さえいなければ、アスタロットは死ななかった。貴方が彼女を、自分の役目を受け入れていたならね」

 「貴方は選ばなければならないの……昼か夜か。貴方は何時までも夕暮れを彷徨っていてはいけない。このままの中途半場は貴方を真昼に引き込むよ。それはアスタロットとの約束を破ることだって、気付いてるんでしょ?」


 少女の言葉。空中に広がっていくその言葉達。それが俺に見せる記憶の断片。俺の記憶、想い、言葉。それは水面のように俺の内側を映し、心を震わせる。


 “貴族なんて、下らない”


 そう言いながら、他にしがみつくモノがない惨めな自分。それを嫌いながら、培われたプライドは捨てられない。下らないと嘆きながらも。俺は自分を捨てれられないのだ。

 それでも思う。“貴族なんて、下らない”

 領地が欲しい。金が欲しい。名声が、権力が。そんな下らないものばかり欲しがって。

 子供のことなんか家の道具にしか思っていない。それは男でも、女でも同じ。息が詰まる。あの家の中は。

 だから俺はシャラットの家に行くのが好きだった。でも、ある時を境に……俺はここを訪れるのを止めるようになった。

 彼女と俺が婚約者なんて括りで括られていることを知らされてから。

 別に彼女が嫌いだったんじゃない。嫌いになったんじゃない。家の道具になるのが嫌だった。俺が意志のある、心のある一人の人間だと認めて欲しかったんだ。

 だけど親父達は、そんなことはしてくれなかった。使えない不良品の道具が、更に欠陥品になっただけ。

 領地が欲しい。金が欲しい。楽をしたい。優雅に暮らしたい。崇められたい。ああ、下らないっ!そんなモノのために。そんなモノのために!?

 結婚で領土を増やせないのなら、どうするか。簡単だ。奪えば良いんだ。すべてを壊しても。

 知らせを聞いて駆けつけたとき、見慣れたその領地は記憶のそれと重ならない無惨なモノになり果てて。それでも一部一部にその面影が見えるから、これは夢だと逃げることもできなくて。

 他人伝えに……バロンから聞いたアスタロットの最後の言葉。


 それは俺を恨まず、憎まず……

 親さえ愛してくれなかったこのを俺を、深く深く……こんなにも。


(アスタロット…………)


 *


 ああ、こう言う時……自分が臆病で良かったと思う。こんな深い闇の中でも、俺の目は真実を見抜けるのだから。

 通された客間。その白壁。それは、本当に白?いいや、違う。

 あれからだ。誰も信じない。嘘をつき続けている。この眼帯の下に、目があることを知っているのは……俺の他にはランスだけ。

 それ以外には、見えないって事にしておいた。そんな子供の浅知恵が、こうして時々役に立つ。

 欲しかったのは、そんなモノじゃなかったんだ。でも……この目が俺を生かしてくれる。ずっと閉じていたこの瞳は、片割れより余程……

 ズシャ。風と共に振り下ろされた重々しいその音。俺の身体を空振ったそれ。枕に深々と突き刺さるナイフ。ああ、よく見える。いっそ見えなければ良かった?

 夢の、終わりだ。


 「アスタ、ロット……」


 俺はあの色が好きだった。

 その髪は、もうそこにはない。燃やされて、骨だけになった彼女。その白過ぎる色が、俺と彼女を隔てる境界。

 虚ろ。ぽっかり空いた暗い穴。その深淵が俺をのぞき込んでいる。その先に広がる闇は深い夜。全てが零へと帰って行く、常しえの虚無。今日も明日も……何もない。何も変わらず。そのまま……ずっと。

 彼女は泣くことも、笑うこともなく……唯、俺を見ている。冷たすぎるその指先が、俺の首へと伸ばされて……俺は、今度はそれを避けられなかった。先の問いの答えのように、その指はグイグイと俺の喉元を締め上げる。死者は語らない。代わりに口を開いたのは、その背後に佇むあの女。思い出した記憶の中で、「……なんてね。もう止めて良いよー、お疲れ様」と 少女が片手を振れば、アスタロットだった者は糸を切られた人形さながら、床へと崩れ落ちる。その響くけたたましい崩壊音。残されたのは、どう組み立てれば元の彼女になるのかわからない、バラバラの骨。ああ、これだけは解る。

 頭蓋骨。あの二つの虚ろは、まだ俺を見ている。恨めしく、恨めしく、彼女は俺を見つめていた。

 夢と現の重なるイメージ。それは右と左で異なるモノで……片側は残酷な現実、片側は優しい嘘。

 床に横たわる少女は眠るよう。それでも、片目が移すのは……ぽっかり空いた、二つの空洞、その虚ろ。


 「貴方があんまりにも簡単に術にかかってくれるからつまらなくて。見えるようにしてあげたの、片目だけ。嬉しい?嬉しいよねぇ?婚約者との感動の再会なんだもの」

 「……悪趣味だ」


 夢を見せたその魔女自身が、俺に現を突きつける。何がしたい?そこに一貫した主旨が感じられない。敢えて言うなら、小気味よく笑うその様は……俺の反応を愉しんでいるよう。

 俺が次にどんな顔をするか。それさえ見透かして、その通りに俺が動くのを確かめ、そんな俺を嘲笑う。

 数術使いは、そんなことまでわかるのか?俺が傍で見てきた数術使い……あいつには、そんな力はない。そんな風に力は使わない。

 それでも、それでも……こいは俺の右目を識っている。あいつしか、知らないはずの。

 どうして今、お前はここにいないんだろう。そうすれば、こんな下らない考え、捨て去れるのに。こんな奴、お前であるはず無いじゃないか。お前は、こんな風に笑わないだろう?

 それなら、それならどうして。お前は俺を知っている?


 「お前は……誰、なんだ?」


 彼女さえ知らない。教えていない、幼いあの日を最後に。この目が開くと言うことは従兄以外、誰も知らないはずなのに。それじゃあ、こいつは誰?


 「ねぇ、セレスタイン卿。審判の勝者は、何でも願いが叶うって知ってるんでしょ?」


 問いには答えず女は笑う。


 「それは零を一に。不可能さえ可能に変える。願いは死者さえ蘇らせる。貴方は再びこの子に出会えるんだよ?」

 「私はね、収穫に来たんじゃないの。種を蒔きに来たの。大きな花を咲かせるために」

 「貴方の心の中に、種を蒔いた。その芽はどんどん伸びていく。貴方が誰かを疑う度に」

 「そうやって、いつかその花は咲く。それは、どんな色をして居るんだろうね?」


 私にはそれが見えている。その色を知っている。けれど貴方には教えてあげない。そこには潜むことさえ忘れた明確な悪意。けれどそれは強すぎず、小さな悪戯を語るよう。

 その小さな悪意は俺自体に向いているけれど、彼女は俺を見ていない。


 「安心して、私は"アロンダイト"卿ではないよ。良かったね。貴方は、彼は疑わずに済むよ」

 「っ!?」


 俺の心を完璧に見透かしたその言葉。それに俺は脅えた事実を認めざるを得なかった。神の目の如きその千里眼。


 「"それでも、あいつを失ったらどうしよう"?」


 信じられるのは、あいつだけ。この全てを識る絶対支配者に、例外を宣言された……俺の従兄。

 植え付けられたモノの重さに俺は愕然とする。種なんてモノじゃない。こいつは、俺に糸を縫いつけたのだ。

 あいつがいなくなったら俺は、他の何も信じられなくなる。そうしたら、俺に残されるモノは……


(アスタロット……)


 彼女との、約束だけだ。

 “生きて、下さい……セレス様”

 こんな下らない俺に、価値のない俺に。死に行くお前が生きろと言った。

 最期の言葉。それは真実?それとも嘘?

 わからない。彼女はもう、何も語らないのだ。白い骨と虚ろ。恨みがましいその視線は俺の胸を映す鏡?それとも純然たる事実?

 わからない。わからないんだ。お前が何も言ってくれないから。

 せめて一言。何か言ってくれるなら。……雨が止んでも、ずっと、……俺はここにいるのに。離れないのに。

 魔女に見せられた一時の夢。目覚めてしまったことが、こんなにも口惜しい。ずっとずっと……あの夢に浸っていれば良かった。いられればよかった。現実なんて。俺の現実なんて、そんなに意味のあるモノか?

 おっさんももういない。アスタロットももういない。親父達は俺なんか要らない。

 縋れるモノがあるとしたら、あいつだけ。あいつしかいない。そんなあいつまで居なくなったら?

 それは仮定じゃない。必ず訪れる、決められたことなのだ。ランス……あいつは死ぬつもりだ。あんな頼りない子供を王にするために。守るために、誰かのために、命を投げ出すに決まっている。

 俺は、ランスを殺せない。でも………あいつが誰かに殺されたなら?

 俺は、俺は……どうするだろう。

 俺に、俺に……その時、残されるモノは。


(アスタロット……)


 俺は、俺は……、俺の……願いは。


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