16:Suggestio veri, suggestio falsi.
「おかしな話じゃないか部下に混血を置くなんて。前に本で読んだ話だとタロック王は混血が嫌いで、自分の子供を殺したんだろ?」
「正確には第二王子。第二妃のマリー姫。彼女はうちのお姫様だった人だってのも読んだ?」
「ああ」
「彼女が処刑されたせいで、国王派と教会派の対立が表立った。いろいろ問題を引き起こすお姫様だったよ」
会ったこともない人間をまるで顔見知りのように語るイグニス。その呆れたような言葉は、身近でそれを見てきたかのよう。
「愛してなかったから、殺せたのかな……」
ルクリースの持論を用いて話す俺に、イグニスは静かに首を振る。
琥珀色の両目は全ての真実を知っているとでも言いたげに、俺を見ていた。
「違うよ。愛してたのに、死なせてしまった。だから、彼は…………狂ったんだ。本当にどうでも良い人間は殺す価値すらないんだよ」
イグニスの声には深い重みがあった。冷たい瞳で彼は無価値を俺に説く。それは俺の知らない闇のそこを見つめているような……悲しい目だった。
「イグニス……?」
「だからじゃない?彼は代用品を求めている。彼がそれまで顧みなかった刹那姫を溺愛し出したのも、あの数術使いを拾ったのも……きっとそんな理由だ」
変わる話題にほっとしたのは俺だけだろうか。
「刹那姫って……セネトレアの王妃?」
「元々は狂王の正妃の娘。あの婚姻でタロックとセネトレアの結びつきは増した。ある意味一番厄介な国だよ。いずれ必ず敵になる」
ゲーム開始からの未来は殆ど不確定で見えていないと言っていたイグニスが断言するからには、それは避けられない道。
個人個人はカーネフェルにちょっかいを出して利益を得ているセネトレアだが、国家として敵に回ったことは今までは一度もない。タロック贔屓とはいえ一応は中立国。
このゲームは、セネトレアやシャトランジアまで戦争の表舞台に引っ張り出そうとしているのか。
表向きはカード自体で戦わせて革命を起こさせる様にも見える。それでも国の中枢がカードに選ばれている以上、話はそれだけでは終わらない。
結局は……何がしたいんだ、イグニスの言う悪魔達は。まるで……世界を戦わせ、滅ぼしたがっているようにしか見えない。
「ああ、なんか頭痛がしてきた……」
「大丈夫か?」
壁にもたれる俺を見上げるフローリプ。彼女はいつも俺を心配してくれるな。ちょっとしたことでもすぐに言葉通りに俺を信じて。
俺以上に思い悩んだ顔で俺を見る妹に、俺は苦笑する。唯の精神的な頭痛なのだとそう言って。
「あんま難しいこと考えるものじゃないな。らしくもないことすると駄目だな」
「……私はどちらの話もなんとなくわかるな」
彼女が俺に振った話題は、変えられる前の話題。
それをわざわざ蒸し返すからには、彼女なりの考えがあるようだ。
これまで沈黙を守っていた彼女。俺たちの話に耳を貸しながら思索に耽り、何かを思い悩んでいた。彼女はその答えを見つけたのかも知れなかった。
「愛してなかったから殺そうとした。愛してしまったから殺せなくなった。それでも殺してしまったら……もう、狂うしかない」
若草色の瞳が俺を見据える。それはもしもの話だ。もし彼女があのまま俺を殺していたら。彼女は狂王と自分を重ねたのだ。
妹は俺を愛しているとそう言っている。失えば狂うだろうと告げている。失わずに済んだことに安堵していると。
失った後に気付いてしまっては遅いのだ。その先には幸福なんて存在しない。代用品は所詮代用品。形の違うピースでは、胸に開いた傷口を塞ぐことは出来ない。
傷は永遠に血を流し、痛み続ける。
「俺も、殺せなくて良かったよ」
もしそうなっていたら俺もきっと気付いてしまっただろう。殺した後になって、取り返しの付かない過ちを犯した後で。心に開いた穴に気付いたはずだ。
いつの間にか飲み込んでいた、大切の欠片。それは硝子の破片のように胸を刺し続けることだろう。
ぽんと髪に手を置くと、彼女は曖昧な笑みを浮かべた。
「狂王という愛なんて言葉とは無縁そうな人間が、人間の感情の一つにそこまで踊らされている。不思議なものだ。人間とは思えない非道な行いをしている者が、誰よりも人間らしいなんて」
……そう言われればそうかもしれない。変な話だ。人間らしくない奴の方が、人間らしい振る舞いで生きてるみたいだ。
(いや……最初からそうだったんじゃないのかも)
優しい人だったとあの黒い騎士は狂王を語った。それを殺したのは、きっとこの世界なのだろう。それが彼を狂わせた。
彼に見える世界はどんな風景だったのだろう。優しい人間の心を持たず人間の皮を被り人間を演じる者達。それは彼からすれば人間ではなかった……そういうことなのか?
だから壊してしまえ。そう思ったのだろうか。
「人間の感情とは、恐ろしいものだな。心があるから傷つき、壊れ、狂い出す」
「そうだな……でも、そんなの間違ってる」
優しい人が優しい人のまま生きられる世界のために、優しかった人を殺さなければならない。
それは正しいことのはずなのに、酷く間違ったことのようにも感じられる。
「どうして人は、変わってしまうんだろうな」
変わらないでいてくれたら、殺す必要もなかったのに。
「アルドールは変わったことが嫌なのか?」
「いや、そういうつもりじゃなくて……」
「私は昔のアルドールは好きじゃない。だが今のお前は好きだ。それは私が変わったからなのかお前が変わったからなのかはわからないが……それは良いことなのだと思う。泣くことも笑うこともない退屈な今がずっと続く。それが不変なら……泣くことがあっても笑うことが出来る時間の方が私はずっと良いと思うぞ」
何も感じない心は嬉しいこともたいして嬉しく感じない。それでも悲しむ心があったなら、嬉しいことはその何倍も嬉しく感じられる。
あの屋敷にいた頃の俺とフローリプはそんな感じだった。心を凍らせると言うことは、何も感じない時間だけが流れる日々。一年があっという間に過ぎてしまう。
でも今は違う。一日一日が大切で、交わした言葉、合わせた瞳、触れた手の温度までが大切な記憶。いつか失われると解っているから、必死にそれを刻みつけようとしている。
こんな崖っぷちの瀬戸際に立たされるまで、俺は日々の素晴らしさというものに気づけなかった愚か者だ。
「……お前が居てくれて良かったよ」
「な、なんだ突然」
精一杯の感謝の言葉。それがなんだか恥ずかしかったので誤魔化すように彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫でてやる。それに髪が乱れると喚く妹。心なしか顔が赤いようなそうでもないような。
「きっと狂王には、そんな風に言ってくれる奴が居なかったんだろうな」
居てくれたとしても、彼はそれを信じる事が出来なかったのか。ルクリースの言った、他人を信じろと言う言葉を俺は今一度心に刻む。
それはきっと誰も彼も信じろと言うことじゃなくて、信じられるくらい大切な人を見つけていけということなんだ。
失ったら終わりじゃない。失ってもその人の言葉を永遠に出来るくらい信じられる自分を見つける。それがきっと大事なんだろう。
*
俺の耳に聞こえるのはカラカラと車輪の回る音。それから馬の走る足音。時折鳴る鞭の音。それ以外の音は、存在しなかった。
ランスと別れた後ユーカーは黙り込んでしまう。一番騒がしい彼が静かだと場の空気も重くなる。サラは最初の方こそ話を振ってくれたが、ユーカーの変化に習い、沈黙を守るようになった。こういう時彼を刺激してはいけない。長年の付き合いの彼がそう判断したのならそれが正しい。ユーカーは左目を閉じていたが、眠ってはいないようだ。布で覆われた彼の右目。その布の下がどうなっているのかはわからない。けれど彼が闇を見ていることは窺い知れた。暗い、暗い……遠い場所を睨み付けている。それは己が内にも救う闇。その闇を焼き払ってしまいたくても、それが出来ない自己嫌悪と葛藤。彼から感じるのは、物凄い威圧感。敵意と憎悪。今の彼は近寄れば誰であれ牙を向けるだろう。そんな気がする。彼もその自覚があるから俺たちから離れた場所に座っていた。
傍にいるイグニスとルクリース。二人に話しかける気も起きない。俺がそれを望めば彼らは付き合ってくれるだろうが、たぶん虚しい。二人を傷付けた原因である俺がノコノコと話しかける?そこまで脳天気にはなれない。そういう振りは勿論出来るが、それは俺にとっても彼らにとっても良いことだとは思えなかった。
イグニスは俺の感情が解る。沈んでいればそれにも気付く。彼の心配事を増やさないために、俺は無心になろうと目を閉じた。だからってそのまま眠ってしまうなんて、随分気が緩んでいる。イグニスが即位まで敵襲はないと言っていたからって……
(今の夢……)
脳裏に甦るのはフローリプの声。あの会話は確かにあったこと。夢じゃない。確か……黒騎士双陸と出会った後、俺が馬車の中で呟いた一言から始まった会話。
(フローリプ……)
俺は大丈夫だ。狂王とは違う。俺には俺を信じ、支えてくれる人がいる。その人達が居る限り、俺は道を踏み外さない。
俺が俺であるために、フローリプが必要だ。絶対、取り戻す。そしてまた、泣いたり笑ったり……下らない日々を送るんだ。
「くそっ……間に合わなかったか」
舌打ちをするサラ。俺の眠りでどのくらい経ったのか。それが短いものか長いものか俺にはわからない。けれど馬車の外の曇り空から落ちてきたものでイグニスの言っていた時間になったのだと知れる。
出発が遅れたせいで雨雲に追いつかれてしまった。これ以上雨脚が強まる前に都へ。馬を急がせるサラだったが、吹き込む雨風は激しさを増していく。
厄介なことに霧まで出てきた。方向を失うことを恐れ、俺たちは道の真ん中で立ち往生。
「……サラマンダーさん、この辺りに教会がありませんでしたか?」
都へはこのまま真っ直ぐ。けれど分かれ道が何本もある。その教会へはここから西へ曲ればいいのだと言う。分かれ道もない。
「教会?……ああ、確かにあったが神子さんよ、あれはもう……」
「雨宿りくらいは出来るでしょう。雨脚が弱まったら出発しましょう」
イグニスの提案に顔を渋くするサラ。しかしイグニスはそれを押し切る。これ以上は馬の体調にも良くない。第一俺たちも寒い。イグニスの体温調節の数術にも限度がある。術ではなく、かけられる側の身体に。
俺とイグニスは数術使いとはいえ零属性。無から有は作れない。雨風を防ぐ術を使うにも自分の体力を消費する。辺りが水の元素に満ちていてもイグニスはそれ自体を消費させることは出来ない。俺が何とかしても俺の体温が減る。それではあまり意味がない。
イグニス曰く俺は比較的何でも出来る数術使いだというが、寒さという弱点がある。俺の数術代償が体温なら俺は寒さで弱体化する。死なない程度の数式を紡ぐように制限を付けられている俺が今できることはどの程度のものか。敵襲はないと断言しても、万が一という心配。イグニスの発言はそれを危惧してのことだ。イグニスはあれだけの読みが出来るのに、保証のない見えない未来に自分の能力を過信していない。それが何となく解った。イグニスの決定にサラは嘆息しながらユーカーの方を見た。
「セレスタイン卿」
「……別にここは俺の領地じゃない、勝手にしろ」
彼への確認の意図するものは何だろう。ユーカーの絞り出した言葉はいつものように強気な口調。それでも、彼の翳りは拭えない。
勝手にしろ。そう言ってはいるが行きたくない。本当はそう思って居る。でも彼にはその言葉がない。サラは気付いているだろう。けれど彼がそう言っている以上、イグニスの決定は覆らない。
彼は貴族とはいえ一介の騎士。イグニスは聖教会の最高権力者。シャトランジアの国王と同等以上の身分と権力を持っている。仮にユーカーがそれを言葉にしたとしても、たぶん……イグニスの言葉は絶対だ。俺なら何とか説得できるかも知れないが、明確な理由がない。なんとなくユーカーが嫌そうだから。そんな言葉でイグニスが納得してくれるとも思えない。
「そうですか、それなら結構。勝手にしますよっと……!」
ユーカーへそれを伝えると、、サラは馬を操り道を曲がる。視界は相変わらず霧に包まれてはいるが、彼は勝手知ったる場所のよう、その道を進んでいく。目を瞑っていても進めると言わんばかりに。
そして五分弱。見えてきたのは田畑と畦道に囲まれた荘園。都にこれだけ近いってことは、都で暮らす貴族……それもかなりの権力者。その領地だったのだろう。
一言で言うなら、廃墟。捨てられた場所。人気がない。空間自体が死んでいる。俺の部屋、ユーカーの部屋と同じ。眠っている。けれど伸びた草木と這う蔦が時の流れを無慈悲に刻む。
貴族の領地の中には大抵教会がある。勿論ここにも。
法律上カーネフェルには奴隷が居ない。だから農奴という身分はない。けれど国民の大半は農民。生まれた場所が死に場所。一生を育った場所で多くのものが過ごす。
それなら領地に生まれた人間は、一生をそこで支配され過ごすと言うことだ。彼らの冠婚葬祭のために、教会は必要。洗礼結婚葬儀まで。表向きは文字通りゆりかごから墓場までをサポートしてくれる存在。仮に教会にイグニスの言う情報機関としての役割がなかったとしても、聖教会信仰圏の人々の生活にとっては必要な場所。現に俺だって、屋敷から逃げる計画の一環として礼拝の振りをして通っていたこともある。
「何ですかここ……随分寂れてますね」
馬車を駐めた馬屋は立派とは言い難い。所々雨漏りが酷いが、一応雨露は凌げるか。見回し降り立つ場所は廃墟。ルクリースの言葉は俺たち殆どの感想を代弁していた。
「シャラット卿の……元、領地だ」
それだけ俺たちに教えて黙り込むユーカー。ルクリースの言葉に何も言い返さないなんて、彼らしくもない。数日の付き合いの俺が彼の何を知っていると言われればそれまでだけど、今の彼はその俺が見てもそう思うくらい顕著な変化。喜怒哀楽……表情の変化が激しくくるくる変わる彼が、眼差し一つ変えずに、じっと唯一点を見つめている。その先には領主の屋敷……勿論誰かが住んでいるとは到底思えない。けれど彼は領主に挨拶をしてくると言い残し、雨の中に一人出ていく。その事情を察したサラは、そのまま俺たちを教会の方へと誘った。
その途中何度も半壊した家々を通り過ぎる。教会も似たようなものだろう。そう思っていたのだが、不思議なことに教会だけは違っていた。屋根も壁もちゃんとある。教会だけ離れた場所にあったから被害から免れた?蔦に覆われた外観は時を感じさせるが、扉の向こう……その中は完全なる停滞。
たった今蝋燭が吹き消されたような……温かさまで感じられる。人がついさっきまでここで生きて呼吸をしていた。そんな錯覚。
その温もりの違和感が醸し出すは不気味。こんなに心安らぐ場所なのに、俺は今湧き上がる薄気味悪さを止められない。
「……何だ、これ」
「情報システムの力。それを解除するまで教会は壊せない」
例え情報が発信されなくとも現場の保持は他の数術使いに情報を残す術。現にイグニスはこの場所から何かを知ったらしい。俺には見えない数字の欠片を読み取ったのか。途端にあの薄気味悪さも和らいだ。
「例え人は殺せても、情報は奪えない。真実は見える人間以外闇の中。ここを壊したのは普通の人間達だったんだろうね。そうでしょうシャラット卿の召使いさん?」
琥珀の双眸はサラに真実を暴き、追究する瞳。失笑しながらそれを肯定するサラ。
「……神子様は本当にどこまでお見通しなんですかね。それでいてわかっててセレス坊ちゃんをここへ連れてくるんだから質が悪い」
「近くで一番火の元素が多い場所がここだっただけですよ。壁は燃やされた炎の数を覚えている。皮肉ですがここを焼いた炎は今僕らの守りに変わる……水の元素の場所にはいたくない。エルス=ザインと違って……彼女は仕掛けてこないとも限らない」
「伏せてっ!」
たった一言。イグニスの声に弾かれるよう俺を守り、無理矢理伏せさせるルクリース。彼女に庇われた俺は数式展開一部始終を目の当たりにした。
それはこれまでのイグニスの数術のどれとも違っていた。そもそも数式とは……物質、空間に存在する数を書き換え、その式がすることによって起きる現象。今のは数術ですらない。奇跡、まるで魔法だ。数術だって十分魔法みたいなものだが、一応は理論という物が存在する。それが今の物からは感じられなかったのだ。全くと言って良いくらいに。叫んだ瞬間辺りの大気が輝いて、その構成数が変わり即座に反応。落下する天井壁と照明をを受け止める見えない壁へとなり俺たちをそれから防ぐ。
砂埃が収まった頃、上から降ってきたのはパチパチという乾いた音と、屍肉を貪る鳥のよう……ケタケタ笑う少女の声だ。
「流っ石お兄ちゃん!私のことよくわかってるね」
その声にすぐ傍のルクリースが戦闘態勢に入った。何時相手が仕掛けてきても迎え撃てるよう、さっきまで俺を守ってくれていたその温かな手には冷たい金属の輝き。
「お前はっ……」
「でも私もお兄ちゃんの考えることはよぉくわかるの、こんな風にね」
上を見上げたイグニスを習う前に、俺はもうそれが誰か気付いていた。眼下の俺たちを嘲笑う少女の名前。それは……
(……ギメル)
あの日と同じ綺麗な琥珀色の双眸に、今浮かぶのは悪意ともう一つ。悪意を何処までも純粋に愉しむ悦びだ。そのどちらも別れたあの日の彼女に重ならない歪の象徴。
「ご機嫌麗しゅうハートの女王?いきなりご挨拶ですわね天井ぶち抜くなんて流石貧民、はしたない」
「クラブの女王様も相変わらず元気そうだね、本当殺し甲斐があって困るよ。貴女は何時殺そうか悩むなぁ」
「ああ、勘違いしないでね。私は野蛮な貴女とは違って非力だから天井ぶち抜くなんて出来ないよ。時を忘れた存在に教えてあげただけ。貴方はもう終わってるんだよって」
ルクリースが様子見に適度な挑発。それにそのまま言葉としてギメルが切り返す。そこからもたらされた情報で先のことを俺は理解した。
イグニスの言っていた情報システム。それをギメルが解除し、時をカウントされた建物が崩れることになった吹き込む雨風に、先ほどの薄気味悪さが無性に恋しい……なんて言ってる場合じゃない。俺はトリオンフィの柄に手で触れる。何時でも抜ける。数術発動だって。ルクリースに比べて遅すぎるが俺も戦闘支度は整った。
「まぁ、こんなボロい教会ひとつ壊れたところで誰も困らないだろうけど」
「壊すことしかできないのは馬鹿と子供のすることだ。君はどっちなんだろうね。両方だったら救いようがないけどさ、僕と同じ顔でそういうこと止めてくれない?迷惑だ」
「あはははは!嫌!だってこんな下らないモノ恐れるなんて馬鹿馬鹿しいと思わない?罪を犯した人間ほど贖罪を求める。だから野蛮人以外は教会を恐れ敬い、壊さない。その畏怖信仰が守りとなるある種の結界反応」
「だから何?共通語の文法理解してる?少しは聞く方の身にもなってもらいたいな」
「でもそんなの私に言わせれば馬鹿みたいな話だよ。金と免罪符で救われる程度の罪なんて、鎮魂歌で癒される程度の霊なんて……何処にも居ない。何処にもないんだよ、そんなの。少なくともこの世界にはそんなもの有りはしない。死んだら終わり。それは消滅、ピリオド。永遠の停滞」
鏡を睨み付けるよう、うり二つの二人が言葉を交わす。イグニスがギメルへ返す言葉は他の誰への言葉よりも辛辣。それが記憶の中のどの情景とも重ならず、俺は見つけたつもりの答えが再び揺らぎ出す。
「嘘つき、偽善者、愚か者。ここにはそんな奴らばっかり。魔術師が詐欺師、非処女の女教皇に?他は何だっけなぁ……まあいいや。とにかくそんな風に世の中嘘ばっかり。聖教会だって悪徳商人と同じだよ。有りもしない物を売って金儲けしてるんだもん。そんな物を恐れるなんて愚か者の証。まだ野蛮な黒髪族の方が高尚な精神を持っているかもしれないね」
イグニスとの睨めっこにも飽きたのか、崩れかかった壁の縁を踊るよう跳ねたりくるくる回って遊んでいる様は無邪気な少女に見えるのに、言ってることは無邪気からは遠いモノ。ピタリと足を止めた彼女は天を仰ぎ両手を空へと翳して天地に宣言。
「私は恐れない。だってこの世には私を縛れる罪も罰も存在しない。神が肯定してるんだよ殺しの正当性を」
その声に従うよう鳴り響く雷鳴。俺にはそれが彼女の答えを世界が肯定したように見えていた。
俺が彼女を見ていることに気付いた彼女は、にやと俺に笑みかけて届くはず無い高さから片手を此方に差し出した。
「さてアルドール、この間の宿題は出来た?」
「………………ギメル、お前なのか?」
いささか確信の揺れる声。それに彼女は登場時と同じわざとらしい適当な拍手で俺に応える。
けれど彼女は今度こそ満面の笑み、それは何故?
「良くできました。半分、正解だよアルドール!」
当てられて嬉しい?違う。半分?ああ……口実が出来たのが嬉しいんだ。
「……でもね、半分は間違い♪」
俺のたった一言で、俺たちをいたぶる理由と口実が今、彼女の手の中に。
「枢要悪が強欲統べるは肆の神。欲望のままに歌えや踊れ、"死の舞踏"」
歌うような彼女の声に、足下の石版を引っぺがし地中から現れる人間達。数は二十前後。動きは大して早くないが、みんな心ここに在らずと言った虚ろな表情。一言で言うなら、唯唯不気味。
剥がされた石版の下には人が隠れ待機出来るようなスペースなんて見あたらない。在るのは土だけ。それじゃあコレはなんだっていうんだ。エルス=ザインの召喚術のようなもの?
けれどそれと同じくらい現象を聖教会の数式で展開すれば数術代償は非常に重い。イグニスはそう言った。それならコレは……
「なっ……何なんだ、これ!?」
答えが見つからない。考えれば考えるほど思考の糸が絡まる。その間にも敵は迫ってくる。ルクリースの放ったスローイングナイフが容赦なく突き刺さり、肉を抉り、あるいは急所を貫いた。それでも奴らの動きは止まらない。
「っく……イグニス様サラさん!アルドールを頼みます」
そう言い残し敵に突っ込むルクリース。
敵が俺たちの方に接近したことでさっきよりはっきり個人個人の顔が判別できるようになる。男も女もいるが年齢がよくわからないのは、皆痩せこけていて同じように白目をむいているからだ。よくあんな状態で歩けるモノだと感心でもしなければやってられない。
そんな風に思考を外して考えなければ嫌な想像しか出来なくなる。奥歯がカタカタ鳴っているのは事実。馬車旅の暇つぶしにフローリプが気味の悪い怪談なんか俺にするからこういう不健全な思考回路になってしまうんだ。フローリプ……戻ってきたら三ヶ月は怖い話禁止令布いてやる。
「さ、サラ?顔色が……」
「そ、そんな馬鹿なっ……あ、あああああれは!?」
ルクリースの飛び蹴りで一人。その吹っ飛ばされた奴に巻き込まれて更にもう一人を沈める。背後から襲おうとした奴に後ろ回し蹴り。ゴキッ。凄い音でそいつの首があり得ない方向に曲がった。確実に今のは素人目にも終わったと思った。ルクリースもそう思ったくらいだ。確かな手応えは彼女も感じていた。他の残党に狙いを付けようとした彼女を狙う影!
「後ろっ!」
悲鳴混じりの俺の声に彼女は裏拳。彼女の鉄拳は見事それの顔面を捉えたが、振り向く彼女は唖然とする。それもそのはず。俺だって驚いた。こいつは唯の人間じゃない。そもそも人間かどうかも怪しい。だって首が後ろを向いてるのに、後ろ……つまりは俺の方を見てるその顔はぼーっとした生気の抜けた顔。痛さとかそういったものがない。ないはずないだろう!?だって首がこっちを剥いてるのに。
そうだ、おかしいのはさっきから。こいつらルクリースの手加減無しの攻撃を受けながら悲鳴の一つも上げない。そんなこと、ありえるか?ナイフにやられた奴なんか心臓を何本も刺されてるのに普通に歩いてこっちに向かっている。
「音声数術っ!?偶神……肆の神の力、お前っ!?」
敵の正体の目処が立ったらしいイグニス。彼の声も驚愕に冒されている。そしてそれを嘲笑うギメル。
「あははははは!気付くの遅っそいよ"お兄ちゃん"?あれ知ってる貴方なら船でもう気付いてると思ったんだけど、何だ先読みの神子なんてこんなもの?意外と大したこと無いんだ」
「ああそうか。そういうことかあの悪魔っ!僕だけ有利な取引なんか、あいつがさせるわけなかった!不平等な癖に変なところで自分たちは正々堂々!?巫山戯るな!」
「イグニス様!何なんですかこいつら!殺すつもりでやってもキリ無いですよ!?」
「ルクリース、今俺もっ……」
足を引っ張ると行けないと思って見ているだけだったが、こんなわけのわからない奴ら相手に彼女一人任せられない。抜刀した俺を制するイグニスの手。
「ルクリースさんここは僕がやります、貴女はアルドールを」
「……お願いしますイグニス様」
ルクリースも見たことがないような得体の知れない相手。それに心当たりのあるイグニスに任せることを彼女は素直に聞き入れた。それはイグニスへの信頼だけではない。恐怖だ。
俺の傍まで下がったルクリースの顔色が優れない。あんなの間近で見たら血の気が凍るはずだ。俺だってまだ怖い。
フローリプの怪談の時は子供の話に合わせて適度に怖がり適度に俺をからかったりしていた彼女。それはルクリースが世界をよく知っていてそんなモノにであったことがなく、怖いのは生きている人間そのものだと知っていたから。それがどうだ。こんなものに引き合わされたらわけがわからなくなってしまう。まやかしでも見せられている?手応えのあるまやかしなんて更にわけがわからない。混乱に拍車がかかる一方だろう。
俺には回復数術は使えないが、俺はイグニスと同じ零の数術使い。イグニスに出来ることだったら理論上俺にも不可能ではない。上手くいくか行かないかは別の問題だけれど、簡単なモノならきっと上手くいく。感情不和数を取り除き精神を落ち着けるくらいだったら俺にも出来るはず。片手をトリオンフィに触れたまま、空いた片手でルクリースの片手を掴む。
「……アルドール?」
「俺も、いるから」
大丈夫なんて言葉は疑問でも断定でも無責任。だからそんなの言えなくて。
何が出来るかわからない。足を引っ張るかも知れない。それでも傍にいる。下手な慰め何かより、おそらくずっと確実だ。
「…………そうですね、ありがとうアルドール」
礼を口にし目を伏せた後、すうと息を整え二つの青で俺を見る。
「でも、私もいますから」
そう微笑む彼女はいつもの強気なルクリース。もう立ち直ったとは、彼女らしい。いつも頼ってるお礼は数秒でまた返されて、立場は元通り。また俺が守られ彼女に頼る番。
数秒でも恩が返せたなら俺も嬉しい。さっきの恐怖なんか、いつの間にかどうでも良くなっている。
「聖教会の敷地に穢れた死者を喚ぶとは、教会罪に境界罪の侵害。良い度胸……」
普段信仰神をボロクソに言ってる神子でも教会は別のようで、イグニスはかなり怒ってる。自分の家に不法侵入されたような気分だろうか。ちらりと周りを見回して、ああ……確かに嫌かも知れないと納得しそうな俺がいる。
「……って、死者?」
イグニスの言葉から俺と同じ疑問を拾ったらしいルクリースは、手っ取り早くサラを締め上げていた。
「サラさん、貴方は何かご存知なんですか?ですよね?ごらぁとっとと吐け!」
「る、ルクリース!落ち着いて!」
元気になりすぎだルクリース。数術失敗したのかまさか。
彼女を止めてサラを解放させると、彼は咳き込みながら言葉を紡ぐ。
「あ、あれは……ここの元使用人達だ。忘れるもんか何年仕事仲間やってたか!生きてるはずがない!墓だって建てた!俺が仕事で外に馬車を出してる時にここの奴らは全員殺された!」
「つまり……あの女は、死者を暴いているってことですか!?」
「人聞き悪いなぁー、私はこの子達の未練を叶えてあげてるだけ」
ルクリースの言葉に口を尖らせながら割り込む半ギメル。
「……未練?」
「"殺されるくらいなら殺せば良かった"、そういう敗者の未練。死の瞬間生まれる最後の人間の欲望だよ。アルドールもいつか思う日が来るよ、私に殺されるその時に」
俺の疑問にすぐに答えるのはイグニスのそれによく似ていた。それでも違う。イグニスは離れた場所で数式を紡いでいる最中。彼が居るのは、丁度穴の空いた天井の下。雨に当たりながら時と間合いを計っている。完成が近づき輝き出した数式。それに目を奪われるが、ルクリースの声で俺は意識を此方側に引き戻された。
「馬鹿にしないで!アルドールはそんな子じゃありません!貴方は全然わかってないわ!」
ギメルへの物理攻撃は船の時のように効かない可能性がある。迂闊に攻撃するのは危ない。第一高さが違う。ルクリースのナイフでも彼女の居るところまで届かない。その衝撃で壁や装飾の落下が起きて危ないのは下にいる俺たち。彼女たちが始めたのは言葉のナイフの投げ合いだった。ギメルがそれに付き合う通りは無いのだが、彼女もそれを愉しんでいる節がある。それが俺を貶めるために一役買っているからだろうか。
「あはははは!!それがないってことはやっぱりアルドールは人間としては出来損ないの欠陥品!人形止まりだって証明だと思わない?」
「この子が欠陥品なら、人形なら……あんたはそこの瓦礫以下よ屑女!」
ルクリースの怒声。それと同時に響く轟音。彼女の声が鳴神を呼んだ……わけではない。
「枢要徳が正義冠する捌の神!我が名が命じる、断罪の矢!」
雷鳴の鳴る直前、彼女の声と重なるよう響いたのはイグニスの声。それと時を同じくしてイグニスの数術発動。
彼がやったのは、二重数式。
一つはちゃんとした書き換え効果の数術。彼は敵を全て間合いに取り込むために、わざと計算をもたつかせ遅らせた。
けれどもう一つは……書き換え効果すらない。イグニスの言葉が速攻数式に変わり、彼の翳した右手に落雷。
勿論このままではイグニスも危ない。けれどその辺りはぬかりないのがイグニスだ。彼が直前に紡いでいたのは自分への書き換え効果。体内構成数を水と同じそれに変えたことで、雷は彼の身体を通過して、足下の雨水を伝い死者ら全員を襲う。イグニスは待っていたのだ。敵全員が水を踏むのを。
「終わりだ、眠れ。何時か永久へと至るまで」
電気は死者を撃つだけでは収まらず、教会が纏う火の気が引き起こすは発火。彼らを舐める炎。それが暴くは彼らの忘れた真実。聖なる炎が照らすのは人間ではない。全て、骸骨。首が反対を向いたところで死ぬことも痛がることも泣くこともない骸。
浄化の炎が引き起こす物質分解。ギメルに操ることも出来ないほど小さな粒子へ変えて、イグニスは彼らを土へと帰す。数多の煌めく粒子の中央に立つ彼の表情は険しい。彼が見るのは唯一点。その一点が次第に下がる。落雷も炎をも我関せずと無傷のまま。どれだけ少なく見積もっても二十メートルはあるであろう高さから飛び降りても足をくじく様子もない。今回も実態かどうか怪しいものだ。ルクリースの判断は適正だった。
「ぱちぱちぱちっと。さすがはお兄ちゃん?四には八で相殺かぁ。捌の神って言ったら偶神側じゃ最高神じゃない!契約更新随分進んだんだ」
「死者は罪を犯さない。どんな悪人でも死はそれ以上の罪を彼らに作らない。お前はそれを侵している。だから僕は……お前の存在が赦せない!」
「お兄ちゃんてば頭堅いー」
「ギメル以外がその名で呼ぶな!虫ずが走る!」
軽い調子のギメルの声に、不快感を顕わにするイグニス。イグニスの剣幕に負け、口を挟むことも出来ずにいた俺だが、その一言には口が反応してしまう。
「ギメル、じゃ……ない?」
二人を凝視する俺。嗤う彼女と、苦悩の彼が俺を見る。
「アルドール……ギメルは偶神の力は使えない。こいつはっ………がっ、……」
意を決したよう口を開くイグニスだが、その言葉は途中で止まった。その刹那、糸を切られた人形のよう彼の身体が傾いで倒れる。
「イグニスっ!?」
駆け寄り抱き起こすと、彼は咽を押さえ苦しげな呼吸を繰り返す。何かを言いたげに彼は口を開けるが、その度に彼は咳き込む。
うろたえる俺の頭上から落ちる声。俺がそれを見上げれば、彼女がイグニスの行動を浅はかだと嘲笑っていた。
「お兄ちゃん、それは許されてない。……でしょ?何?馬鹿なの?死ぬの?ルールも忘れたの?」
イグニスへの暴言に生じる怒り。俺の息が荒くなる。上昇した体温が数術を炎に変えてこの女を焼き殺せ、切り刻め。俺にそう告げている。
俺の敵意の宿った視線に彼女はさして怖くもなさそうに「怖い怖い」と笑い出す。
「貴方はその時、"貴方"が知っていた情報しかアルドールに真実として伝えられない。でも貴方はアルドールに話したくないことも話せないこともある」
「だから貴方は大嘘つき!可哀想にねアルドール、貴方は大事な大事なお兄ちゃんにもう裏切られてるんだよ?」
「……だから、何だ?」
「え?」
「もし仮に……裏切られても、俺はいい」
怒りの温度をある場所を通過すると、逆に頭が冷えてくるという事を俺は知る。強すぎる感情は、俺の声を低く変えていく……
怒りが生んだ矛盾の炎が俺の瞳を冷たく光らせる。暗く深い憎悪の青は、氷を偽る炎かそれとも炎を騙る氷の輝きか。今炎を出したらきっと触れるものすべてが温度感覚を失うだろう。炎に焼かれているのか氷の海に溺れているのかさえわからず、目に見えるモノをそのままに捕らえられずに現に惑う。
これ以上イグニスに何かを言うなら俺は彼女を燃やす。その意志を読み取ったのか、彼女は口を閉ざし俺を見るだけ。
「話せないことなんか誰にだって一つや二つあって当たり前。それを粗探しして裏切る?裏切られた!?そんなのは内にも入らない!」
友達ってのは何もかも共有する相手の事じゃない。嘘も本当もひっくるめて、そのままの相手が大事で何が悪い?
何もかも暴きたいなんてのは傲慢。全てを知って欲しいとか思うのは依存。岩に鎖で繋いで飼うのが友達だなんてあり得ない。
「信頼は心を預けること!心を預けるってのは心臓相手の掌に託すようなもの。それ握りつぶされても後悔しない!恨まない!ずっと好きだって思えるのが友達だろう!?俺は裏切られようが騙されようがっ……俺はイグニスを信じてる!勿論ルクリースも、俺の大事な友達だ!」
今日の大切が明日敵になろうとも、俺にとっては明日も変わらず大切なんだ。
立ちはだかるなら戦わなければならないだろう。この手にかけることもあるかもしれない。それでも俺はその際殺されても恨まない。トリオンフィ。俺はこの名前を愛したよ。俺は死の凱旋をも越えてみせる。何時の日か。
「俺はアルドール=トリオンフィ!永遠を作り出す男の名前だ……覚えてろ!」
俺の宣言に、辺りの炎の元素が祝福するよう騒ぎ出す。パチパチと走る音。抜刀すれば一気に火が付き、炎が聖堂に広がっていく。
火の元素の勢いに押され、彼女は舌打ち。元の天井際まで引き返す。
「アルドール……」
背後でスンと鼻を啜る音がする。俺を呼ぶルクリースの声も鼻声だ。小さく笑った後立ち上がったイグニスは、真っ直ぐ俺の方を見る。
「僕は言えないことも話せないこともある。だから言える範囲で君に言う」
「僕には言えない真実がある。だから、それは君が気付いて、見つけてくれ。いつか……君が」
「……わかった、約束する」
俺が頷けば、彼は微かな声でありがとうと囁いた。そのすぐ後に、凛と張りのある声で彼は証明展開。
音声数術。彼が自分で言った言葉だ。彼の言葉は言霊。力あるモノへと変わり、解となる現象を引き起こす。
「…………"偶神の力を使えるのは零の数術使いだけ"、"奇神の力を使えるのは壱の数術使いだけ"!"ギメルは壱の数術使い"!"お前は偶神の力を使った"!"お前は零の数術使い"!」
断定で打ち出される言葉達。それを締めくくる一文!
「これから導き出される解は、"お前がギメルであることはあり得ない"!」
空間が光り、割れる音。“彼女”の偽りの可視数術を暴く言葉の刃。イグニスの音声数術が切り裂いた先の真実。そこには何もなかった。
何も見えない、透明。幻は消え、声だけがかろうじて残るだけ。それが恨み言のようにイグニスに騙りかける。
「……貴方が私の何を知っているって言うの"お兄ちゃん"?貴方が知ってるのはあの私だけ。"カード"の私は知らないでしょ?だって知るはずもないんだもん当たり前だよね。片割れなんて言っても所詮は別の人間。赤の他人。私達は同じじゃない」
「貴方は愚かだね。余計な雑念に支配されるからそんなにも雁字搦め。糸が絡まってもう断ち切ることも出来ない、苦しいだけなのに藻掻いてる。貴方の首に絡みついた運命の糸はもう解けない。糸を切るより首を切る方がずっと簡単。安心して、終わりはそう遠くない日貴方に必ず訪れる」
馬鹿にしたり哀れんだり。それをじっと耐えるイグニス。けれど彼はそれを終わらせた。声が彼の逆鱗に触れたから。
「だってさぁ、お兄ちゃんはまだアルドールの傍にいたいはずだもん。そうだよね?お兄ちゃんが死んだら、私はアルドールを殺す。死んだ貴方はそれを止められない。それが運命、貴方の見た未来でしょ?」
「その前に僕がっ……お前を殺してやる」
「あはは!さぁ、出来るかなそれは」
敵意と嘲りの衝突。
「直接は無理でも、僕には出来る。忌むべき僕の半身、僕の片割れ、呪われたお前。僕の最初の契約数術が何か、お前は一番知っていたはず。僕の最初の契約数術が、誰によるモノだったか」
「……"僕はお前なんか大切じゃない"。"お前なんか地獄に堕ちろ"、"呪われろ"!」
別れたあの日のよう、呪いの言葉を紡ぐイグニス。それは俺にじゃなくて、外へたたずむ薄闇へ。
「……本気?頭、おかしいんじゃない!?」
「"お前は知らない"、でも"僕は知っている"!"本当の幸福"を!お前の望む"世界の何処にも幸せなんか有りはしない"!"虚しいだけ"!"愚者はお前"だ!お前に呪いの言葉を贈ろう」
「"Eram quod es, eris quod sum." "Tu fui, ego eris"!」
それを呪いと呼ぶには、あまりに綺麗すぎた。これまでの憎しみを帯びた声じゃない。
彼の声は歌うよう高らかに空へと響き、発する言葉……一つ一つが光を放つ。彼は祈るようその言葉で、自分と彼女を繋ぐ。タロック語でもカーネフェル語でもない古代言語。それの意味することを俺は理解出来ない。それを知ることが出来たのはイグニスと、もう一人だけ。
「…………それだけは、絶対にあり得ない。貴方と私じゃ、見える景色が違う」
返される声は僅かに悲しみを帯びて。今イグニスの目に浮かぶ感情と重なった。
彼女の悲しみは俺には見えない。声はすぐにそれを隠していつもの嘲笑を始めたから、もう見えない。
「大体貴方と私とじゃ、駒として優劣も違うのわからない?私はチェスでも女王。守られてばっかりのアルドールは勿論王様。お兄ちゃんはビショップ。真っ直ぐ進むことは出来ないところが"らしい"でしょ?そこのクラブの女王様は数術使えないしルーク。ロードナイトの二人がナイトで、他のヌーメラルの数兵はポーン」
君は誰?その答えも再び闇の中。偽りを暴かれても彼女はまだ彼女として言葉を紡ぐ。何かを必死に否定するよう、彼女はギメルを演じ続ける。
「先手はいっつも私だから私は白の女王?……"らしく"ないなぁ。赤と黒のチェスのが、ずっと"らしい"か。このゲームはねアルドール、トランプっていうよりはチェスに近いんだよ」
盤面が広く、駒が多過ぎる四面配置。対戦相手は壱の神と零の神。勝利敗北条件も普通のチェスじゃないけどと声は笑った。
「アルドール、このゲームは王が死んでも終わらないし、王を殺しても終わらない。最後の駒が、本当の王様になるの。だから貴方はカーニバル王なんだよ。生け贄の王様、貴方は殺されるために生かされているの。無傷でみんな無事で私を殺せると思う?あはは、そんなの無理だよ。自分も仲間もみんなサクリファイスにするくらいの気負いがなきゃ、貴方達は私を倒せない」
「だから、そう言ってるんだ」
大きな声ではなかった。それでも強い意志を纏ったその言葉は大気と俺の胸を振るわせる。
「"僕はお前とは違う"……僕はもう、自分の死を恐れない!」
事も無げに吐き出された言葉。俺より小さな身体が容易く死を口にする。
「僕はアルドールを信じた。信じてる!彼さえ生きてれば僕の見た未来は絶対に変えられる!そのために死んだって僕はいい!」
諦めじゃない。確かな意志の光を宿し、煌めく琥珀はこれまで見たどの色よりも美しい色を映し、俺を見た。
嬉しさとか悲しみとか矛盾した感情。反則だ。嬉しいのに、泣きたくて仕方がない。何を言えば良いんだろう。わからない。唯彼の名前を馬鹿の一つ覚えのように嗚咽と一緒に繰り返すことしかできない。それに「何?」と涼しげな眼差しの彼。少しだけ突き放すような態度は彼の意地の悪いからかいだ。
死なないで。何処にも行かないで。傍にいてくれ。俺に守らせてくれ。
言いたいことは沢山ある。でも、守れない約束はなんて無責任な言葉だろう。悲しくなるのは自分の方だ。言えないよ、そんなの。
俺の例える俺の死を、彼は絶対になぞらない。そのくせ自分は自分の避けられない、避ける気もない死を軽々しく口にする。一人でも十分辛いのに、それは一人だけじゃなかった。
「私も同じです、イグニス様」
隣にいたルクリース。彼女は俺を庇うよう俺の前に出る。
「んな覚悟決まってない奴何処にもいないんです!私もイグニス様も!フローリプだって!アルドールの作る未来を信じてる!守れて死ねるんなら!それまで傍にいられるんならっ!私はこの上なく幸せなんだよ!」
彼女の背中に守られて。その強さに胸が痛んだ。
手を伸ばせば届く距離。それもきっと、失われるモノなのだ。
「イグニス、ルクリース……」
「ふぅん……いい仲間を持ったね、アルドール。とっても壊し甲斐がある。そこまで言うなら守ってみせなよ、彼の心までは守れない貴方達でも身体くらいは守れるんでしょ?精々守って見せなさい!そこまでこの私に言ったのだから!」
「アルドール、貴方のナイトとポーンが屋敷でお待ちかね。宴の用意は調ったよ、謝肉祭の宴の始まり!聖杯を満たす葡萄酒は五本も用意してあるの。どのコルクが最初に抜けるか、楽しみね?」
早く行かないと、客を待たずに始まっちゃうよ。そう俺たちを急かす声。教会から抜け出す俺たちの背中にかかる笑い声。
「そうそう、貴族のアルドールならチェスのルールくらいわかってるよね?ここはどこ?よぉく考えてみて」
(……チェスのルール?)
声は俺たちをこれ以上追うつもりもないようで、攻撃すら行わずに俺たちを見送った。イグニスに暴かれたせいで言葉の悪意を送る権限しか残されていなかったのかも知れない。
雨の中サラに教えられた屋敷へと走る。その間、俺の頭を占めるのはあの声の最後の言葉。チェスのルール。何故彼女がそんなことを俺に言ったのか。
嫌な予感がする。彼女が俺のためになることを言うはずもするはずもない。
「ユーカー、フローリプっ……」
ナイトはユーカー。ポーンはきっと数兵のフローリプのことだ。ユーカーは屋敷に向かった。フローリプもそこにいるのだろう。
「駄目だよアルドール、祈らないで」
どうか無事でいてくれ。そう心に念じた瞬間だった。イグニスが俺にそう告げたのは。
「君が望むなら僕らが願いを現実に変えるから。僕たちの手で変えるんだ。助けるんだ。神なんか、要らない。そうだろう?」
「イグニス……」
「君は弱いんだ。幸福値もずっと少ない。君だけは絶対に天に祈っちゃいけない。君は天じゃない、前を向いて走るんだ」
「前……ああ、そうだな」
俺が見るべきは現実。こうなればいいのになんて言う幻想へ逃げてはいけない。それを望むなら、もっとしっかり前を見つめて……見極めて、今を生きる!
見えてきた。屋敷の門だ。その向こうにあるのはトリオンフィ邸より小さな、それでも立派だったのだろう豪邸。門塀は所々崩れ、穴が開き……庭は荒れ放題。
間近まで来ると遠くから見ていたときと屋敷の様子が変わっていた。当時は……じゃない。今俺の目に映る屋敷は現在進行形で立派な屋敷。教会内部と同じ、時の停滞が発生している。
「数術が働いてる……何か、ある」
扉に鍵はかかっていない。それでも突入前に俺の意思を確認するようイグニスがこちらを見て呟いた。
「ああ、でも……」
覚悟は決まってる。そう視線で伝えると、彼もそれに答え微笑んだ。自分も側にいるからと。
それを見た後気合いを入れるよう、ピシャリと自分の頬を打った後、にやと強気に笑うルクリース。
「イグニス様がいるのなら、どんな絡繰りも解けますよね。私もさっきみたいにはいきませんから!」
「頼りにしてる」
「はい!アルドール!」
俺の言葉に、嬉しそうに笑うルクリース。
(でも俺だって……)
簡単に二人を奪わせたりなんかしない。俺だって出来る事はあるはずだ。二本の両手。これは誰かを守るためのものだろう?そのためにあるんだ。
手放さない。失ったりするものか。
重々しい扉の音にだって怯えない。その先に何が待っていたって、俺は……