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11:Inter pocula

 王都の近郊都市カルディア。この街の南と北に横たわる二本の長い城塞。その両脇を山脈に囲まれているため、南部から王都に向かうにはこの街を通過しなければならない。南と北、街の入り口にはそれぞれ関所があり、検問が敷かれている。けれど、今それを行っているのは金髪のカーネフェル人ではない。

 

 「ちょっとこれ、一体どういう事です?」

 

 先を行った馬車達が次々に追い返され、すれ違う。その時にそれを尋ねてみて俺たちは愕然とした。

 商品の出荷に来た農村の人々は重いため息を吐き、肩をすくめる。

 

 「カルディアは今、タロックと騎士団が一戦やらかしてるんだよ」

 「へ?タロック軍?!」

 

 もう北から川を渡ってきたのか!?王都より南のカルディアが攻められていると言うことはもう、都は落とされている?

 

 「違うよ……どうして今、此方側が通れないか考えて」

 

 俺の動揺を抑えるよう、イグニスがそっと俺の肩へと触れる。

 

 「……まだ都は無事。南の関所がタロックの手に落ちたけど、北の関所はまだ守られている?」

 「そうだよ、正解」

 

 俺の言葉に小さく微笑み、「でも」と続けるイグニス。

 

 「……早すぎる。…………馬鹿なことを」

 「イグニス、何か知ってるのか?」

 「アルドール、普通に考えれば僕らが追い越されるはずがないんだ。数術でも使わない限り」

 

 そうだ。追い越されるはずがない。

 イグニスには勿論怒られたが、タロックの騎士と遭遇したことは教えた。

 その位置を把握した後、イグニスはすぐにルクリースに出発を促しそこからはひたすら北上。

 ルクリースの疲労はフローリプがイグニスに教わったという回復術でカバーし、睡眠もそこそこに進んのだ。俺も二人の負担を減らすため、イグニスにそれを教わろうと頼み込んだが、君には無理だと一蹴され、苦虫を噛む思いを味わった。何も出来ない俺は馬車に揺られながら、体力の温存だけに専念。

 それだけみんなに無理させて進んだのだ。人数の少ない俺たちの方が早く進める……そのはずだったのに。

 

 「あの数術使い。多分、近くにいるよ。ここまで自分の部下ごと転送したんだ。何人いるかわからないけどすごい計算量だろうね、混血じゃなきゃ完全の脳が破裂してたと思う」

 「そ、そんなこと出来るのか?」

 「不可能ではない。唯、どれだけの代償を払ったんだろうな」

 「代償?」

 「混血は脳内計算だけで数術を使うんじゃないんだ。純血より大きな数術を使える代わりに、代償がある。それが何かは人それぞれだけど……危険なのは効果に比例する」

 

 命を削るような数術。それは数術の才がない凡人からみたら奇跡、あり得ない話。

 そのあり得ないを可能にする力を予想できなかった。それがこの街の敗因。でも誰が想像できるだろう。厳重の警備をものともせず、内側に出現する敵に。

 これはイグニス……いや、聖教会のせいだ。聖教会が数術使いを独占しているため、聖教会以外の人間は本当の数術を知らない。見えないものなんて信じられない。見えるようになった今でも、俺はこれが本当なのかよくわからない力なのだ。だから、数術が使えない人にとって、それはまやかしで、数術使いなんて詐欺師のようなもの……そんな認識。

 本当に何が起こったか解らないまま制圧されてしまったんだろう。

 

 「どうして……そこまで」

 

 あの数術使いは、自分のためだけにそんな数術を使ったのか?俺への憎しみだけで己の身の危険も顧みず?本当に、それだけなのか?

 数術はメリットが大きい分、デメリットも大きい。

 そんな話を聞いて真っ先に心配になるのはイグニスだ。彼だって普通じゃ想像できない魔法のようなことを何度もやっている。彼の代償は……?イグニスは教えてくれないし、俺には聞けない……怖いんだ。聞いてしまえば失うと言うことをはっきりと目の前で宣告されるような気がする。聞けない、それでも心配くらいは……してもいいよな。

 お前は無理するなよと目をやれば、君だって例外じゃないと返される。イグニスはまだ数日前のことを根に持っているようだ。

 そう言えばこの間俺が何となくやってしまった空間移動らしきもの。あの後イグニスにこっそりこってり叱られた。俺が触媒のトリオンフィを使わずに適当に書き換え効果を行ったため、イコールで結ばれた過程と解が間違っていてその数式をたどるのが大変だったとか、それは危険な行為だったんだとか、最悪死んでいたとか。

 イグニスが言うには俺は零の数術使い。物を生み出すようなことは出来そうで出来ない。何かを犠牲にそれを別の物に変えることは出来ても、引き出しにない道具は使えない。その引き出しとは、俺自身の温度。トリオンフィにイグニスが刻んでくれた数式のおかげで、俺は偏った素材を使わずに身体全体から均等に僅かの体温を拝借……犠牲し、そこまで命に別状のない数術を紡ぐことが出来る。

 大げさな話だが、もし間違って犠牲にする熱は心臓オンリーだとか脳みそオンリーなんて計算をしたら、俺は死んでいたというわけだ。後から聞いてぞっとした。

 

 「彼……たぶん、放っておいてもその内死ぬだろうね。そんな無茶な使い方で最後まで生き残れるとは思えない」

 

 淡々と死を予言するイグニスに、あの混血の顔を俺は脳裏に思い描く。彼のしたことは許せることではないが、彼を思う時頭をかすめる疑問があった。

 

 「あいつ……混血なのにどうしてタロックに付いてるんだろう」

 

 タロック王……どんな奴なんだろう。道化師以外の、俺が戦うべき相手。俺がその人物について知っているのは人伝えの悪い噂と書物の情報。それはお世辞にも良いとは言えない狂気の沙汰だ。

 何を思ってのことかわからない複雑なため息。それを吐いたところで気が晴れることはなかった。

 何度かそんなため息を繰り返す内、馬車は前へと進みタロック人の検問に差し掛かる。

 彼らは俺たちを一別し、引き返すように言い放つ。関所をどうにか突破できないか企んだルクリースが色目を使っても駄目だった。

 

 「カーネフェル人の通行は一切認めん!引き返せ!青目共!」

 「なっ……」

 

 そのまま兵士を蹴り殺しそうな剣幕になるルクリースを必死になだめ、なんとか引き返す。

 街が小さくなるほど離れても、ルクリースからはまだギリギリと歯ぎしりが止まない。

 

 「私の色目が通じないなんて……あいつ絶対同性愛者だわ。きっとマッチョな兄貴じゃないと興奮しないとかいう変態に違いないです。もしくは戦場で薔薇に目覚めたのよ。少年性愛かもしれない。どっちにしろ呪われろ地獄へ堕ちろ!」

 「お、落ち着けよルクリース」

 「……超shit!壮絶fuck、むしろ勦絶damned!私のお色気は万国共通なんですよ!?セネトレア時代に実証済みですよ!?その私が通じないなんて……許せません!確かにタロークの野郎共は少子化で周りに女が居ないですけど居ないですけど!そういう奴の割合多いですけど!多いですけどっ!」

 

 タロークって確かタロック人って意味だけどカーネフェル人がそう呼ぶときはタロックを侮蔑の意味で使うのが多い言葉だ。

 似たようなのでカーネフェルがカーネフェリー、セネトレアがセネトレー、シャトランジアがシャトランジー。とりあえず伸ばせばいいらしい。

 

 「る、ルクリース……?」

 

 いつもなら可愛らしいと言えなくもない彼女の顔が、鬼のように恐ろしい。瞳の青が俺の炎のように焚けて燃え怒り狂っているのに対し、目尻はつり上がることなく口元は穏やかな笑みを形作っているのに、そこから漏れるのは人間のそれとは思えないような笑い声。

 

 「ちょっくら情報収集ついでにタロック軍の悪評流してきます」

 「ちょ、ちょっとそういうの止めろよ本当に」

 

 数十分後、道から外れた場所に停めた馬車に情報収集から戻ってくるルクリース。物騒なことを言い残し去っていくルクリースだったが、戻ってきた頃にはすっかりいつも通りの彼女。どんな悪評を流してきたのかは気になるようなあんまり知りたくないような。

 それと引き替えに仕入れてきた情報……彼女が言うには、コレは通行止めだけではないようだった。

 

 「人捜しもしてるみたいですね」

 「人捜し?」

 「ええ。一人は明らかに"お嬢様"です。変装して正解でしたね」

 

 ……そうだ。ここで男の格好は目立つとと俺はルクリースの服を着せられていた。髪の方はといえば、フローリプに遊ばれて彼女と同じツインテールにリボンという辱め。ちなみにイグニスはフローリプの服を借りただけ。髪を弄らなくても服装一つで女の子に見えるから羨ましい。混血は美形で造形が整ってるからだろうか。

 俺とイグニスが女装なんてさせられているのには理由がある。別に俺たちがそう言う道に走ったとか趣味に目覚めたというわけではない。断じてない。

 先日寄りかかった場所ではカーネフェル人の少年が指名手配されていて、"金髪青目でロン毛の三つ編み。年は十五、六"。それを探しているのはタロック軍。見つけたら褒美を与えるが匿えば処刑というアメムチなお触れが広まっていて、数少ない若い男が旅するには更に危険なカーネフェル。完全に俺のことですね、わかります。ということで、女装。

 変装したイグニスは女の子に見える。というかそのまんまギメルだ。

 うっかり恐怖とときめきが同時に襲ってきてどうしようかと思った。「何変な顔して見てるの気持ち悪い」と辛らつな言葉を言われ、ああこれはイグニスだったと安堵の息を吐いた様な気がする。

 しかし問題は俺だ。イグニスみたいにすんなり女装が出来るとも思わない。思わないのだが……願掛けで髪を伸ばしていたのを良いことに、女二人に大分弄られ遊ばれた。着せ替えから髪弄りからとっかえひっかえ……俺は人形じゃないと叫んだが、「ドールだし人形じゃない名前が」と返されて……もう言い返す気力もなくなったのを思い出す。

 ルクリースとは背丈がそんなに変わらないから彼女の服で間に合った。胸の辺りなんかは凄い余るけど。

 ……とまぁ女二人のお人形遊びの結果、俺はツインテールにリボンに……という貴族以前に男としてのプライドをバキバキにへし折られてなんかもう泣きたいという有様。もし疑われたらイグニスの騙し数術で視覚変化を引き起こしてもらおうと思ったが、大丈夫だったみたいだのがまた何とも言えないもの悲しさを俺に与える。

 

 「ところで"一人は"ということは他にも?」

 「はい。私達ではありません。どうやらカーネフェル軍の……ロードナイトの方のようです。南部の指揮を任されていたお強い騎士様らしいですね。都の危険を耳にして此方に向かっているらしいですが……」

 

 ロードナイト。聞き覚えがある。カーネフェルの歴史書で何度か目にした名前だ。

 

 「ロードナイト……って国王の腹心中の腹心、だったか?」

 「うん。その当主は地方の警備を任せられる辺境伯。その子供達は中央に仕えて、その守護を行う。指揮を任せられるっていうことは……その中でもかなり信頼を預けられた騎士だろうね」

 

 引き返す人々はタロックへの恨み言を口にしながら……ロードナイトを希望と縋る。

 その人が帰って来てくれればと。

 

 「ロードナイト様達には耐えて欲しいけれど……今はあの方がいないから」

 「いや……あの方が戻ってきてくだされば、それまで耐えて貰えれば大丈夫さ」

 「王もアロンダイト卿を心待ちにしているわ。彼が来れば、あんな黒髪共追い返せる!その時はあの髪毟り取ってやりましょうよ!」

 「はっはっは、焼き畑も悪くないぞ」

 

 人々はまだ、王の死を知らない。都が落とされない限り、いくらタロックがそれを言っても誰も信じない。王が城を空けるはずがない。そう信じている。

 王自ら出陣するほど危険が差し迫っていたということも知らない、気付かない。都のこんな目と鼻の先まで敵が来ているのに、まだ危険を察知できていない。自分の暮らす場所が無事なら、それが平和だと思っている。楽天家というか、他人任せというか……

 俺のため息は尽きない。

 

 「………アロンダイト卿?」

 「イグニス?」

 

 人々の語る名前に反応するイグニス。どうやら彼はその名前を知っているみたいだ。

 

 「引き籠もりの君じゃ知らないかも知れないな。彼は若いしまだ書物になんかなっていないだろうし。それでも有名な騎士様だよ。ある意味都より、大事な人だ。彼を死なせてはいけない。タロックより先に探し出さなきゃ駄目だ」

 「イグニス?都に行くのが最優先とか言ってなかった?」

 「そんなものどうでもいいよ。やる気のない貴族共はちょっと痛い目見て心臓に毛でも生やす特訓でも扱かれれば良いんだ。でも彼はそうはいかない」

 「そ、そこまで言うか?」

 「五月蠅いな、僕は今から神経尖らせて捜索するから邪魔しないで」

 

 イグニスの大きな瞳が細められ、俺に消えろと言外に語っている。

 これ以上この目に睨まれて発狂しない自信はない。というかいたたまれない。

 

 「……じゃ、俺はその辺で聞き込みでもしてくる」

 「私も行くぞ。お前はしょっちゅう迷子になるからな、心配だ」

 

 逃げるように馬車から降りる俺の服の裾を掴む腕。

 三歳も年下の妹に迷子扱いされてる俺ってなんか、凄く悲しい人間だな。

 

 「疲れてないのかフローリプは」

 「二人ほどじゃない。第一お前は私が居ないと困ると思うぞ?」

 「困るって?」

 

 振り向く俺に彼女は肩をすくめてにやりと嗤う。

 

 「お前の裏声で皆が皆欺けると思うのか?」

 「……ああ、無理だな」

 

 そうだ。ルクリースの衣装やら化粧やらのおかげで見た目は誤魔化せても、声はどうしようもない。

 俺が聞き込みが出来そうなのは、耳の遠そうな老人や、中年おっさん辺り。多くの女に囲まれて育った、若い女性達を欺せるとは思えない。

 

 「着いてきてくれますかお嬢さん」

 

 ダンスを誘うよう馬車へと片手を差し出せば、踏ん反り返り、笑う妹。

 

 「ふむ、そこまで言うのなら仕方がない。行ってやろう」

 

 *

 

 聞き込みを始め……一、二時間程経った頃。

 照り付ける日差しがじりじりと肌を焼き、咽が渇きを訴えだした。

 屋敷暮らしで半引き籠もり……もとい監禁されていた俺には聞き込みという地道な作業は存外重労働だった。

 俺よりは外を知っているはずのフローリプも異国の熱さには慣れていない。

 彼女も辛そうだったし、木陰へ誘い、一時休憩ということにした。

 

 「しかし、あんまり良い情報集まらないな」

 「うむ……」

 「アロンダイト卿かぁ……」

 

 俺にとっての収穫といえば……彼にちょっと興味が湧いたこと。それくらいか。

 

 「噂とはいえ、ここまでいい噂だけしか聞かないっていうのも珍しいな」

 

 会ったことがあるという者の話では、ひたすらべた褒め。

 容姿も素敵で?声も格好良くて?眼差しも涼やかでそれでいて優しげで?親切で?ついでに貴族の息子だからお金持ちで?家系にはどこぞの王族の血が入ってるとかいないとか?

 噂の尾ひれのせいでどこから何処までが本当かはわからないが、優れた剣の使い手であるというのは有名な話らしい。

 

 

 「フローリプは興味ないのか?かなりの美形だって話だけど?」

 「知らないのかアルドール?美形は大抵性悪かナルシストだ。正直そう言う奴を見ると鏡で殴りつけるか、踵ののヒールで足を思い切り踏んづけたくなるな私は」

 

 急に真顔に戻ってそんな物騒なことを言い出す妹。

 

 「や、やけにリアルな返答ありがとな」

 

 軽く引いた俺に、ふふんと鼻を鳴らして彼女は胸を張る。

 

 「貴族令嬢も楽じゃないぞ。誘われれば踊ってやらなくてはならんし、顔の良い奴は自分が完璧だと思ってる奴が多くてな、自分の失敗を人のせいにする。向こうが私の足を踏んだのに、そこにあった私の足が悪いなどと宣うんだぞ?博愛主義者やレディファーストなんて言っても所詮あいつらは女など人間だと思っていないからな。女が好きなのではなくて、そういう風に他人に優しくする自分素晴らしい!自分大好き!愛してる!なだけなのだ。まぁ、後からちょっと呪ってやったら次のパーティでは豊満な美女を相手に足を踏まれて複雑骨折をしたらしいな」

 

 武勇伝を語るように妹に呪いの経歴を話されたとき、兄というモノはどういう反応を返すのが一般的なのだろう。解らなかった俺は曖昧に笑うに留めた。

 今の話はその美形と妹、どちらの酷い話だったのか俺には判断が付きそうにない。未来永劫保留にしよう。あと、フローリプはあんまり怒らせないようにしよう……なんとなく。

 

 「で、でも騎士ってなんか格好いいよな。俺も剣は習いたかったなぁ……」

 

 大切な跡継ぎが怪我をしたら大変と、あの人は俺に何もさせてくれなかった。代わりに貴族の嗜みとか何とか言って、ピアノとかやらされたな……

 お稽古の最中、窓から見た景色。庭で剣を振り回す姉さんが羨ましくて……それに気を取られて先生に指を叩かれたのは一度や二度ではなかったはずだ。

 

(……騎士様、かぁ)

 

 アロンダイト卿。二つ名は湖の騎士だったか。

 もしかして数術の使い手なのか?それに賞賛されているような剣の腕が加わったら……どれほど強いんだろう。もし会えたら剣を教えてもらいたいと思った。でもそうするためには、彼を捜さないと。

 意気込む俺の隣には、夢見がちな妹の緑の瞳。

 

 「確かにな。カーネフェルの人間なのに水の加護もあるらしいぞ。羨ましい……」

 

 数ある美徳の内、フローリプの興味を引いたのはその一点だけだとか。なかなかこいつも変わり者だ。

 

(あ、そうだ…水!)

 

 彼の二つ名を考えている内に、俺はあることを思い出す。

 

 「……そういやそろそろ水尽きるんじゃないか?街にも入れないようだし……汲んでこようか」

 「そうだな、私達に出来そうなことはそれくらいしかなさそうだ」

 

 俺たちはさほど役に立たない情報を土産に、一度馬車へと戻り桶を取りに行った。

 馬車の中を見たとき、ルクリースは爆睡。

 イグニスは眉間にしわを寄せ、ため息。その様子ではまだ見つかっていないようだった。

 

 「駄目だ……彼なら絶対選ばれていると思ったのに」

 

 旅の途中の暇つぶしに聞いた話の一つ。存在数の話。人には個人個人に生まれ持った凄い桁の存在数があるらしい。

 それは一度見た程度ではとても覚えられるような数ではなくて、そこにその人に対しての情報を足していき、それに近い人物の存在座標を割り出すそうだ。その情報が多ければ多いほど早く正確に……けれど情報が足りない相手では時間もかかるし候補が幾つも出てきてそれを減らしていくのにまた時間がかかる。一度もあったこともない人間を捜し出すというのはいくらイグニスといえど、容易ではない……不可能ではないらしいが。

 これ以上留まり様子を見ていたらまた邪魔だと怒られる。俺は再び逃げるように馬車から離れたのだった。

 

 「しかし旅というのも不便だな。シャワーもない。蛇口もない。水もお湯も何時でも好きなだけ使うことが出来るものではなかったなんて」

 「そうだなー…水くらい浴びたいな。カーネフェルは温暖だし服なんか汗だくだし、シャトランジアが懐かしい……教会の冷房数術装置は良かったなぁ」

 「ああ、あれは良かったな……」

 

 俺たちの口から自然と漏れるため息。

 

 「いやいやいや、無い物ねだりは止めよう!今は今だってそんなに悪くはないし」

 

 そうだ。こういう甘えがイグニスを怒らせるんだ。

 俺だって変わらないと。何時までも世間知らずのお貴族じゃいられないんだ。

 

 「フローリプ、水辺の場所とかわかるか?」

 「……任せろ」

 

 「久々だなフローリプの占い」

 「イグニス様が大抵解ってしまうからな、先のこともお前のことも…………いや、なんでもないぞ」

 

 宙に浮く4枚のカード。きらきらとそれは輝き、その中の一枚が彼女の手に落ちる。

 

 「ワンド……南だ」

 

 今立っている場所から南に水源があると彼女は言う。

 

 「お前が一緒だと心強いな。帰り道もよろしく頼むよ」

 

 迷子し放題だと笑うと馬鹿めと笑われる。

 

 「しかしお前の占いはよく当たるよな。かえってフローリプのが簡単に見つけられたりしてな、そのアロンダイト卿も」

 「神子に出来ないことを私に出来るわけがないだろう」

 「いや、同じ事って意味じゃないよ。そもそも計算と占いって違うと思うんだ」

 「私の占いも分類するなら数術だぞ?」

 「ん、そうなんだけどさ。なんて言うんだろうな……イグニスの計算は過程も答えも正しくなければならない。けれどフローリプのは過程は適当だが答えは合ってそう。そんな感じだ。」

 「酷い言われようだが、なんとなくわかるぞ。私も適当にやっているのは本当だから。私のは唯の勘だろうな」

 

 そのなんとなくに数術の力を付加させる。それによって正解の確立が上がる。根拠もないが当たる。でも絶対とかじゃないから10回に1回は外れたりもする。

 イグニスは神子だから百発百中させなければならない。そしてそれが出来る力がある。だから力んでいるんだろう。

 

(……そんなに一人で背負い込まなくても良いと思うんだけどな)

 

 俺たちはそんなに頼りないだろうか。

 俺たちは彼ほど何でも出来ない。数術が使えると言っても彼みたいにきちんと勉強をしたわけでもない。

 それでもイグニスが助けてくれと言ってくれれば力は貸すし、出来る限りのことをする。それでは彼の支えには足りないのだろうか。

 

 黙り込んだ俺に合わせてフローリプも何も言わない。

 聞こえるのは暑苦しい虫の声と、風が揺らす木々の音。今の髪型は耳より上で髪を結っているため首は涼しい。けれど一歩一歩進むに度それが頬に触れて煩わしい。

 カードの指し示すまま踏み込んだ森。それをそのまま進めば、身体に吹き付ける涼しげな微風。

 森を突き抜けたその場所には小さな小川。都に近いと言うことは北と南を隔てる大河からもそう離れていない。これはその分流の一つだろう。

 そう思うと、随分長い道のりを進んできたような気がして、達成感みたいなモノがわき上がる。それを共有できる相手が傍にいてくれれば喜びも二倍。

 下らないことではしゃぐ俺を馬鹿にするだろうか。振り向けばフローリプも遅れて顔を僅かにほころばせる。

 

 「やったなフローリプ!流石俺の妹だな」

 「そ、そうか?……なら、良かった。私でも、お前を笑わせることが出来るのだな」

 

 妹は俺を見上げている。俺の内側に何かを見出し、それを一心に見つめる緑。

 俺からはそれが見えない。彼女が見ているのは何なのかわからない。けれど彼女はそれを愛おしげに見つめている。

 

 「私は弱い。力はルクリース、数術はイグニス様……私は二人の足元にも及ばない。そんな私にも、出来ることがあるんだな」

 「フローリプ……」

 

 他に言葉が見つからず、彼女を呼べば一歩……彼女が歩み寄る。

 常に諦観を抱いていた彼女の目から、暗い影が抜け落ちた。彼女は本来あるべき姿、普通の女の子……未来を夢見ることが出来る、子供になれたのか。

 それを祝福するにはどうすればいいだろう。無意識に伸びた手。それが彼女の頭に触れる寸前、時が止まった。

 

 「出来るよーなれるよー……とっても大事な、役割に」

 

 その声に、俺の手足は凍る。ヒュッと吸い込んだ息が肺まで届かない。

 忘れもしない、その声は……“彼女”のモノだ。

 それを俺たちは多くの名で呼んできた。“幻影”、“道化師”……“ハートの女王”、“ギメル”。

 前に見たシスターの格好ではない。

 真っ赤なヒールにフリルのドレス。これから舞踏会にでも向かうお嬢様のようなその格好。

 それとも帰ってきたのだろうか、死の舞踏の会場から、ここに。

 全身深紅に統一したそれは服の色?それとも……誰かが染めてくれた赤?

 

 「久しぶりだね、元気だった?元気そうだよね、あは…可愛い格好!ふふふ、そんな楽しそうな様子じゃきっと私の事なんて忘れてたんでしょ?酷いなぁ」

 「わ、忘れてなんか……」

 

 怒りか脅えか、声が震える。

 忘れられるはずがない。俺の大切な人の姿を借りて、俺の大切な人を殺した“誰か”。

 ルクリースだけじゃない。俺だって、イグニスを信じると言いながら……彼に彼女の面影を感じる刹那があった。

 罪もない親友に脅えるなんて、酷いことをしてしまった。

 

 「アルドール…」

 

 俺の左手をぎゅっと握るフローリプ。震えている?これは……俺の方だ。

 しっかりしろと彼女は俺を叱咤しているのだ。

 情けない。俺は何をやっているんだ。これ以上妹に情けないところをみせられない。虚勢でもいい。強がれ。

 

 こいつが俺を憎んでいるのなら、危ないのは俺じゃない。フローリプだ。

 一度は成功した空間移動。俺には出来る。出来ないなんて言わせない。一度できたことが今できないなんて言わせない。

 二人は無理でも、一人は飛ばせるはず。彼女を逃がさなければ。

 

 「どうして、ここにお前がいるんだ?」

 「私は水の女王様。水に愛されている私なら水のある場所何時でも何処でもやって来られると思わない?」

 「でたらめを言うな。水に愛されているのは水のエース!ヌーメラルカード!コートカードが、水に愛されるわけがない!」

 

 右手をこっそり腰のトリオンフィに触れさせ、フローリプと繋いだ左手に俺は神経を集中させる。

 相手は会話に酔っている。きっと、上手くいく。

 

 「へぇ、良い子良い子。ちゃんと勉強してるんだ。アルドールは記憶力が良いんだねー。それじゃあアルドールに質問です」

 

 身体が冷えていく。熱が引いた頭がクリアになっていく。そこに後は気持ちを乗せるだけ。

 

(消えろ消えろ遠くへ遠くへ消えてしまえ。手の届かないどこか遠くへ、この子を…… )

 

 念じた言葉が描く螺旋の数式。それが青く輝いて……

 

 「さぁて、私は一体誰でしょう?」

 

 数術が発動する瞬間、俺が聞いたのは強い力で硝子を砕く音。その大きすぎる音が俺の耳と体をブルブルと震わせる。

 左手はまだ温かい。俺はまだ捕まれている。

 

(失敗、した!?)

 

 「綺麗な数式だったね。書き換え効果も純血にしてはまぁまぁいいレベル。でもねぇアルドール?忘れてた?私も数術使い。見えないと思った数式が!数術が!……私の仕掛けた数術は見えなかったんだね。やっぱり純血じゃカードなんていってもその程度なんだ」

 

 彼女の底知れなさに息を飲む。それを満足げに見つめた後、彼女が俺を嘲笑う。

 

 「あはは、冗談だよぉ忘れたのアルドール。私の数術はね、数式が要らないんだよ?」

 

 “アルドールが幸せになりますように”

 そう願ってくれた彼女の数術。あの頃の俺には見えてなかった。それは間違い?

 

 「……音声、数術!?」

 「そうだよ、私はねこの咽を潰されない限り……何でも出来るの」

 

(そんな、無茶苦茶だろ!?)

 

 俺たちは書き換え効果が必要。念じるだけの俺でも、発動にはいくらかのタイムラグがある。

 彼女にはそれがない。解を口にするだけで、それが現実に変わる。しかもその解は、真実でなくとも構わない。何かを発する際に念じたものが解。音声はそれを吐き出すための手段。

 どうすれば勝てる?どうしたら逃げられる?解決策が見つからない。

 

 「アルドール、別に今日は貴方を虐めに来たわけじゃないんだよ?遊びに来ただけなんだから、ちゃんと質問に答えてくれれば何もしないで帰ってあげる」

 

 俺の焦りを見透かして、彼女は俺の知らない笑顔で笑う。

 それは彼女のそれによく似ていて、全然似ていない。ケースが同じでも中身が別物の粗悪品の欠陥品。これがギメルであるはずがない。

 

 「ねぇ、アルドール。私が誰かわかった?」

 

 「イグニスはっ……お前が俺を憎んでいると言った」

 「そうだね、憎んでるよーとってもね」

 

 「会ったことがあるとも、言っていた」

 「そうだね、優秀な数術使いだって会ったことがない人間の座標軸をキャッチするのは困難。飛べるわけがないよね、私が貴方を知らないのなら」

 

 彼女は俺を憎んでいる。

 彼女は俺を知っている。会ったことがあると、たった今肯定した。……いや、それは罠?真実?

 彼女は俺に真実を語る理由がない。だから嘘?それすらも罠?疑うことを見越してのこと?

 疑えば疑うほど、俺は思考の泥沼にはまっていく。

 彼女の意図が見えない以上、彼女の言葉は全てが虚ろ。嘘にも真実にも変わる不安定な言葉。くるくると裏返るそれは、白と黒のリバーシの駒だ。

 信じられない彼女の言葉。情けない話だが今俺に掴める真実は、一つしかなかった。

 

 「お前は、……ギメルじゃない」

 「アルドールぅ、それじゃあ解答になってないよ?」

 

 「はい、というわけで罰ゲーム!」

 

 掴まれているはずの温もりが、薄れる。顔をフローリプへと向ければ、彼女が透けて、大地が映る。

 

 「フローリプ!?」

 

 何時でも抜刀できるよう触れていた右手で彼女を掴む。細い肩はまだ掴める。でも、どんどん冷たく、薄くなっていく。

 周りで輝く数の洪水。転送されているのだ、どこか……遠くへ。

 

 「貴方が私の名前を見つけてくれるまで、この子は私が預かっておくね。最近私のこと忘れてたでしょ?お兄ちゃんとばっかり遊んでて狡い。でもこの子を持っていけば、これからはずっと私のこと思い出してくれるよね?」

 

 呼ぶ名前を知らないそれに、俺は言葉にならない声で吼える。

 右手はトリオンフィを抜いていた。

 怒りを纏う刀身は青白く輝き、空へ向かって高く伸び、焼き切る得物を見定める。

 今、あれを倒せばいい。そうすれば、フローリプはまた元通りになる。

 

 「いいよ、やってみなよ。私が道化師なら、貴方は私を殺せる」

 

 ああ、まただ。何も言うな。耳を貸すな。あれは悪魔の囁きだ。

 あんなのはったりだ。でも……本当にあれが道化師なら、自分の命をわざわざ賭けるようなことを口にする?

 それならあれは……あれは、誰?

 

 「でも私がそうじゃなかったら……?」

 

 私は誰でしょう?

 繰り返される問いかけ。俺はその解を見いだせない。見つけられない。

 もし、俺が刃を向けて殺せなかったら……どうなるんだ?

 俺は、証明してしまう。あれが道化師ではないと。あれは、ギメルなのだと証明されてしまう。

 俺は、それが怖い。だから、この剣を振り下ろせない。

 

 大切な人が、大切な人を殺したなんて……どうして信じられるんだ。

 もし、それがイグニスの語った理由なら……彼女を狂わせたのは、俺だ。

 このカードを手にした瞬間、俺が彼女を裏切ったのだ。

 

 彼と彼女に会いたいと望んだことは、罪だった。裏切りだった。

 神か悪魔か知らないが、願いを誰か見知らぬ他人に託すことは、裏切りなのだ。

 本当に会いたいなら、この足で!救いたいなら、この両手で!俺は二人をそうするべきだったんだ。

 今更悔いても、遅すぎる。

 

 「……俺を、殺せ!フローリプは何もしていないんだ!」

 「う~ん………アルドールの泣き顔にお願いされると弱いなぁ……どうしようかなぁ」

 

 俺の頬を撫でる滑らかな白い指先。それが時折瞼や目尻をなぞり……そのまま爪を突き立てられるような予感に肌が震える。

 それでも目を閉じたら負けだ。俺は妖しい光を宿した二つの琥珀を必死に見つめ返す。

 

 「ねぇアルドール。これお気に入りの靴なんだけど、移動の数術の時、水が跳ねて汚れちゃったの」

 

 彼女は自身の思いつきに唇をつり上げる。やはり彼女は嘘を言っていた。

 結局コレは今日も、俺を虐めに来たのだろう。

 

 「跪いて、これ綺麗にしてくれたら彼女は帰してあげるよ。どうする?慈悲深くて可愛くて優しい私は、それだけで機嫌直してあげる。今日はだぁれも死なないよ?」

 

 選択の余地がないじゃないか、そんなの。

 元々ないに等しい俺のプライド。それをこの得体の知れない者の前で地に捨てるだけ。それだけで、俺は……フローリプを守れるんだ。

 膝をつく俺の髪に触れる彼女の手。やっぱり冷たい。

 さっきまで暑がっていた俺なのに、真冬の水の冷たさを模したそれはちっとも有り難くない。寒気か嫌悪か肌が泡立つ。

 

 「良い子良い子。でも……それでもカーネフェル王?惨めだねぇ。純血の癖に。貴族の癖に。混血に、奴隷の私に跪くんだ。プライドとかないんだ。恥ずかしいとか思わないの?きっとあの生首達も今頃泣いてる」

 

 生首。その言葉に瞳が開き涙が一滴、彼女の靴へと零れた。

 

 「靴、汚さないで」

 

 それに機嫌を損ねたらしい彼女は、顎を蹴り無理矢理俺を上向かせる。

 俺を見下す人の瞳に浮かぶのは、愉悦と嘲り。こんな風に俺を見る人を、俺は知らないのに。

 

 「それじゃあ、さっさと始めて」

 

 眼前に突き出された赤い靴。光る水滴も、赤。

 あの日のあれが幻影ならば、彼女はこの靴で……あの屋敷を歩いたのだろうか。俺はその罪を含まなければいけないのか。

 今更生まれる抵抗を押さえ込むため、俺は口を開いた。後はそれに舌を這わせるだけ。吸い込む息ごと迷いを心の奥へと追いやって……覚悟を決めたその刹那。

 

 「……馬鹿者っ!お前はそれでもトリオンフィ家の人間か!王になる男か!?」

 

 もう殆ど見えない。影も輪郭も失った妹が声を張り上げ俺を罵る。

 

 「誇りは、傲慢などではない。気高さは……率い、従える力だ!誇るモノのない空っぽの人間に!お前のような惨めな男に誰がついて行くというのだ!情けないっ……」

 

 見えない。それでも、声で解る。フローリプが、泣いている。

 もう触れられない。涙もぬぐえない。俺が彼女の涙を止めるために出来ることは、彼女に屈しないこと。

 でもそれは、フローリプを失うこと。

 迷う俺の耳に届くのは、彼女の怒りと失望。

 

 「父様も、母様も……姉様も居ない今!私とお前がそれを無くしたらっ……彼らの死は、全くの無意味ではないか!」

 

 彼女は、トリオンフィの名を誇っている。

 彼女を愛さなかった両親が自分の残した唯一のモノ。その胸に受け継がれた名は誇るべき炎。

 その名と誇りを捨てるなと、俺に呼びかけている。

 助けてと俺に縋る子供ではなく妹でもなく……一人の貴族としての自分を選ぶ。

 

 「若いって良いねぇ。自殺志願の美徳?」

 

 こんな幼い少女が背負った覚悟を嘲笑うそれ。

 これがギメルであるはずがない。これは、道化師。俺の敵。

 俺が殺すべき、相手。

 俺の誇りなんてどうでもいい。でも、彼女のそれを嗤うなら、俺は許せない。許さない、絶対に!

 

 怒りに突き動かされるまま、彼女の足を両手で掴み、俺は感情を爆発させる。

 数式なんか知るか。

 身体を流れる血液が冷たくなっていく。巡り、その熱は両手に集まり発火。

 俺と彼女を包み込む青い火柱。轟々と燃える炎の音を聞く。冷え切った身体は炎の中にあってもその熱を全く感じられない。

 目がかすむのは、揺れる炎のせいじゃない。俺の、身体のガタが来た。

 二十秒。それが限界だった。

 

 手を離した瞬間、地へ落ちる黒。それは彼女の赤い靴。その先にあるのは……白い彼女の素足と深紅のドレス。

 俺の数術は、彼女の靴の片方を燃やしただけ。

 どうして、効かない?

 あの数術使いの時は……効いたのに。

 あいつが使ったのは風。だから、まだ……効いた?

 炎が効かない。それは……彼女が水だから?

 

 「残念だったね、アルドール?」

 

 俺を見下す少女の顔は、愉快愉快と俺のすべてを嘲笑う。

 お前の行動は無意味だと。お前は馬鹿だと。愚かだと。

 

 「誰……なんだよ、お前……」

 

 彼女は名乗らない。俺に多くの疑念を植え付け、問いかけるだけ。

 

 「お城で待ってるよ、王子様。早く来ないとこの子、殺しちゃうから頑張って?」

 

 頑張って。それが発動の合図。後には何も残らない。

 聞こえるのは、何事もなかったかのようにそよぐ風の音と虫の声。

 それから……ガサと鳴る草の音。

 

 「……お前、数術使いだな?」

 

 それからそれから……人の声。

 

(え……?人の声?)

 

 それは女のそれとは違う。イグニスのような声変わりしていない声でもない。俺はそれが男の声だと断言できる。

 

 「おい、何とか言え!」

 

 敵意の籠もった声のすぐ後、首筋に突きつけられる氷の温度。

 重くなった眼球をゆっくり動かせば、長く伸びる白銀の白刃。

 つくづく俺はA。最低幸福値の所有者だ。

 脅迫者は金色の髪と薄い空色の瞳。青年は右目を黒い布で覆っていたが、残りの片目一つで俺を圧倒。

 殺意でギラギラ煌めく眼をしているが、顔自体はまだ幼い。俺より少し年上?

 カーネフェルに来て、始めて見る同世代の男だ。

 それなのに俺はどうしてそのカーネフェル人に命を脅かされて居るんだろう。仲間のはずなのに、どうして。

 

 「俺様は今物凄く機嫌が悪い。何か一つでも気に入らねーこと言いやがったら、殺す」

 

 鋭い剣幕。彼は口の端をギリギリと己の牙で噛んでいるし、片足はトントンと素早い拍子を刻む。彼の機嫌の悪さは誰が見ても一目瞭然。

 しかしそんなことを言われても、今の俺は気を保つのさえ、精一杯。

 言葉を紡ごうにも、気に入らない事を言おうにも……文法も単語も出てこない。

 大量の熱を失った反動、急激な眠気。青年に肩を揺すられ頭が揺れて脳みそががらんがらんと鳴らされる。

 

 「おいっ!」

 

 遠くで焦ったような人の声。最後に聞こえたのは忌々しげな舌打ちだった。

 

 


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