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9:Fortuna divitias auferre potest, non animum.

 

 いろいろ考えすぎたせいだろう。なんだか寝付けなくてたき火の側で俺は夜空を見上げていた。

 

 宿が燃えてしまったことにより、俺たちと村人は野宿を強いられた。その場所は村から少し離れた森の中。

 生き残った人々も、村にはいたくなかっただろう。殺された人々も多い…あんな場所には。

 幸い食料や貴重品は侵略者に差し出すために持ち出していたから、しばらくはやっていけるだろう。都に着いたら支援の方法を考えなければ。

 そうやって建設的な思考を強いらなくては、余計なことを思い出してしまう。

 おかしい。狂ってる。なんなんだ、これは。

 最初に俺が感じたのは安堵と違和感。

 さっき、互いの命を売りあっていた親子がまた手を取り生を喜び分かち合う。それを純粋によかったと思う気持ちと……得体の知れない薄気味悪さが同時に胸の中に巣くっていた。

 あの後、ジャネットが俺に謝りに来てくれた。その姿は内気な少女そのもので、普段通りの彼女に見えた。

 見えない。自分の命のために俺を売り、母親を売ろうとした女には。

 村人たちだってそうだ。

 俺たちについてきたのは、その方が安全で安心だから。

 証明もできない。証拠もない。俺の放ったあの言葉。

 それが嘘でもそれに寄生すれば助かるのだと言わんばかりに俺を王だと褒め称えるのだ。

 おかしいな。そう言われれば言われるほど。俺は、守りたいと切に願った彼らを、見捨てたくて仕方がない。

 どうして助けてしまったのか。そんな愚かなことを考えてしまうなんて情けなくて、死んでしまいたい。

 人知れずついたため息……だったのだがそれは彼の耳に入っていたようだ。

 

 「……失望した?これが戦だよ」

 

 背中の向こうから聞こえる声に振り返れば、彼らもまた寝付けなかったようで。

 

 「人を簡単に変えてしまう。常識なんてここにはない。早く王を立てなければ、この地は蹂躙され尽くしてしまうだろう」

 

 これは戦が引き起こした狂気。

 平和になれば、平和が続けば誰も狂わない。

 だから、俺が王になってこの地にそれを導かなくてはならないのだ。

 

 「ごめん、イグニス」

 

 彼の励ましで思い出す。

 不幸な混血を生み出さないためにも、あの混血の少年の言っていた美学をぶち壊すためにも、俺はそんなことを許してはいけないのだ。

 イグニスだってギメルだって俺だって、普通の人間として生きられたはずなのだ。

 奴隷のいない世界。差別も偏見もない場所。それを作るために、戦って戦って終わらせなければならない。

 もっと心を強く持て。力ならもうここにある。それに負けない、強い心を持たなくては。

 運の悪さと命の危険と引き替えに。俺が手に入れた、すべてを焼き尽くす青い炎。

 

 不思議だな、と呟く声にその答えをもたらすイグニス。

 

 「君は数術の概念を持たないから、自由に操ることは出来ず、その力は媒体を通じて外へともたらされた。君の剣が触れた場所から書換えられた数値は、君の怒りに反応して炎の元素が流れ込み、発火」

 

 なるほど、と答えてみたものの……説明されたところでよくわからない。実感がわかないというのが今の俺の心境だ。

 

 「でも炎ってなぁ……使い所が難しいよ、まったく」

 

 村を焼くにはもってこいでも、村を守るには役不足。口からこぼれるため息はしばらく止められそうにない。

 そんな俺を励ますのはいつだってイグニスだ。昔はそんなんじゃなかったのに。むしろ傷口に塩を塗るような棘を吐いていた彼が、優しい言葉をくれるようになるなんて。人は変わるものだなぁと思った。勿論あの頃のイグニスも、今のイグニスも俺にとっては大切な友達だけれど。そうだな……嬉しかったのかもしれない。なんとなく、そう思った。

 

 「そんなことはないよ。風の力を持つスペードと組めば自由自在に炎の大きさを変えられる。土の力のダイヤと組めば、地殻振動で火山を噴火させることだって理論上は出来る。ハートと組めば……」

 「組めば……?」

 

 凄い。他のスートと手を組むだけで、そんなことが出来るのか。ハートのイグニスと組めば、どういう事が出来るんだろう。

 俺は胸を弾ませながら彼へと尋ねる。

 しかし彼は、さっと一度目をそらし…再びこっちを見る彼は乾いた笑い浮かべていた。

 

 「……………………………ごめん、どうにもならない。相性最悪。足引っ張り合うのがオチだね」

 

 唯一の別スートの味方が、相性最悪の相手ってどういうことだ。

 しかも、相性最悪って……同じカーネフェル人国家なのに。

 

 「そ、そんな落ち込まないでよ。相性だけならタロックのスペードとセネトレアのダイヤも最悪なんだ。土の壁は風の元素を遮るし、風の空気は土を風化させる。足を引っ張り合うのは向こうだって同じだよ」

 

 狂王が火の元素じゃないだけマシって事か。

 

 「セネトレアが土の元素の使い手になら、教会の水の使い手をぶつければ余裕で勝てる。対セネトレアならシャトランジア。シャトランジアもセネトレアも島国。海に囲まれてるし水の元素に困ることはない。うちの海軍は世界最強。これに追い風となるスペードの強い元素があれば尚言うことはないだけど」

 「イグニスー……間違ってもタロックとシャトランジア組ませるなよ……水の元素って国王派に集中してるんだろ?」

 「あ、そうだった……」

 

 弱いカードは王族や貴族。身分の高い者に現れる。彼らは純血。数術の力なんてほとんど持っていない彼らを補うために与えられたのが元素の力。

 逆に言えば、教会派は強いカードが多い代わりに、水の元素には愛されていない。

 

 「でももっとも風に愛された狂王と、もっとも炎に愛されたアルドールでは……アルドールの方が不利じゃないですか?」

 

 これまで黙って話に耳を傾けていた、ルクリースの疑問。今度はイグニスがため息を吐く番だった。

 

 「そうですね。ですから他元素のカードを集める必要があります。僕も配下を飛ばしてカード探しを行っていますが……上は簡単にわかるんですが、下の方はなかなか……目立つような場所にはいませんからね。ハートのコートカードは身内で何とかなりましたが、他スートは難しいですね」

 

 タロックは鎖国。強いカードを探そうにも入れない。それこそ、こっちが向こうに攻め入ることでもない限り。

 様々なスートが集まっている可能性がある場所といえば……おそらくシャトランジア以上に、セネトレアだとイグニスは言う。奴隷身分の人々が大勢いるセネトレアならば……その最下層に強いカードがいてもおかしくはない。

 

 「セネトレアかぁ……」

 「君はカーネフェルの方で忙しいだろうから、そっちは僕が何とかするしかないかと思う。なんとかやってみるよ」

 「確かに。アルドールなんかがセネトレアに行ったら大変なことになるのが目に見えてます」

 「そんなに、酷いのか?」

 

 「それは…」

 「勿論」

 「「この世の地獄」」

 

 だよ、とですとそれぞれ後ろに付けながらイグニスとルクリースが目を伏せながらため息一つ。

 

 「まぁ、四元素の使い手ならあそこで捕まえられると思うから、君は安心してカーネフェルの方を頼むよ。ほら、狂王との戦いに備えてさっさと寝る!」

 「あ、ああ…」

 

 「アルドール……」

 

 くいくいと袖を引かれた先、ちょこんと隣に座るフローリプがいた。

 

 「どうしたフローリプ?」

 

 珍しく不安そうな表情の彼女。

 俺の問いかけの後、躊躇いがちにはき出された言葉。

 

 「四大元素を集めたところで、大丈夫なのか?道化師とやらは水属性でもない癖に、あんな大それた事をやってのけたぞ?四大元素すべてを操ることができるのか?」

 

 その言葉に、俺たちは言葉を無くす。最初にそれを取り戻したのはルクリースだった。

 優しくフローリプの頭を撫でながら、彼女が呟く。

 

 「道化師は、四大元素とは別の力を持っているんでしょうか……何にしろ、得体の知れない相手です。油断はできませんね」

 

 つまり……ギメルが水の女王なら、ただ幸運なだけで…あんな大それた真似は出来ないってこと。

 つまりあれは…元素に左右されない存在。道化師であった可能性が高い。

 脱線した思考の中、俺はわずかに安堵する。

 本当は安堵なんか出来ない。あれが道化師なら、俺はいつ寝首をかかれるかもわからない危険の中にいるということなのだ。

 それでも俺は安堵した。

 あれはギメルじゃない。そう思えることだけで心が安らぎ、睡魔が襲ってくる。現金な自分を嗤いながら俺は毛布を被った。

 

 

 

 *

 

 

 

 

 「こんな何時また敵が来るかも解らないところに私らを置いていくんですか!?」

 

 日が昇って数時間。迎えの馬車が来てまた、一騒動。

 本当は彼女たちに気付かれないうちに出発できたら良かったが、そうも行かない。あっちの方が人数が多い。どうしても見つかってしまう。

 

 「皆さん、落ち着いてください」

 「これが落ち着いていられるわけないでしょう!」

 「そうよ!ふざけないで!」

 「残念ですが、皆さんを一度に運ぶのは無理です。これから手配を行いますから」

 「これから!次って何時!?わからないんでしょ!それなら嫌よ!置いて行かれるなんて!」

 

 イグニスが説得に応じるも、聞き入れる彼女たちではない。

 我先にと馬車へ飛び乗ろうとする人々。

 それを眺め、はぁとため息を吐くイグニスの目は冷たい。据わっている。善意の固まりであるはずの神子が浮かべてはいけない表情だ。

 

 「……なんかもう、実力行使しちゃ駄目かな。幻覚数術とか、催眠数術とか」

 「い、イグニス!落ち着けよ」

 「……イグニス様、こういう輩にはそういう物腰でいっても逆効果です。ここは私に」

 

 すっと俺とイグニスの前に進み出るはルクリース。

 

 「皆さん何か勘違いをしていませんか?」

 

 口調こそ丁寧ではあるが、その顔は不敵な笑み。全てを嘲笑う強者の笑みだ。

 圧倒的な高見のから彼女は全てを見下しながら、言葉を紡ぐ。その横顔は、"貴女達はそんな簡単なこともわからないの?"とでも言っているよう。

 

 「この方は次期カーネフェル王。しかし娘一人にぶん殴られて気絶するような甲斐性なしです。私達はその護衛。こんなよわっちい方、すぐに殺されてしまいますもの」

 

 酷い言われようだが、事実だ。村人達もそれにああと納得。なんだかなぁ。

 

 「馬車に乗りたいのなら少なくとも私よりは強くなければ。私より強い方なら私の分の座席をお譲りしますけど?」

 

 涼しげな表情で、向かってくる女達を鬼のように倒していく彼女。

 力仕事に長けている若い娘衆が勝てないのだ。それより上の人間が挑もうなんて気は失われてしまったようで、もう誰も彼女に挑まない。


 「はいっと、いっちょ上がり」


 馬車にいた二人の聖十字兵。今度は彼女らの方へと首を傾け、言葉を発す。

 

 「さて。そこのお姉さん。この方達を近くの安全な場所まで連れて行っていただけますか?食糧とかはこの人達が沢山持ってますからどんどんせびってやって下さい。なんならそれ相応の金品ももらってやりなさい。こいつら結構貯め込んでますから。いいですよねイグニス様?特別手当。よし!許可済み!はい、そこ!嫌そうな顔しない!こっちだってただ働きなんかやってられませんよ。世の中ギブアンドテイク。助けてあげるんですからそれくらい安い報酬でしょう」

 

 「さて皆さん、いいですか?このお姉さん方は聖十字の方なんですよ?私みたいな一般人なんか適う相手じゃありません。彼女たちと一緒の方がよほど安心というもの。いくら私が強くても……教会兵器なんか出されたらひとたまりもありませんもの」

 

 この不遜な女が、相手を褒める?教会兵器?

 ざわめく村人達。

 

 「そうですね。自衛権までは奪っていませんからね。万が一襲われた場合、それを行使しても許可は降りるでしょうね」

 

 イグニスが意味深にうなずくことで、村人達の関心は完全に聖十字兵二人へと向けられた。

 今度は彼女たちにはやく出発しましょうと手を引き始める女達。

 いくらイグニスの命令とはいえ、任務を変えてよいものか。生真面目な兵士は困惑する。そして彼女はもう一つの問題に気付く。

 

 「え、しかし…それでは馬車が」

 「ああ、それは問題ありません。私がやります」

 

 すかさず答えるルクリース。彼女ももう何でもありだな。

 人間に出来る能力の範囲内ではあるが、彼女が何を言い出してもなんだかもう全て納得できてしまうような自分が居る。

 

 「ルクリース、馬車を動かせるのか?」

 「私も若い頃は暴れ馬を調教し荒野をかけずり回ったものですよ」

 

 ルクリースに羨望の眼差しを向けるフローロプ。乗馬はやっても馬車まではやったことはないだろう。仮にも貴族令嬢なのだから。

 それでも興味がプライドを上回ったのか、その表情は無邪気な子供そのもの。「いや、まだ十分若いだろう」と入れた俺のツッコミは彼女ら二人にスルーされ、風の中へと消えていく。

 幌馬車に乗るのは初めてだが意外としっかりとした頑丈な造り。

 船にはしゃいだフローリプを笑えない。そわそわと落ち着かない様子なのは自覚済み。左右をきょろきょろ見回す俺を鬱陶しげにイグニスが一睨み。

 

 「さっさと乗ってくれない?後がつっかえる」

 「あ、ごめん」

 

 なんか機嫌悪そう。まだ、目が据わってる。

 イグニスって寝起き悪いんだろうか。ああ、そうかもしれない。唯でさえそれで苛立っていたのに、朝から村人達に詰め寄られて。

 あそこでルクリースが何とかしてくれなかったら、今頃……どうなっていたんだろう。

 大勢の人間を救った自覚もないであろうルクリースは一段高い御者の座席を陣取りフローリプに手招き。

 

 「フローリプも馬は得意でしょう?コツさえ掴めば簡単ですよ、教えて差し上げます。いらっしゃい?」

 「そうなのか?」

 

 手を伸ばしさっと彼女を御者台まで抱き上げ、隣に座らせる。随分仲良くなったものだ。なんだか自分のことのように嬉しい。

 俺はといえば……なぜか親友の愚痴を聞かされているのだが。しかも愚痴の内容は主に俺だ。これは愚痴ではなく性格に分類するなら小言だろうか。

 彼女たちの仲睦まじさが羨ましくて、そっと意識をそっちへ向けると……

 

 「ええ。馬も男も手綱さえ握ってしまえばこっちのものです」

 「そうなのか!?」

 「ルクリース!うちの妹に変なこと吹き込むなぁっ!」

 

 思わず口が。

 油断も隙もない。

 立ち上がった瞬間動き始める馬車。危うくバランスを崩し転びかけた。

 流石エースの俺。幸運値が欠片もない。

 

 「あら、嫌ですねアルドール。私はまだお下品なことは言ってませんが」

 「まだってなんだまだって!」

 「そうですね……敢えて言うなら殿方の手綱は」

 「いいから!言わなくていいから!つか言うな!」

 「朝から元気だね君たちは……」

 

 もう小言をを言う気力もないのだろう。呆れたようにふぁあとあくびをし、馬車に寝そべるイグニス。昨日の疲れが取れていないのだろうか。

 昨日の彼はサポートとはいえ数術をバンバン使っていた。数術を使った後の彼は苦しそうだった。俺は……今朝は何ともない。野宿の筋肉痛くらい。

 俺には媒体がある。彼はそれを用いないで数術を使っている。その違いだろうか。でもどうして彼はそれを使わないのだろう。

 俺は口を開いたが、それ以上は何も出来なかった。イグニスはもう、眠ってしまっていたから。

 

 「いくら数術が便利って言っても……あんまり無理はさせてはいけないんだな」

 

 ガタガタと馬車が揺れるのもものともせず、彼から聞こえる安らかな寝息。本当に寝ている。よく寝ている。こっそり頬をつねってみたが、起きない。

 本当に疲れていたようだ。良かった。もし今のバレてたら三日は口聞いてもらえないかも知れない。

 ルクリースとフローリプの楽しげな声。邪魔するのも悪い気がして、俺は暇をもてあましながらイグニスの隣で寝そべる。

 眠くはないんだ。ないんだけど、……やっぱり慣れない野宿で疲れていたんだろうか。意識はあるけど、身体が眠りを求め、動く意志を無くしていく。

 回る車輪の音。大きすぎるその音はまるで何かの破壊音。とても子守歌には聞こえないその音。

 がらがら、がらがら……車輪が回る。

 一回、二回……三回……………四回。

 

 

 *

 

 

 がらがら、がらがら。運ばれていく。何処へ?

 動けない。喋れない。何も見えない。どうしてだろう。口からうまく呼吸が出来なくて。

 鼻から吸い込んだ空気は焦げ臭い。がらがら、がらがら。臭いが次第に遠ざかる。

 残るのは車輪の音だけ。がらがら、がらがら。

 その音の向こうから、誰かが"僕"を呼んでいるような気がして。耳を澄ましてみるけれど。

 がらがら、がらがら。その大きすぎる音が全てを遮って。

 一回、二回…三回………四回。回る度、頭に響く音。脳を鷲掴みにされ思い切り揺らされている。

 頭が痛い。気持ちが悪い。

 しばらくその痛みが続いたその後に。痛みが麻痺し、何も感じられなくなって。あとは真っ暗闇。

 そんな闇の中に、音が生まれる。微かに聞こえるその音に、僕は目を開ける。その場所は一面の白。

 遠くでカラカラと何かが回る音。軽やかなその音は、紬車の音のよう。

 それに招き寄せられるよう、僕はその音の方へと向かう。ああ、やっぱり。これは紬車の音だった。

 自分でも何がそんなに嬉しいのか解らないけれど、その正解は僕の胸を躍らせた。

 からからと白い指先が糸を紬、束ね取っていく。綿は彼女の指先のように白いのに、彼女の指が手にする糸はどこで染色されたのか、違う色。

 カラカラとそれが回る度、赤い糸が紡がれる。

 純白の綿の内側。あれは綿?

 じっと近づいてみる。違う。これは綿によく似ているけれど、綿じゃない。触れてみるそれの触り心地は綿のようにふわふわなのに。綿じゃない。

 触れた指先に、滲む色。内側からにじみ出てくる赤い色。僕は何かに触れた。弾力を感じさせる、生暖かいモノが指先に触れた。

 これはなぁに?紡ぐ女性に僕は尋ねる。

 彼女は言った。"これは蚕ですよ"と。

 僕はその優しい声に頷いた。その声がそう言うならば、それは蚕なのだろう。全ての疑いを洗い流すような不思議な声。

 彼女は白いローブに身を包み、彼女の肌も雪のように白かった。だからどこから何処までが肌なのか服なのか、その境界に迷う。

 白じゃない場所は、二つだけ。淡い光の色の長い白金の髪。それと薔薇の花ように見事な赤を映した唇。

 どうしてこの糸は赤いの?僕は尋ねた。

 さぁ、どうしてでしょう。彼女の赤は緩やかに弧を描く。

 "あなたは運命の糸は何色だと思う?"彼女が僕にそう聞いた。

 赤じゃないかな、と僕は答えた。どうしてかしらと彼女が聞いた。

 だってみんながそう言うもの。僕がそう言うと彼女は笑った。うふふ、と愉快気に。

 "それなら空の色は何色?"彼女が言った。

 僕は答える。それは、灰色じゃないかなと。

 僕の答えに彼女が笑う。

 "みんなは青と答えるのに。あなたは空が灰色だと言うの?"

 あれ、本当だ。どうしてだろう。僕は首を傾げる。

 それなら僕が間違っていたのかも知れない。みんながそう言うのなら、空はきっと青いんだろう。

 僕の言い直した答えに彼女が笑う。今度は可哀想なモノを見るように。

 そして彼女は教えてくれた。運命にも、空にも……決まった色なんて無いのよと。

 空が青いと決めた時から、他のどんなに美しい色も、見えなくなってしまう。彼女はそう言った。

 

 僕は考える。

 一人で眺めた空はいつも濁った灰色だった。イグニスと仰いだ空は、蒼かった。

 姉さんと見上げた夜空は?フローリプとルクリースと船から見たあの色は?

 ああ、そうだ。いつだってその色は違かった。僕は見つけていた。灰色に変わる色を、幾つも。幾つも。 

 彼女がもう一度聞く。最初の問いかけ。僕は答える。それはわからないな、と。それは赤かもしれないし黒かもしれない。白かもしれないし青かもしれないしもしかしたら透明かもしれない。

 彼女はそれに対し、静かにそうと頷いただけ。それが正解とも間違いとも教えてくれなかった。

 唯、彼女が紡いだ赤い糸はいつの間にか黒へと姿を変えていた。

 どうして糸を紡ぐの?僕は尋ねる。

 こんなに綺麗な白い色が、こんな醜い黒になるくらいなら、紡がないままの方が綺麗じゃない?

 "これが醜い色に見える?"彼女が悲しそうに笑う。

 僕は頷く。この黒は、暖炉で燃え尽きた薪よりも醜い色だ。あんな白い綿(彼女が言うには蚕)から紡がれたとは思えない汚い色だ。

 "この糸の名前は……意味"

 意味?鸚鵡返しをした僕に彼女が再びそれを口にする。

 "これは意味。あの蚕は、無意味という名前"

 彼女が言うには、蚕は無意味だから意味という名前が欲しくて、糸として紡がれる。彼らにはその色が何色でも構わないのだ。色が、意味が手に入ればそれでいいのだと彼らは思っているらしい。

 蚕。このふわふわの綿の下に眠るモノ。彼らは何処へ行くのだろう。

 からから、カラカラ。彼女が回す紬車。彼女がそれを回す度、蚕が入っている綿が萎み、糸が伸びていく。

 じわじわとその糸に伝わる赤い色。糸が巻き取られた時には何も残らない。蚕は何処へ消えたのか。

 僕は尋ねる。蚕は死んじゃったの?

 彼女は薄く笑う。肯定だ。僕は叫ぶ。どうして?彼女は答えない。僕と彼女を遮る何かが邪魔をして、彼女の言葉が届かなくなったのだ。

 これまで透明だったはずのそれは確かな色を纏い、僕の前に現れた。それはあの綿の色。雪のようにな無垢な白。

 僕はその柔らかな雪に包まれて、身動きが取れない。ああ、僕が蚕だったのだ。カラカラと小気味よく鳴るその音が、それを僕へ教えてくれた。

 僕はこれから紡がれていくのだ。いつか意味という名前をもらうために。

 でも僕は思う。そんなもの、必要だろうかと。

 そんな名前なんか無くても僕はここにいるはずなのに。どうして名前なんか欲しがるのだろう。

 僕がそうつぶやくと、カラカラという音が止む。彼女が手を止めたのだ。いくらか紡がれて壁が薄くなったのか、彼女は見えなくても、声は届いた。

 "それなら、あなたはあなたの名前を知って居るのですか?"

 "命が一生を賭けてようやく見つけることの出来る名前を。あなたはもう既に持っていると言えるのですか?"

 僕は頷く。僕には名前がある。僕を呼んでくれる人が呼んでくれる名前が。

 "それはあなたの名前ではありません"

 容赦なく突きつけられた言葉。優しかったそれまでの彼女の声とは違う。手放しで突き放すような、冷酷さを秘めたまま、彼女は再び車輪を回す。

 一度止めたせいだろうか。僕は糸と絡まってしまったようだ。僕の右手の小指にはい白い糸。それはどこかへ向かって伸びている。

 もう一本。どこかから僕の方へと伸びてきている白い糸がある。それは僕の首に絡みついていて、きりきりと僕の首を締め付ける。解けそうにない。

 けれど痛みはない。それなら別にそのままでもいいかな。そう思っていたら、首の糸が……もう赤い。

 痛みはない。それでもそれは僕の皮膚を食い破っていく。

 小指の先、向こう側から糸を伝ってくる赤い色。

 ああ、よく見れば指と首だけじゃない。僕の両足には何十本、何百本もの赤い糸が巻き付いている。その糸は僕をどこかへ引きずり込んでいこうとしているのか。それとも僕から赤い色を奪いに来たのか与えにきたのか。ああ、どちらも違うね。だってこの糸達は途中でぶつと切断されている。鋏でちょん切られたようにざっくりと。僕との繋がりを絶たれている。

 だから僕はこの先にどんな人がいたのか、わからない。それでもなんだか……悲しい気持ちだけ残ってる。

 僕は蚕だったけれど、僕は一人ではないのだ。この繭の中にいたのは僕だけじゃない。この糸達が教えてくれた。

 悲しいな。何匹の蚕を磨り潰せば、意味という名前になれるのだろう。

 それは、僕一人じゃ手に入れられない名前。

 だから彼女はあれを醜いと言った時、悲しそうな顔をしたのだろう。

 あんな汚い色を作るためにも、大勢の蚕が死んでいるのだ。その大勢の無意味の命でようやく、意味という名前がもらえる。

 その意味が、良いことなのか悪いことなのかもわからない。それでも、僕らは安堵するのだ。

 そうじゃなきゃ……僕らは最後まで無意味のままだから。

 それでもあんなに醜い名前なら、僕は欲しくないな。だってもっと、良い名前を僕は持っているような気がするもの。

 誰かが今も、それを呼んでいてくれるような気がするから。嫌だな。そんな名前、僕のものじゃないのに。

 いまいち納得出来ない僕に、彼女が何かを言ってきた。

 

 "……小指の糸をお引きなさい。あなたはあの色に染まらずに済むから"

 "あなたの首が落ちる前に、小指の糸を引けば……"

 

 嘘言わないでと僕は笑う。笑おうとした。けど、駄目だな。もうこの咽じゃ、何も言えないよ。

 貴方がそんな事をいうから。だからみんな小指を引くんだ。だから、みんないなくなっちゃったんでしょ?

 お互い小指を引き合って、誰かの首を落とす。ほら、だから繭が赤く染まる。それを貴女は意味を生むためだと言うけれど、それこそ無意味だと僕は思う。

 無意味を止めるために無意味を繰り返すことが、意味のあることだとどうして言えるの?

 僕はごめんだね。例えこの糸の向こう側の誰かが小指を引いて、僕の首を落としても……僕は小指を引かないよ。

 一人分少ないからってどうなるかはわからない。五十歩百歩だろうね。

 それでも、さっきのあれよりは少しだけマシな色になれるだろう?

 カラカラ、カラカラ……車輪の音より一度だけ、大きな音が鳴る。最後に。大きく、一度だけ。

 地響きのようなその音に、大きく世界が揺れて……膨らみ、破裂する。

 

 

 *

 

 

 目を閉じていただけのはずが、いつの間にか眠ってしまっていた。浅い眠りの方が夢を見るのだったか。夢の終わりは激しい揺れ。何事かと飛び起きるとイグニスも似たような様子。外の風景は歩道とは言えない森の中。

 

 「な、何だ何が起こったんだ!?」

 「あ、起こしちゃいましたよね!すみません、フローリプ!貸して!」

 「な、何のこれしき……私だって、あ!」

 

 酷い揺れは最後に大きな音を残し、その余韻にずるずると何かを引き摺る音を奏で、やがて止まった。

 綱を取り返したルクリースが止めた……だけでもなさそうだ。

 

 「……なぜ私の言うことを聞かないのだ。ルクリースには従う癖に。さてはお前は雄だな。私が子供だから舐めているのだろう!」

 「この子は女の子ですよ、フローリプ」

 「う…うううう、さ、さてはお前は女好きだな!けしからん奴だ!私が胸がないから気にいらんのだろう!」

 「おい、落ち着けよフローリプ。ちょっと道を外れただけだろ?」

 

 しかし本当に舐められているようだ。憤る妹とは絶対に視線を合わせない白い雌馬。それにルクリースが呆れたように鼻を撫でると、嬉しげに嘶く。偉い態度の違いだ。試しに俺が近づいたところ、蹴られそうになる。舐められていると言うよりは、近づかれるのも嫌というか、嫌われているというか、生理的に受け付けないとでもいわれているような。それを見て、フローリプは下には下が居るのかと気を取り戻したよう。

 

 「……ま、いいけどさ。あ、イグニスは大丈夫なんだ」

 「…………幸福値の差じゃない?よしよし」

 

 イグニスに撫でられる馬は俺の時とは全然違う…別馬のような顔をしている。蹴られる気配はない。

 何か理不尽なものを感じる俺がフローリプに目をやると、妹も同じような不満を抱いているようだった。

 

 「コートカードってなんか狡いよな。強いし運良いし敵少ないし」

 「何か、何か……納得がいかないぞ」

 「今日は飲もうぜフローリプ」

 「うむ…」

 「はいはい、お二人ともあんまり水ばっかり飲まないで下さい。清潔な水だっていくらでもあっていつでも手にはいるってわけじゃないんですから」

 「そ、そんな殺生なー」

 「ご、後生だルクリース」

 「……なんですかそのノリは」

 「馬鹿は放っておくに限りますよルクリースさん。それで、どうでした?」

 「ええ……やはり一つ車輪がやられてしまいました。あれは修理しなければどうにもなりません。」

 

 フローリプが気まずそうな顔になる。なんとかなるさと頭を撫でてやるが、まだ引き摺っているみたいだ。

 まぁ、そりゃあそうか。彼女がルクリースと一緒に綱を握った途端、馬が暴れ出し、道から外れて整っていない森の中に突っ込んで、それから溝にはまって車輪の一つが外れて……とまぁ不幸な事故が続いたのだ。

 落ち込んでいるフローリプのために広げた地図を此方によこすルクリース。

 

 「これ、見てくださいな。幸いここから少し離れたところに街があります。寄る予定はありませんでしたが、工具でも貸してもらいましょう。……アルドール?どうしたんですか?なんか安心したようなその顔は。そんなに心配してたんです?」

 

 怪訝そうに俺を見る彼女。

 心配はしてなかった。安心したのは別のこと。

 

 「え、いや……ルクリースにも出来ない事ってあるんだなと思ったら安心して」

 

 彼女なら何とかしてくれる……というかなんでも出来るというか。そういう思いこみ。

 実際彼女が何を言い出してもまぁ、ルクリースだしなぁと納得してしまう気持ちがある。それが否定されたのがなんだか嬉しかったというか……安心したのだ。

 彼女だって普通の、普通の女の子なのだ。それが普通……

 

 「そりゃあ私だって人間ですから。修理くらいは出来ますし、木材から材料加工することくらいは出来ますけど、流石に道具なしじゃ出来ませんよ」

 

 けろりと彼女が口にした言葉に俺は項垂れる。

 ああ、人間に出来る範囲無いなら、やっぱり何でも出来るのか。十分凄い。

 だから俺はいつも彼女に助けてもらってばかりだ。何か一つくらい出来ないことがあるなら……俺がたまには彼女を助けたいのに。

 

 「その街って?」

 「地図の上だとほんの5、6キロです。歩けない距離ではないですね。ついでに足りないものでも買ってきましょうか」

 

 森を抜けた先その少し南に記された点と名前。テジャスという名前の街らしい。

 

 「でもこいつらここに残すわけには行かないよな……」

 「そうなんですよね。馬車が盗まれたら移動に困ります」

 「それじゃあ…」

 

 何も出来ない俺でも……ルクリースには勝てないとは思うけれど、彼女を除いたこの中では一番力があるはず。たぶん体力だって。

 彼女の負担を減らすべく、俺は名乗りを上げようと……

 

 「……アルドールは行くのは止めた方が良い」

 

 ……した途端イグニスに却下を喰らう。

 

 「俺、まだ何も言ってないんだけど……」

 「嘘。行きたい行きたいって顔してたくせに。君がもっと外の世界のことを知りたいのはわかるけど、今はそんな状況じゃないんだよ。物見遊山なら平和になってからいくらでもすればいいさ。大体カーネフェルの男は歓迎されるけど、注目を浴びる。昨日のことを思い出して?」

 

 べ、別に物見遊山ってわけじゃなかったんだけどな。そりゃあ勿論どんな街かは……気にならないわけでもないけれど今がそんな状況じゃないことくらい解ってる。

 

(イグニス……)

 

 イグニスは俺が世間知らずで外の世界にあこがれているだけの貴族のお坊ちゃんだと思っているのだろうか。……いるんだろうな。許す許さないとは別の話だ。人が簡単に変わることが出来ないように、根本的な他人の認識はそうそう変わらない。

 それは否定しない。それでもそれだけじゃない。それでも俺は彼は、彼だけには無条件に自分の全てを解ってもらえているつもりでいた。それくらい近しく感じていたから。

 俺がどんなに彼が好きでも、他人なんだ。一から百までを瞬時に理解し合える存在ではない。そうだな。俺だって、イグニスの考えていること全てが解るわけじゃない。

 でも今の彼の言葉のせいで、俺と彼は別の人間なんだって事を強く意識してしまった。それがなんだか……少しだけ寂しく思う。

 そんな俺の思考に全く気付いていないイグニス。彼の続ける話がぼんやりと耳から届く。

 

 「タロック側に此方の現在地を教える危険性は減らしておきたい。昨日の数術使いには逃げられた。しかもあれはタロック王お抱えの騎士団のメンバー。君が追い払ったのがセネトレアの商人とその手下。一緒に上陸したタロック軍は略奪ではなく進軍を行った。目指す場所が同じなら、途中で鉢会う可能性もある。出来るだけ相手に与える情報は少なくしたい」

 「それなら私が行きます。フローリプは交渉には向きません。ぼったくりにあっても困りますし大事なお嬢様です、何かがあってからでは困りますから」

 

 イグニスが残れば不可視数術が使える。いざというときに俺たちが守ってもらえると考えたルクリース。

 俺がそれを却下するより先にイグニスが小さな唇を開く。

 

 「僕が行きますよ。ここから一番近いというとテジャスでしょう?あそこなら小さいとはいえ教会もある。教会は街から少し離れてますし、そう目立たずに済みます」

 

 聖職者であるイグニスなら、教会から物資の援助が受けられる。街で済ますよりずっと安く済むらしい。

 金銭の大事さを知っている二人だけ通じるその言葉には説得力があったようで、ルクリースもそれならお願いしますと小さく呟く。

 イグニスの強さは彼女も認めているようだ。彼は世界有数の数術使いだし、そう思うのも無理はない。

 彼女の容認で自動的に留守番組が決まった所で、上がる声があった。フローリプだ。

 

 「わ、私も行くぞ!わ……私が壊したのだ。私が行かないわけには……」

 

 ルクリースに倒れられては困る。彼女が居なければ俺たちはこうして旅を続けることも難しい。カードとしての幸運値、彼女自身の強さ、知識……それだけじゃない。ムードメーカーの彼女は俺たちの心を支えていてくれる。寄りかかってばかりで、我ながら情けない。

 彼女の負担を減らすために俺やフローリプに出来ることはなんだろう。仕事を減らすこと?

 馬の扱いには慣れているはずのフローリプ……彼女が御者役を代わろうとしたのだって、最後まで綱を放さなかったのだって、彼女の役に立ちたかったからだろう。

 その気持ちが裏目に出てしまったことは不幸としか言えない。あの相性の悪さだと、今後だって代わるのは無理だろう。彼女のそれが向いていないことは俺たち全員が身をもって知っている。

 しばらくはルクリースが操作しなければならない。休めるときに休んでいた方が良い。二人もそう思ったのだろう。

 いや、フローリプは自責の念の方が強そうだ。

 育ちが育ちだ。プライドが邪魔して素直に謝ることが出来ないし、そんな思いを口にする事も出来ない。それでも何かしないではいられないのだ。

 ルクリースはそれに気付かないでもないはず。それでも心配がそれを上回っているようで、そこまで気が回らない。

 

 「……イグニス様が一緒なら、大丈夫…か。イグニス様、フローリプ、お願いします」

 

 完全に子供扱いの彼女の言葉に、フローリプの口からはため息が零れていた。

 俺が何か言ってもやはりそれは子供扱いになってしまう。だから彼女には何も言えなかった。

 代わりに俺はイグニスの方へと視線を向けた。

 あんな僅かの睡眠で、彼の疲れが取れたとは思わない。俺が彼みたいな数術使いだったら。彼が俺にしてくれたように数値をいじって疲労回復くらい出来るだろうか?

 ああ、一応今の俺は数術使いなのか?それでも肝心の俺の数術は、剣に炎を纏わせるだけ。彼を癒せる力とは程遠い。

 

 破壊する力。傷付ける力。

 治すことも癒すことも出来ない一方的な暴力。力を望んだ俺が手にしたモノは、本当に俺が望んだものだったのだろうか。

 力があれば、奪われない。多くを守れる。

 誰かを守ることは、他の何かを見捨てること。すべてを守ることなんか出来ない。

 俺は戦うことでしか、守れない。唯、この剣は彼らには絶対に向けないだろう。それだけは誓える。

 例え癒せなくても、傷付けたりは絶対にしない。絶対に、だ。

 

 「イグニス、あんまり無理するなよ」

 

 ルクリースだけじゃない。イグニスにだって倒れられたら困る。

 カードだからって意味じゃない。俺が俺であるために、俺は彼の無事を望んでいる。

 そういう思いを自分なりに言葉にしたつもりだ。でも、どの程度伝わっているかはわからない。

 

 「君じゃないんだから大丈夫だよ。僕は自分の限界くらい承知してる」

 

 ひらひらと手を振り小さくなっていく背中。そのちょっと後ろをついていく頭一つ分小さな彼女の足音。

 それを聞いた彼は、速度を少し落としたようで、二つの背中が完全に見えなくなるまでの間が少し長引いた。

 

 「行っちゃいましたね」

 「……だな」

 「心配ですか?」

 「いや……大丈夫だ」

 

 カードの幸福値で分けるなら。コレが正しい。ヌーメラルとコートカード。コレが正解。

 弱いヌーメラルカードの俺とフローリプの組み合わせは鬼門過ぎる。

 

 「疲れてないか?今の内に休んでろよ」

 

 隣の彼女に視線を向ければ、彼女は義務を語るような口ぶりで微笑を宿す。

 

 「そうですね。私が倒れたら……困りますもんね。大丈夫ですよ、ちゃんと守ってあげますから」

 「そうじゃなくて……確かに、困るけど!そういうんじゃなくて……」

 

 勿論彼女に頼り切っているのは否定出来ない。カードとしても、俺自身としても。

 俺の言いたいこと。まだ一も言っていない。それでも彼女はその半分以上を。限りなく正解に近い数を理解してくれた。

 どうして?どうしてそんなことが出来るんだ。

 好きですよと言ってくれたときのように、俺を見る彼女の目は優しい。

 

 「馬鹿ですねアルドール」

 「……え?」

 

 俺の言葉に彼女は力なく微笑む。そして、ちょっと疲れましたと小さく呟いた。

 

 「それじゃあお言葉に甘えて」

 

 軽い音と一緒に肩から伝わる重みと温もり。

 もたれ掛かるように頭を預けて彼女が目を伏せる。

 

 「ちょっとだけ、肩貸してください」

 「余計疲れないか?」

 「そうですね……では借りますね」

 

 身体をずらし、ごろんと俺の太腿に頭を置く彼女。俗に言う膝枕とか言う奴だ。

 倒れる瞬間目の前に広がる黄金が、日に透けてきらきらと輝いて見えた。その髪から香る花の香り。香水だろうか。何の花だろう。何か温かい……懐かしさを感じるような甘い香りだ。

 俺が花の名前を考え込んでいる間、彼女は別のことを気にかけていたみたいだった。彼女の片手が俺の足を揉んで何やらぶつぶつ言っている。

 

 「流石お屋敷育ち。全然筋肉ないですねー駄目ですよちゃんと鍛えないと。いざって時に困りますよ?私だって……」

 「ルクリース?」

 「いいえ、なんでもないんです」

 

 何か言いかけたことを彼女は飲み込んで、それ以上を教えてくれなかった。

 よそよそと頬を撫でる風は暖かい。今は夏だしカーネフェルは温暖だからこういう風を感じるのはこの土地では初めてだ。

 森の木々に覆われたこの木陰だから感じられる風なのだろう。

 吸い込む空気が伝える開放感。密閉された屋敷の空気とは全然違う。空気にも味があるんだなぁ……外に出て知ったことだ。

 “屋敷”……

 馬鹿な俺は思い出す。今頃あの屋敷の空気は、あの頃よりもっと淀んでいることだろう。

 ため息一つ。それだけで俺の表情の変化に気付いた彼女。変な話だ。彼女は俺の方を向いていないのに。彼女の頭の後ろ側にはもう一つ目でも付いて居るんだろうか。

 そんな彼女が俺に投げかけたのは俺が予想したどの慰めの言葉とも違かった。

 

 「アルドールは、誰かを殺したいほど憎んだことはありますか?」

 

 慰めでもなく、その場を濁す言葉でもない。俺の内側の深淵を切り開く刃の一閃。

 痛みはない。それを語る彼女の口調が淡々としていたせいだろう。

 

 「私は、あります」

 

 冷静に自分を分析するその声には憎しみは見えない。それが綺麗に消されていることに感じる違和感に、彼女の心の裏側に隠された憎悪が垣間見えるよう。

 

 「アルドール。私は貴方の大切な人を知りません。彼女本人を知りません。私が見たのはあの船で見た幻影です」

 

 だから彼女を悪く言うことを許してください。ルクリースが前もっての謝罪を口にする。

 

 「イグニス様を疑ったこともありました。ですが……彼は彼なりに貴方をちゃんと思ってくれている。それだけは絶対です。不安がる必要なんて無いんです。いつもみたいに馬鹿みたいに信じてあげてください。神子様だって所詮は年下のお子様なんですから」

 

 彼女は数術使いでもないのに、どうしてそんなに周りが見えるのだろう。

 ルクリースは俺の不安を見抜き、あのイグニスさえ子供扱い。きっぱりと断言する。力強くそう言われると、否定する言葉が見つからない。

 彼女がそう言うと、それがしっくり馴染んでしまう。物凄い説得力だ。

 

 「きっと彼だって不安なんですよ。フローリプと同じです。それを外へ伝える言葉を知らない、可哀想な子供なんです」

 

 ルクリースは、フローリプのことにも気付いていてくれたのか。一つ、胸のつかえが取れていった。俺の口が勝手に安堵の息を吐く。

 その安堵を壊すことをためらうように僅か置いてから、ルクリースは本題へと入っていく。緊張して、足が強張る。こんなんじゃ、枕失格だ。

 

 「あの“幻影”は……貴方を憎んでいました。」

 

 ギメルと言わないのは、彼女の優しさだ。ルクリースはあれがイグニスという疑念は捨ててくれたけれど、ギメル本人でなかったという証拠はない。

 ハートの女王と呼ばないのも、彼女の優しさ。俺はあれが彼女ではなく“道化師”であることを願っているから。

 

 「他人に憎しみをぶつけられたことはありますか?フローリプのあれはまだ可愛いモノです。本当の憎しみには到底及ばない。まっすぐな憎しみはわかりやすい。純粋な憎悪です。歪んだ憎しみほど厄介なモノはない。彼女のそれは、とても……歪でした。狂気といってもいい。“道化師”は、貴方を憎んでいる」

 

 断言される憎しみ。

 人生経験も深く観察眼に優れた彼女がそう言い切るのなら、それは限りなく真実。

 

 何かをしたら憎まれる。何をしなくても憎まれる。生きていく内に、存在しているだけで人とは他人から憎しみをぶつけられるモノだ。それは俺も理解している。

 貴族と言うことだけで昔のイグニスには嫌われていたし、移民居住区域では貴族がよく思われていないのも、羨みが妬みに変わるということも教えられた。そしてフローリプ。兄妹として育った俺たちだって、俺が男だと言うだけで……家を継げると言うだけで憎まれていた。俺がそれを望む望まない、俺がどう思おうと憎む側には関係ないのだ。

 唯、存在するだけで憎まれる……存在悪、存在罪。

 だから驚かない。例え知らない相手に憎まれていようとも、それはよくあることだろう。それを口にした俺を、ルクリースは否定する。

 

 「おそらく“幻影”……道化師は貴方を知っています。会ったことがあるはずなんです。いえ、貴方が知らなくても向こうが知ってるだけ。一方的な憎しみかも知れない。それでも道化師は貴方の過去のどこかに必ず、います。でなければ、あそこまで他人を憎めるはずがない。殺せる相手と憎む相手の違い、わかりますか?」

 「……それは、同じ事じゃないのか?」

 

 二つをイコールで結びつけた俺。ゆっくりと身体を起こしじっと俺を見つめるルクリース。隣に腰掛けた座席がギィと小さく軋む。

 茂る緑を見やる彼女が淡々と説く憎しみの底の話。俺はそんなことはないと否定したかったけれど、出来なかった。

 

 「顔も知らない相手を殺せるか。それは、イエス。知らない相手とはどうでもいい相手。つまりは自分の世界の外側の人間。顔を知らない人間を憎めるか。これは、ノー。人が誰かを憎むとき、人はその対象の情報を多く求める。知りたいと思う。不思議でしょう?心底嫌っている相手を、まるで思い人のことのように一つでも多くのことを知りたがるんです。そして憎悪を膨らませ、維持させる。憎しみを長く続かせるためには、情報が必要。相手を貶め、憎むに値すると、復讐を肯定するための理由が欲しいんです」

 

 俺は思い出せる養母の顔……好きな色、好きな食べ物、好きな花。嫌いなもの、彼女の癖、言葉遣い。

 何時しか俺は彼女の好むモノまで嫌悪し嫌っていた。逆に彼女の嫌うモノほど周りに置いた。言葉遣いも、身だしなみも、髪型も。彼女が俺を嫌うよう彼女の嫌う平民を真似た。それでも彼女は俺を縛り続けた。そうやって束縛して構うことが愛だというのなら、俺は姉や妹より愛されていた。でも、俺はそんな愛は要らなかった。重かった。辛かった。苦しかった。

 そんなもののせいで、俺の大事な二人が奪われたなんて。彼女の愛は俺にとって憎むべきモノだった。

 死んでしまえばいいと何度も思った。寝ずに窓から夜空を見上げて流れ星を探したこともあった。彼女を殺してくださいなんて子供らしくもない願い事を託して。

 あの頃の俺は彼女の死を優先に考えていた。方法でも手段でもなく、目的だけを願っていた。彼女の死という結果が結びつくのなら、誰がどう殺しても構わない。そう思った次期も確かにあった。

 不幸な事故でも呪いでも、死ねばいいと思った。事実、彼女は死んだ。見るも無惨な死に方で。

 それなのにそれをぬけぬけとそれを悼む自分がいて……同時に悔しがる俺もいた。行き場を失った俺の復讐は、果たされることなく消えない傷と憎悪を刻み続ける。

 俺は彼女を殺せなかったし、殺さなかっただろう。それでも許せはしないし憎み続ける。本当だ……これは等号ではなかった。

 

 「不思議ですよね。憎んでいない相手を殺すことの方が簡単なこともあるんですよ」

 

 そうだ。昨日俺が斬った少年。

 俺は彼を憎んではいない。嫌悪はした。怒りはあった。それでも個人的に彼に何かをされたわけでもなく、憎いとは思っていないのだ。

 それでも俺は彼を殺そうとした。俺は、彼がどうでも良かったのだろう。

 

 そこまで語った後、ルクリースはすり替えた焦点を俺と道化師へと戻す。

 

 「本当に憎んでいる相手なら、そうそう簡単には殺しません。殺したら終わりでしょう?苦しんで、苦しんで、苦しんで。絶望という絶望を見せて。救いの糸を断ち切って。身も心もボロボロにして。そこまでしてやっと、殺してあげられる。“道化師”は、貴方を殺さなかった。それは、そういうことなんです」

 

 「貴方はそこまで憎まれているんです」

 

 一度呼吸を置いて彼女が語る真実。それを他人事のように俺の耳は聞く。

 実感がないのだ。俺は、そこまでの罪を犯したのか?唯、籠の鳥をやっていただけで。俺は誰かにとって、そこまで憎まれる存在だったのか?

 

 「だから“道化師”は貴方の復讐の相手を奪った。果たされなかった復讐は貴方の胸の内側で燻り続ける。ぶつける相手がもうどこにもいないから、貴方は生き続ける限りその炎に負けずに打ち勝つことを強いられる。だから“道化師”は貴方の……お姉様を奪った。貴方が彼女を憎んでいないことを知っていて。わかりますか、アルドール。道化師は、それだけ貴方を“知っている”」

 

 他人事ではない。これは俺自身のことなのだ。逃げないでと彼女は俺に呼びかけている。

 そして彼女は、自らの死を予言した。

 

 「私が“道化師”なら、メインディッシュは最後に取っておきます。だからアルドール。貴方は最後まできっと無事。消すとしたら周りからでしょう」

 

 

 「貴方が私達に心を開いてくれるようになったことが、私は嬉しい。ずっとずっと……二人以外に心を閉ざしていた貴方が変わったことが、私は嬉しいんです。だから“道化師”が許せない。そいつは貴方のその変化を利用しようとしている。貴方の世界が広がること……それを貴方の傷口を押し広げる行為と結びつけようとしている」

 

 何の躊躇いもなく、俺が彼女を信じていることを彼女は信じている。言い切る。当たり前のように。俺が彼女に、フローリプに心を開いたことを、誇るように。

 その誇りを汚されることを彼女は怒っている。その憤りに、俺が彼女のプライドなのだと俺は知る。

 

 「アルドール。あんな奴に負けないで。何があっても心を閉ざさないで。変わったことを否定しないで」

 

 俺を見つめてくる青は水面を映しながらも一切の揺るぎもなくそこにある、彼女の強さだ。俺の水面と同じ色なのに、彼女は絶対揺るがない。

 

 「……アージン様は死にました」

 

 強き瞳の彼女によって、送られたのはグサリと胸を打つ言葉。それは真実。それに迫る追い打ちは、強き言葉。

 

 「それでもアルドール。貴方がそこで心を閉ざし、誰にも心を開かなくなったなら、その時もう一度私達は死ぬんです。否定されて、殺されるんです、貴方に」

 

 殺さないでと、彼女が言った。

 

 「アルドール。私はいつか、死にます。それでも、約束してください。貴方を、私達を……世界を否定しないで」

 

 最後まで揺るぎなく言い放った彼女に、俺が揺らぐ。視界が揺れる。

 

 「泣かないでくださいよ。人間みんないつかは死ぬんですよ?その時に拘るなんてナンセンスですよ」

 

 泣かないで。そう言いながらも彼女はそれを拭ってはくれない。肩口に抱き寄せてその首筋が濡れるのも気にせずに、俺をぎゅっと抱きしめる。

 その温もりに、俺は今度こそ涙腺が崩壊してしまう。俺は今まで、誰にもこうされたことがなかったのだ。

 ああ、俺は今までどんなに孤独だったのか。それでも俺は今、一人じゃない。その二つを教えてくれる優しい温度。

 この温もりを失うことは世界に約束されていて。この温もりを守るためには、俺は国と多くの命を見捨て、親友も妹も自分自身も殺さなくてはならない。

 失いたくないと思うのに、どうして俺はそれを失わなくてはいけないのだろう。こんなに愛しいのに、どうして俺は彼女を選べないのだろう。

 

 「どう死ぬかじゃない。どう生きたか、なんです」

 

 耳元で聞こえるその声まで、大切なのに。

 正義漢にでもなったつもりだったのか。エースだから。選ばれた人間だなんて。自分は特別なんだって、初めて誰かに必要とされているような気がして。

 彼の手を取った瞬間、俺は彼女を切り捨てていた。

 顔も知らない人々のために、こんなに知っている彼女を失わなければならない。

 これじゃあさっきの問いかけの逆さまだ。

 愛することが出来ない人々を守れるのに、愛しい人は絶対に守れない。どうして俺はカードなんて手にしてしまった?

 それはイグニスとギメルが大事だったから。今だって大事だ。それでも、二人だってカードだ。俺の願いは叶わない。

 二人に会いたいという願いは叶ったけれど、二人を守りたい、一緒にいたいという願いは絶対に実らないのだ。

 それにルクリースやフローリプ……願いがどんどん増えていく。俺が我が儘になる。世界は意地悪のままなのに。

 

 感情を殺すことはあっても、心まで殺す必要はない。泣きたいときは泣いて良いんだ。世界の理不尽さに、泣けばいい。

 俺が多くを失う者ならば、きっと誰よりも失う痛みを知るはずだ。そんな思いをする人を減らすため、俺は王になろう。俺は俺の望みを捨てよう。どうせ叶わない願いなのだ。捨ててしまえ。

 俺が、泣こう。俺以外の多くが泣かないように、俺の代わりに笑ってもらえるように誰より一番、俺が泣こう。

 

 「グッシャグシャのスプラッタな私になっても、私の生き方までは変えられない。私の全てを完全に奪えなんかしないんです。死なんてその程度のモノなんです」

 

 彼女の言葉が胸に響き、身体中に染み渡る。

 俺は生きよう。彼女が誇れるような俺でいたい。最後まで生き延びたいなんて思わないけれど、……俺はこの戦いを終わらせる。絶対にだ。この手で狂王を討つ。カーネフェルに平和を約束出来るまで。それまでは、絶対に死ねない。生き続けよう。それが俺を生かしてくれる全ての人への手向けなのだから。

 

 「でもアルドール。生きている貴方は、完全に奪えるんですよ?」

 

 ルクリースが笑う。いつかこの手から失われるのなら、瞳に焼き付けておこう。彼女の笑顔を、その瞳の強さと気高さを瞳の奥へと刻もう。

 

 「トリオンフィ……いい名前ですね。死に打ち勝つ勝利の凱旋。貴方が心を開き続ける限り、貴方は誰にも負けません。だからどうぞ奪ってください、私を。貴方の心の中に」

  

 

 *

 

 

 薄暗い森を歩きながら私は思う。

 目の前を行く金の髪は私達のそれとそう変わらない。けれど瞳は綺麗な琥珀色。

 教会へ行けば混血と出会うこともあったから

 母様が混血を嫌っていた。だから私はそこまで混血が嫌いではない。綺麗なモノは好きだから。

 たまに数術を使える子がいて、その子達の数式の美しさに魅せられたこともある。何度か通って友達になった子もいた。その数式の方法を教えて欲しかったけれど、彼らは無意識でやっているようで、よくわからないと言っていた。

 家を継げないのなら数術使いになりたいな、なんて思ったこともあったけれど、純血の私にはその見込みはなくて、こんなことなら混血に生まれたかったと両親を恨んだりもした。彼らが迫害されているのを知らないわけではないけれど、それくらい私は数術への関心があったのだ。

 この世界は数字に溢れている。その記号は世界の心理。目の前に答えが描かれているのに、私はその言語を知らないから理解できない。見えないのなら諦められた。

 見えるのに、わからないなんて、悔しい。見えない振りなんて出来ない。嫌でも目に入ってくるのだ。解き明かしてみろと世界の謎がそこら中をうようよ漂っているのだ。

 文献を漁ってみて自分なりの解釈で、なんとなく解るようになったのは気象の自然数。風の吹く方向、明日の天気、そんなものが読めるようになった。

 それは現象として起こる前にあらかじめ空中に数式が展開されるのだ。

 雷と同じ。音の前に光り。数式は光、現象が音。地震でも良いかもしれない。前者が初期微動で後者が本番。

 大きな現象なら数式は長くなる。だからそれを解き明かせれば未来が読める。それを知ってぞくぞくした。

 多くの人が何にも知らないでのうのうと生きている。自分だけが未来を知っている。間違った優越感。

 それでもその僅かの幸せは、私の悲しみを癒すには必要なモノだったのだろう。

 

 今は、よくわからない。私は満たされている。悲しくない。

 だからその悲しみを埋めてくれた人のために……その人達の役に立ちたい。そのための手段が数術だ。私の力だ。

 だからもっと知りたい。無力な子供である私が強くなるためには、数術しかないのだ。

 

 神子様は凄い。私と二つしか違わないのに、彼の紡いだ数式は

 不可指数術の壁は視界がびっしり数字で埋められて、淡い光を帯びて輝いて。それがドミノ倒しのようにパタパタと消えて何も見えなくなった。

 空間移動も凄かった。私達の存在数が分解されて、xとyとzの空間座標位置が変わり、違う場所に構成される。身体が光って薄くなって透明になっていくのは面白かった。

 あの時の数式は不可視以上。目に映るのは0から9までの数字ばかり。存在とは何だろう。自分とは何だろう。全ては10種類の数なのに。そんな数の組み合わせだけでこんなに多種多様の存在が居て、世界は構成されているの?混乱して頭が痛くなる。それでも、私はあのとき確かに感動していた。

 

 そういえば、兄の友人である神子様と二人きりになったのは初めてだ。

 彼は最高峰の数術使い……そう言われている。だから気になったことが一つ。

 あんな凄いことが出来るのに、どうして彼はそれをしなかったのだろう。

 

 「イグニス様の数術で、馬車を直すことは出来ないのか?私が読んだ本ではそういう数術もあると書いてあったが」

 

 私の質問に神子は穏やかに微笑む。あの道化師が映した少女とは全然違う。優しい笑みだ。

 そして彼は教えてくれる。しなかったのではなく、出来なかったのだと彼が言う。

 

 「直ったように見せることは出来るけど、僕は壱の神の加護がないから。無から有は作れないよ」

 

 その口調は神子、というより……少年という感じだ。そうか、私と二つしか変わらない男の子なんだな。

 それなのに彼は、私より重いものを沢山背負って居るんだ。

 

 「人は生まれながら壱か零、どちらかの神の加護を持って生を受ける。僕は双子だから僕が零、彼女は壱を授かった。フローリプさんは……壱の数術使いみたいだね。無から炎を作り出す数式。あれは存在を生む壱の魔法だ」

 「あ、兄は……アルドールも?」

 「残念ながら……彼は違う」

 「同じように、炎を作っても?」

 「彼の炎は、奪う…力の炎だ。書き換え効果が君とは違う」

 

 書き換え効果。聞いたことがある。数術を使うときに行う計算のことだ。

 いまいちよくわからないけれど、占いをするとき、浮かべたカードが光を帯びて、視界が数値で埋められる事がある。

 ああいう時の占いは上手くいく。逆を言えばそれ以外の時は失敗。その数字が見えるまで私は何度もやり直す。

 上手くいったときはしばらく怠いし、頭痛と耳鳴りが止まない。カードになってからはそれが無くなった。

 

 「フローリプさんの数術は、何もない場所に炎を発生させる。アルドールの数式は、彼の手から剣に流れ込んだ数値。それが炎を作る。人は壱と零に分けられた後、更に分類される。それが四大元素。要するにそれに零と壱が加わり八種類。それにいくつかの例外が加わる」

 

 君が炎の壱で彼が炎の零なんだと神子様が言う。

 

 「フローリプさんは、空気中の炎の元素。その元素を種としようか。君の書き換え効果が種蒔きであり水やり。咲いた花が炎の数術。一輪一輪を大きな花にするために必要なのが君の数術の力……つまりは書き換え効果の精度。多くの花を咲かせるために必要なのはそもそもの種の数。君がどんなに素晴らしい数式を書き上げても、そこに種が一つもなければ花は咲かない」

 

 「私の力は、その環境によって変化する…ということか」

 

 火の元素が無ければ私は役立たず。それでも私は自分の何かを失わずに外部のモノを使って何かを生み出せる。

 アルドールはといえば、もともと持っているモノを外へと出す、自分の数値を殺して術を紡ぐ。

 

 「……そうなるね。アルドールのは、炎が花。アルドールが水と土。空気中の元素は付加効果……肥料。だからアルドールは君ほど外的要因に左右されない。勿論要素が強いならその分力は増すけど。いつでも何処でもある程度の数術が使える。それでも、負担は君の方が軽い……アルドールは自分の体内元素の数を減らして数術をしているから」

 「それは、危ないことなのか?」

 「間違った計算式は本当に危険だ。計算なんてものじゃないか……彼のはイコールだ。感情をそのまま炎に変える。昨日のは怒り。その数値がそのまま外へ出たんだろう」

 

 「感情を注ぎ込む。心が感情を生む機械なら、間違った数式はその機械を破壊する行為だ。彼は火属性だから……感情が体内の熱に換算される。上手く紡げないと血液が沸騰したり、行き場のない火の気が身体を燃やしたり……力を使いすぎると体温が下がって最悪死ぬ。僕が剣に補助の方程式を刻んだからある程度のストッパー効果はあると思うけれど」

 

 アルドールが数術を使う時、感情が体温調節の機械になっている。外へと吐き出した炎で身を焼くことはなくとも、内側の炎を制御できなければ身を滅ぼす。

 力を使っても、使った分だけ体温が下がる。

 感情を注ぎ込む数術。それは覚えがあった。私もそうやって、炎を燃やしたはずだ。

 それを伝えた私に神子様は小さな落ち葉を拾い、それを燃やすように言った。

 

 「……やってみてもらえる?冷めた気持ちでいいから」

 

 どうでもいいけど適当に燃えろと念じれば、ぼぅと火が付き燃え落ちる木の葉。

 空気中に描かれた数式は、私には読めない。見えるけれど、専門的な知識のない私には理解できない記号の羅列。

 多くの数式は聖教会での門外不出。私のようなぱっと出てきたそこまで才能のない数術使いは独学、無意識で紡いだ数式。もっと短くて済む計算をわざわざ難しくしているようなものだ。

 私の数式を目にした神子様は、じっとそれを見た後小さく首を振った。

 

 「似てるようだけど、君のは違う……」

 「え?」

 「感情シンクロの計算が組み込まれてるから、そういう風になってるだけだね。確かにこの付加価値で攻撃力は上がるけれどアルドールみたいなリスクもあるからおすすめしないよ。それにそれは余計に数値を無駄にする。君は確か……カードに選ばれる前の副作用は頭痛だって言っていたね、今はそれが無いとも」

 「ああ……じゃなくて、はい……です」

 「無理しないで普通で良いよ。二歳しか変わらないんだから」

 

 敬語はあんまり好きじゃないんだと、悪戯を共有するような子供っぽい笑みを浮かべた後、彼は真面目な顔に戻る。

 

 「フローリプさん、君の消費しているのは……幸福値だ。さっきの君の不運はそう言うことだろう」

 

 さっきの不運。馬車騒動、あれか。

 

 「書き換え効果時の演算処理を幸運が手助けして脳に負担の少ない簡単な数式に変えてくれている。数術使いの代償は個人差があるけれど、カードに選ばれたことでそれが変わってしまうこともあるのか……」

 

 後半はなんだか解説ではなく唯の感想になっていた。しばらく考え込む様子の彼。森を進むスピードが若干落ちる。

 

 「フローリプさん、あまり数術は使わない方が良い」

 「なぜだ?確かに迷惑はかけるかも知れないが……」

 

 そうしなければ、私は完全に役立たずだ。守られるだけのお荷物だ。さっきの危ない計算を省けば、アルドールのように身体への危険はなくなる。

 ちょっと運が悪くなるくらい、進んで何かをしようとしない限りどうにでもなるだろう。そんな私の甘い考えを彼はバサッと切り捨てた。

 

 「幸福値が切れたとき、人は死ぬんだよ。今の君の状況は、痛みを感じない薬漬けと同じだ。事故か他殺か天災か。それは解らないけれど、幸福値がゼロになったとき、君は死ぬ」

 

 身体への危険はない。

 それでも、死は足を引きずって私の背後へ近づいてくる。数術はそのカウントを自ら減らす行為だと彼が言う。

 

 「君は死ぬのが怖くはないの?」

 

 そんなことかと思い、大したリアクションを返さなかった私に神子様は驚く。そんな神子様にむしろ私が驚いた。神に仕える聖職者なのに、死ぬのが怖いのか。

 

 「イグニス様は、死ぬのが怖いのか?」

 

 私の問いに、彼は聖職者である前に軍の指揮官で、一人の人間なんだと答える。

 

 「ああ、怖いよ。それは失うことだ。大切なモノを全て奪われてしまうことだ。思いも記憶も、何もかも……大事な人から奪われる。残されるのは辛いことだね。職業上、僕は聖十字のトップでもあるから……見知った顔が失われることを見てきたよ、何度も、何度も」

 

 残されるのは、辛い。死んだモノはそこでお終いだ。それ以上傷つくことも悲しむこともない。それでも、残された者は傷つくし、悲しみ続ける。

 父様母様姉様……彼らは私を覚えていない、思い出さない。二度と望んだモノは手に入らない。永遠に失われたのだ。肉親に求めた無償の愛情は一度も私に与えられることなく、その機会は失われた。

 今の私は他に大切なモノを見つけた。だから大丈夫。それでも、悲しくないわけではない。心が満たされてもズキズキとこの胸の何処かは痛み続ける。死者は狡い。そうやって、生きている人を苦しめる。私もいつか、アルドールにそんな風に邪険に思われてしまうのだろうか。それは嫌だ。それならこの痛みの解釈は?

 そうだ。死者は……忘れられたくないんだ。だから生者に傷を残す。そうやってずっと覚えていて欲しいんだ。私の胸が痛むのは、初めて私に返された愛情。私が忘れたくないと思っている時、彼らも忘れられたくないと願っているのだ。それなら私は、この痛みを愛していける。

 

 彼の傷になる。永遠になれる。大切な人がずっと私を覚えていてくれる。ずっと、一緒。

 どうしよう。私は、それが欲しい。その時、私はもっとあの人の心の深いところまで行ける。誰にも望まれなかった私が、誰かの特別になれるのだ。

 

(それなら……何を恐れるというの?)

 

 怖いのはもっと別のこと。

 部屋の片隅のおもちゃ箱。開けることもなくなったその箱の中身。そばに在るのに視界にも映れず……無関心のまま、忘れられていくることの方がずっと辛い。

 場違いな程優雅に笑った私に、彼は悲しそうに微笑んだ。

 

 「……さっきの車輪の話。零の数術使いである僕じゃ壱の数術は使えない。それでも君みたいな壱の数術使いは修行を積めば直せるようになると思うよ、理論上ならどんなモノでも……たった一つを除いて」

 「……一つ?」

 「うん、一つだけ。わかる?」

 「……教会の本で読んだ気がするぞ。……死者、だろう?」

 「ああ、正解だよ。どんなに腕の良い壱系統の数術使いでも……死者は蘇らせない。肉体の再生は出来ても、魂は呼び戻せない。それを理解した上で、君は死が怖くないと言える?」

 「怖くなど無い。だってそれでは意味がない」

 

 永遠になれない想いなら、要らない。

 力強く頷く私に、神子様は何かを諦めたような声。その眼差しは私を哀れんでいるようだった。

 

 「それなら壱の数術を君に教えるよ。これから先、アルドールが傷つくことはあるだろう。僕にも、ルクリースさんにも治せない。でも、君ならそれが出来る」

 「イグニス様は使えないのに私に教えられるのか?」

 「問題ないよ。僕は出来ないだけで知識としてはマスターしてる。手を貸して…」

 

 私の差し出した右手を両の掌で包み込み、神子様は目を閉じる。瞬間、彼の中から広がる数式が世界を埋める。

 それは外側ではない。掌から私の右手に伝わり、それは私の中を駆けめぐり、脳まで至る。それが瞳に反射して見えているのだ。


 13579135791357913579135791357913579135791357913579135791357913579135791357913579135791357913579135791357913579……


 光り輝く奇数の群れ。それが目の中を飛び回る。そこに加わる記号。刻まれていく。

 唯の数字の羅列じゃない。式と解を与えられた私は、その真意を理解する。

 

 「す、すごい……綺麗」

 「僕の脳に刻んだ壱の数術情報をそっくりそのまま君に託す。後は君が見定めて、使って」

 

 彼は様々な数術の公式を私の脳へと送り込んだ。その公式を知った途端、私はどうして今までそんなことも出来なかったのだろう。解らなかったのだろう。そう思う程、多くを学んだ。

 つい、その公式を紡ぎたくなる衝動がわき上がるけれど、知識欲のために寿命を減らすわけにはいかない。コレはアルドールのために大切に取っておこう。

 これまで見えるだけだった景色が変わった。私は息を飲む。右も左も空も大地も。こんなに答えが描いてあったの?

 見知らぬ花。それが持つ情報まで見える。これは毒でこれは大丈夫。ああ、この毒がこの数値なら、これをマイナスすれば解毒が可能。致死数……これだけ盛れば殺せるだろう。

 この土は養分が多い。だって数値にそう書いてある。ここに花壇でも作れば……綺麗な花が咲くだろう。植えるなら何が良いだろう。ここの気候ならあの花は向かない。気温、湿度まで見える。

 

 

 「こ、こんなに凄い式、私なんかに教えていいのか?門外不出だと聞いた」

 「構わないよ。見えるのがその程度なら。君は世界がちゃんと色づいて見えているし、僕の顔も見えているでしょ?」

 「それはそうだが」

 

 この人は何を言っているんだろう。そう思った私は、なんて馬鹿だったのか。少なくともそれを口にしなかっただけ、まだましか。

 自分より不幸な人間なんて探せばいくらでもいる。彼が、そうだっただけの話。……そう言い切るには、彼の言葉はあまりに切ない。

 私の瞳に哀れみが浮かんだことを、彼は知れども見えてはいないのだ。

 

 

 「僕には君の顔も見えない。数字と記号の羅列だよ」

 

 


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