私の普通、貴方の普通
八割八分5厘。
この数字が何を表すものなのか。数字を見ただけではわからないと思う。
私だっていきなり、これがなんの割合か、なんて問われた所で、知るかボケ、以外の回答は持ち合わせていない。
世界における右利きの割合、それが八割八分五厘。それは当然、世界の標準たるべき« 過半数»という要素を満たすものだ。
それほどに、世の中は右利きの為に出来ている。駅の改札然り、自動販売機の入金口然り、ATMのキーパネル然り。
細かいものに至ればもっと顕著だろう。ハサミに始まり、パソコンマウスやスマホカバーなど。
更には精神論までそろい踏みだ。お行儀が悪い、みっともない、宗教に至っては、左は不浄の手。もはや言いがかりである。
挙げればキリもないほどに、世の中は右利きの為に出来ている。神様は、さぞや左利きがお嫌いなのだろう、と思うほどに。
左利きの人間達は、右利きの世界で生きることを強いられている。
当然、仕方なしに順応してゆくだろう。左利きの人間が、右手も使うことが出来る理由は、ほぼ全てここに集約される。
私は左利きだ。それも、生まれてこの方、右手を使った事が一度もない稀有な存在。少数派。見事なマイノリティ。
なぜそんな生きづらい生き方をするかって? 簡単だよ。
私には、左腕しかないのだから。
「大変でしょ?なんでも言ってね」
「不便だよね、可哀想に」
聞き飽きたよ、憐憫、慈悲、同情。その中には、偽善に染まらないものも、多分あるのだろう。だが、それ以前に聞き飽きた。その言葉は私には要らない。
「うわ、こわ」
「ありえねぇわ」
もう何とも思わないね、畏怖、嘲笑、侮蔑。なんと言われようが、どう足掻こうが、私が袖を通す制服の右側は膨らまない。その言葉は私には届かない。
入学の度、進級の度、教師に言われ、クラスメイトに言われる言葉たち。
最初は感動したのを覚えている。あぁ、優しい人が居て嬉しい。
最初は傷ついたのを覚えている。あぁ、ひどい人が居て悲しい。
でも、繰り返されるうちに、気づいてしまった。
優しい人も、怖がる人も、嘲笑う人も。全部全部、本質は変わらない。彼ら彼女らが、私に対して向ける言葉や仕草は、私の為などではなく、全て自分の為なんだと。
「ほぉ、器用なもんだな!」
進級して間もなくの季節。それは、唐突に訪れた。
「え、私の事言ってる?」
その日最後のホームルームが終わり、配られたプリントを、左手だけで半分に折っていた時、私の机の上に影が落ちてきた。視線を上げて、声の主を窺う。
「そうそう、片手だけでも綺麗に折れるんだな!」
腕組みしたままに、右手の人差し指を私の机に差し向けながら、笑う。
「別に、私にとっては普通の事だし」
「俺には出来ねぇわ! すげぇな!」
すげぇな……すごいな? ……凄い? 私が?
「別に凄くないでしょ、普通の人ならそもそもやらなくていいんだし」
「うん? お前何言ってんだ? 他の人が出来ないこと出来んのはすげぇ事だろ?」
当たり前のように、簡単に、彼は言う。絵を描くのが上手いね、その程度のニュアンスで、彼は宣う。
「頭大丈夫?」
「おうおう、出来は悪いが健康そのものだ」
カラカラと上がる声に、つられる様に口角を上げてゆく彼を、変なやつだと認識した瞬間だった。
日に三度、あれから毎日だ。毎日必ず、奴が近寄ってくる。朝のホームルーム、昼食、終わりのホームルーム。最低限これだけは欠かすことなく、懲りずに私に話し掛けてくる。
ひどい時など、毎授業後に訪れては、何が楽しいのか私に構うのだ。その度にあしらっているにも関わらず、だ。
「おう、今日も遅刻ギリギリだな!」
「うるさい、制服着るのに手間取るんだよ」
「一緒に飯食おうぜ!」
「うっさい、私と食ってもなんも楽しくないだろ」
「おーい、帰りゲーセン行かねぇ?」
「行かねぇよ、私に何が出来るんだ、バカにしてんのか」
エトセトラエトセトラ。
その都度、奴は不思議なことに、笑うのだ。何が楽しいのか、本当に理解に苦しむ。理解に苦しむのだが……。
その笑いは、私をバカにするものじゃないのが、伝わってくるんだ。
「おーい」
また今日も。
「なぁなぁ」
その次の日も……。
「よぉ」
そのまた次の日も…………。
「おう、めし……」
「いい加減にしろ!」
今日も今日とて、懲りずに話しかけてくる奴に、声を荒らげる。
「毎日毎日毎日毎日! 私なんか構って何が楽しいんだお前は! かたわの私を見下して楽しんでんのか! あぁ!?」
ぶちまける罵詈雑言は、思い思いの時を過ごそうとしていたクラス内の他人たちに、冷や水を浴びせる。
水を打ったような教室で、呼吸を荒らげる私に、声をかける者は居ない。
何故だろう、こんな感情が私の中にまだ残っていたなど、自分ですら気づかなかった。それほどに、私さえをも混乱させる激情。
「ちっ……」
いつも感じるものとは、別種の居心地の悪さを感じ、吐き捨てながら教室を後にする。
「お、おいまてって!」
半身、廊下へ繰り出した私の右肩を、大きいな手が掴む。
「んのっ……! まだなんか用が……」
「すまん、かたわってなんだ?」
「……は!?」
「いやすまん、怒ってるのは、分かるんだ。きっと俺がなんかしちまったんだよな」
そう言って、私をぐいと引き、自分に向き直らせてから、勢いよく頭を下げる。最敬礼の角度。
「わりぃ、俺こんなだからよ、何したか分かってねぇんだけど、謝るから、機嫌直してくれよ、な?」
そんな言葉に、無性に怒りが込み上げて来て、私の意志とは無関係に口が言葉を投げつける。
「なんでそんな簡単に頭下げんだ! お前にはプライドはないのか! こんな障害者の癇癪に、なんで謝るんだよ!」
「障害者とか、関係ねぇだろ、俺が怒らせたんだ、俺が謝る。当たり前だろ?」
一度顔も顔を上げず、ただひたすらに腰を折り、床を見つめながら奴は言う。
「当たり前だ? ふざけんな! 私より上のフィールドに居る人間が、下に居る私に、優越感以外の何を感じるってんだ! 見下して、指さして、心の中で笑うばかりのお前らが! 私に謝るわけないだろ!」
叫びながら、無意識に、肩からぶら下がる右の袖を握りしめていた。強く、強く、左手が真っ白になるほどに。
「上とか下とか、よくわかんねぇけどよ」
変わらない姿勢のまま、静かに、しかしよく通る低い声で、奴が紡ぐ。
「なんで俺がお前を見下さなきゃならねぇんだ? 身長か? それならすまん、どうすることも出来ねぇ」
耳に届く言葉に目眩すら覚える。会話が成立しないとはこういうことを言うのか。
「おま……えは……何を言ってんだ! バカにしてんのか!」
「バカになんかしてねぇよ。バカなのは俺だ。未だになんでお前が怒ってんのかわかんねぇ。だから、許してくれるまで、頭を下げる。それしか、出来ねぇ」
「それがバカにしてるって言ってんだ! 自己満足で私に構うな! 普通の奴らでつるんでりゃいいだろ!」
その言葉を放った直後、奴は勢いよく顔を上げる。まじまじと私を見つめる眼差しは、真剣そのもので、居心地が悪い。
「お前は普通じゃねぇのか? お前とつるみたいって思う俺は普通じゃねぇのか?」
「……片腕がない人間が普通なわけねぇだろ!」
眉根に皺を寄せ、腕を組み、頭を横に倒す。そんな仕草とともに、心底不思議そうな表情で奴は言う。
「それだけだろ? 普通じゃねぇか」
こいつの頭の中は一体どうなってるんだ。腕がない人間を、普通だと宣う神経がさっぱり分からない。話しているうちに怒りを通り越し、頭の中を埋め尽くすのは、呆れと困惑だけになる。
「もう、いいよ、とにかく私に構うな」
奴に背を向け、今度こそ教室を後にしようと歩き出す。
「俺はお前と友達になりてぇだけなんだよ!」
聞こえる言葉に、顔だけで振り向き、端的に告げる。
「悪いことは言わない、私といても変な目で見られるだけだ、やめとけ」
閉じる扉は、静かに決別の音を立てた。
「よぉ」
茜色に染まる昇降口。靴箱から擦り切れた革靴を取り出す私に、その声は降り注いだ。
「またお前か、もう話すことなんてないでしょ」
その姿には目もくれず、足を通した靴のつま先を地面に軽く打ち付ける。
「腕が二本無いと、普通じゃねぇのか? 靴だってちゃんと履けるじゃねえか」
なおも言い張るその横を、素通りして外へと向かう。
「お前こそ、どうでもいいことに囚われすぎてんじゃねえのか?」
耳朶を打つ音は、体を通り、そのまま私の心臓を握り込む。足は止まり、体は動かず、冷たい汗が背筋を伝う。
「無関心気取って、ただ逃げてるだけじゃねぇのか?」
やめろ……。
「自分から距離を取れば、傷つくこともないってか」
やめてくれ……。
「普通じゃねぇのは、お前の体じゃなくてお前の心じゃねぇのか!」
「もうやめて!!」
制御しきれない心があげる悲鳴、思い出したくもない過去の記憶。
「ほっといてよ……もう期待するのは疲れたんだよ!」
振り向きもせず、俯いたまま、絞り出す。
「お前はそれでいいのかよ」
なおも突きつけられる言葉の刃。鋭利なその切っ先は、私の心臓に触れる。
「お前言ったよな、悪いことは言わないからやめとけって。わざわざ俺のこと気遣ってくれたよな」
「…………」
「毎日俺が話しかけても、絶対に相手してくれたよな。無視することだって出来たはずだ。ちがうか?」
バカのくせに、なんでそんな所ばかり見てるんだ。
「やっぱ、お前は優しい奴だよ。すげぇ良い奴だ。クラスの誰より普通で、クラスの誰より良い奴だ」
「私には右腕がない、それは普通じゃないって何度いったら……」
「だからなんだ!」
荒らげる声と共に、奴は私の両頬を大きな手で挟み、ぐいと上を向かせる。
「着替えが遅くて遅刻ギリギリだからか? 毎日のように遅刻してる奴らは、普通じゃないのか? 飯食うのが遅いからか? 早く食えりゃ普通か? ゲーセン行ってなんも遊べなけりゃ普通じゃないのか? UFOキャッチャーくらいできんだろ?」
早口にまくし立てる言葉は、すべて私を肯定する言葉。私がずっと、欲しかった言葉。
「でも……でも……!」
「でももだってもねぇよ! お前は普通だ! 俺らと何も変わらねぇ!」
私という存在を見てくれている言葉。認めてくれる言葉。
「なんで……私なんかに構うんだよ……」
「シャーペン貸してくれたからな!」
「……は?」
予想外に飛び出た言葉に呆気に取られる。シャーペン? 何のことだ?
「入試の時にな、ペン忘れたバカな隣の受験者に、貸してくれたろ?」
入試の……言われてみればそんな事があったような。
「ピリピリしてた会場の中で、唯一お前だけが気づいてくれたんだぜ?」
そう言って胸ポケットから、ペンギンのストラップが付いたシャーペンを取り出し、私の手に握らせてくる。たしかに、これは私が中学生のころに、愛用していたものだ。
「終わったら返すつもりだったのに途中退出しちまうしよ、名前もなんにも知らなかったもんだから、返すの遅れちまった、わりぃな」
やっぱりこいつはバカだ。こんな安物のために私を探していたというのか。こんな事のために、私に構うというのか。
「これで借りは返したからな、やっと遠慮なく友達になれるぜ」
まだ、そんなことを言うのか、あれだけ罵詈雑言を吐いた私と友達にだなんて。
「私なんかと……一緒に居ても楽しくないだろ」
「ばーか、それを決めるのは俺だ。お前との言い合いもなかなか楽しいもんだぜ?」
握ったペンギンは、確かな固さを私に伝えてくる。安物の、独特の硬さが、今は何故かとても暖かく感じた。
「お、また遅刻ギリギリだな!」
「うっるせーなぁ! そんなこと言うなら君が着替え手伝ってくれよ! 顔赤くすんな!!」
「一緒に飯食おうぜ!」
「おー、私一本しか持てないから、君飲みもん買って来てくれよ」
「おーい、帰りゲーセン行かね?」
「よーっし! 今日こそ負けないかんな!」
あれから毎日、何も変わらず、普通に接してくれる君に救われる。友達として、日々バカやって。時には喧嘩もして。
普通の日々が続いていく中で、私は、段々君を普通に見られなくなって居ることに、気づいたんだ。
こんな気持ち、私が知れる日が来るなんて、思わなかった。
ありがとう。
「私は、君のことが……」
願わくば、ずっと君とともに。