phantom〜幻の街〜
プロローグ
幻惑の漂う街、ファントムシティー。人々は日々を夢見る。幸せな夢、悲劇の夢、欲望の夢。夢はありとあらゆる色に染められてゆく。
人は夢を見るとき現実と夢を区別することができるだろうか?たとえ支離滅裂な夢であっても、それはそのものの希望の織りなすものなのだ。
幻惑の漂う街、ファントムシティー。人は日々を夢見る。それが夢だということに気がつくことなく。
これは、そんな街の物語。
(1)本の部屋
夢は現実であり幻でもある。そんなことをいっていたのはいったい誰だったろうか?
私は夕焼けに染め上がる町並みを静かに見下ろしていた。古びた腰掛け、年代物のテーブル。私の膝に置かれているのは数百年前にとっくに絶版になった古めかしい、カビの生えたような書物。
私は、それを取り上げた。
夢は現実であり幻でもある。
ああ、この本に書かれていたフレーズだったか。私は思い出した。私は少し前までこの本を読んでいたのだった。
そして、ふと街が夕焼けに染まっていたことを思い出したのだった。
私は本に栞をするとテーブルの上に置き、そのそばに置いてあった紅茶のカップをとった。
すでに中身はなくなっていたが、それを手に取っているだけで心が落ち着く。
紅茶のカップを手に取りながら夕日を眺める。私にとって一日で一番心の落ち着く時間だ。このときのために明日も生きてみようかと思えるものだ。
たとえ雨の日であっても、その次の日はこの夕日が見られるだろう・・・そんなことを思いながら。
そういえば、雨の日などあったか。私は雨という言葉は知っているが実物を見た覚えはなかったような気がする。
いや、見ようと見まいとそれはどうでもいいことだ。
沈み行く夕日。花は散るときが一番美しいという言葉の通り、日の光も沈み行くときが一番美しく見えるのかもしれない。
私は窓枠に飾られた鉢植えを見た。エーデルワイスの花。私の一番好きな花。なぜ好きなのかは忘れてしまったが、これを見ると心が和やかになってくる。
夕日の光もずいぶんと淡くなってきた。
私は手を伸ばし、テーブルの上のランプをともした。
夕日のような赤々とした光が部屋に暖かく照らす。
私は街が闇に沈んでゆくのを見るのは嫌いだった。まるでまぶたを閉じてゆくようで、そう、街が死んでゆくのを見るような気がしてならないのだ。
さて。
私は立ち上がると読みかけの本を手に取り本棚に足を運んだ。狭いこの部屋にあるものといえば、窓際のテーブルと大きな本棚が3つほど。これだけで私の部屋のほとんどは埋もれてしまっている。
私はそれが好きだった。と言うよりは、むやみに広いところに身を置くことが嫌いだったのだ。
ふと・・私は気がついた。
手の中にあった本がいつの間にかなくなっている。
はて・・・。
私は周りを見回した。テーブルから取り損ねたわけでもなければ途中で落としてきたわけでもない。
テーブルにはランプと紅茶のカップしか置かれていないし、もし落としたとしても音で分かるはずだ。
私の本は実に気まぐれだ。こんなこと、珍しくもない。まあ、ゆっくりと探すことにしょう。この狭い部屋だったらすぐに見つかるだろう。
私は、とりあえず一息つくために再び窓際の椅子に腰をかけた。
そのついでに窓を閉め、カーテンを引く。部屋はいよいよランプの光のみの照らす空間となった。
日の揺らめく儚い光は何となく夕日に似ている気がして私は好きだった。
さて、どこから探したものか。
私は椅子にゆっくりと腰を落ち着けた。
この間は本棚の方から順番に探していった。今回はその逆でテーブルの方から探してみようか。
いや、一つ部屋の向こうの寝室から探してみようか?あんなところにはないかもしれない。しかし、さっき持っていた本は私の持っている本の中で一番気まぐれな本だから案外そっちの方にいるのかもしれないね。
自分自身で本棚に帰ってゆく奴もいるけど、あれはそんな気を利かせる奴ではないことは明らかだな。
そういえば、前の前の本は台所の食器棚の中にいたっけ。寒がりなくせにあんなところにいるから、しばらく読めなくなってしまったじゃないか、しょうがない本たちだね。
私はゆっくりと腰を上げた。
とりあえず、テーブルの周りから探してみることにしよう。
といっても、テーブルの周りには何も置かれていない。・・・・仕方ない、ほかを探すことにしょう。
私はものをごちゃごちゃと置いておくのが嫌いだ。いらないものはいらないし、必要なものはその時になって手に入れればいい。
本は別、あれはかってにここにいるだけ。別に迷惑しちゃいないけどさ。
私はランプを取り上げた。
よく考えてみると、部屋は夜の帳に包み込まれていて足下さえよく見えない。
秋のつるべ落としとはよく言ったものだ。もっとも、今は秋ではないけど。それに、私はつるべというものさえ見たことがない。
なぜこんな言葉を知っているかって?それは本たちが教えてくれるからさ。あいつたちは気まぐれで自分勝手、しかもしょっちゅういなくなるしわがまま。いつも同じことしか言わないけど、私にいろいろなことを教えてくれる。
まあ、本なんてそれだけのもなんだけどさ。だけど、それだけでもいいじゃないかな。後は何も言わないし、私に指図するものでもない。
さて、どこを探そうか。この前と同じところにいることはないだろうけど。一番近い本棚から探そうかね?
カーテンから漏れ出す本当にわずかな光がランプの光と相成って儚い影を作り出す。
私は私自身の影を追うようにゆっくりと本棚の方に足を運ぶ。
確か、あの本は一番奥の本棚にしまわれていたな。あそこら変の本は普段滅多に読まないものだから、本たちがすねていないといいんだけどね。
私は本たちをゆっくりと撫でながら棚の隙間を歩いていった。
やっぱり、ここにはいないようだね。
あの本がいるはずのところはちょうど空白となっていた。まあ、当然か。あの本の性格だったら自分からおとなしく本棚に戻るはずもないだろうね。
薄暗い本棚の谷間に私の持つランプの光が漂う。本たちはまぶしそうに身をよじる。まあ、私がそう見えるだけで本たちは実際に動いているわけではないのだけど。
ふと、私は耳を澄ませた。
静寂に包まれている部屋の中で何かが蠢く音がしたような気がする。
それは私の足下から聞こえてきたような・・・・。
私は物音を立てずにゆっくりと足下に光を落としていった。
いたいた。
私の探していた本だ。
まるでイタズラをした後の子供みたいに本棚の下にうずくまっている。私はゆっくりとそれを取り上げると、そっと背表紙を撫でてやった。
悪い子だ。だけど、そういうところも私は好きだよ。
この本たちは私を飽きさせない。
この変化のない世界で唯一私に安らぎと楽しみを与えてくれる存在だから。
私は本を元の本棚へそっと返した。
お休み・・・。
私がそう一言告げると本たちは心なしかどこか安らかな表情になったような気がする。
もう、夜も遅い、私も寝ることにしよう。
明日になればまた今日と同じような一日がやってくるだろう。だけど、私はこの本たちがいるかぎりなにも不安になることはない。
窓の外には夜の闇に混じって星と月の優しい光が街に降り注いでいた。
End
この物語には意味はなく、彼女が過ごす一日もまた意味のないものである。そこに意味を見いだすこと自体がナンセンスである。