健全な男女が混浴する温泉は甘酸っぱい?
卒業ってこんなにあっけないのかな。
もっと涙がブワーっと出て、感動しまくるものだと思ったんだけどな。
こんなに淡々と終わっていくものなんだな。
そんなふうに思いながら、浩は卒業式の帰り道を友達とにぎやかに帰宅していた。もう彼らと会うこともほとんど無いだろうに、しんみりした空気は感じられない。
一人ひとりとの別れに時間をかけながら歩いていると、学区の端に住む浩の周りは次第に静かになっていく。
そしていつしか近所に住む同級生、優子とふたりきりになっていた。
(こいつとも、あまり会えなくなるんだろうな)
そんなふうに思いながら微妙にぎこちない会話を交わす中、不意に優子がボソリと衝撃の事実を告げてきた。
「卒業旅行、だって」
「は?」
間の抜けた返事を返す浩。
「私んちと、浩んちで、旅行」
優子とは幼なじみではないが、親の仕事の関係で家族ぐるみの付き合いがある。何度も両家の間でイベントは行われてきた。
しかし、さすがに旅行は初めての事になる。
「え? 卒業旅行? 時期的にはわかるけど、親同伴でしかもウチとキミん所の家族で?」
「私だってしらないよー。でも中学生だけで旅行なんてできないでしょー」
「それって親が行きたいだけなんじゃねぇの? 何が卒業旅行だ。キミだって俺なんかと温泉旅行とかイヤだろ」
「どんかん」
即答だった上にごく小さい声だったので、浩はそのセリフを聞き取ることができなかった。
「え?」
「なんでもないよ! 私はかまわないよ」
ちょっとムッとしたような返事をした後、優子は消え入るような声で追加した。
「だって、卒業したら…学校違うし…」
「あ、え、うん。そうだな」
浩も思っていたことを素直に口に出され、拒絶する理由が無くなる浩だった。
「なんか……遠くね?」
「遠いね」
「そして……さびれてね?」
「さびれてるね」
不審そうな浩に、オウム返しの優子。
とても嫌そうな浩に、なぜか上機嫌な優子。
見事なコントラストを描く二人と家族を乗せ、ファミリータイプのワゴンは進んでいく。
浩は目的地の詳細も聞かずに来たことを後悔していた。
「父ちゃん、ずいぶん走ったけど、まだ着かねぇの?」
「あと30分くらいだなー。おっとここから舗装されてないから舌噛むなよ~」
「舗装無しってふざざざざざけけけえええんんんなあぁぁぁぁぁぁ」
ガタガタ揺れる車に、浩の言葉も振動する。
こんな悪条件にも、優子はどこか楽しそうだった。
最後だけ舗装された道路に戻った道中を終え、ようやく到着した宿は一目見てわかるほど古びていた。
良く言えば「味がある」と紹介されそうな旅館といったところだろうか。
「古っ!」
「趣があるな!」
「まさに秘湯って感じね~」
「わりと好き……です」
絶望感を隠そうとしない浩以外、優子を含めみな好意的だ。
こんなところでは浩の好きなゲームなど置いていないだろうし、進学祝いに買ってもらったスマホの電波も怪しい。
「そんなに嫌そうな顔するな! ここは酒と料理が美味くて、なにより温泉が最高だ! 高級ホテルもいいが、こういう場所も社会勉強だと思って経験しておけ」
父親が豪快に笑ったところで、宿の奥から従業員が一行を迎えに出てきていた。
浩はすでに「人生は自分ではどうにもならないことが多い」ということを学習していた。
浩の予想は当たっていた。この旅館では基本的にやることがない。唯一のイベントである温泉も、旅館に着いてすぐに入りたいほどではない。そもそも浩は風呂を楽しむ性格ではない。
大人はこの暇が「最高の贅沢」というが、浩は「なんにもない」を楽しめるほど大人ではない。退屈極まりない状況だった。
30分も耐えることができず、浩は腰を上げた。
「ちょっと俺、一周りしてみる」
なにか楽しいことはないか、かすかな望みを抱いて廊下へ向かう。
そこへ、優子もすかさず乗ってきた。
「待って、あたしも行く」
彼女も浩よりは落ち着いているものの、さすがに退屈なのは変わりなかったようだ。二人はすぐに並んで歩き出した。お互いが横にいるのが自然に思えるのは、ふたりの長い付き合いを表していた。
現実は残酷だ。
古びた旅館に、15歳の二人が遊べるような施設などあるはずがなかった。
マンガもゲームもネットに繋がっているパソコンも無い。頼みのスマホも「ここでは使うな」と先ほど取り上げられた状況では、やることが見つけられない。
玄関近くにいた浩の脚は、ふらりとさまようように外へ向かっていく。それを優子があわてて追いかけていた。
「ちょっと、浩! どこいくの?」
「さんぽ。ヒマすぎて死ぬ。どこか遠くへ……」
「こんなところで遠くへ行ったら、それこそ野垂れ死ぬよ!」
「俺のことは気にするな。キミは1人で生きていくんだ……」
普段なら「何バカ言ってるの!」で済むようなやりとり。しかし、今日に限って優子は別の方向に噛み付いてきた。
「ねえ、その『キミ』っていつから言うようになった?」
優子の思わぬ噛みつきにたじろぐ浩。
「いつからって言われても、覚えてるわけないじゃんよ」
嘘だった。「明日から優子のことは『キミ』と呼ぶことにしよう」と決心した日のことは忘れていない。けれどそれを言葉にできるほど、浩は大胆ではなかった。
「忘れないでよ! 中学入ってから急にだよ!」
「覚えてるなら聞くなよ……」
困惑したまま言い返した浩の前で、手近なソファーにドスンと腰掛ける優子。ちゃんと話をしようという意思表示を示した優子を、浩が見下ろす形になった。
「浩も座りなよ。私が説教されてるみたいな格好だよ」
「いや、いい」
「いいから座りなって!」
下から思い切り手を引っ張られ、体制を派手に崩す浩。優子は手を離さずに、なおもグイグイ隣へ誘導する。これは諦めないな、と察した浩はしぶしぶ優子の隣へ腰掛けた。
「昔は『ゆうちゃん』って呼んでくれたのになー。『キミ』じゃまるで他人みたい」
横にいる少女がどんな顔をして話しているのか、前を向いている浩からはうかがい知れない。けれど、間違いなくいつもの不満そうな顔なんだろうなと予想できた。
「他人なのは間違いないし。ってかそっちだって『ひろくん』がいつの間にか呼び捨てじゃん」
「ほら、そうやって頑なに私の名前呼ぼうとしないし。私はちゃんと名前を呼んでます、ひ・ろ・し」
バツの悪い顔で黙りこむ浩。先ほどまで握られていた手に残る、優子の暖かさが消えない。
思春期を迎えた浩は、優子の名前を呼ぶのが照れくさくなった。クラスの女子に対しては「苗字+さん」で通しているが、優子に「さん」付けは違う気がする。かと言って昔のように「ゆうちゃん」と呼んでしまっては、彼女が特別な存在だと周囲に触れ回っているようなものだ。
彼なりに考えて考えて出した結論が、全てを曖昧にした「キミ」という呼び名だった。
なのに優子はお構いなしに名前で呼んできた。「ひろくん」という昔の呼称ではなくなったが、代わりに「浩ぃ!」と大声で呼ばれるのは今もとても恥ずかしい。
「学校であんなでっかい声で名前呼ばなくてもさ。周りになんか言われたりしねえの?」
「べっつにー。バカな男子は茶化してくるけどさ。女子とか、わかってる男子には『友だちだから』って言ってるよ」
それは明らかに誤解されるだろう、と内心ツッコむ浩。昔から優子はまっすぐな性格なので、事実をストレートに話すことが多い。それがまわりに回って「二人は付き合っている」と言われたことは何度かあった。
「おかげで誤解されたっての……」
ボソッとつぶやくと、優子は露骨に不満そうな顔をした。けれど、珍しく何も反論してこなかった。
しばらく二人を沈黙が包む。たまに響く従業員の足音がわずかに聞こえるだけだ。
そして沈黙に耐え切れなくなるのは、いつも優子だった。
「わたしのこと、ウザかった?」
「んなっ……」
普段の優子からは考えられないような、弱気な内容と消え入りそうな声。彼女を鬱陶しいなどと考えたこともなかった浩は、心底驚いた。しかし、自分の態度を鑑みるに、そう思われても仕方ない部分はたくさんあったのも事実だ。
そして、この誤解は解いておきたいと即座に思った。
「ウザいなんて思ったこと、一度もない」
立ち上がって数歩、優子に背を向ける浩。きっと優子はこちらを見つめているのだろう。古風な旅館の雰囲気が、浩の背中を少し押してくれた。
「恥ずかしかったんだよ、ゆうちゃん」
返事も聞かず、反応も見ずに浩は早足で逃げ出す。顔はもはや真っ赤だ。自分の顔の熱さを感じながら、優子が少しは誤解を解いてくれるように願った。
噛み殺すような笑顔で、顔面茹でダコになった少女のことなど知らずに。
顔の火照りを覚ますため、無意味に宿の中を3周した浩が部屋の扉を開けたところ、目に飛び込んできたのはすでに酒盛りを始めた親たちの姿だった。浩が部屋を出てからそれほど時間が経っていないのに、すでに空間には酒の臭いが立ち込めている。
驚愕しつつ浩が叫んだ。
「夕飯前になーにやってんだ! さすがに早過ぎるだろ!」
もっとも過ぎる浩の指摘も、アルコールの前には無力である。
「いやー、さすがに父さんたちも退屈になっちゃってな」
「さっきと言ってることが違うじゃねーか!」
浩がどれほど目くじらを立てても、酒宴の席ではまったく意味を成さない。浩はこの大人たちはダメだと早々にあきらめた。
すると、ウンザリとした浩の背後から、さらに驚いた声が重なってきた。
「あれ、みんな飲み始めちゃったか~」
茹でダコ顔をもとに戻すため、無意味に宿の周りを5周した優子がつぶやく。浩と違っているのは怒気が含まれていないことだ。彼女は基本的に、浩のこと以外はいつも寛容だ。
そんな優子を見て、浩は自分の子どもっぽさを思い知らされてしまい、情けなくなる。しかし同時に、浩も不思議と穏やかな気持ちになれた。
「こうなっちゃうと、どうしようもないよな。ここにいて酔っぱらいにダシにされるのも嫌だ」
「でも行くところ無いって、さっきわかったばっかりでしょ?」
「風呂行く、フロ。メインイベント先に持ってきちゃうけど、ここにいるよりずっといい」
「そうだね。私も行こうかな」
絡みついてくる大人を押しのけて、風呂の準備をする。浩の両親はすっかり出来上がっており、しつこく話しかけてくるが、浩が何をしているかは興味が無いようだ。浩はそれを完全に無視して着替えやタオルをまとめている。
同じく風呂の支度を始めた優子を見たとたん、一番酔いが浅い彼女の母親が、あわてて近づいていった。
優子と小声で会話しており、浩にはその内容が断片的にしか聞こえない。
「……だけど、いいの?」
「えっ!」
優子の驚いた声だけが、浩にまともに届いた。その後も浩が聞き耳を立てていることなど構わず、会話が続いていく。ほとんど聞き取れなかったが、優子は最後にきっぱりと言い切った。
「うん、でも、いい。行く」
それを聞いて、彼女の母親も会話を終わらせた。
「わかった。でも、いざとなったら逃げなさいね」
「わかってるって!」
浩には内容が理解できないままだったが、考えても仕方ないという結論に至る。優子が何か逃げる必要があるなら、それをフォローでもするかとぼんやり考える程度だ。
優子はまだ準備に時間がかかるようだったので、浩は先に腰を上げた。
「先行ってる」
「あ、ちょっと、浩、待ってよー」
それでも背を向ける浩。ただ、待てと言われたのでゆっくりゆっくり歩を進めることにした。
ゆっくり進んだはずの浩だが、優子の足取りはなぜか鈍い。浩に追いついたときにはもう脱衣所の扉だった。
浩はそこに呆然と立ちすくんでいる。優子を待っていたというわけでもなさそうだ。優子が追いついたのを知った浩は、困惑の表情で一点を見つめていた。
「どうしよう、これ……」
浩が指さした先には、温泉の注意書き。色まで変えて大きな文字が書いてあった。
「当露天風呂は混浴です」
衝撃の内容に、浩は「困るだろう?」と言わんばかりに優子に視線を送る。しかし優子は予想に反して平然としていた。
「うん、知ってる。さっき聞いた」
「なっ!」
あまりにもあっさり、なんでもないふうに応えられ、浩はさらに動揺した。優子の方を向くが、彼女は前を向いたまま視線を返さない。
優子の態度をはかりかねたまま、事態の回避に動く。
「……やめようよ、入るの。たしか内湯もあるって話だったし、そっち行こう」
彼も健全な思春期の男子、状況に乗りたい気持ちが無いわけではない。というより多分にある。けど、今ばかりは優子への気づかいと後ろめたさが先走る。
だが優子は何を考えているのかわからないまま、平然とした顔で返した。
「いいじゃん、入ろう? せっかくの名物温泉なんだし。大丈夫、今日は他にお客さんいないって。他の人が入ってきたりしないんだって」
「……」
浩はもはや声を出すのも難しい。優子が何を言っているのか理解するのに時間がかかった。現実逃避と言っていいほど、優子が意図している意味から外れた方向に思考が進んでいく。
「それは、ゆうちゃんだけ露天風呂行って、俺は内湯ってことね?」
「そーんなわけないでしょー。一緒に入るんだよ」
普段だったら「バカー!」と言いつつ背中でも叩いてきそうだが、あくまで浩を見ないまま淡々と答える優子。浩が思わず「ゆうちゃん」と言ってしまったことも、まったく触れてこない。浩に悟らせないようにしているが、彼女は彼女でいっぱいいっぱいである。
そして優子がようやく浩に向き直り、シンプルな言葉を投げかけた。
「イヤ?」
笑顔だった。しかし、浩にはそれが普段の笑顔ではないこともすぐにわかった。
浩の方を向いているけれど、目を合わせていない。口元がわずかに震えている。優子の弾けるような笑顔を見慣れている浩だから、伝わる本当の感情。優子が少なからず無理をしているのを悟ると、浩も自然に正直な気持ちで応えられた。
「嫌じゃない。でも、自信ない」
「なに、自信って」
「いろいろ」
文字通り、いろいろ自信がない。これが浩の偽らざる本音だ。風呂で優子を見ないようにしてあげたいが、つい見てしまわないだろうか。オドオドした態度をとがめられないだろうか。そして、風呂で優子に迫ってしまわないだろうか。
つまるところ、優子に嫌われたくない。けれど、嫌われる行動をしてしまいそうで自信がない。自信がない行動は様々だが、方向性は一つだ。
浩の素直な言葉を聞いて、優子の緊張がほぐれていった。
「相変わらずだねぇ、浩。私から誘ってるんだから、『よし、行くか』って言っちゃえばいいのに」
「それが言えれば苦労してねーよ」
あくまでもぶっきらぼうな態度を崩さない浩に、ついに優子が「ふふっ」と声を出して笑った。
「恥ずかしくないって言ったら嘘だけどさ。それよりも、一人で入るほうがイヤだよ。寂しいよ」
そこで急に笑顔が消えた。浩には、優子の目も急に潤んだように見えた。
「浩とゆっくり話ができる機会なんて、もうないんだよ」
「そんなこと……」
無いだろうと言いたかったが、浩にも確信が持てなかったため語尾が消えた。
たしかに今まで優子と一番会話していたのは学校であり、通学路だった。その2つとも今後は共通の場ではなくなる。
浩がそれを認識したところで、優子が脱衣所の方へ向かった。
「先に入って待ってるから。5分くらい待ってから入ってきてね」
浩の返事も聞かずに、優子が扉の奥に消えていった。
「時計持ってきてねーよ……」
話をするからって風呂じゃなくてもいいじゃないか。そんなことを思うが、頭をブンブン振って打ち消した。余計なことを考えないように、浩は300秒のカウントを始めながら男側の脱衣所へ入っていった。
5分数えた後にも思案に思案を重ね、浩が露天風呂に入ってきたのは8分ほど経った頃だ。扉を開けた瞬間、ドボンとお湯に飛び込む音がした。音の方向を見ると優子が背を向けて湯船に入っており、表情はうかがい知れない。
洗い場でかけ湯をするが、隠しながらでは上手くいかずで苦心した。
温泉に浸かろうとするが、どこに入っていいものか悩む。迷った末、優子が視界に入らない一番遠い位置を選択した。
すると優子の方からチャプンとわずかに水音がした。優子が浩の方を向いたのだろう。
「もー、遠いよ!」
今度はザバザバと豪快な音とともに、視界の端に肌色が飛び込んできた。
優子がすぐそばにいる。けれど浩は視線を送れない。
「ほらー、タオル漬けちゃいけないんだよ! 大丈夫、揺らいでるから見えない見えない!」
テンションが高い優子。ただし若干無理に高めていることもわかる。浩はしぶしぶタオルを湯船から出し、少し迷ってから頭に乗せた。
自分にこういうことを言うからには、優子も隠していないんだろうな……と考えると、一気に浩の頭に血が上った。
「すごい、きれい」
そう言われて、浩はやっと目の前の景色に気づいた。まもなく沈もうとしている夕日が、目の前に見える。その夕日が周囲の雄大な自然を引き立てている。最高の温泉と言われているわけが、浩にも少しわかった。
ただ、夕日が目の前すぎて、直視し続けると目がおかしくなりそうである。かといって隣のよく知る女子に目をやるわけにもいかず、結局視線は泳ぎっぱなしだ。
「眩しくて、よく見えない」
眩しいのは夕日か優子か。浩らしい物言いに、優子は遠慮なく笑う。
「いつ以来だっけ、一緒にお風呂入るの」
「いつ以来というか、むかし一度だけ。小学……2年?」
「そうそう! つまんないことでケンカして、湯船で取っ組み合いしたんだよね~」
「入浴剤の取り合いしたんだっけ。しかも俺が負けて泣いて。ガキだよな、ほんと」
少しの間、思い出話が盛り上がる。初めて会った日のこと。よく男子グループに優子が混じって遊んでいたこと。中学に進学した時のこと。浩が優子の制服をからかって泣かせたこと。泣いた後に浩が暴力でひどい報復を受けたこと。話は尽きない。
浩からは優子の表情は伺えないが、少なくとも声は楽しげであるのがわかった。
思い出話は次第に現在に近づいていき、将来の話へ移行したのは自然な流れだった。
「あー、浩と違う高校行くのかー。小中いっしょだったのになー」
「どうやっても一緒にできないところにしたのは、キ……ゆうちゃん、なのに」
ぎこちない呼称が、優子の感情をいっそう駆り立てる。
そう、優子は進学に女子高を選択した。それは彼女が中学生になってから、ずっと憧れていた高校だった。
「迷ったよ。浩の高校、狙えたけれど……」
浩の耳に入る声の聞こえ方が変わった。優子が浩の方を正対したのがわかった。
「ずっと行きたかった高校だろ? よかったじゃん。俺はこれが良かったって思ってる」
「私なんて一緒じゃないほうが良かったってこと?」
「違うよ! ……なんていうか、そういうことより夢を選んだほうが良かった、ってこと。別に、学校一緒じゃなくても、引っ越すわけじゃないし。近くにいるし」
言い終わると不意に浩の肩に何かが触れた。優子の手だと認識したそれは、かすかに震えているのがわかった。優子の複雑な感情が伝わった瞬間、「かーっこいいい」というセリフと同時にぐっと力が加わった。
優子に押され、顔を半分湯に突っ込む浩。優子の力づくな照れ隠しは相変わらずだ。ただし、裸の肩に触れられたのは初めてだったが。優子の柔らかい手のひらの感覚を直に受け取り、文句も言えなくなった。
飛んでいったタオルを拾い上げ、今度は湯船の淵に無造作に置く。視線はあくまで優子から外したままだ。
「浩はえらいね。優しいね」
体制を直したところで、優子が唐突に言った。その言葉の意図を浩がつかみかねていると、今度は視線の端、ごくわずかに映る優子が急に立ち上がった。
「あつー。のぼせそうだよ」
優子が温泉のフチに腰掛けたのがわかった。視線の端の肌色が増え、誘惑が増えたのでどうにもならなくなり、浩は優子から完全に視線を外した。
「ちょっ、ゆうちゃ……」
抗議しようとした浩だったが、そもそも文句を言うことでもないので口ごもる。ただ、優子も浩の意図は察した。
「だいじょーぶ、ちゃんと隠してるよー」
『そういう問題では無いのだが、いやそういう問題でもあるか』と思考がグルグル巡る浩。源泉掛け流しが売りのお湯が、チャプチャプと流れこんでくる音が妙に気になっていた。
「そうやってさ、私から入ろうって言ったお風呂なのに、ずっと目をそらしてくれるしさ」
どこから話が続いているのかわかりづらい「そうやってさ」だったが、浩はすぐに「優しいね」の続きなのだと理解した。
「基本、相手が嫌がりそうなことはしないよね。いつも控えめだしさ。他の男子はみーんな『俺が俺が』ってウザいのに」
優子が人のことを褒めるのは珍しくないが、それでも浩にはくすぐったい感覚だ。なにより浩はそんなつもりではないのに、結果的にそうやって言われしまったことにむず痒さを感じる。
「えらくないし優しくない。……臆病なだけ」
いつも浩が考えていることを、素直に言葉に出した。このことを優子に告げるのは初めてだ。
中学生になってから、優子の前ではいつも仏頂面で斜に構えた言葉しか言っていなかった浩だが、この状況では素直な言葉が口からこぼれていく。きっと温泉が言わせたんだと浩は後々よく言った。
「いっつも人に嫌われるのが怖い。だから他人の顔色ばっかり見てるし、人の前に出られない。……今日は、ゆうちゃんに嫌われるのが怖い。だからそっち向けない」
「別にお風呂なんだし、隠してるんだからこっち見るくらい……」
「それはそうかもしれないけど、見ちゃったら、その、それだけじゃ済まなくなりそうで。それが一番、怖い」
珍しく自分の弱いところをさらけ出した浩に、優子は思い切り感情を揺さぶられた。そして優子は、自分の恋心が間違っていなかったと確信した。
「それを優しいって言うんだけどね。いつも自分のことより相手の事を先に考えるのは」
続けて「私は自分のことばっかりで突っ走っちゃって、いつもあちこちに迷惑かけるんだけどね」とおどけつつも、いつも感じている引け目を話す優子。
しかし浩は、優子がそんな子ではないことを一番知っている。
「んなことないだろ。すごく人気あるよ、ゆうちゃん。一緒にいると楽しいし、置いてってるんじゃなくてみんなを引っ張ってるんだと思う」
珍しい浩の賛辞を受けて、優子はたまらなくなった。この人なら大丈夫という感情が、浩をこのまま逃したくないという方向に振れていく。
「浩、お願い。こっち向いて。背中にばっかり話しかけるの、寂しいよ」
浩の体がビクリと跳ねて、わずかに水音が立った。
優子の方を向かない理由はすでに伝えたが、優子はそれでもこちらを向けと言っている。優子はいったいどういうつもりで言っているのだろうか。その答えはすぐに出た。
優子の気持ちに関しては、少し前から「もしかして」と思っている。ただし、確信が持てない。今までの関係からして、浩の方から一歩踏み出せば、全てが壊れてしまうこともあると考えていた。
空想の優子に『浩なんてただの友達で、付き合うとか超無理!』と言われたのは一度や二度ではない。だからこそ怖く、なにもできないでいた。優子と離れるくらいなら、今までどおり軽口を叩きあう関係の方がいいと思っていた。
ただ、この状況でなにもしないことは、むしろ優子を傷つける。そうでなければ「お願い」なんて言わないはずだ。彼女を傷つけることを嫌う浩だから、行動の選択肢は無くなっていった。
そして浩はなにも言えないまま、意を決して恐る恐る体ごと優子の方へ向けた。視野の端にしか無かった肌色が、視界全面に広がった。
(ヤバい、血が足りなくて死にそうだ)
コミカルな表現では『鼻血が出そうだ』とでもなるのかな、などどこか他人ごとのように感じるのは、目の前の光景が非現実的だからだろうか。
優子は温泉のフチに腰掛け、浩に対して横を向き、顔だけこちらに向けている。
手足の組み方やタオルで確かにどこも『見えて』はいないが、身体のラインはしっかりと確認できてしまう。なるべく優子の顔を見ようとしているのに、視線がどうしても女性の部分に向いてしまい、浩は自分の制御が難しくなっていった。
浩の揺れる視線を感じ、優子はそれさえ微笑ましく感じた。
「浩も男の子なんだねー、っていうか私もちゃんとオンナ扱いされてたのか」
「ゴメン!」
あわてて浩は視線を伏せるが、優子はすぐにそれを制した。
「こっち見てって言ったでしょー。いいよ、こんな格好でいるんだし、男の子だったら当たり前でしょ?」
肝の座った優子の言葉に、やむを得ず視線を上げる浩。それでもどこを見ていいかわからず、視線は数カ所に寄り道したあと結局優子の目を見つめることになった。
優子はいつもの元気な笑顔に見える。ただしそれは一見してで、目を見た瞬間に彼女も普通では無いことがわかった。
目が潤み、浩の視線の揺れを指摘したにもかかわらず、優子の視線もわずかに揺れている。二人の間の雰囲気がただならないことになっていくのが、どちらにも感じられた。
その空気に押されて動いたのは、いつもどおり優子だった。
「男の子と一緒にお風呂入ったりして、何もないなんて思ってないよ」
揺れていた視線を浩の目に定め、とんでもない爆弾を浩に投げかける。
「浩だから、何かあってもいいって思ったんだよ」
同時に体ごと浩に向ける。優子ははっきり意識して、浩を誘惑した。この時間を逃して、最後まで有耶無耶な関係は嫌だったからだ。
浩にとっては信じられない、しかし願ってもない展開。一瞬で様々なことを考えざるを得なかった。
それはいったいどういう意味だろう。
言葉どおりに取れば、優子は俺のことを……
じゃあ、俺は優子の事、どう思っているのか。
考えるまでもないんじゃないか。
ならば、優子がいいって言ってるんだから、このままやっちゃえばいいんじゃないか。
裸の優子に手を伸ばせば触れるんだから。
あれ、それでいいんだっけ。
優子の目、やっぱりちょっと怖がっているかな。
どうすればいいんだっけ。
俺は優子をどうしてあげたいんだっけ。
「わーっ!」
何もかも断ち切るように、浩は突然大きく叫んでからドボンと頭から温泉に潜り込んだ。10秒ほど体が水面下に消えた。
「ぷはっ!」
浮かび上がったあと大きく息を吐き、濡れた髪を一気にかき上げ、タオルをつかんだ。
「ダメ! いろいろすっ飛ばすのはダメだ! 考えるから、すげー考えるから、あとほんのちょっとだけ時間ちょうだい!」
一気にまくしたて、慌ただしく温泉から上がった。長く温泉に使っていたため、体はかなり赤い。タオル一枚ではいろいろ隠すのに無理があったが、もう自分が見られるのはいいやと開き直ることにした。
浩の突飛な行動に目を丸くしながら、彼を見送るしかない優子。
「いくじ……」
意気地なしと言おうとしたけれど、浩の性格も思慮もよく知っているから、その言葉は途切れた。そしていつの間にか彼の尻を凝視している格好になっていたので、あわてて目をそらした。
「怖かったの、バレてたかな。さすが浩」
聞こえないようにつぶやくと、背後から浩が脱衣所の扉を閉める音が聞こえた。
「かわいそうなことしちゃったな。ここまで来てガマンさせるなんてね」
少し考えた後、優子も温泉から出て、脱衣所に向かった。ただし、それは自分の服が置いてある女性側ではない。優子は男性側の脱衣所の扉をドンドンと叩いた。
「浩ーっ! ちょっと開けていいー?」
脱衣所の扉の外から、優子の大きな声がする。少しの間呆けていた浩は下着も着ておらず、「ちょっと待った!」と返事してからあわてて腰にバスタオルを巻き、「いいよ!」と叫び返した。
「サービスっ!」
わずかに開くだけだろうと思っていた引き戸は、優子の大きな声とともにバーンと勢い良く開いた。その向こうには当たり前のように優子が立っていた。浩の正面を向いて、いつもの笑顔のあとに、これもよく知るイタズラっぽい顔。そして、彼女はなにも身につけていなかった。
「お風呂の外で待っててね!」
再度バーンと引き戸が閉まる。その間5秒も無かっただろう。浩は一言も発することができなかった。温泉から上がり、冷めてきた体に再度血が駆け巡った。
「……マジか。俺もう無理」
崩れ落ちるように脱衣所の床に座り込む浩だった。
脱衣所の扉が二つほぼ同時に開いた。浩は先に脱衣所に入り、着るものも少ないはずなのに出るタイミングは優子と一緒だった。
「あっ」という表情で顔を見合わせる二人。妙な緊張感が一瞬流れたが、後ろ手に脱衣所の扉を閉める音が、すぐに緊張感を洗い流した。
浩と優子は穏やかな表情で視線を合わせる。浩がいったん視線を下に外し、またすぐに上げて見つめ合いながら、はっきりと言葉を放った。
「俺、ゆうちゃんのこと、好きだ」
優子はなにも反応できなかった。驚くことも喜ぶこともできず、止まったままだった。ずっと夢見ていたセリフが意中の人から告白されたのにもかかわらず。その言葉は何の前置きもなく、あまりに真っ直ぐだったので、なにもできなかった。
優子が無表情でこちらを見るばかりなので、浩は焦った。先ほどの状況から「ダメ」と言われはしないと思っていたが、優子からは答が帰ってこない。
「えーと、俺で良ければつきあって欲しいんだけれど……ダメかな」
そこで優子の体がビクンと跳ねた。マンガのように『我に返った』状況を体現した。男前すぎる浩の行動に金縛りにあっていたが、皮肉にも彼の不安そうな顔が、優子を現実に引き戻した。
「あっ、えっ、はい! よろこんで!」
驚きつつも元気な優子らしい返事。浩は心底ほっとしていた。
返事をしたことで優子も少し落ち着きを取り戻し、自分たちが置かれている状況に気づいた。
「……脱衣所前の廊下が告白の場所……」
「や、それは、マジ、ゴメン」
心底すまなそうな表情をする浩。
「とにかくすぐに言わないと、俺また怖気づいちゃいそうで……」
「前置きも雰囲気もゼロ……」
「ほんとーにスミマセン!」
ガバっと音がしそうなくらい、深々とお辞儀する浩。
ひとしきり愚痴をこぼしたあと、優子の表情が飛び切りの笑顔に変わった。
「なーんて、ね! ウソウソ、すごく嬉しいよ! こっちこそごめんね、せっかく言ってくれたのに茶化しちゃって」
いつもの笑顔に、湯上がりの暑さと嬉しさが混じり紅潮した顔。ああ、この顔が見たかったんだと浩は実感した。
「いやー、精一杯誘惑したかいがあったなー。まさか浩の方から告白してくれるなんて」
「誘惑て!」
「誘惑でもないのに裸見せたりしませんー」
「はだっ……は……ハイそうですね」
「どう? しっかり興奮した? ていうかちゃんと見た?」
「……見たというか見えたというか見せられたというか……そっちこそ見ただろうに……」
表面上いつもどおりのやりとり。そして積み重ねてきた居心地のいい雰囲気。そこにしっかり確認したお互いの気持が加わり、今までよりもいっそう暖かさが加わった。
ふと優子が笑顔のまま一歩距離を縮めた。浩は反射的に距離を取ろうとするが、背後は壁だ。そして「ああ、もうくっついてもいいんだ」と思い直した。
吐息も伝わりそうな距離で、心底嬉しそうな優子が今後の提案をする。
「学校違うけれど、毎日どこかで会う機会作ろうよ。会えない日もあるかもしれないけど、意気込みは毎日会う感じで」
「じゃあ、夕飯食べた後に外で集合かな」
「うん! そのうち親公認になったら、お部屋で話せるといいね」
「公認……あまり考えたくない……」
浩はここで、部屋での優子と母親のやりとりを思い出した。混浴であることを知りつつ送り出した優子の母。これはもうバレているのかもと予想せざるを得なかった。全てを知った目で自分を家に迎え入れる優子の母親を想像し、若干背筋が寒くなる浩。親の視線を楽しむにはまだまだ若すぎる。
ほかにも二人は今後のデート場所や、新しい学校での過ごし方などを次から次へと話していく。壁を作っていた浩がそれを壊せば、二人はもともと心が通じあっていた。子どもオトナな時期をようやく通りぬけ、収まるところ以上の場所へ二人はたどり着いた。
いつまでも話は尽きないが、立ち話をしている場所が場所だ。
「さすがにそろそろ部屋に戻らないと、まずいな」
浩の言葉に優子もうんうんとうなずいた。そして、弾けるような、かついたずらっぽい笑顔で浩の方に手を突き出してきた。その行動と笑顔の意味することくらい、わからないほど付き合いは短くない。以前だったら突っぱねただろうが、もうそういう二人ではない。
それでも気恥ずかしかったので、プイッと横を向いてからそっと優子の手をとった。
「行こうぜ」
「うん、ひろくん」
あまりにも久しぶりな呼称に、数歩ロボットのようになる浩。その後も二人はぎこちなく手をつないで歩く。どう握ったものかと、二度三度握り方を変えてみたりする。従業員の足音らしき音に、ビクッと慌てて離れてみたりもする。
けれど、結局二人の影は部屋まで一つになったままだった。
初めてのキスはその夜だった。時間を要した分、その後の展開は早めなのかもしれない。