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さて、午後の授業が終わってから、裕也と水音は練習室で時間をつぶした。それぞれ別の部屋にこもり、水音はヴァイオリンの練習、裕也は作曲。そして学校を締め出される八時のベルが鳴ると、二人は教室棟の出口で合流する。
雨は上がっていたが蒸し暑い夜。水音は浅黄色のTシャツに細身のジーンズ姿だ。スタイルがいいし目がパッチリしているので何を着てもよく似合う。
さて、二人はBunkamuraのドゥ・マゴに行く。高校生にしては高めのディナーだが、二人は平然と食事を楽しんでいた。裕也の家はかなりの資産家でお小遣いも潤沢。一方、水音の家は裕福とは言えなかったが、水音はどんなところでも物おじせず、その若さに似合わない落ち着きを備えている。
「裕也、ちゃんと私の言う事聞いてよ。私が逃げてと言ったら逃げてよ」
「わかったよ」
「この前のゾンビ犬の時みたいに、危ない物に触ったりしないでよ」
「わかってるよ」
それから二人はゆっくりとディナーを食べながら、たわいない話を続けた。クラスの女子の話、先生の話、音楽の話。
そして、水音がちょっと心配そうな顔をして聞く。
「ところでさ、裕也のお父さんが『この学校にいるのは一年だけで、あとは普通の高校に転校させる』って言ったって聞いたけど?あれ、どうなったの?」
「う~ん、この前もその話が出たんだけど、しばらくは大丈夫。普通の大学を受験できればいいんだ。この前、模試を受けさせられて、そんなに点数が悪くなかったから。当分は何も言われない」
「ふ~ん、音楽と両立なんてすごいね」
「まあ、僕の場合はピアノは下手でもいいから。作曲だけならそんなに時間はとられないからね。普通の勉強もしている」
「偉いね。……でも、大学は音大に行かないの?」
「う~ん、それが……問題なんだよ。音楽はずっとやっていきたい。模試を受けたのはとりあえず親を納得させて時間を稼ぐためだよ。一年で終わりじゃたまらないからね。これから親を説得していこうと思って」
「しかし困ったね。どうやって説得するの?お父さんは裕也に会社をついで欲しいんでしょ?」
「う~ん……」
「どうしようか?」
「う~ん……」
水音の顔が少し曇ったが、気を取り直すように言った。
「じゃあ、作曲コンクールで賞を取ったら?」
「うん。それしかないんだけどね……」
* *
十一時ちょうどに二人が楽器博物館に行くと、千古が外で待っていた。松濤の夜、雨上がりの靄の中で、千古の白い肌がまるでその靄に溶けるようににじんで見える。
千古が携帯で警備会社に連絡するとすぐにセキュリティが解除された。
「大丈夫なの千古さん」水音が聞く。
「大丈夫ですよ。私が施設の管理もやる事になったんです」
「へえ~。出世が早いね」
「そんなんじゃありません。忙しいだけです」
さて建物に入ったが、当然のように千古は電気を付けないので窓から入る街の明かりだけが頼りだ。そして三人は展示室の重いドアを開ける。展示室は非常に大きなホール状の部屋で窓が小さいので中はほぼ真っ暗だ。水音と裕也は中に入るのを躊躇したが、千古はかまわず通路をすたすたと歩いて行ってしまう。
「千古さん、早いよ。人間はこんなに暗くては何も見えないんだよ」と水音が焦って言うと千古はちょっと振り返り、
「そうですか?平安の方はこのぐらいなら見えたと思いますけど」と馬鹿にしたような言い方をする。
「そうかもしんないけど、今は電気が氾濫した生活送ってるから。昔の人のようには見えないんだよ」
すると千古は「そうなんですか?じゃあちょっと先に様子を見てきます。ここで待っていてください」と言って、暗闇の中に消えてしまった。残された二人は暗闇の中、必死に目を凝らしている。
何も音はしていない。静かな展示室の中にいると、山手通りを走る自動車の騒音が遠くに聞こえるのがよく分かる。
やがて暗闇の中から急に千古が戻ると、裕也がびっくりして思わず叫んでしまう。
「わあ、千古さん、びっくりした。怖いよ~」
「ははは」水音が腹を抱えて笑う。
「ああ、ごめんなさい……。何もおかしなところはなさそうですので、琵琶の所までいきましょう。懐中電灯も使いたくないので、私がお二人を引っ張って行きますよ」千古はそう言って両方の手で裕也と水音の手を取った。
「おい、裕也に触るな」
「こうするしかないじゃないですか」
千古は問題の琵琶の前まで二人を連れてくると、
「ここにありますよ。見えませんか?」と言ってまず水音の手を琵琶の前にある簡単なロープにかけさせ、それから今度は裕也のまん前に行って、その顔を両手で琵琶の方に向けさせた。
三人は真正面に立ちしばらく様子を見ていた。水音がちょっとかがんで琵琶を覗き込む。
「おい、何かいるな……。これは何だか全くわからないな。薄い靄みたいのが浮いているよ、いや、琵琶に憑いているんだ。なんかすごく古い霊だな」