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翌日の土曜日、二人は代々木八幡の駅で待ち合わせをして千古の家に向かう。
千古の言ったとおり、アパートは外階段外廊下の、典型的なアパートの二階だった。
それでも中に入ると驚くほど綺麗に掃除され、また家具がほとんど置かれていないので、全く狭さは感じない。
千古は日本茶を淹れた。
「裕也さん、私が目覚めて現代の世で気に入ったものの一つが煎茶です。平安の時には抹茶しかありませんでしたから」
「へえ、そうなんだ。」
「でも皆さんはあまり煎茶を飲みませんね。コーヒーがお好きですか?」
「いやお茶も好きだよ。でも、まあ飲むのはコーヒーの方が多いかなあ」
狭い部屋に二人で向かいあって座り、しばらく無言の時間が流れた後、千古が口を開く。
「で、何か考えましたか?水音さんの事」
「千古さん、一つしか方法はないでしょ。それを頼むために今日は千古さんの家まで来たんだ」
「そうですよね。そう思いました」千古はがっくりしたように力の抜けた返事をした。
「千古さん、水音の魂を呼び戻して欲しい」
「…………それは……無理です。ごめんなさい。お役に立てなくて」
「そう。やっぱり無理か。そう思ってた」
「本人が戻ってきたいと思わなければ、呼び戻す事は絶対にできません。水音さんは裕也さんと一緒にいたら裕也さんのためによくないと思って、自分であの身体を離れたんです。だから戻って来る事はないと思います。それにご存じのとおり、もともと飛行機事故の時に亡くなっているのですから。たまたま彼女が巫女として仕える水の神さまのお造りになった身体が同じ飛行機に乗っていたので、水の神さまが彼女の魂をお救いになったのだと思います」
「へ?丹羽子さんなら自分は蛇の神様の巫女だと言っていたよ?」
「現代ではもう誰も知らないかもしれませんが、蛇の神さまは水の神さまと同じなんです。田んぼを守る神さまです」
「へ?そうなの?それは水音も知らなかったんじゃないかな」
「そうですね。知らなかったと思います。しかし普通は二年も違う身体に入っているなんて、そんな事ができるわけはないのです。すぐに霊力が底をついてしまいます。しかし彼女がずっと生活を続けられたのは、裕也さんの近くにいたからです。裕也さんから漏れ出てくる霊気を吸収して補っていたのです。そういう意味では、言い方が悪くて申し訳ないですが、水音さんは裕也さんに憑いていたのです」
「……」
「だから、彼女がもうこのへんで終わりにしよう、と思ったのなら、そうさせてあげてください。もう魂は疲れ果てていると思いますよ」
「……わかった。しかたがない」
裕也はある程度、千古の答えを予想していたかのように、それほど落ち込んだ様子はみせず、むしろ自分に状況を理解させるために決然とした返事をするように答えた。
「で、いつ言おうか迷っていたのですが、とうとうその最後の日になってしまいました」
「何?」
「私も渋音を離れて、たぶん日本を出ます」
「え?何で?」
「もう私の役目は終わったからです。年末のクリスマスコンサートで渋音は少しは名が売れました。今年の受験生は去年より三割も多かったです。それから、また別のテレビ局が取材に来たいと言ってきました。このまま渋音は徐々に有名になっていくでしょう。後は生徒の皆さんの頑張り次第です。すでに皆さんの雰囲気も私が入ったころとは全く違うじゃないですか。それに裕也さんが作曲や編曲した楽譜のダウンロード数も伸びてきていますよね」
「千古さん、だめだよ。ずっとここにいて欲しい」
「いいえ、もう決めた事です。このアパートも解約しました」
裕也は下を向いたまま言った。
「千古さん、水音が去って、すぐに千古さんまで去るのは、……辛すぎる。じゃあ、あと一年は居てくれないかな。選抜演奏会も心配で、水音を見ていると痛々しくって涙が出てきちゃうよ。クラスの連中は誰も気が付いていないけど」
「裕也さん…………もう一つ、実は渋音を離れたい理由があるのですが、それは言いたくありません。ずっと胸の中にしまっておきます」
裕也は千古が何を言いたいのか分かったように自嘲的に言う。
「そうだよ。千古さん。僕はこの先ずっと水音の面倒をみていくんだ。魂が抜けてしまっても。だってほっておけないじゃないか」
「そうですよね…………」千古は力なく言った。
「あああ、僕は二人の大事な人を一度に失うんだ。神様の罰だな」
「そんな事、言わないでくださいよ。神様の戯れが終わったんです」
「銀花さんは今の水音に興味は持つかな」
「たぶん、何も興味はないと思いますよ。もう連絡してくる事はないでしょう。しかし、裕也さんがどうしても困った事があったら、彼女に言えば助けてくれると思いますよ」
「ああ」裕也は気の抜けた返事をする。
* *
裕也が千古の家を出ると、千古は駅まで送ってきた。冬の晴天。青い空を見上げながら裕也が言う。
「ああ時間を戻して欲しい。もう一度……」
「いつに戻して欲しいんですか?」
裕也はしばらく考えていたが、やがて答えた。
「いや、何度やってもたぶん同じ事になるな」
「…………」千古は裕也の手を握った。最初はそっと握ったが、五~六歩あるいてから、ぎゅっと強く握った。
「もうすぐ駅だよ。千古さん、もう一度だけ言う。行かないで欲しい」
「だめです。まだ高校一年じゃないですか。時間を巻き戻してなんて言わないで、新しい生活をしてください」
「ははは。水音とね」
「そうです。ゾンビ娘ですよ。萌え萌えでしょ」
「……もう駅に着いちゃったよ」
「はい。そうですね。では、さようなら」
「……」
裕也はなかなかそこを動こうとしなかった。そして千古も、その手を離そうとはしなかった。千古がしみじみと今までの生活を懐かしむように言う。
「裕也さん、眠りから覚めて一番良かった事は裕也さんと水音さんに会えて、楽しい時間を過ごせた事です。どうもありがとうございました」
裕也は急に涙が出てきて、千古の手を離し、下をむいてコートの袖で涙をぬぐった。次の瞬間、裕也が再び顔を上げると、千古の姿はそこには無かった。




