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「でさあ、水音、今日は一つ話があるんだけど」
裕也が急に真剣な顔で言ったので、水音も緊張した顔になった。
「何?」
「うちの両親が、水音にお礼をしたいって。この前の事」
「なんだ、そんな事か。別にいいよ」
「五歳の時に丹羽子さんが僕を目覚めさせた時は、僕のおじいさんが山を売ってストラディバリウスを買ってあげたんだよ。まあ、丹羽子さんは遠い親戚でもあるんだけどね」
「……でも、五歳の時は半年も意識不明だったんでしょ。今回は一昼夜だから。たいした事ないよ」
「でも、聞いたでしょ。昏睡状態の時はほとんど脳波も無かったんだよ。医者も脳死だと思ったって。うちの両親はすごく水音に感謝している」
「いいよ別に。私は裕也を助けたかっただけ」
「まあ、絶対そう言うと思ったから、もうヴァオイリンを買っておいた。でも安心して。特に高い物じゃないから。楽器屋に音大生の標準的なクラスのって言って何本か持ってきてもらったんだ。その中から僕が選んだ。水音の音楽性にあうと思うよ」
「まだ高校生だよ。それに、もらえないよ」
「だってもう買っちゃったし、楽器はやっぱり大事だよ。今の楽器じゃ演奏会でクロイツェル弾く時に紗木子に負けるでしょ。それにタイスの瞑想曲みたいの弾くなら、やっぱり音色勝負になるでしょ」
「裕也、ずいぶんヴァイオリンの事、勉強したね。だけど、やっぱりもらえないよ」
「じゃあ、貸すよ」
「借りない」
裕也は水音の反応は予想通りだと言わんばかりに、少し間を置いて水音の顔を見、それから再び話し始めた。
「……そう言うと思ったんだ」
「……」
「で、ここからが本題の話」
「え?」
しかし裕也はなかなかその次の言葉を発しなかったので、水音はヴァイオリンをケースにしまい、ソファに腰かける。裕也も水音の隣に座り、水音の方をむき、そしてやっとしゃべりだした。
「水音、僕の彼女になるって言ったよね」
「……」
「その時、僕は何も返事をしていないでしょ」
水音の顔が急にこわばる。手元にあるヴァイオリンケースに眼を落としたまま、裕也の次の発言に対してどのように心の準備をしようか決めかねているようだ。
「まあ紗木子やクラスのみんなに言われても僕は否定もしてないんだけど。一度、水音にはきちんと言っておきたいんだ」
裕也は決然とした態度で、かつ落ち着いて話し続けた。
「……水音、彼女だって言ってくれてありがとう。僕も水音の事、大好きだよ。」
水音はまだヴァイオリンケースに眼を落したまま真剣な表情を崩していない。裕也が続ける。
「で、僕の彼女だったら、ヴァイオリンを借りて欲しいんだ」
急に水音が顔を上げて裕也を見る。
「それとこれとは、話が違うでしょ」
「いや、そういう事なんだよ。僕と一緒の時間を過ごして一緒に音楽を作るんだ」
「……でも……私は……」
「水音、……僕らが出会ってすぐの時に『飛行機事故にあってその前の記憶が全く無い』っていう話をしていたよね。今の自分の人生はその時から始まっているって」
「……」
「水音を見ているとね、なんか元気な割りに儚いような、そんな、なんか危なっかしい感じのする事も色々あるんだ」
「……」
「だけどね、そういう点も全部含めて、僕は水音が好きだ。僕は水音の事を、水音が今生きている世界をなんでも受け入れるよ。だから水音にも僕の生きている世界を受け入れて欲しい」
「分かった。裕也、ありがとう…………」水音はしっかりと答えたが、その後、涙ぐんで声を詰まらせてしまった。
「じゃあ、これから楽器屋にヴァイオリンを選びに行こう」
「えっ?……もう買っちゃんたんじゃないの?」
「まあ、一応、話はしてあるけど、水音が自分で選びたいでしょ」
「……うん」
二人は代官山の弦楽器専門店でヴァイオリンを選び、それから渋谷のマークシティで遅いお昼ご飯を食べた。そしてその日は渋音には寄らずに、目白の裕也の家に二人でまた帰って来る。
裕也の部屋に入ると、水音は持ってきたヴァイオリンを椅子の上に置き、そしてしばらく裕也の方を向いて立ったままだった。ちょっと不自然な水音の行動に裕也は怪訝そうな顔をしたが、水音の正面に立って、何を言い出すのか様子をうかがっている。水音がやっとしゃべりだす。
「ねえ、裕也、この前の首の傷、消えちゃったよ。もう跡形もない。」
「何を突然言い出すかと思えば。……よかったね。だから精神世界で受けた傷だから。本当の傷じゃないからでしょ?」
「そう……かな?」
「で、何?」
「いや、それだけ。」
ぎこちない話の展開に裕也も必至で合せるように言葉を見つける。
「この前、僕がキスしたからかもね。」
裕也はそうしゃべりながら、水音に近づき、まん前に立ってその手を握った。
水音は真っ直ぐに立ったまま動かない。
「水音」裕也は水音にさらに近づき、髪の毛をどかして首筋の傷があった所を見る。
「本当だ。跡形もない。」
そう言って水音の首筋にそっとキスをした。それから水音の背中に手を回し、ぐっと強く抱きしめ、今度は唇にキスをした。
* *
十月半ばになると、全校生徒に渋音祭のパンフレットが配られた。教室で生徒たちがそれを読み始めると、教室のあちこちでどよめきが起こる。
「ええ~!水音、クロイツェル弾くの?ってか、伴奏が紗木子なの?なにこれ。すごいじゃん」
「名前の組み合わせ聞いただけで緊張しちゃうね」
「テレビも来るんでしょ。美人デュオで映るかもよ」
「紗木子がこんなのに出るとは思わなかった。もしかして裕也が言ったから?」
しかし、すぐに話題はもう一つの演奏会の曲目に移っていった。
「この男子チェロアンって何?」
「一年から三年までの男子チェロ六名にOBが二人入って八人のチェロアンサンブルだって、こんなのやるの?」
女子たちの質問は、このクラス唯一の男子チェロの智樹に集中した。しかし智樹はあまりしゃべりたがらなかった。
「今まで極秘で練習してたんだ。先輩から厳重に口止めされてる」
「いいじゃんこの企画。腐の心をわしづかみだわ」
「へんな事言うなよ」
「曲は編曲ものなの?」
「半々ぐらいかな」
「編曲は上条君なの。面白いね~」
その話を聞いて水音も裕也に聞く。
「裕也、この編曲やってたの?」
「ああ。頼まれたから。智樹に。極秘だっていうから水音にも言わなかった」
「別にいいけど。このブラジル風バッハの五番ってソプラノが入るでしょ。誰?」
「へえ、水音もいろんな曲知ってるね。関心するよ」
「ねえ、ソプラノ、誰?」
「いや、知らない。秘密なんじゃなくて本当に知らない。僕、それ編曲してないし」
その後の数週間、水音は裕也とのゲリラ・コンサートの曲を練習し、そして裕也が付き添って、紗木子とのクロイツェルの合わせをした。
裕也も水音との合わせの他、男子チェロアンのために編曲した曲を指導して忙しい日々を送った。
十月下旬には、テレビのクルーが二度ほど練習風景を撮りに来た。千古が学校中を案内し、水音もインタビューを受ける。




