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両親が帰ってくると、裕也は家に帰りたいと言った。ちょっと寝ていただけだから何でもないと。病院の先生は反対したが、後日あらためて検査入院するという約束で、とりあえずの退院を許可した。
裕也の希望で水音も裕也の家まで一緒に行った。そして二人は裕也の部屋に行く。
「水音、紗木子の事なんだけど、曲は今晩中に書きあげる」
「えっ?そんなに早く?」
「だから言ったでしょ。もうほとんど完成しているって」
「できた曲を明日には紗木子に渡してしまおうと思うんだ」
「う~ん、それで紗木子があきらめるかな、裕也の事」
「僕も少し考えたんだ。作戦がある。少しは僕を信じろよ。紗木子はこの曲が弾けるようにならなければ、僕には会わないと思うよ。プライドが高いから。でも、決して難しく書いたわけではないけどね。ちゃんと普通に弾けるように書いた」
「それが弾きこなせるようになったらどうなるの?」
「その時は紗木子は僕に対する関心を無くしているよ。彼女は僕が好きなんじゃない。自分が好きなんだ」
「え?」
「そうだよ。でも一つだけ問題がある。彼女に曲を渡すまでの間。つまり今晩、また僕を連れにくるかもしれない」
「でも自分のための曲を必死に書いているんでしょ。じゃまするような事はしないんじゃない?」
「それが彼女が普通じゃないところなんだ。他人を全く信じていないから」
「そう……かな。どうしよう」
「ところで、水音がこの前くれた水晶、あれ割れちゃったよ。夜中にいきなりパチンと音がして。……で、その十分後に紗木子からメールが来たんだ」
「……こわいね」
「で、さらに一時間後に水音からメールが来たんだ」
「……こわいね」二人は笑い出したが、今晩の対策を考えられずにしばらく沈黙が続いた。水音が言う。
「しかたがない。千古さんを呼ぼう。千古さんは今回も私にアドバイスしてくれて、私が紗木子の洞窟に行っている間、私の身体を守ってくれていたんだ」
「水音の身体、教室にあったの?」
「そう。私たちの教室。机を並べてその上に寝ていた」
「……そう。萌えるね」
「ところで裕也、ひとつ謝らなきゃならない事があるんだ。千古さんに連絡がとりたくって、裕也の携帯見ちゃった。パスワード知ってたから。でもメールとかSMSとか見てないよ。アドレス帳だけ」
「……わかった。パスワード変える」そう言って裕也は笑った。そして携帯から千古にメールを送った。すぐに千古から返信が来て、まもなく千古も裕也の家に来た。
状況を聞いた千古が平然と提案する。
「じゃあ、私が狐の姿になって、ここに泊まります」
「それしかないと思って千古さんを呼んだの。私じゃここに泊まれないから。でも、また眠らされちゃうんじゃない?」
「もうそんな失敗はしませんよ。この前は紗木子さんに抱かれていたので、何か笑気ガスのようなものを嗅がされたのだと思います」
「…………」
「…………そこまで準備してたのか。もしかしたら僕が嗅がされていたのかも」
「今晩はきちんと結界を張りますよ。彼女の霊体はそれでも入れるかもしれませんが、裕也さんを連れて行く事はできません」
「で、千古さん、裕也に手をださないでよ。手伝ってもらった人にこういう事言って悪いんだけど」
「ははは。私は絶対にそんな事はしません。しかし裕也さんが襲ってきたらどうしましょう」
「何言ってるんだよ」裕也が必死に否定しようとする。
「ずっと狐の姿しているんでしょ?」水音が念を押す。
「そうですけど、裕也さんは狐好きですから、狐の姿のままでも襲ってくるかも」
「おい」
「ははは、冗談ですよ。今日は一晩ここにいます。では、私は準備がありますから、これで一旦失礼します」
そう言って千古はドアをあけて裕也の部屋から出て行った。水音も、
「じゃあ、裕也も作曲に集中した方がいいから、私も帰る。明日、かならず連絡してね」と言ってドアを開ける。
すると、そこには白い狐がいた。
「ああ、懐かしいね。那須の時に見た時のまんまだ。真っ白で毛がふさふさして可愛いね。裕也、うらやましいな。これ」
水音は狐を抱き上げると、頬ずりして、それから裕也に渡した。
「じゃあね。裕也、襲っちゃだめだよ」
「わかった。明日の朝メールする。学校で会おう」
「じゃあね。さようなら」
* *
裕也は言った。「千古、悪いね。番してもらって。僕はずっとピアノに向かってるから、好きにしていて」
チーコはそれが全く聞こえないようで、少しの間部屋をうろうろした後、裕也のベッドの下の隙間に入ってしまった。裕也はそれから明け方まで作曲に集中する。夕飯こそ両親が心配するので一階に下りて食べたが、すぐに部屋に戻って作曲を続けた。チーコの姿は見当たらなかったが、あえて探そうとはしなかった。
曲ができあがった時は翌朝の五時になっていた。裕也はとりあえず水音に短いメールを送る。『曲できた』
返信は期待していなかったが、すぐにメールは返ってきた。
『そう。よかった。少し寝た方がいいよ。何時に渋音に行くか決めたら連絡して』
『わかった。でも眠くない。だって、三十時間も寝ていたからね。じゃあ、十時に渋音』
『分かった』
裕也がベッドの下を覗くと、チーコは奥の方にいた。眼が灰色に光っている。
「おいで、千古」裕也がそう言って手招きすると、チーコは出てきた。裕也はチーコを抱き上げて、ベッドの上に置く。
「曲、できたよ。ちょっと相談したいから人間の姿になってよ」
しかし、チーコはまったくその言葉には反応せず、今度はベッドの上に伏せた。裕也は
「わかったよ。裸だもんね」と言って、自分もベッドに横になった。するとチーコは裕也に身体をくっつけて、目を細める。裕也はチーコを撫で、頬ずりした。それから裕也は仰向けに寝るとチーコを自分の胸の上に置き、その華奢な胸や、きゅっとしまった細い胴を触り、抱きしめる。チーコは何も抵抗せず、されるがままになっていたが、やがて頭を裕也の胸にうずめ、気持ちよさそうに寝てしまった。
翌朝、裕也は母親から朝食に呼ばれたが、「ちょっと作曲中だから部屋で食べる」と言ってトースト、紅茶とハムエッグを部屋に持って上がった。
「千古、昨日の夜、何も食べていないだろう。これ食べないか?」と言ってドアを開けたが、チーコの姿も、そして千古の姿もそこにはなかった。




