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「で、水音の彼氏の裕也に悪いんだけど、お願いがあるんだ」
「なんだよ。あんなメール送って学校に呼び出してまでして言うような事?」
「ごめんね。それほんとに気にしないで。今日だって本当は水音と来ると思ってたよ」
「……で、何?」
「もちろん、裕也に頼むのは、……曲を書いて欲しいの」
「へっ?なんだそんな事?……別にいいけど。どうせ曲書くのが好きでここに来ているんだし、僕の方こそ、だれかに弾いてもらいたいから。」
「ピアノ曲を」
「そう。どんなのがいいの?何に使うの?」
「上条君も知っているとおりピアノ曲なんて星の数ほどあるわ。でもそのほとんどはつまらない。ショパンが一番ましかな。でも、それでも弾いているうちに他の事を考えてしまうの……」
「そう」
「だから、私に他の事を考えさせないような曲を書いて欲しいのよ。それで私の癖を直そうと思って」
「へっ?う~ん」裕也は黙ってしまった。
「単に技巧的な曲じゃだめなのよ。練習してそういう曲を弾いても、やっぱり他の事を考えてしまうわ」
「ベルクのピアノソナタなんかどう?」
「いや、どんな曲でも同じ」
「プロコの戦争ソナタとか」
「だめなのよ。だって……」紗木子は下を向いて恥ずかしそうに言った。
「私がピアノを弾いている時に考えてしまうのは、……上条君の事だから」
「…………」
「だから上条君が書いてくれた曲なら演奏に集中できるかなって」
「う~ん、そういう事か」
「あら、チーコちゃんが眠ってしまったわ。かわいいわね」
紗木子が撫でているうちに気持ちよくなって眠ってしまったようだ。
「へえ……」裕也は少し困ったような顔をしたが、それを紗木子に悟られないようにすぐに笑顔を作った。
「可愛いね。僕以外の人の腕で眠るのは初めて見たよ」
「そう、仲いいのね。ジェラシー感じちゃうわ」
「で、なんで僕の事考えるんだよ」
「そういう質問をするのね。……それが分からないのよ。水音の彼氏で絶対手が出せないと思っているうちに、頭の中が上条君で一杯になっちゃうんだよ……って答えればいいのかしら」
「それでわざと水音がいる前でメアド聞いたのかよ」
「そう。陰で聞くのフェアじゃないと思って」
「で、メール送ってきたのが昨日なのはなんで?」
「それはずっと悩んでいたんだけど、夏休みになっても特に水音さんとデートしてないようだったから」
「分かった。曲は書いてあげる。夏休みが終わるまでに。確かに誰もいないところじゃないと話せないよね。この話。でも水音には言うよ」
「わかったわ」
紗木子は話し終わると、立ち上がり、まだ座っていた裕也に眠ったままのチーコを返した。
「じゃあ僕、もう帰る」
「そう、じゃあ私も今日は帰るから一緒に帰ろうよ。私は大塚だから」
二人は教室棟を出た。裕也はチーコを抱いていたが全く起きる気配がない。「悪いけどチーコがずっと起きないから、僕、タクシーで帰る」
裕也はそう言ってさっさとタクシーを拾い、紗木子を置いて車を出した。タクシーの中で何度かチーコをゆすり、運転手に聞こえないように小さな声で「千古」と呼びかけたが、まったく起きる気配が無かった。
家に着くとたまたま家族は誰もいなかったので、そのままチーコを抱いて自分の部屋に行きベッドの上に寝かせる。そしてまた「千古、大丈夫か?」と声をかけたが、チーコは眠ったままだった。裕也はとりあえず部屋を出て、チーコの足の汚れを拭こうとタオルを水で濡らして帰ってくる。しかし部屋に戻るとチーコは姿を消していて、その代わり裕也のベッドにタオルケットを掛けた千古が横たわっていた。
千古は目を覚ましていたが、仰向けに寝たままで言う。
「ごめんなさい。不覚にも眠らされてしまいました。ここまで連れてきてくれてありがとう」
「千古さん、大丈夫?」
「私は大丈夫ですが、失敗しましたね。あれほど強い方だとは思いませんでした。やはり生霊になる方は非常に強いですね」
「そう。どう思う?」
「……失敗しました。水音さんに謝らなければ」
「ちょっと待ってよ。水音は僕の保護者じゃない」
「ははは。ごめんなさい」
「彼女の話どこまで聞いてた?」
「紗木子さんがピアノを弾いている時に他のことを考えるので本番でも気が抜けた演奏になってしまうというあたりです」
「そう。紗木子は何を考えているか聞いた?」
「いいえ?何を考えているんですか?」
「僕の事」
「そう言ったんですか?……重い女ですね」
「…………」
「でもこれで分かりましたね。ピアノを弾いている時に、心が離れて裕也さんのところに言ってしまうんですよ。やっぱり裕也さんの事が好きで、水音さんにも宣戦布告したんでしょう」
「嫌だなあ」
「で、曲は書いてあげるんですか?」
「書いてあげる。ちゃんと曲に集中できるような物を」
「裕也さんなら、そう言うと思いましたよ」
二人が会話を続けている間、千古はずっとベッドに寝たままでじっと動かずに、いっこうに起き上がる気配が無い。裕也もそれを不自然に感じ始めたようで、何かを質問をしたそうな仕草をし始めた。そして会話が途切れた時、ついにその質問をする。
「千古さん、もしかして裸なの?」
「はい。そうです。狐の恰好をしていましたから。服は学校に置いてきてしまったんです」
すると裕也は立ち上がってベッドの方に歩いて行き、足の方からベッドに膝でのった。そして仰向けに寝ている千古の上に、薄いタオルケットにくっきりと形が浮き出ている身体の両側に手をついて、四つん這いになる。
「裕也さん、だめです。水音さんが見ていますよ」
「うそだろ。……この前の紗木子が来てるってのも嘘だろ」
「いいえ、あれは本当ですよ。そうでなければ水音さんにあのメールを見せてもらってまでして、焦って対応しませんよ」
裕也は四つん這いになったまま千古の顔を真っ直ぐに見て言った。
「あの日の夜中の二時頃にさ、水音の水晶、割れちゃったよ。パチーンと音がして。その十分後にメールが来たんだ。紗木子からの」
「そうですか。強い人ですね。でも霊力のコントロールができていないんですよ。あるいはすごく短気でちょっとでも嫌な物があると感情が爆発して壊してしまうんでしょう」
「……」
「裕也さんどいてくれないと、また眠らせてしまいますよ」
「いいよ。じゃあ、また夢落ちにしようよ」
そう言って裕也は千古をタオルケットの上から抱きしめて、唇にキスをした。千古は何も抵抗せずタオルケットから手も出さなかったが、しばらくするとキスを途中で切り上げて言った。
「裕也さんいいですか、よく聞いてください。今から水音さんを呼んで、二人でどうするか相談してください。すぐに水音さんを呼ばないと取り返しのつかない事になりますよ。絶対に約束を守ってください。私は一旦帰りますから」
そう言うと千古はタオルケット引っ張って頭から被った。
裕也がそっとタオルケットをあけると、もうそこには千古の姿はなく、白い狐がいた。裕也は、「わかったよ。ごめんね千古」と言って、チーコを抱き寄せてその頬にキスをした。それからベッドに腰掛け、チーコを隣に座らせて水音にメールを書き出した。チーコは横でその画面を見ていたが、裕也がメールを書き終えて送信してから振り返ると、もうそこにはチーコの姿は無かった。




