第四章 紗木子
七月十八日、夏休みが始まる。
水音は休みの間も毎日学校に来てヴァイオリンの練習をしていた。それもほとんど基礎練習、そして筋トレ。まるで自分の身体をゼロから再構築して、『こう弾きたい』という気持ちを実現させる理想的な身体に変えてしまおうとしているかのようだった。
裕也の方は七月中は秋田の山奥にある親戚の家に遊びに行き、そこでのんびりと過ごしていた。裕也は物心ついた時から、毎年夏になるとここに来て、昆虫採集や小川での魚釣り、廃寺の探検など、都会では考えられないような遊びをして過ごした。親戚の人たちも裕也の事を自分の子供のように扱ってくれたので、裕也にとってそこは、まるで自分の故郷のように思えるのだった。
裕也は二年前に亡くなった丹羽子の事を思い出していた。裕也から見ると従妹の従妹にあたり、十歳ほど年上だった。丹羽子の母親が巫女の血筋だと言う事で、裕也が霊障に悩まされると、いつも憑いている霊を祓ってくれた。丹羽子もヴァイオリンを弾いたが、これがずば抜けてうまかった。いくつものコンクールで賞をとり、裕也や水音と違って日本でトップと言われる音高・音大に行った。しかし在学中に父が亡くなり、丹羽子は父が所有していた会社の一部を引き継いで社長になる。美人の音大生社長という事で、雑誌にその美しい顔が大きくのった事もあった。
ここ秋田の親戚の家は、その丹羽子と初めて会った場所だ。
裕也は五歳の頃、交通事故で頭を強く打ち、半年も意識が戻らない事があった。このまま植物人間になってしまうのかと家族もあきらめかけていた時に、今は亡き裕也の祖父が裕也の自宅療養を申し出て、眠ったままの裕也の身体を秋田の家に引き取る。しかしその直後、たまたま遊びに来た丹羽子のヴァイオリンを聞いて、裕也は奇跡的に意識を回復したのだった。
五歳の時の話なので、裕也はどこまでが本当の記憶で、どこからが後から人の話を聞いて思い描いた事なのかが分からなくなっていたが、親戚が集まって女の子のヴァイオリンを聞いている光景を、今でもこの家に来ると思い出した。
裕也は秘かに丹羽子に恋心をいだいていたので、丹羽子が二年前の飛行機事故で突然亡くなったしまった時には大きなショックを受け、家でも学校でも誰とも話さなくなってしまう。しかしその数カ月後に水音が現れて、まるで幼馴染のように親しくつきまとってきたので、裕也はそれをうるさいと思いながらも丹羽子の事を忘れていられるようになったのだった。
* *
八月に入ると裕也は目白の家に帰った。そしてその夜、まるで裕也の帰京を待っていたかのように、紗木子からメールが届く。
『ちょっと昔の事だけど、土曜日に学校に行った時に見ちゃったよ。上条君、練習室で後ろからキス決めてたね。誰? 水音じゃないよね。水音は一途なのにかわいそうだよ。もちろん誰にも言わないよ。知ってて黙ってるのフェアじゃないかも、って思って一応メールする事にした。それと、ちょっと相談したい事あるんだけど学校で会えないかな?』
裕也はトラブルの予感にしばらく落ち込んでいたが、やがて千古にSMSを送った。
『千古さん、転送したいメールがあるので、メアド教えてください』
『chifuru_chitose@docomo.com』
そして裕也は紗木子のメールを転送した。千古からの返事。
『嫌なメールですね。誰とキスしてたの?』
『千古さん、いい加減にしてください』
『えっ?何だかよくわからないですけど』
『千古さん、相談したいので、会えませんか?』
『だめですよ。もう二人では会わないと言いましたよね』
『それは夢の中の話でしょ。僕、よく分からないなあ』
『水音さんに相談してください』
『できる訳ないでしょ。じゃあ、二人っきりで会わないでもいいので、僕の家に遊びに来てください。それならいいでしょ』
『……しょうがないですね。じゃあ今日の二時ごろ行ってもいいですか。場所は分かりますので』
『じゃあ二時に待ってます』
千古は裕也と一緒に買ったワンピースを着てきた。夏の強い日差しの下、白い肌とワンピースの花柄が輝いていた。
千古が裕也の家の呼び鈴を押すと裕也の母親が門のところに出てきた。
「あのう、上条さんの学校の知りあいなんですけど」
「千歳さんですね。裕也から聞いています。いつも裕也がお世話になっています。どうぞこちらへ」
リビングに通されると千古は持ってきた小さなハーブの鉢を母親に渡した。
「あのう、実はハーブの鉢を作るのが趣味で、ちょっと増えすぎてしまったので、持ってきたんですけどよろしかったらもらっていただけませんか。これはスイートバジルです」
「あら、これはありがとうございます。でも、どうぞお気遣いはしないでくださいね」
そんな会話をしている時に、裕也がリビングに入ってくる。黒地のTシャツに濃い茶色の綿パンをはいていた。
「千古、僕の部屋に来て」
「あ、はい」
部屋に入ると千古が言う。
「『千古』って呼び捨てですか。どきどきしちゃいました」
「ああ、母さんに千古の事をガールフレンドだって言ったから、呼び捨てにしないとおかしいでしょ」
「えっ、ガールフレンドですか!」
「だってこの前、千古さんが『学校の職員が生徒と付き合っちゃまずい』って言ったから。ガールフレンドって事にしたんだ」
「えっ、それちょっと違いますね。私は『学校の職員が生徒といるところを見られるとまずいかも』としか言っていませんよ」
「同じ事でしょ」
裕也の部屋は、二階の南西の角部屋で、十二畳ほどの広さがある。窓から庭の木の枝を通して午後の陽射しが差し込んでいた。いかにも男の子の部屋というのだろうか、広いのに置いてある物が少ない殺風景な部屋だ。勉強机、アップライトのピアノ、ベッド、それとテレビを見るように置かれているソファがある。掘り込みの入った高い天井、立派な家具やフローリングを見ると、裕福な家庭の子弟といった感じの部屋だ。それよりも、この家の呼び鈴を押す段階で普通の人なら躊躇するに違いない。目白の住宅街にあるひときわ大きな『邸宅』だった。
千古はソファに腰かけ、裕也はその向かいにある勉強机の椅子に座った。千古がしみじみとした調子で言う。
「しかしガールフレンドですか……」
「怒る?千古さん。『彼女』とか『恋人』とか言ってないからいいでしょ、ガールフレンドなら」
「この前、私にキスして抱き付いたのに、彼女にしてもらえないんですね……」
「えっ?だって、千古さんあれは夢落ちだったって芝居を何度もしてたでしょ」
「ははは。冗談ですよ。そうですね。しかし目撃者がいたら、夢だなんて言えないですよね。その人が夢の中に入ってくる人でなければ」
「えっ?」




