幻影
違和感を覚える程綺麗に整頓された部屋に、わたしは立っていた。ものが極端に少ないから、そう思えるのかもしれない。
高校三年生の佐々木ナオは、綺麗に片付けられたその部屋で、毎日だいたい朝七時ごろに自然に目が覚める。その日もそうだった。午後六時五十四分、佐々木ナオは部屋の中央に立っているわたしに気付いて、大声を出す。それから手当たり次第にものを投げつけてきた。
「それは無駄。部屋が散らかるだけ」
投げつけられたものはわたしの体を通過して埃のない部屋へと落下した。ナオは目をむくようにしてその場で立ち上がって、わたしを見据える。警戒と驚愕とで混乱しそうなナオは、しかし普段の折り目正しい生活で手に入れた冷静さをもって、わたしに声をかけた。
「なんなのよあなたは? どうなってるのよ」
「驚かなくていいし怖がらなくていい。こうなって当然。わたしはあなたの幻だから」
「幽霊?」
「そう思えるならそう思うといい。あなたが見えているように見ればいい」
ナオは自分の目をこすってわたしを見やる。見えたのは、冷たい切れ長の目と、あまり整わない肩口までの紙を持つ色白の少女のはずだろう。そしてそのとおりならば、彼女が昔通っていた中学の制服を着ているはずだ。
「……消えてよ。もうあんたの夢を見るのは、たくさん」
絞りだすような声。この姿に見覚えがあるらしい。わたしは笑った。
「わたしはあなたに何もしないし、恨み言をいうつもりもない。ただあなたにしか見えてなくて、あなた以外の全員に見えているものに対しては何の干渉も行わない存在だってこと」
その説明に納得するでもなく、ナオはわたしから目をそらした。そして錯乱気味に、わたしの存在を振り切るようにして部屋を出る。わたしはその後ろを付いていく。
「今日は日曜日でアルバイトもないから外に出かけるのかしら。あなたは享楽の類は一切絶ったはずだけれど」
ナオはわたしの相手をしなくなる。幻なら、無視すればいいと考えたようだ。
休日だというのに学生服を来て、ポケットにお札の入った封筒を詰めて部屋を出る。わたしは彼女のあとを追う。
「朝食くらい取らないの?」
「うるさい」
「わたしがいる所為で食べる気にならないの?」
「分かってるなら消えて」
「わたしはあなたの視界の中でしか存在できないの。だから付いて行くことしかできないわ」
「いいから消えてよっ!」
言って、ナオはわたしの方を振り返ってわたしに平手で殴りかかる。もう三年間誰のことも殴ったことのない、綺麗なことにしか使われたことのないその手。わたしはその場で尻餅をつく。
「なんで殴れるの?」
「あなたの幻覚だと言ったでしょう? あなたが『殴った』と思えば殴ったことになるに決まってる。ものを投げられるのとは大きく違う」
わたしはそれからナオのことを見上げる。ナオはどきりとしたようにその場で後退った。
「今持っているのはあなたがアルバイトをして稼いだお金ね。高校生のあなたにとってはなんでもできる額よ。それをもってどこへ行く気?」
「あんたあたしの幻でしょ? だったら知ってるんじゃないの?」
「鴻巣ミワの家のポストに入れる。メッセージは『入院費の足しにしてください』。二年間ずっと変わらない」
ナオはその場で足を止め、振り返る。
「ミワの家はここから三駅離れた町にある。あなたはそこに向かうためにまず駅に向かっている。けれど、気まぐれで、忠告しておく。その駅にあなたは今日向かうべきじゃない」
「なんでそんなことがわかるのよ」
「核心はともかく、一ついえるのはそれがなんの意味もない行為だということ」
「うるさいっ!」
路上で虚空を殴りつけて騒ぐナオの姿を、誰もがちらりと見ただけで通り過ぎていく。強く気にするのはナオのほうだ。ナオはわたしから逃れようと早足でその場を去っていく。
「鴻巣ミワは中学の頃あなたの一つ年下の後輩だった。直接は関係がなかったけれど、顔は知っていた」
わたしはナオに声をかける。ナオは忌々しいといわんばかりに答える。
「そのとおり。あなたの姿そのものよ」
「あなたはバスケットボール部に所属していた。そこははっきり行って品のない女子生徒のたまり場になっていて、厳しい年功序列があった」
「詳しいわね。さすがあたしの幻さんだこと」
「あなたのバスケットボール部の後輩に藤崎まゆみという人物がいた。今では考えられないほど遊ぶのが大好きでお金を欲したあなたは、彼女に対して恐喝行為を行っていた。
まゆみはお年玉などを貯金した口座からあなたにお金を差し出した。当時のあなたにとってはそれなりの額だった。まゆみは無尽蔵に金を持っていると思ったあなたは、過剰な額をたびたび要求した」
ナオはその場でアタマを抑えて、逃げるようにして駅へ向かう。ずっと逃げてきた自分の過去だった。
「貯金が尽きたまゆみは自分のクラスメイトに対して恐喝を行うことを思いついた。その標的が鴻巣ミワ。二重恐喝は続いた。まゆみは不良のたまり場のバスケ部に所属していることを後ろ盾に、金を脅し取っただけでなく、あなたや他の先輩からの抑圧を解消する為にミワのことをおもちゃのようにもてあそんだ」
ナオは走り出す。駅のホームに入った。震えた指で切符を買うナオの視界の中に、わたしの存在はあり続ける。あり続けて、彼女に声をかけ続ける。
「鴻巣ミワはあまり心の強い人物ではなかった。ある寒い日にミワは学校の屋上から身を投げた。遺書にはまゆみと他数名のクラスメイトの名前だけが書かれていた。あなたのことは、ミワは知りもしなかった」
「やめろっ!」
駅のホームで叫ぶナオに、わたしは後ろから声をかける。
「あなたに向けられた制裁はまゆみに対するそれよりも驚くほど小さかった。受験にもたいして差し支えはなかった。
しかしあなたは制裁が小さかかったからこそ恐怖した。いつか本当の報いが訪れるのではないかと。それから逃れるために、病院で眠り続けている鴻巣ミワの入院費を負担することを考え付いた」
ナオは自分のポケットに入っている封筒を握り締める。次々の入院費を遥かに上回るその金額を、高校生が稼ぎ出すのにどれだけの苦労があるのだろうか。
「許されたいのね」
わたしはナオに言った。
「けれど、許されたいなら、ポストにお金を入れるなんてやり方じゃダメだとあなたは思ってる」
「そうね。直接会って話をして謝罪をして、お金を渡したい。でも、そんなことできる訳ないじゃないの」
「会って拒絶されるのが怖いのね。それをされたら、それで許されなかったら、あなたは壊れてしまうから。だからポストにお金を入れる」
「怖いのよっ!」
ナオは言った。
「裁きが怖いのよっ! わたしは確かにあの子を殺したっ! 元凶だったっ! それなのにろくな報いを受けられなかった。いずれ神様があたしを裁くわ。あたしは必ず不幸になる。それが怖い。怖くてたまらない。だから償うのよ、一生懸命にっ! それなのになに? なんでいまさらそんな姿の幻があたしの目の前に現れるのっ!」
「その行為には何の意味もない。あなたはここから立ち去るべき。長くいてはいけない」
「どういうこと?」
「ミワの両親はあなたから届いたお金を受け取らずにそのまま警察署に届けている。気味の悪い金だと言って受け取りを拒否している」
ナオはその場で絶句した。空虚そのもの表情で、その場に立ち尽くす。
「帰りなさい」
「……放っておいて。それが本当だとしても、あたしはあたしなりにけじめをつけるから」
「今から彼女の両親に会うつもりなの? 残念ながらそれは無理」
「どうしてよ?」
「少なくとも今日は。そしておそらくは永遠に」
ナオは何もいない虚空に幻を求めて振り向く。
電車がやってきて走行音が鳴り響く。わずかにうごめいた人ごみに注視するものなど誰もいない。
ナオに向かって突き出されたその小さな手が見咎められることはなかった。
肩を突かれた程度のことで、少女の脆い体は簡単にバランスを崩す。後ろに倒れ、ナオの体は突っ込んでくる電車の目の前に投げ出された。
血飛沫があがる。
佐々木ナオを突き飛ばした少女が逃げていく。
彼女がここに来たのはたまたまだった。藤崎まゆみは涙を流しながら人ごみを走りぬけ、やがてホームの壁に手をつくと、腹の中のものを思うさま吐き出した。
そのままうずくまって数分間何もできなかった。思い出すのは人殺しと揶揄されて引きこもった中学時代。がんじがらめな中でさ迷うような日々を送る自分と対照的に、表向きは建機に日々を過ごす元凶のナオに憎悪したこと。駅のホームでたまたまその姿を見つけた時の、真っ黒な殺意。
「自首……しよう」
まゆみはつぶやいた。わたしはその弱々しい背中を見送って、背を向ける。
幻のわたしは誰にも姿を見られることがない。誰にも知られずに歩いて、停止している電車の上にふわりと飛び乗った。ここからなら、ナオの肉体が良く見える。
裁きを恐れて償いに日々を生きたナオ。そうすることが、自分がまともに生きる道だと考えたナオ。しかし適うことなく彼女は電車にはねられた。
「咎には裁きがあるのだろうか。汚れた魂は制裁されるのだろうか」
わたしはナオの死体を見下ろしながら呟く。
「彼女の傲慢な贖罪ではその魂は洗われなかったのか。もしも彼女を裁いた天の導きだの大いなる意思だの、そういうものがあるのなら、それは裁かれた彼女よりよほど傲慢だろう」
そう言って、わたしは口角を捻じ曲げて、肩をすくめる。
「まあそんなことは」
死体から立ち上る魂は、わたしの手のひらへ集まっていった。
「死神のわたしには、どうでもいいことだけれど」
その魂は殊更汚れてもいないし、決して綺麗であったりもしない。
旧友の書いた漫画のパク……オマージュです。