旅の始まり(四)
夕食後、イリュカは早々に部屋へ引き取り、明日の為の行動を開始した。
移動生活が主なので、所持品はめぼしいものはない。傭兵には、剣と自分の体一つあれば事足りるのだから当然でもあった。
最低限の着替えと多少の薬、野宿に不可欠な火打石、諸々。馬の背に渡す、両脇二つの皮袋に手早く押し込んで、さてと思案した。
問題は、なくてはならない長剣だ。
一番頼りの相棒は、ここ数日なんとか慣れようと苦心しているものの、相性はあまりよくない。振り回せば振り回すほど、腕の筋肉は鍛えられてはいるようだが、重すぎてバランスが取りにくい。すぐに息が切れる。
「持っていっても荷物になるだけかな……」
クレナが調達してくれた長剣に、肩を落とした。と、部屋の扉が突然開いた。
イリュカはぎょっとする。
ま、まずい……。
「クレナ……」
共用の部屋なので、クレナが戻らないうちにと急いだのだが。
「何……? これ、なんなの?」
目敏く、寝台の上の荷物をクレナは掴んだ。
眉が、すでに吊り上っている。
「……見た、通りよ」
「どうするの?」
畳みかけてくる……。荷物をしっかりと抱えて、納得するまで放さない気だ。
「テールをエトルリオンまで送るの。一人じゃ心配だから」
無理に取り返す気にはなれないので、イリュカはすとんと、隣り合ったクレナの寝台に腰掛けた。
「イリュカ一人で行く気なの?
どうして? 頭領に頼めばいいじゃない」
「あたしの仕事なの。他の人には頼めない」
「戻ってこないつもり?」
冷静な口調に、クレナは決意の固さを察し、心配顔を作った。
「またその話し? 帰ってくるわよ。冬を越して多少腕を上げたらね」
「イリュカ!」
「しっ。大声を出さないで」
「剣も無いのにどうするの? ばかなことはやめてよ」
「取り返すわよ。……父さんと刺し違えても、あたしの剣は手に入れる」
唇を引き締めて、イリュカは寝台に仰向けに転がった。
「! なんて口をきくのよ!
おばさんが言ってたわ。頭領はあなたを傭兵にしたくないって……!」
「その話しなら聞いてる。危険な生き方だからってね。だからってもう、クレナみたいな女らしい子には戻れないよ」
『父さんはね、お前を傭兵にはしたくないんだよ。血で血を洗う、危ない生き方だからね。
でも、イリュカを普通の娘に戻すこともできないとよくわかってる。小さな頃から荒っぽい場所に連れていったのは、自分だからね。
それだけはもう、諦めてる』
イリュカは、クレナに優しい一瞥を投げた。
クレナは荷物を投げ出して、膝を付いてイリュカの腕を掴んだ。
「あたしだって、強いイリュカは好き。
イリュカの剣さばきは誰とも違って、風に舞ってるみたいに綺麗よ。
剣を手放せないなら、他にも道はあるわ。
おばさんや頭領は、剣士になってほしいのよ。ここに居て、危険の中で暮らすより」
「あたしは……! 自分で決めたいのよ!」
イリュカは、勝手に願いをかけられることに反発した。ケイオンのように、操られて最後に投げ出されるのはもうごめんだ。
「なら、何を選ぶの?」
「ここで、みんなと生きていたい。ランドックに居る以上、強い戦士でありたいの」
「嘘よ、そんなの」
クレナは唇をとがらせた。
「だったらどうして、テールと行くの?
一人で行かせたらいいじゃない。どうしてあの子の肩を持つのよ!
勝手に出ていったら、二度とここには戻れないのよ。行かないでよ。おばさんが悲しむじゃないか……!」
一番痛いところだ。イリュカはそっと、顔をしかめた。
「母さんは、きっとわかってくれる……」
「イリュカの嘘つき! みんなの一緒に暮らしたいなんて嘘よ!
後戻りできないのに、一人で生きていくあてもないのに、どうしていっちゃうのよ!」
涙声でなじられ、イリュカも熱くなった。
「テールも、同じなのよ……!
一人で飛び出して、戸惑ってる。
誰かが助けなきゃならないの。今が大事なんだよ」
「テールの為なの? みんなを捨てるのは、テールが好きだから?」
「! だ、誰が……?」
イリュカは思わず体を起した。
「あなたがテールを、に決まってるでしょ!」
立ち上がったクレナを、まじまじと見返した。
「それは違う……、クレナ、違うよ」
「……マウリッカみたいに、イリュカはあたしたちを見捨てるんだ……」
「クレナ、聞いてよ」
「……。知らないっ」
イリュカを暫く見返して、クレナは腹ただしさを一言叩き付け、部屋を出ていった。
「……。そんなんじゃないのに……」
好きとか嫌いとかじゃない。ただ、守りたいだけ。見ていたいだけだ。
イリュカは大きく溜め息をついた。
王城を逃げ出してきた以上、テールは後戻りすることはできないだろう。
今のテールにその気はまだ無いようだが、どこに帰属するかの問題に直面した時、彼は深く悩むことになるだろう。
引き返すよりも、新しい世界に。本来あるべき場所に戻った方が、彼には幸せであるはずだ。
行動を起すなら、急がなければならない。
本物の王家の使者が、ルードナール全土に放たれているはずだ。
同時に、グエン教徒以外の不穏な一味も、嗅ぎ付けてこないとも限らない。
無事にエトルリオンに入れた後の当てはある。
七年前、レンドヴェールの高貴な方の身内が、イリュカにくれた宝剣。
あれを使い、持ち主を辿れば、テールを預けるに足るしかるべき人物に出会えるはずだ。
そこから、テールは己の半身に会えばいい。
「まずは、あたしの分身を取り返さなきゃ」
ケイオンが取り上げた宝剣の在り処は知っている。刺し違えてでもと虚勢を張ったが、正面から向かって勝てる相手ではない。
イリュカは立ち上がり、荷物を自分の寝台の下に押し込んだ。次に寝台脇に立て掛けた長剣を取り上げ、鞘から抜き放った。
手入れの行き届いた剣身。幅広の両刃が、蝋燭の揺れを写しチロリと光る。
「……明日……」
イリュカは言い聞かせる。
姑息と罵られようとも、負けるわけにはいかない賭けだ。どんなに卑劣な手段をとってでも、二本の剣は手にしなければならない。
『二度と戻れないよ……!』
閉じた瞼を通して、クレナの顔が浮かぶ。
利口な子なんだから……。
娘の身勝手を見逃したなら、ケイオンの頭領としての面目が立たない。示しをつけるために、追っ手を差し向けて制裁を加えるか。責任を負って、頭領の地位を譲るか。
ケイオンを失ったなら、今のランドックは分裂する。まとめていく力量のある者は育っていない上に、彼以上の統率者を望むことは難しい。
そんな不安定な未来を残すくらいなら……。
「あたしが自分で、ケリをつけて出ていく」
カチリと、イリュカは剣を鞘に納めた。
「どうしてよ……、なんで見当たらないの……?」
イリュカの頭は混乱した。
館の一室が、そう多くはない貴重品、家宝の類いの宝物庫に当てられていることは、誰もが知っていた。
集団の中にそれらに手を出す不埒者が居るわけがないので、小さな鍵がつけられているだけだった。
剣の柄で払い落とし、中に納められた一振りの宝剣を手に入れることなど、造作もなかったはずなのに。
今のイリュカは呆然としていた。
「……父さんだ……」
同じことを考えていたのか?
長剣を拾い上げ、イリュカは埃っぽい部屋を飛び出した。
「あたしの宝剣をどこへやった?!」
涼しい顔で、広間の一角に年配格の男たちと歓談するケイオン。
怒りにまかせイリュカが払った杯の行方をつと眺め、おもむろに口を開いた。
「剣はここにはない。今のお前には無用のものだ」
しごく当然といった顔で答える。
イリュカの頬は更に紅潮した。
「どうして! 一体どこに?!」
掴みかからんばかりのイリュカを、壮年兵たちはケイオンの動向を盗みみしながら、静観している。
ただ一人、割って入ったのはイリュカの母マーリカだった。
「理由があって、ある方にお預けしたんだ。
明日には、その方がお持ちになるだろうよ」
青ざめていても毅然としたマーリカの背後には、イリュカを責めて凝視するクレナが居た。
昨夜、部屋には戻らなかったことを考えると、一晩中、マーリカに訴えていたに違いない。翻って、母の態度はひどく静かだった。
「どういうこと? 今度は何を企んでいるのよ?!」
「お前こそ、何を考えている」
落ち着き払った緩慢な態度が、イリュカを苛々させる。不敵で何を考えているのか、計りかねる。
ゆっくりと上げた視線の先に、ケイオンは眼を細め、笑ったような表情を見せた。
イリュカは眼の隅で、そこにテールが現れたことを知った。
「頭領。あたしはテールとここを出る。それには、あたしの剣と宝剣が必要だ。
どうしても否と言うなら、腕で意を通す!」
「笑止!
出て行きたければ、身一つで出てゆけ。
剣一本持ち出すようなことがあれば、それは逆賊とみなす……!」
ケイオンの放つ声は、広間に大きく響いた。
見守る男たちでさえ震え上がる、苛烈さがあった。
その中で、足早にテールはイリュカに歩みよった。
「……では、剣を抜いてもらおう……!」
テールは、イリュカの前に立ち塞がった。
視線が、なぜだと問いかけてくる。
「よかろう。お前が勝ったなら、すべてくれてやろう」
ケイオンは席を立った。
テールは声を上げた。
「頭領が勝ったならどうするつもりだ?!」
「ありえない!」
鋭い否定に、テールはケイオンを振り返った。
「ケイオン殿!」
「統率を乱す者へは、死があるのみ」
「頭領! それは厳しすぎる!」
誰かの声が上がる。男たちの何人かも、うなり声を上げた。
皆を見渡し、ケイオンは首を振った。
「他の者ならともかく、俺の血を分けた人間であることが許し難い……!
これはランドックの中だけの問題ではない。我ら親子の確執。誰も口を挟むな」
一座は、幼い子供らまでも、冷え冷えと静まり返った。
ケイオンは自身の剣と、イリュカの細剣とを取り上げた。
「己の命であがなう覚悟が出来ているのであろうな」
「……無論」
「最後の戦いだ。
命を繋いできた剣は返してやろう」
イリュカへ、細剣を投げてよこす。
ケイオンは鋼を仕込んだ上衣を脱ぎ捨て、広場へと出ていった。
「イリュカ。僕のためになら手を引いてくれ」
「黙っていろ、テール。
聞いたはずだ。これは、我ら親子の闘いだ。
かならず勝つ」
一瞬ごとに、イリュカの頭は冷静に、研ぎ澄まされていった。
不思議なことに、闘争はイリュカの五感を高まらせ、人格をわずかに変化させる。
細心にして大胆。勇猛果敢でありながら、内心では、もっとも効果的な戦法を探り、策を練る。一人の中に、猛将と狡猾な策士を住まわせているようなものだった。
その知略の高さは、悠然とした自信となって現れる。
「これが済んだら、山を下る……」
すれ違いざま、そっと耳打ちした。
エトルリオンへ……。
「……イリュカ……?」
テールは耳を疑い、後は動けなかった。
迷うな、テール………!
その姿に、イリュカは言ってやりたかった。
歩きながら、ケイオンに習って、イリュカも上衣を脱いだ。
「おばさん! 見ない方がいいよ……!」
クレナが、マーリカを引き止める声。
「イリュカ。お前の好きにおし」
足を止め、イリュカは振り返らずに答えた。
「うん……。ありがとう」
わっと泣き伏すのは、泣き虫のクレナだ。
少し微笑んで、イリュカは歩き出した。
離れていたのはほんの四日でしかないが、久しぶりに手にする己の分身に、イリュカは背筋がゾクゾクとした。
その上、ひどく軽く感じられるのは、気のせいではないだろう。
数日間、慣れない長剣を扱っていたおかげで、腕の筋力が増したのだ。
今はやや物足りないほど。枯れ木のように軽いが、細い刀身はしなやかで優美。相変わらず残酷でもある。
お前は、父親の血を欲しているのか?
今まで考えたこともない想いが、頭を過ぎる。
……気が進まぬ……。
剣が、答えを返したような気がした。
「!」
ぐっと、幅広の剣身を受け止める。
力づくで押さえ込まれては、勝ち目はない。
噛み合う眼光で威嚇し合い、お互いが同時に背後に引いた。
残される火花。
繰り出される剣。交わし弾き返す剣。
火花と陽光が跳ね回り、一つところで輝く暇がない。
イリュカは間合いを取って、密かに息を整える。
闘いを長引かせては、こちらの勝機は薄れる。経験と体力では数段秀でたケイオンに抗するには、イリュカの長所である身の軽さと、動きの素早さでカバーするしかない。
それも、できうる限り早くに決すること。
イリュカの思惑を察知していながら、ケイオンは手加減無しに渾身の力で打ち掛かってくる。
彼にとっては、焦らし長引かせることで、疲労を最小限に抑えることもできるのだ。
それほどまでに、力で捻じ伏せたいか……?!
ぎりっと、イリュカは唇を噛み締めた。
柄を握り直し、ケイオンの懐深く飛び込む。
一歩。更に奥。
ケイオンの表情が、予想外の攻撃に一瞬怯んだ。それも束の間。上段から振り下ろし、力任せに薙ぐ。
ずっしりとした重さに、イリュカの指先はじんと痺れる。
「……なんのっ……!」
まだやれる。
ケイオンのこめかみを伝う汗は、イリュカを力づける。
負けじと、再度突き込む。
ケイオンは姿勢を低く、脇をガードする。
では、頭上から……!
渾身の力で、イリュカは振り下ろす。
ケイオンは下段、溜め込んだバネで、体ごと剣を振り上げた……!
ガキッ。
青白い火花が、噛み合った刃の狭間に立ち上る。
?
なぜか、イリュカの腕の力が抜ける。
その理由のように、剣が甲高い悲鳴を引いた。
張り詰めた力が、一点を打ち据えられて断末の声を上げたような、金属的な叫び……。
イリュカは理由がわからないまま、両膝をどうと付いた。膝先に、ひらりと光片が突き刺さる。
……剣身が、裁たれた………?
無理に視線を引き剥がし、殺意にイリュカは身構えた。さっきよりも、剣は軽い。
半ばから先は無い!
頭上から風圧。陽射しを遮る長い影。
重く輝く剣身が、間を置かず落ちてくる。
イリュカは、瞼を伏せた。
……この手に命は無い……。
もう一度、耳元で剣が食い合う音色が響く。
「! ケイオン殿、これまで……!」
空に向いて倒れ込んだイリュカは、眩しさに細く眼を見開き、剣を噛ませ見合う二人の男を眺めた。
テールの白い手が、誰かの剣を硬く握り締め阻んでいた。
「命拾いをしたな。命の剣が身代わりになったとみえる……」
息を整えながら、ケイオンは剣を納めた。
「二度と剣を手にすることは諦めろ。お前は、戦士の器ではない」
……どうして……? なぜ砕けた……?
「……嫌だ……、あたしの……!」
あたしの……!!
イリュカは、野獣のように呻いた。
傷ついた獣じみて、体をよじって声を上げた。
錯乱するイリュカを、テールは抱え起す。手を拒み暴れるので、体全体で大地に押さえつけるしかなかった。
「イリュカ……?! イリュカ!」
黒髪に頬を押し当て、何度も呼ぶ。
「目を覚ませ! ランドックのイリュカ!」
「……あたしの剣よ……、返して……!」
テールの腕をくぐって、イリュカは剣の残骸に手を伸ばす。
ブーツの先で蹴りつけ、テールはそれを手の届かないところへやった。
「! 何するの!」
髪を振り乱し、ようやくテールを見返した。
見上げる眼光は澄んでいる。少なくとも正気ではある。恨めしく、投げやりでもあった。
「君の心のは隙がある」
優しくはない。冷淡に言いつけた。
「君はためらっていた。殺されそうな状況だったのに、彼に父親の姿をまだ見ていた。
このままでは、ケイオン殿の言う通り、戦士には不向きだ。
戦士の働きを見せる前に、やられる」
パンと、テールの頬が鳴った。
テールに平手を加えた手が、拳を作り彼の胸に打ち掛かる。
「あんたに……言われたくないわ……!
逃げ出してきたんじゃない……?
あなたは……!」
イリュカは瞳の色を変え、唇を押さえた。
言葉に詰まったイリュカから、テールは声を心で聞いた。
イステュール王子だ……!
「……知っているのか……、君は。
だから、行こうと……?」
顔色を蒼白にして、テールは身を引き、立ち上がった。
すらりとした痩身は、りんと背筋を伸ばしてはいるものの、その背中はどこか虚ろであった。
「……まって……!」
冷ややかに、滑るように遠のいてゆく。
取り返しのつかない事態。
イリュカは両手で顔を覆った。
剣を永久に失ったことよりも、痛みは大きい。泣きながら、祈るしかなかった。
あの寂しげな肩を、幻でもいいから、金髪の王子の腕が現れ、包み励ましてくれないか?
誰一人癒すことのできない苦しみを、分かち合う半身が、ここに居てくれたなら……。
「……あたしでは、だめなの……。
ロスウィーンでなければ……」
後ろめたさに、イリュカはテールを避けた。
部屋に引きこもり、時が過ぎるのをぼんやりと眺めていた。
どちらかと言えば、闇の方が気持ちが落ち着いた。昼間の、何かを思い出させようとする、生活の音が静まるだけましだった。
ぼうっと、蝋燭の明かりが目を差した。
「何か食べなさいって、おばさんが」
クレナはツンとした怒り加減で言った。
のろのろと食事を載せたトレイを受け取るイリュカを見守って、すぐに手を付けないとみるや、くるりと踵を返した。
自分の寝台の縁から、櫛を取り出すと、イリュカの寝台に登り背後に座り込んだ。
「あ、痛っ……。クレナ……?」
「我慢して。イリュカはちっとも髪をすかないんだから。おかげでこんなに絡んでる。
これじゃ、テールに呆れられるわ」
口調は怒ってる。本心はまるで逆。
長い髪の編み込みをやや乱暴に解いてゆく。
イリュカは小首を傾げた。
「もう、嫌われた。顔を合わせられないよ……」
情けなくも、イリュカは額に手を当て、うなだれた。
容赦なく、クレナは髪を引っ張って顔を上げさせる。
「あきらめることないわ。向こうが会いたくなるくらい、綺麗になればいいのよ。
イリュカは、頭領に顔が似たわりには美人に部類よね。目元が母親似だからいいのかな。
ちょっと美人の女戦士もいいけど、すごい美人の方が、テールは気に入ると思うわ」
解いた髪に丁寧に櫛をあてる。ふわっと空気を含ませて、肩に垂らす。
うん。絶対いい。絶対大丈夫。
はしゃいで念を押すクレナ。女の子たちは誰でも、髪をいじるのが大好きなものだ。
イリュカは、されるままになった。
「クレナが先に試してみてよ」
「あら、あたしは嫌よ。テールなんて、好みじゃないもの。薪割り一つ満足にできない。体は弱いし、へなっとして何考えてるんだかわかんない。褒めていいのは竪琴の腕だけね。
あたしは強い男が好きなのよ」
「……テールは、あれで結構強いわよ。ちゃんと剣も使えたわ」
あの時、テールはケイオンの振り下ろした剣を止めた。もうケイオンは本気ではなかったのかもしれないが。それでも、テールだけが、割って入ってくれた。
「そう? 強い男が、理由も言わずにここを出ていくなんて言い出すかしら?」
……やっぱり。
イリュカは肩口が寒くなった。
「出ていくのは、いつなの?」
「……。テールに嫌われたのに、知りたいの?
忘れちゃえば? 好きでもなくて、気を引くつもりも無いんでしょう?」
テールのことを話す口調は、一転して冷ややかなものだった。
「頭領は、引き止めたみたいよ。やっかいばっかりで、あんな子どうでもいいのに。
行くあてはないけどどうしてもって。
ここには居られないだなんて、育ちのお上品な人には、傭兵の生活が耐えられないんでしょうよ」
「テールは今どこに居るの?」
イリュカは、黙るクレナを振り返った。
「クレナ?! 教えてよ……?」
「……もう、出ていく支度は整ったわ。
おばさんが、馬をあげたの……。剣も一本……。置いてったけど。
さっき……、城壁の外に出ていったわ……」
「ありがと、クレナ」
立ち上がるイリュカに、クレナは叫んだ。
「出立は明日朝早くって言ってたの……!
だから、今夜は居るって思ってたのに……」
引き返し、クレナの額に感謝のキスをした。
「……教えにきてくれてありがとう」
豊かな髪を揺らし、イリュカはマントを抱え出ていった。
教えるつもりはなかったのだ。剣の道を裁たれたことを、慰めにきたつもりなのに……。
泣き顔で見送ったクレナは、はたと涙を振り払い目を凝らした。
戸口に並んで置かれていた、クレナがイリュカに渡した長剣と、イリュカがまとめた旅支度。二つとも無いと思っていたのに、イリュカが掴んでいったのは、剣ただ一振り。
「……着替えくらい持っていったって、罰は当たらないのに……」
イリュカは根っからの女戦士。剣と、守りたい人だけ、あれば良かった。
外は暗闇。わずかな星明かり程度で、城壁や木々の輪郭が測れるだけだった。
イリュカは、凍りかけた大地を踏み締めて、広場を横切った。館や広場に点在する赤い篝火を離れると、ますます視界は閉ざされる。
その分、目も闇に慣れてゆく。
耳を澄ませ、人と馬の気配を手繰り寄せる。
「……どこ……?」
指先が、あっという間にかじかんでくる。
イリュカは焦りを感じた。
こんな冷えた夜更けに、野宿に慣れない者が出ていくなんて自殺行為だ。そんなにまでして、テールは何を急いでいる?
イリュカは砦の城壁を出て、思案した。
麓へ降りる道を選ぶはずがない。
「テールは、ロズウィーンに会わなければならないはずよ……」
まさかとは思ったが、城壁を伝いイリュカは足を進めた。
風が微かにうなり声を上げる。
この辺りは、昼間であれば絶景が広がる場所だ。万年雪を頂いた、更に高い峰が連なって、越えた向こうには他国。イリュカもさすがに旅したことのない、エトルリオン王国か、ブレイナ国が広がっているはずだった。
イリュカはマントの前をかき合わせて、先を急いだ。
風の中に、馬の低いいななきが聞こえたような気がして、イリュカは辺りを見回した。
「!」
完全な暗闇を背景に、夜の底が光りを放っていた。
万年雪が、ぼおぅっと白く浮かび上がり、連なる峰々のシルエットをくっきりと浮かびあがらせていた。その夜空には、無数の星。この世のものではないような光景を見せ付けていた。
何時の間にか、砦を迂回していたようだった。
落葉樹の木立ちを縫ったその奥の、開けた草地に浮かぶ影。
白銀の峰を背景に、一頭の馬が佇んでいた。
息を弾ませ、イリュカは駆け寄った。
馬を背に岩に腰掛け、じっと峰を見据えるテール。振り返りもせず、目を細めて、彼は何かを待っている。
「きれいね。星空がこんなにきれいだなんて知らなかったわ……」
「僕もだ。見ていると、流れ星もあるんだよ。
……イリュカにも、見せてあげたいと思っていたら。君は自分で現れた……」
ぶるぶるっと、栗毛馬が体を揺すった。
鼻面を撫でてやり、イリュカはテールを見返した。
「風邪を引くよ。今夜は館に帰ろう。
散歩にはいい日和だけど、野宿はきつい」
「イリュカ。馬は引いていってくれ。
この先の旅に、連れてゆくのは可哀想だ」
「そんなにも危険? 険しい旅?」
「……ああ」
イリュカは、不安げに黒い瞳を揺らす栗毛に頬ずりをし、テールに側に歩み寄った。
「わかった。では、あたしがついてゆく。
馬と違って、人ならば苦しくとも言葉を交わして、痛みを分かち合えるから」
「…………」
沈黙という拒否。
凍て付いた感情ごと、イリュカは腕を回しテールを抱きしめた。
「……テールが好きなの。側に居たいのよ……!」
寒さのせいでなく震える手に、テールは冷えた手を重ねた。
「イリュカ……」
「どうしてこんな時間に出てきたの?」
「気のせいか、ロズウィーンが呼んだような気がした……」
「エトルリオンへ向かうつもりなの?」
テールは首を振った。
「わからない……。どうしたらいいのか、途方に暮れているというのが本音だ」
イリュカは、混乱しているテールに驚いた。
肩を鷲掴みにして、何度も揺さぶった。
「テール! あなたしっかりしてよ。
エトルリオンに行かなきゃ。後戻りはできないんだよ?
あたしが居るよ。ちゃんと送り届けてあける。テール一人、どうにでも守ってみせる……。だから、そんな顔しないでよ……」
のぞき込むイリュカに、テールは毅然とした表情を取り戻し説いた。
「僕の一番の望みは、自分に向けられる刃は、自分で受け止めたいということだ。君を盾にして、生き延びたいとは思わない」
「あんたはそんなに、他人に自分をくれてやりたいの?! 正当な理由もなく命を狙われて、はいどうぞって、死んでやるの?
そんなの、ただのお人好しだわ!」
「死ぬとは限らない……!」
イリュカに、弱々しい否定を聞く耳などない。
「ロズウィーン王子はどうなるの?
こんな意気地無しを友達だと認めて、苦労して連絡をとってくれて」
「……その話しはやめてくれ。この意気地無しのために、ロズウィーンの友は落命した……」
悲痛な表情に、イリュカは思い当たった。
「王城で亡くなったのは、その人ね?」
「ああ。僕の16弦を調弦している時に襲われた。僕を庇って、自分が王子だと名乗ったのだろう。
彼は、最後の息の中で教えてくれた。
こうなることを覚悟して。ロズウィーンから、いざとなれば盾となる命を受けて、僕の元へ来たと。
刺客たちが作った道を辿り、王城を出て、約束のここへ向かえとまで……!」
「テールは、まさかロズウィーン王子に、そのことを謝罪するつもりで……?」
「それもある。だが、スレヴィアを見捨てることができるほど、僕はロズウィーンに会いたかった……」
「半身なのだから、引き合うのは仕方のないことでしょう?」
ロズウィーンが砦を訪れるのは、明日か明後日か。気持ちが高ぶるのは無理もない。
だが、実際のテールの感情は、千々に乱れていた。
「……会える、だろうか……? 彼と会ってもいいのだろうか?」
「? どういうこと?」
テールは頬を引き締めた。
「ロズウィーンは、僕自身の体の半分のような存在だ。
彼と僕は、コインの裏と表。見掛けはまるで異なっていても、心の中は同じ。同じ想いをもち、同じ願いを未来に描いている。
なぜそんなことが分かるか、不思議に思うだろうね。僕らだから確信できるんだ。
言おうとしたことを先に言われ、知りたいと思ったことを先に尋ねられ。
七歳の出会いの日、僕らは何度、不思議さに顔を見合わせ笑ったことか。
異なっていたことは、互いの自己表現の方法だけだった。
彼は太陽のごとく輝かしくすべてを突き動かし、僕は……」
「たぶん月ね。静かに見守り、あらゆるものを癒すの」
はにかんで小首を傾げるテール。
「彼と顔を合わせたなら、たぶん僕らは今のままではいられなくなる。
僕らの変化は、同時に僕らを生かしてきた世界も一変させることに、なるような気がする……」
「言っていることがわからないよ……。
でも、テールがロズウィーンと共にエトルリオンに付けば、ルードナールはエトルリオンに攻め込む口実ができることは確かだ」
「そうだ。その方が現実的で一番わかりやすい結末だね」
悲しいことを、テールを淡々と告げた。
「結末じゃない。それはきっと、始まりだ」
「ロズウェルに広がる戦乱の始まりか?」
暗い目をするテールの頬を、イリュカはしっかりと掴んで、自分に向けさせた。
「テールはどうして悪い方に考えるのさ?
野望が打ち砕かれ、国境という過去が効力を失うこともあるという証明をするんだよ!」
きらきらと輝きだす緑の瞳に、テールは思わず立ち上がり、縛られたように魅入った。そして、自分の発見に大きく笑いかけた。
「君は……! ほんとうに、マウリッカのように聡明な才知を持った人だ……!」
逆に、テールに肩を抱かれて、イリュカは思わず言い放ったことに戸惑った。
「あ、あたしも、自分で言ってて驚いた……。
国や国境なんてこと、今まで考えたこともなかったのに……」
「君は戦いを最小限に抑えたいという願いが強いんだ。君みたいに無謀な人なら、いつか一つの国の命運を一人で背負い、決闘で決着をつけると言い出しかねない」
阻止したいと言わんばかりに、テールは腕に力を込める。
重ねられる動悸一方が、早鐘のように高鳴り、全身を熱くさせた。指先まで走る熱さを、イリュカはテールの頬に触れることで冷やす。
……れ、たくない……。
「イリュカ……? 命を無駄にしないでほしい……」
……離れ……くない……。
「人一人が死ぬことは、残された者の魂の半分を連れ去ることに等しい」
そうやってあなたは、幾度となく死を味わってきたのか……? 寂しげな肩は、生き長らえたいという欲求と、他人の命で繋がれる己の精神的な死とで挟まれた苦痛だったのか。
ひいん、と、栗毛が不満げに鼻を鳴らした。
「テール? 私を甘く見るな……。
私の中にはマウリッカが居る。そうたやすくは、討たれない……」
イリュカはテールの耳元に唇を寄せた。
するりと、回されていた腕が緩む。
栗毛が足を踏み鳴らす。
警告。
ザッと、凍った下草が踏み躙られ、影が二人に走り寄る。
一閃。
影の持つ長剣を先に弾いたのは、イリュカの剣。
振り返りざま抜き放ったそれは、男の意表を完全に突いた。
第二撃も、イリュカ。
丸腰と読んでいた男は、あまりにも踏み込み過ぎ、イリュカにはたやすい敵であった。
「テール! 馬で逃げろ!」
胸に急所を一撃で貫き、イリュカは新たな影に背を低くした。
身を翻し、テールは栗毛にまたがった。
「イリュカ! 乗れ!」
影の数は五つ。一人倒されても、恐れ気もなく、闇の中から踊り出してくる。
敵を待たず、イリュカは踏み出した。
大きく振るった剣に、男たちはたたらを踏んだ。
イリュカの眉が、引き絞られる。
手に慣れない重量に、体の重心が振れた。
隙を見せれば、多数を襲ってくる。
背後では、テールの操る栗毛が、剣を持たない彼に向かう刺客を蹴散らしている。
膠着状態は長くは続くまい。
そこに、何者かの剣が刺客に襲いかかった。
続く、一頭の馬が掛け付ける足音。
「王子! こちらへ!」
品のある、穏やかな声音が鋭く呼んだ。
「ラシールか!? どうしてここに?」
テールはたずなを絞り、騎上の青年の側に掛け付けた。
入れ違い、先の若者がイリュカに加勢する。
「そのお話しは後に。これを、お使いなさい」
盲目の青年が、手探りでテールに剣を渡す。
「助かる。助けを呼びに行ってくれるか?」
かかってくる刺客の一人に、剣を抜き放ち身構える。テールは青年を背後に庇った。
「ただちに」
すぐさま二人は別れた。
テールは、イリュカたちに群がる一党にひずめで割って入る。三人は互いに背後を守り、いまだ優位とはいえない状況を見渡した。
イリュカの目前に己の剣の柄を差し出し、テールは言った。
「君が使え。その方が効果的だ」
イリュカは振り仰ぐ。
「その信頼に、応える……!」
美しく最高の鋼を使った細剣は、イリュカの手の内で、最強の剣となった。
背後に回すテールへは、刺客を一歩たりとも近付けず、すべて撃破する。
並みの腕ではない刺客を圧倒し尽す、剣の舞を見せた。