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旅の始まり(三)



 外の作業だけでなく、イリュカは他の女たちとともに、食事の支度にも手を貸している。

 厨房に現れたイリュカに、クレナは冷静になった方が勝ち目はあると忠告した。

「それに、腹が立つからって、テールに当たることないと思うわ」

「わかってるわよ。

 でもの、父さんのあのムスッとした顔を見るとイライラするの!」

「どうして急にそんなこと言い出すの?

 仲がよくって、兄弟みたいに息のぴったりあった親子だったのに。

 イリュカって、反抗期なのね」

 クレナの意見に、耳だけ傾けていた他の女たちは一斉に吹き出した。

「……クレナ?!」

 しばらく経つと、厨房にも軽やかに弾む弦の音色が流れ込んできた。

「きれいね。こんなに素敵な曲ははじめて」

 うっとりしながら大鍋をかきまぜるクレナに黙って、イリュカは一人、厨房を抜け出した。

 イリュカの胸には、素直に曲を楽しめない焦りが渦巻きはじめた。

 どうしよう……。本当にいいの? テール?

 歌声が、男たちが着席した広間に満たされる。ふっくらとして豊かな情感と、透明で深い響きが、静かに胸を打ってくる。

 やっぱり……。

 自分の思ったとおりだったことに、イリュカの動悸は早まった。

 だが、どうして彼がこんなところに居るのかは、まるで理由が思いつけない。

 広間の隅へ移動し、真横から彼を見つめた。

 高い鼻梁、微かにのぞく白い歯、肉の薄い頬骨の曲線。それらは、記憶と一致していような気がする程度だ。やはり一番、イリュカに肯定を与えるのは歌声だった。

 聞き違えようのない類い稀な歌声は、テールが何者であるかを声高に語っているようで、確信するイリュカは、身が縮む想いがしてならなかった。




 始まりは、ロズウェルを救った詩人にして予知者フィーレを語る歌。

 テールはかなり編曲して、フィーレの序曲の後に、戦士や男たちが喜ぶ、三人の神の雄雄しいサガに入ってゆく。

 フィーレの歌声に呼ばれた、三人の天上神。彼等は黒き魔族を打ち払うべく、猛々しく怯むことなく戦い抜いてゆく。

 傷つく神もいた。フィーレは類い稀なる歌声で、神々や共に戦う白き魔族を鼓舞し、サガは戦いの激しさと癒しの旋律が交互に繰り返され、勝利の静けさへと導かれる。

 あらくれた男たちは、杯を手にしんと聞き入っている。子供たちも、それぞれの父親の膝で、目を輝かせている。

 まるで目前で、三神が戦っているかのような思いに、彼等はかられている。

 テールは目を閉じて、彼等と同じか、それ以上の情景をくっきりと眺めている。

 そうとしか思えないほど、彼の語る世界は明確で躍動に満ちている。

 至上の歌声と、精緻な弦使いが、サガの世界をさらに華麗に彩る。

 終曲に入る中で、何時の間にか、自分の部屋から広間に現れているケイオンを、イリュカは目にした。

 口元が何かを、傍らの彼の妻に語った。

 何の話しか遠くて読めないが、ケイオンならば、イリュカ以上に記憶は鮮明なはずだ。

 何かに気付いたのだろうか?

「イリュカ。頭領がテールに部屋をやってもいいって。外の小屋じゃなく、館の中にね」

 駆け寄ってきた母親は、満面の笑みだった。

 テールの詩人としての価値を認めたのはケイオンだけではなかった。最後の一音を弾き終えたテールは、大人しい喝采ではなく、荒々しい歓待を受けることになった。




 歌だけで食い繋げるはずもなく、テールは翌日から越冬の作業を割り当てられた。

 薪を割ろうとして、悪戦苦闘するテール。

 ニヤニヤと見守る子供たちは、肉体労働に不向きな詩人を飽きずに眺めていたものの、歌を交換条件にして交渉成立すると、斧を取り上げ、きびきびと仕事を片付けにかかった。

「テール! イリュカを追いかけて!

 引き止めてよ、急いで!」

 腰を下ろして額の汗を一度ぬぐっただけで、クレナに追いたてられ、テールは馬屋に駆けつけた。

「イリュカ。加勢するよ。一人より、二人の方が有利だろ?」

 テールは轡を押さえ、一人で出て行こうとするイリュカを押し止めた。

「どうだか?

 あんたが修羅場で役に立つのか疑問だわ」

「いないよりはましだ」

「……ただの足手まといになったりして」

 冷たい言葉に傷つきながらも、クレナにけしかけられて、テールは馬を駆ってイリュカの後を追った。

 イリュカは、今朝里に下りたケイオンを追いかけている。勿論、彼女の剣を取り戻すためだ。

「クレナの言う通り、もう少し落ち着かないと。正面からいっても大人には勝てないよ。

 まず相手の出方をよく見て、その先手を僕らは考えるしかない」

「あんたの指図は受けないよ。

 そんなに簡単な相手じゃないんだ」

「ならどうする気なんだい?」

「一番最低な方法で、剣を取り返す」

 押さえた声は、イリュカの決心の固さを示した。

「……状況を悪くしたいのか?」

「そう。父さんの本心が知りたい。

 腹の探りあいは苦手だ。心底怒ったら、人間は本性が出るものだろう?」

「危険な賭けだな」

 的確な意見に、イリュカは消沈したが、すぐに顎を上げた。

「承知の上よ」

「イリュカ……」

「人のことより、自分の心配をした方がいいんじゃないの?」

 イリュカは日を浴びてきらめくテールの銀髪を一瞥した。

「これは、今朝、ケイオン殿に言われたんだ。

 恥じることがないなら、身を隠し人を欺くことはない、と」

「父さんが……?!」

 イリュカは青くなった。

 逆に、テールは清々としている。

「このままでも、ここでは誰も不審がらないんだね」

 やはり、旅の中で、テールは彼なりに差別を受け、苦労してきたらしい。

「……当たり前よ。頭領が仲間と認めた人間を、差別したり陰口を叩く者はランドックには居ないわ。

 そんな奴は仲間じゃないもの」

 言いながら、イリュカは懐からスカーフを抜き取りテールに投げた。

「里では隠した方がいい。エトルリオンの間者だなどと言われたくはないでしょう?

 テールはこの国で生まれた、この国の人間だ。あらぬ疑いは辛いばかりだ……」

 辺境では、目立ちすぎる銀髪。噂が走り、訪れてほしくない客人を呼ぶことになりかねない。

 イリュカはテールに怪しまれない程度に優しい声をかけ、必要なことを説いた。

「……ああ。そうするよ」

 一瞬、テールは寂しげな目を見せた。

 イリュカは言葉を肯定されたようで、すぐに目を逸らし、先を急いだ。




 里に降りると、イリュカはためらいもせず、一軒の宿屋に入っていった。

「仕事の依頼はいつもあの部屋。扉に緑の木札のある部屋で受けるんだ。

 居るのは頭領と参謀格のノーゼンの二人だ」

 イリュカは示した部屋より一つ手前の扉をギイと開いた。誰もいないことを確かめて、テールを手招いた。

「……あった。フン。わざわざ持って歩くなんて陰険すぎるぞ」

 薄い壁を通して聞こえないよう、声を落として悪態をつく。

 テールはイリュカに代わって、壁に開けられた小さな穴を覗き込んだ。漆喰が丁寧にくり抜かれていて、明るい隣室が丸見えだった。

「イリュカ、この部屋は……?」

「趣味の悪い覗き部屋。父さんたちは、壁を通して話し声が漏れないように、二部屋借りるのよ」

 隣室ではすでに交渉が始まっていた。

 広い室内には、テーブルと向かい合った椅子が四脚。覗き穴に向いて掛けている者はいないので、悟られる心配はない。

 イリュカの剣は、二人並んだ傭兵たちの背後の壁に、無造作に立て掛けてあった。

「ここで、見ているだけかい?」

 ぱしんと、イリュカはテールの額を叩いた。

「相手の様子をうかがってるの」

 叱責したものの、ケイオンが後生大事に持ち歩いているとは思っていなかった。

 目の前で盗みとる方が、怒らせるには一番効果的なものの、いざとなると家長の前では身がすくむ。

「? テール?」

 所在なく、隣室の会話に耳を傾けていたテールの顔色が変わった。

「いや……、なんでもない……。

 イリュカ、出直そう。待ち伏せるなら、外の方が……」

 テールの手を振り払い、イリュカは再度隣室を覗いた。

 ケイオンを口説いているのは、黒っぽいマントに身を包み、ちょこんと椅子にかけている小男だった。

 熱心であるが、あくまでも重々しい口調を崩さない、気取った奴でもある。

「なっ……!」

 イリュカは思わず、口を押さえた。

「亡くなられたイステュール王子の御為にも、真相を究明し、遺恨を晴らさねばなりません。

 ケイオン殿のお力添えを頂きたく、ここまで参上した次第。お汲み取りいただけますように……」

 ……イステュール王子が死んだ……?

 イリュカは耳を疑った。

 末は予知者と、ルードナール国民が切なる願いをかけてきた一人の王子は、この世には居ないと小男は言う。

 男は王家の使者。王城での悲劇は、国民の動揺を煽ることのないよう内密に伏せられ、同じ理由で、暗殺者の追跡に正規軍を動かすことはできない。

 よって、名高いランドックに依頼を持ち込んだというのだ。

「追って頂きたいのは、少年一人なのです。

 王子惨殺の現場に居たであろう供の少年が、行方知れずです。

 刺客の手掛かりがまるでない今、手引きし、一味の仲間ではないかと思われるその子供を、問い詰めるほかはありません」

「して、その子の特徴なりは?」

 ケイオンの問いに、意を得たように男は喋りだした。

「名をスレヴィア。いや、本名を名乗ってはいないかもしれませぬが。その子はエトルリオン王国の出身で、銀の髪に青い目という、白き魔族の末裔を示す姿をもっております。

 後ろめたいことで逃げ出すのであれば、この国に血縁者のない身です。おそらく、一目散に国に逃れようとするはずでしょう。

 デール山は険しいものの、エトルリオンへは最短の距離にあります。ランドックなれば地の利もあり、鼠一匹漏らさずに捕まえて頂けましょう。どうぞ、この通り」

 小男は熱心に頭を机にこすりつけた。

「王家は、エトルリオン王国の何者かが暗殺に関与していると、推察なされるのか?」

「スレヴィアを捕らえてみなければ、真相はつまびらかできありませぬが。

 この子供、密かにエトルリオン王家のある方と通じていた疑いが強く、逃げ出した事実を見ても、ますます怪しいと察するのはやむをえないと存じます」

「確証もないのに疑いをもっては、両国にあらぬ波風を立てることになりますぞ」

「ですから。その確証のため、子供を捕らえて頂きたい」

 ケイオンはノーゼンと、無言で顔を見合わせた。

「その子もまた、イステュール王子には及びませぬが、歌と竪琴の名手であります。

 半年前に供について以来、片時も離れぬせいか、奏でる癖が王子に似てしまい、衣服を取り替えては従者をまんまとだましてしまうということも起きるほど。

 人目につく髪を隠しても、詩人としての才だけは隠しおおせますまい」

 ゾクリと、イリュカは背筋が寒くなった。

 この男は、知っている……。探している少年が、ランドックの砦に居ることを。

 言外に、テールと符号する特徴を挙げて、差し出せと言っているのだ。ならばなぜ、仕事の依頼などと、遠回しな話しをするのか?

 その上、どうして王家の使者が、一人でこの辺境に現れる?

 イリュカは、無表情を守るケイオンが頼もしくて、つい微笑んでしまった。

 愚かな小男! 小細工でランドックを欺いて利用できると思うなど、笑止。

 のらりくらりと返事を延ばし、ケイオンは小男をからかっているだけなのだ。

 どこからどこまでが真実なのか。恐らく王子落命も男の嘘。なにより、男の狙いは、その……。

「して、使者殿はその子の顔をご存知か?」

「無論。見知っておりますゆえ、使者に選ばれたのでございます」

 胸を張って言い切った。

 ノーゼンが、ケイオンに耳打ちされ立ち上がる。穴の視界から消えると。

 ガラガラという金属的な音とともに、目の前の壁が上へと引き上げられていった。

 イリュカは呆然と立ち尽くす。

 こんな仕掛けがあるとは知らなかった。

「……鼠が、忍び込んだようですな」

 ケイオンには見破られていた。

 イリュカは正面を見据えたまま、背後に手を伸ばし、テールの腕を掴んだ。

「ほう……、これは麗しい一対の鼠ですな」

 小男が、陰惨な眼をテールに向ける。

 いまも、飛び掛り飲み込みたいと欲する蛇の眼だ。

「イリュカ。剣が欲しいなら力づくでこい。

 そんな覚悟があったらの話しだが」

「!」

 ケイオンは言い捨てると、剣を手に、一人その場を後にした。

「お待ちなさい、ケイオン殿」

「依頼を引き受ける気はない。この場は好きなようにするがいい」

 これも、イリュカの神経を逆撫でした。

 小男は、重すぎる長剣を鞘から半ば抜いたイリュカを見た。背後の獲物へも惜しそうに視線を投げた。

「去れ! 愚か者!」

 イリュカの、逆巻くケイオンへの憤りは、すべて男に向けられた。一喝を受け、男は舌打ちし、マントを翻し部屋を逃げ出した。

 イリュカは、怒りのやり場を失って、剣を床に叩きつけた。

 結末を見守ったノーゼンの姿はもう無い。

「テール! お前は一体何者なんだ?!」

 イリュカは振り返り、青白い顔のテールに詰め寄った。

「お前はスレヴィアか? それとも無関係なただの詩人か? はっきり答えろ!」

 二の腕を掴み、イリュカは揺さぶった。

「あの男はお前を殺したがっていた。そんな眼をしていた。どうなんだ?」

 一度、眼を伏せ、テールは答える。

「イステュール……王子は、死んだ……」

 苦しげに告げるテールの肩に、イリュカは両手をかけて、顔を覗き込む。

「手引きしたのか?」

「それは違う! そんな真似はしない、できるものか」

 強く否定するテールに、イリュカはわかったと頷いた。

「何が起きた? 誰かに話せば、気が楽になるんじゃないのか?」

「……さきほどの男が言った通りではあるが、後ろめたいことは何もない。

 連絡をとっていたのは、エトルリオン王国のロズウィーン王子だ。

 彼は王子の友人として、手を尽くし、励まし手紙を交わしてくれていただけだ。

 不穏な企みなど何一つない」

 イリュカは安堵して、テールを離れ床から自分の剣を拾いあげた。

「イリュカ。僕をどうする? 王家の使者に差し出してもかまわない。行き倒れていた僕を助けてくれたのは君だ」

 イリュカは鼻で笑った。

「あれは偽者だ。びくびくすることはない」

「手近な領主に通告すればいい。……王家が行方を追っているのは間違いはない」

 頬を強張らせていながら、テールは言い募った。

「あたしは、王家に義理立てする気はないわ。

 あなたが王子自身だっていうなら、話しは変わるけど」

「! ……どういう、ことだ?」

 イリュカは剣を掲げてみせ、テールを見た。

「守ってやってもいいってこと。王家からも刺客からも、どうしても逃げ出したい理由があるのなら、手を貸すつもり。

 あんたも知ってるでしょう? イステュール王子は末は予知者と名高い血筋よ。そんな方の判断に間違いがあるわけないでしょう?

 彼にそのくらいの根性があるなら、そう望むなら。それが正しいことよ。ならば、あたしは命を掛けたって逃してやるわよ」

 テールは首を振った。

「君の心掛けは見上げたものだが、王子は喜びはしない。君の命は君自身のものだ。他人のためにあるわけじゃない。

 人の命を踏み台に生き長らえることに、王子はもう長いこと飽き飽きしていた。

 だから、考え直した方がいい」

「そう……。彼はどんな人だった? 暗殺に怯えて、心を無くしていたの?」

 心を無くした予知者をタテ……。

 あの頃、謎掛けのようだった言葉。成長し意味を知った後でも、現実に予知者を眼の前にする日がくるなど思ってもいなかった。何より、身分と立場が違いすぎる。イステュール王子の噂を聞く度、天空に住む人間の話のように考えていた。

「……わからない。でも、もう彼は居ないんだ。考えることはない」

 眼を伏せるテールの表情には、ためらいと苦痛が滲んでいる。

 何がそう頑なにさせるのか、薄々感じながらも、イリュカはそうねと呟き返した。

「刺客や、あの男の正体に心当たりはあるの?」

 テールは頷いた。

「グエン教の狂信者だった。あらゆる魔族を忌み嫌い、この世からの抹殺を願い、どんな手段も選ぶ者たちだ。

 ……王子は度々、手を変えて狙われていた」

 イリュカは、当面の敵がルードナールでもエトルリオンでもないことにだけ安堵した。

「彼には、敵が多かったのね。

 今まで生きてきたってことは、よほど守護者の腕が確かだったということね」

 テールは、ふいに顔をイリュカから逸らした。肩を震わせて、しばし彼は瞑目する。

 イリュカには、祈りを捧げているようにも見えた。

 王子を守護するために散った、数多の命へ手向けて。




 この日の午後、崩れやすい山の天気は雷雨となり、凍えるような冷たい雨の中をイリュカとテールは、雷に怯えおじける馬をなだめながら、引いて進むはめになった。

「しっかりしなさいよ」

「情けないな……。僕は男なのに、イリュカは足手まといになってばかりだ……」

 ふらつくテールの体を支え、なんとか馬の背に乗せ、イリュカは一息ついた。

 額に手を当てると、燃えているように熱い。

 恐らく、ここまで旅してきた疲れもあって、氷雨に打たれたせいで発熱したのだ。

「仕方ないじゃない。あんたが本当に弱いんだもの。

 でもね、あたし父さんにいつも言われるわ。

 どんなに努力しても、いつまでも、あたしが強い戦士でいられるわけはないって。あたしが女だから、いつか男に負かされる時がくる、ってね。

 ……くやしいけど、よくわかってる。

 だから、力で負ける日は来てもいいの。別のもので生涯譲れない、誰にも負けないものを得たいの。

 それが何なのかは、まだ見つけてないけど」

 感傷的なことを言っている自分が、少し可笑しい。こんな場合に、しかもテールに。

「……時間はあるさ。きっと探しだせるよ、君なら……」

 手を伸ばし、髪を伝いテールはイリュカの頬に触れてくる。身の乗り出すテールが倒れてこないよう、イリュカは肩を支えた。

「僕も……、時間が欲しいな……」

「テール?」

「……謝罪する時間を、ほの少しだけでいい……」

「誰に……?」

 覗きこむと、瞳は閉じられ、テールの意識は混濁していていた。

「眠らないで! 何か話してよ!」

「母上に……。置き去りにしてしまった……、誰よりも愛してくれた人なのに……。

 僕は、逃げ出した……」

「……大丈夫。あなたが無事でいることを、きっと望んでいるはずよ。

 許してくれるわよ……」

 雨が絶え間なく、体を打ち付ける。

 テールの頭を、馬の首にもたせかけ、イリュカは自分のマントで全身を覆ってやった。

 ガタガタと震える肩に手を乗せて、イリュカは馬を前進させた。

「逃げ出しても仕方のない所に居たのよ。自分を責めることなんてない……」

 暖かいものが、頬を打つ雨に混じって流れ落ちる。拭わずに、目前の馬道に眼を凝らす。

「……僕は、彼に逢いたい……。

 僕の体の半分のような、彼にもう一度だけ。

 ずっと、そう思っていた……」

 白い手が、肩に乗せたイリュカの手に重ねられた。凍えた指先が、しんと温もってゆく。

「……テール……?」

 呼びかけに、掠れた声が吐き出された。

「……ロズウィ……」

 戸惑ったが、呟かれた名の誰かの身代わりに、テールの手を握り返した。

「……君に逢いたかった……。

 ロズウィーン……、僕の半身……」




 急いで駆けつけると、テールはもう服を着替えさせられて、ベットに横たえられていた。テールが与えられた部屋でなく、小さな炉のある客人用の部屋だった。

「何してるんだい? さっさと服を着替えておいで。あたしがテールに付いているから」

 イリュカの母、マーリカが彼のベットの傍らに居た。

「ううん。あたしがここに居るよ」

 部屋の隅には火が起されて、揺れる炎が、テールの真っ赤な頬を照らす。

 熱にうなされるのか、小さく頭をふった。ずり落ちた額を冷やす手ぬぐいをマーリカが乗せなおす。

 何か、言いかけるテール。熱い息を吐くだけで、言葉にはならないが。

「イリュカ、あんたも着替えてよ……」

 追いかけてきたクレナがおろおろしながら乾いた服を差し出す。

 だがイリュカの耳には入らない。テールの唇が熱にうかされて、また何か口走りはしないか、気がかりだった。だから。

「あたしがここに居るよ、かあさん」

 誰にも聞かせられない。テールが隠してきた人の名は。

「とにかく。服を着替えて。あんたまで倒れたら、誰がこの子を守るんだい?」

 マーリカは、手を腰に当て、毅然として言った。

 ああそうだ。イリュカは、クレナから服を受け取り、その場でびしょぬれの服を脱いでゆく。クレナに自分の服を押し付けて、ドアの外に追いやった。

「かあさん……」

「火を強くして。そこで、お前はお休み。それなら安心だろ」

「…………」

「お前は、かあさんを信用できないってのかい?」

 振り返らず背中でマーリカは言った。

「……そういうわけじゃないけど……」

「テールは、今は、誰かの助けが必要なただの子供さ。

 ふふふ。息子が出来たみたいで、なんだか嬉しいねぇ」

 答える代わりに、イリュカは薪をくべ、母親のために椅子をベットの横に置き、自分のために低い丸椅子を火の近くに置いた。

 クレナが渡してくれた服は、寝間着みたいな裾の長い服。ふわふわまとわりつく裾を手繰り寄せ、椅子に座り膝を抱えた。

「……男の兄弟が居たら、何か変わっていたかな……」

 低い声で、イリュカは呟いた。

「どうかねぇ。それでも、お前は剣を握っていた気がするねぇ」

 くすくすと静かに笑う。……なんていうか、ちっとも女らしさを期待されていなかったことに、イリュカは憮然としつつ、絶対そうかもと、頬が熱くなった。

 マーリカは、おとなしく掛けたイリュカに、自分の着てきたマントを着せ、しっかりと包んだ。イリュカの眼を見て。

「お前は丈夫に生まれてくれて良かったよ」

「………。……ありがと……」

 引き返し、マーリカはイリュカが用意した椅子にかけ、テールの額に手をあて、次々に噴出す汗を拭ってやった。

「……テールのおっかさんは、大変だったねぇ。

 この子は、体が弱く生まれたんだろうよ。ちゃんと育ってくれるか、気が気じゃなかっただろうね……」

 母親。テールにはあの場の勢いで、わかってくれるよと、でまかせで言ったけど。イリュカには、親の気持ちなんて。ほんとうの気持ちはよくわからない。父親の気持ちも、全然今は分からない。

「……心配しているかな、テールの母さんは……」

「してるさ」

 当たり前だろ? といわんばかりに、マーリカは優しくイリュカを見た。

「でも、絶対に、無事だと信じてる」

「……どうして? そんなこと……」

「母親だからさ……」

「……でも、テールは。……家出してきたらしいよ。それでも? それでも、許してくれる?」

 自分の立場を捨てて、背中を向けてしまった。そんな子供を、許せるのか……。

「……待っているさ。それでも。いつか、帰ってきてくれる日を。

 そのためにも、この子はちゃんと助けてあげないとね」

「……うん……」

 炎が、暖かい。それ以上に、マーリカの言葉は体の奥からイリュカを温かくしてくれる。

 マーリカは、頭領の妻だから、裏方を仕切るのに忙しいし、イリュカも、男たちの間に混じっていて、マーリカと過ごす時間は少ない。どちらかといえば、クレナの方がマーリカの片腕みたいなものだ。

 こんな静かな時間。一つの部屋に一緒に居るなんて、何時ぶりだろう? 全然思い出せないことに、イリュカは意味もなく焦った。

 静かで持て余す。眠れるわけもない。

 マーリカの背中は、ゆるぎなくて、その手は何度も、テールの汗を拭い、手ぬぐいを絞り直す。

 また。突然、うなされてテールが大きく息を吐く。慌てて駆け寄る。

「……大丈夫。大丈夫だよ……」

 マーリカが優しくテールの肩を腕を、さすってあげる。

 立ち尽くしたイリュカを自分の椅子に座らせ、マーリカはイリュカが掛けていた丸椅子を隣りに並べた。

「まったく、手間のかかる子供が増えて、今夜は大変さ」

 笑って、イリュカに顔を寄せ頭を撫でる。張り詰めてきた緊張が、イリュカの中でふわりと解けていった。



 

「かあさんは、ひいおばあさんのこと、覚えてる?」

「ああ。少しだけね」

「どんな人だった?」

「そうだね。普通のおばあちゃんだった」 

 くすりと思い出し笑いして軽く言った。

「え?」

 イリュカは目を丸くした。

「あんなサガに歌われる頃のことは、あたしは生まれてなかったから、当然知らないけどね。

 あたしの知ってるマウリッカばあさんは、普通に笑って、怒って、みんなに慕われて幸せそうだった」

 よく分からない。普通、って何?

 サガで知るマウリッカは、雄雄しくて美しくて、誰よりも賢い最高の女戦士。屈強な男たちを手下にして、手足のように操り、あらゆる戦いに勝利を収めてきた。

 彼女の生き様は戦いの中にあった、ように歌われてきたけど。

「……ねえ、………どうしてなのかな?」

「?」

「どうして、マウリッカは、他の人と結婚したの? カインベルト国王を好きだったんでしょう? 彼のために、血で血を洗うような戦いを繰り返してきたのに。それほど大切だったのに。

 身分が違うから? みんなが反対したから?」

「サガの通りさ。そんな歌があっただろう? 誰のせいでも、誰かのためでもない。

 お二人が、自分の道をそう、選んだのさ」

「………だって……」

「あたしの母さんも、同じことを聞いたそうだよ。どうしてって」

 マーリカの母は、マウリッカの娘。カインベルト国王の治世の安泰を見届けて、マウリッカは自分の家庭を造った。傭兵集団を率いながら、国王とは別の道を選んだ。

「それで?」

「笑っていた、って……。

 あたしがそうしたいと思ったから、そう決めた。それだけの事、と」

 全然わからない。イリュカは見つめ返したけど、マーリカは、それ以上何も言わなかった。マーリカもマウリッカその人のように、微笑んでいた。

 女の子なら、誰でも思う。サガを聞く度、どうしてこんなにも引き合って愛し合っていたのに、二人は別の道を選んだのか?

 サガには、その答えは無かった。ただ、事実だけを切なく歌っていた。

 マウリッカは自由の徒。

 思うままに生きた人。

 戦いも、愛も、自分で選んだ、と。

「……そんなの嘘だ……」

 サガの、造られた話しに決まってる。イリュカの心は小さく反抗した。

「無理だよ……。好きなように、なんて……」

「……そうかい?」

 マーリカは、さらりと言う。  

「あたしは、思うように選んだよ。

 あんたの父さんを」

「……え?」

 心底、イリュカは驚いた。選んだ? あの絶対的な家長のケイオンを。

 今は、分からなくていい、そう言いたげにマーリカはイリュカを肩に抱き寄せた。

 小さな子供のように。ずっと小さかった頃のように、イリュカは母親の匂いに顔を埋めた。

 思うように……。今は、この人の娘として甘えたい。

 



「すっかり元気になったみたいね」

 イリュカは館の壁にもたれ、遠巻きに旅支度を完璧に整えた馬と若者たちを眺めていた。

 隣に並んだのはテール。厚いマントを二重に羽織らされ、小山のようになっている。

 日の暮れた山道を、降りしきる氷雨の中、歩き続けたのは一昨日の話だ。

 意識を失ったテールを連れて、イリュカは途方に暮れながら、道を辿った。

 あのままでは二人とも、秋とはいえ寒さの厳しい山中で、どうなっていたことか。

 助け手は、迎えに現れた傭兵たち。差し向けたのはケイオンだった。

 砦に戻ったイリュカは、ひとまず助けられたことにだけ、礼は言った。

「あれは?」

 旅立つ一団に、テールは早速好奇心が湧いたのだ。

「第一陣よ。砦を降りるの」

「子供も居るね。家族で行くのかい?」

「ええ。そうする場合もあるわ。

 ! ちょっと、どこへ行くのよ」

 朝靄の漂う寒さに、テールは踏み出していた。イリュカは声を張り上げた。

「熱が引いたばかりでしょう!

 母さんに叱られるわよ!」

「あの子たちに、さよならを言わなくちゃ。

 手を貸してもらった礼もまだだし」

「……なんなのよ。あのお行儀のよさは……」

 ぶつぶつ呟いて、べーっとテールの背中に舌を出す。

 旅立つ人々を前に、不思議なくらいイリュカの感情は静かだ。

 くやしくて腹ただしい気分は、ほんの少しイリュカの心をさいなむだけ。

 それも、朝日にひらめくテールの銀髪の輝かしさに眼を引かれて、すうっと忘れ去ってしまいそうだ。

 諦めたわけじゃない。

 微かに残る痛みに、言い聞かせる。

 延期するだけ……。

 旅立つ子供たちにせがまれて、テールは走って引き返してくる。イリュカにマントを放って、一度広間に飛び込み、すぐに現れた。

「三神を送る歌が聞きたいって」

 嬉しそうに、テールは竪琴を抱え直した。

 奏でられるのは、ロズウェルの戦乱を鎮め、天上に帰還する三人の神を称え見送る歌だ。

 短いが、お互いを称えあい、別れを惜しみ、次の出会いを約束する歌。

 また合間見えることがあるのなら、その時も、同じように友として兄弟として会う。

 永遠の絆を天と地に約する、静かな歌。

 イリュカは両手を上げて、大きく振った。

 馬にまたがり手を振る人が自分ならいいと、去年は唇を噛み締め、イリュカは見送った。

 今はただ、互いの無事を祈り送り出す。

 彼等には別れを惜しむ顔はなかった。春になれば合流するのだ。別れではなく前進だ。

 完全に彼等の姿が見えなくなる前に歌が終わる。

 なので子供たちは、歓声を返し締め括った。

 初めて、イリュカは素直な気持ちで彼等を見送った気がしていた。

 テールの歌声と竪琴の音色が、まだ耳に残っている。それは暖かい風を起して、イリュカに透明な心だけを残した。

 妬みや苛立ちは、吹き過ぎた。風にさえ、乗れそうだった。

 テールはマントをかき合わせ肩をすくめた。

 ふわりと、朝日を含んだ銀髪が揺れる。

「これからどうするの? 会いたい人が居るんじゃないの?」

「え?」

 見透かされたのが気まずいのか、テールは恐る恐るイリュカを見た。

「うなされている間、誰かの名前を呼んでたわ。

 誰かは、聞き取れなかったけど」

 ごまかしてやると、テールは心底ほっと脱力した。

「ここで暫く、暮らしたい」

「いいわよ? それなりの働きをすればね」

 イリュカは悪戯っぽく笑った。

 勿論、努力する。と、前向きな発言をした。

「あたしはね、強い女傭兵になりたいの。

 ランドックの一員として恥じない腕が欲しいのよ。

 頭領の一人娘だから期待されてると思ってた。みんないろいろ教えてくれたもの。

 けど父さんは、もう望んでいないみたい。

 修行に出る必要はないって言われたの。だから大喧嘩して、剣を取り上げられちゃった」

 イリュカの決意表明に、大真面目でテールは頷いた。

「でもいつか必ず行くわ。腕を上げて、みんなと暮らしてゆくの……」

「イリュカにならできるよ。

 今でも十分に君は強いから」

 言い切ってからテールは、女性にこれは褒め言葉にならないな……と、反省してしまう。

 イリュカは肩をすくめた。

「テールだって、捨てたもんじゃないわよ。

 詩人としてなら、誰にも負けないわ」

 人を変える力が、テールの歌声にはある。

 それも、白き魔使いの力なのかもしれない。

 だとすれば、彼が奏でる癒しの音色は、ロズウェルに贈られた至上の宝。

「自分が思う通りにすればいいのよ。頭で考えてばかりだと、疲れるだけ。

 好きなことをして好きな人に会って。

 自分の感情や心を人に渡さないようにしなきゃ。

 自分を無くしたら、生きているだけ無駄よ。

 テールは言ったよね。自分の命は自分自身のものだ。他人のためにあるわけじゃない。

 同じよ」

 テールは、イリュカの視線を受けて、もどかしそうに竪琴を見下ろした。

 蝶の羽化のように、一度肩を揺すった。

「僕には、ずっと会いたくてたまらない友人がいる……。

 彼とは一度会ったきり。それも七つの頃だった。僕は、あまりにも二人に距離がありすぎて、諦めきっていた。

 でも彼の方は違った。彼の友人を僕の側に送ってくれて、彼を通して手紙のやりとりもした。

 ここで会おうという手紙をもらって、僕は本当に嬉しかった」

 知って、いるよ……?

 イリュカは胸で語りかけた。

 覚えている。はっきりと思い出せる。

 夢のファルドが、歌によって空を飛んだ日。

 あなたたちが出会った日に、自分もそこに居たの!

「もう数日もすれば、彼はここに来るんだ」

 押さえられない喜びに突かれ、テールは空を見上げた。

 晴れてゆく靄。その高みに空が広がり、際限のない青が続く。

 右に出る者のない、優れた吟遊詩人は、すべての感情を凌駕させてしまう癒しの心をもっている。

 彼を見つめていたい。彼の歌と、生き様と、彼が創り上げる未来を、すぐそばで見つめ守ってやりたい。

 あなたは本物のイステュールだ……。

 だから、旅は延期する。


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