1. どうぞ、と三秒で申しました
春の午後三時、王太子タンクレード殿下が砂糖をお求めになった。
侯爵邸の薔薇の庭で、私は紅茶を置き、銀の砂糖壺に手を伸ばす。その向かいで、妹が椅子を引く。脚が石畳を擦る音は、妙にはっきり聞こえた。
四月の光が白い卓布に落ち、紅茶の湯気が薔薇の匂いと混じっている。茶会は、いつもと同じ甘い香りの中にある。
「お姉様。信じられないとは思うけど、私、一度死んで戻ってきたの。ふふっ。前の人生ではお姉様が王妃になって、私は何もかも取られた。今世では私が王妃よ!」
妹は私の袖を見る。淡い金の巻き毛が肩で跳ね、客の夫人たちの話し声がぴたりと途切れた。
殿下の茶器は口元で止まっている。妹は立ったまま、こちらを待っている。湯気だけが、私たちの間をゆっくり通り過ぎる。
卓の後ろでは、給仕を取り仕切る乳母が侍女へ顔を寄せている。頭に巻いた布の端が、風もないのに揺れる。
乳母のユルシュルが何か囁くと、侍女の目が私の目元に向いた。
涙を探されても、手元にあるのは砂糖壺だ。
銀の壺は掌の中で冷たい。十年、月に一度の茶会で、この壺を殿下へ渡すのは私の役だった。
私は壺の胴を握り直す。妹の空色の目が、答えを急かしている。
十年、王太子妃になるために育てられてきた。欲しいと言ったことは一度もない。妹は今、欲しいと言う。私の望みを尋ねる人はいなかった。妹の望みは、今、庭じゅうに届いている。
妹は未来を知っている。私が王妃になる未来を。――だから、ならない。
「……どうぞ」
「……は?」
私はヴィヴィアンヌ、十九歳。侯爵家の長女で、王太子殿下の婚約者――だったのは、三秒前までの話である。
私は殿下へ向き直る。砂糖をお渡しするために伸ばした手は、そのままでいい。壺の冷たさだけは、もう気にならない。
「殿下。妹をもらってやってください」
殿下が、茶を噴いた。
「ちょ、ちょっと待てい! 俺は砂糖壺か!」
殿下の太い眉が、見事に吊り上がる。茶器を遠ざけても、壺を持つ私の手は動かない。
客の夫人が口を覆い、隣の夫人の肩が小さく揺れた。
継母の声が、卓の向こうで裏返る。
「殿下、どうかお気を確かに……!」
「気は確かだ! 確かでなくなっているのは、この家の娘たちだ!」
継母の扇が、言葉の途中で止まる。
妹は口を開けたままだ。殿下の膝で茶が滴り、継母の指から扇が滑った。
「お前は、その手で砂糖も婚約者も渡すつもりか?」
「殿下が砂糖をお求めになりましたので」
「砂糖だけだ! 妹まで頼んだ覚えはないぞ! 茶会で妹を出す家があるか!」
私は壺を持つ手を卓の端へ寄せる。
「殿下、欲しいと言っているのは私よ! お姉様の手は見なくていいわ!」
「そのお姉様が、俺の話を聞かずに渡すからだ! 十年分の結納だぞ。口で譲ると言って、返せるものか?」
殿下は侍女から受け取った布で口元を拭いた。
返す物があるなら、目録を見る。泣くより先に、品の数を合わせればいい。手順のあることは、迷わずに済む。
目録の紙は、三年、同じ机で触ってきたぶん手に馴染んでいる。贈られるたび、私は品の名より先に数を確かめてきた。
私は髪に挿した銀のペンを抜き、懐の目録を開いて日付を書き入れる。
「結納の品は目録どおり、明日お返しします。帳面はわたくしが付けておりますので、一つも欠けませんわ」
頁の端を指で押さえる。静まった卓に、ペン先が紙を擦る音が通った。受け取った日の隣に、返す日を置く。
「白馬二頭、銀器四十、絹十二反。こちらの品も、目録と合わせてありますわ」
殿下は茶を拭う手を止めた。
「……本気で言っているのか?」
「もう決めましたので」
夫人たちの目が、妹の顔から私の目録へ移る。妹の両手は、卓の縁に置いたままだ。紙の上の数は、誰の顔色でも変わらない。
「俺の前で、もう返す日まで書くのか?」
「日付を空けておくと、お返ししたか分からなくなりますわ」
「返す日まで決めた女に、俺は何を言えばいいのだ?!」
「明日、お受け取りの署名をいただければ結構ですわ」
妹の袖が、卓の縁を擦った。
「待って、お姉様。私に譲るなら、私の目を見て言って!」
「見ておりますわ。先ほどから、殿下へ向き直るたびにお呼びになりますので」
私は妹へ目を戻す。妹は、私の顔よりも袖を見ている。呼び止められた私のほうが、妹の視線を待っている。
「お、お姉様の顔を見るのよ!」
「わたくしは、ここにおりますわ」
妹の空色の目が、ようやく私の顔で止まった。
妹が目録の前へ手を出しかけ、途中で引っ込める。紙の端だけが、かすかに浮く。
「違うわ。お姉様は泣いて縋るの。殿下はお姉様を選ぶの。前の人生では、そうだったのよ」
「選ぶも何も、初耳だ! 俺は一言も喋っていないぞ!」
殿下は布を握り、妹の方へ顔を向けた。私の目録には、返す日が残っている。
「前の人生では――」
「前の人生とは何だ!?」
妹は私の袖を見てから、殿下を見上げた。
「殿下は十年、お姉様と……」
「十年は長うございますわね」
「ロゼリーヌは神託を受けたのです!」
「神託で俺を回すな!」
継母の指が、卓に落ちた扇を探る。妹の言う未来に署名する欄は、目録にはない。
「お姉様、そんなに簡単に渡すなんて、いいわけがないのよ!」
「では、欲しくないのですか?」
妹は唇を結び、すぐに開いて殿下へ向き直った。
「欲しいわ! 私が王妃になるの!」
「だから、俺の話を聞け!」
「聞いてるわ! 殿下が選ぶのは私よ。前の人生でも、そうなるはずだったんだから!」
客の夫人たちが顔を見合わせる。継母の扇では、卓を囲む顔の全部は隠せない。拾っても、広げても、さっきの言葉は庭に残る。
春の風が卓布の端を持ち上げ、冷めた紅茶の匂いを運んだ。
「ロゼリーヌ、黙りなさい。譲る話は、私が殿下と詰めます!」
「お母様、私が先に選ぶのよ。お姉様には選ばせないの!」
背後で乾いた音がして、乳母が掌に貝殻を並べる。貝殻の縁が触れ合う、ころころと軽い音だ。
「泣かないに三枚。回収だよ」
侍女がうめく。貝殻は銅貨の代わりの賭け札で、卓の後ろではもう受け渡しが始まっていた。
「な、なんだと?! 賭けていたのか!?」
「殿下の分も受けるよ?」
「俺を回したうえに、俺からも賭けの金を取る気か?」
「払う口は殿下が選びな。あたしが決めたら、また怒るだろ?」
殿下の指が、貝殻を指す。
「……王太子に賭け札を売る乳母が、どこにいる!」
「ここに。殿下、怒るのは三枚払ってからにしな」
「払わん!」
乳母は貝殻を一枚、殿下の方へ振って見せた。
「じゃあ見物だね。見物は銅貨一枚だよ」
侍女が下を向く。肩だけが、まだ小さく揺れている。
殿下は布から手を離し、今度は乳母へ指を向けた。
「待て、お前らどうなってんだ?!」
「明日の朝、目録と一緒に王宮へ届けますわ」
乳母が貝殻を懐に入れる。殿下は私の開いた目録と、妹の空の両手を見比べた。手放す物は数えられる。手元に残るものは、まだ分からない。
「お姉様、殿下には何も言わずに済ませるつもりなの?」
「お返しする日も、品の数も、お伝えしましたわ」
「私の前で、紙ばかり見ないで。殿下の隣に座るのは私よ!」
妹の指が袖の縁を強くつかんだ。
私の目元には、まだ何もない。砂糖壺を卓へ戻すと、妹の視線も一緒に下がる。
泣く役は、十年の間に一度も回ってこなかった。今日、妹がそれを欲しがっている。差し出したのは婚約なのに、足りないのは涙らしい。
私は目録を閉じ、銀のペンをしまった。
殿下がこちらを見る。妹の方から、その目を遮る声はもう出ない。閉じた目録の角を指で押さえると、さっきより手が軽い。
妹は言いかけた口を、ようやく閉じた。
「……お姉様は、泣くはずなのに」
「泣く役も、お譲りしますわ。どうぞ、ロゼリーヌ」




