チョコレートパイが焼けるまで〜ふたりきりの家庭科室、彼と私の甘くない15分間〜
ひと口大に整形したパイ生地を並べたトレーをオーブンに入れる。
ダイヤルを回してボタンを押すと庫内にオレンジ色の明かりが灯って、固かった生地がじわりと温められていく。
キッチンタイマーをセットしたら、20分ほど前に焼き上げていたパイの試食にうつる。
皿の上に乗せられたパイをつまんで口に入れると、サクッと軽い生地の間からバターの香りがふわっと上がってくる。
パイ生地は自信作だ。
問題は……口の中に広がる甘さに首をかしげる。
ダークチョコレートと刻んだドライチェリーを合わせてみたけど、なんだかちぐはぐというか、味が散らかってイマイチだ。
なんでだろう……フォレノワールとかすごく美味しいのに、何が違うんだろう。
ホワイトチョコレートの方がいいとか?
いや、それともキルシュヴァッサーで漬け込んだ方が味が馴染むんだろうか。
ため息をつく。
ドライチェリーだけでもかなり痛い出費だったのに、キルシュヴァッサーなんていったいいくらするんだろう。
窓の外から「ワッショイ、ワッショイ」と野球部の元気なかけ声が聞こえてきた。
放課後の家庭科室、誰もいない空間にはバターとチョコレートの甘い香りだけが漂っている。
この高校における調理部は、いわゆる願書の部活動欄を埋めるためにある部活のひとつだ。
活動は月に一度、放課後に集まって簡単なお茶菓子を作って食べるだけ。
でも、申請すればいつでもガスオーブンを使わせてもらえることは、あたしにとって大変ありがたかった。
今作っているのは、市内にある老舗洋菓子店で行われるコンクールに出品するためのお菓子だ。
優秀作品は商品化されることもある。
とりあえず、これはダメだな。
パイの皿にオーブンペーパーを被せて机の端に寄せたとき、家庭科室の引き戸が開いた。
◇
「あれ……ごめん、使ってた?」
バターとチョコレートが支配する部屋に乱入してきたのは意外な人物だった。
「習志野くん」
背が高くて、無造作に分けた黒髪から見える静かな瞳。
コートを羽織ったまま現れたのは、同じクラスの習志野くんだった。
「ごめん、邪魔しないし、ちょっとだけいてもいい?」
習志野くんは椅子に腰掛けると、ふうと息をついた。
「別に、いいけど」
自分以外の人物が加わったことで、空間の質はがらりと変わる。
あたしは少し視線を泳がせて、オレンジ色の庫内に固定した。
外からは「オイオーイ!」と、元の言葉の意味がわからないほど崩れた号令が聞こえてくる。
「いやさ、帰ろうと思ってたんだけど」
沈黙を破るように習志野くんは話しはじめた。
「昇降口でちょっと気まずい集団を見かけちゃってさ」
あたしの視線の先でパイは少しずつ空気を含んでいく。
習志野くんは、少し気だるげというか、他の男子にない独特の雰囲気をまとっている。
彼に対する女子の評価は見事に真っ二つだ。
かっこ良くて素敵だと心酔する子がいる一方で、節操がなくて女の敵だという声もきこえる。
まあ、その手の話題からいちばん離れたところにいるあたしには関係のない話だけど。
「東村山さんってさあ」
急に名前を呼ばれてどきっとする。
振り返ると習志野くんはテーブルの上で手を組んだまま宙を見つめていた。
「大学受験しないって、本当?」
ざわっと体に緊張がはしる。
誰から聞いたんだろう……あまり話したこともない習志野くんが知ってるってことは、校内では有名なのかもしれない。
「まだ、その、決めてないけど」
「パティシエになりたいんだろ?」
つぶやくあたしに被せるように彼は言葉を続ける。
女性だから厳密にはパティシエールだという言葉をあたしは飲み込んだ。
「いいじゃん、なんか、夢があってさ」
どこまでが真意なのか、組んだ手の上にあごをのせながら習志野くんはあたしを見た。
夢か……あたしは再び視線のやり場を探す。
「そうかな」
使い込まれた皿が並ぶ古びた棚を見る。
かつてはこの皿も新品だった時があったんだろうか。
はじめは確か絵本だった。
大きいページに出てきたふわふわのケーキを焼いてみたくて、お母さんに相談したらケーキミックスを買ってきてくれた。
卵と牛乳と粉を混ぜて焼くだけの簡単なケーキだったけど、焼き上がったときは本当に嬉しくて、他にもいろいろ作ってみたくなった。
クリスマスプレゼントでもらったレシピ本はボロボロになるまで使いこんで、プリンとガトーショコラは計量から手順まですべて覚えてしまった。
お父さんもお母さんも、あたしがお菓子を作るたびに喜んで食べてくれた。
それが『子どもの遊び』じゃなくなった途端に、ふたりは難色を示しだした。
「まだ、迷ってて」
大学受験をせずに製菓の専門学校に進みたいと言ったあたしに、両親は困り果てていた。
いままで怒られたことなんて数えきれないほどあるけど、こんなふうに意見が衝突したのは初めてだった。
「俺なんてさ、やりたいこととか、そんなん全然ないからさ」
ひとりごとのように習志野くんがつぶやく。
「とりあえず理系だし就職がよさそうってだけで工学部を志望してるけど、本当にそれでいいのかって最近よく考える」
重しを乗せられたみたいに胸が沈む。
だって、うちの親があたしに望むことはまさにそれだ。
『専門学校に行ったら、もうその道にしか進めないでしょう。大学なら選択肢が広がるし、それでもやっぱりパティシエールになりたかったら、そのときに決めても遅くはないと思うの』
諭すようなお母さんの言葉を思い出す。
進路面談で担任から「料理とかそういう方向に興味があるなら栄養系の学科はどうかな?」と言われてからは、まるでそれが最適解のように女子大のパンフレットをたくさん見せられるようになった。
それまではお菓子を作るたびに喜んで食べてくれていたのに「こうやって家で作るのと、プロの仕事ではやっぱりいろいろ違うわよね」と言われたのをきっかけに家では一切作らなくなった。
「なんかさ、かっこいいと思うんだよ。自分のやりたいことに向かって進んでてさ」
習志野くんの声がぼんやりと聞こえる。
かっこいい……?
ざわっと心がささくれ立つ。
「そんな、全然そんなんじゃないよ」
自分でも驚くくらい険しい声が出た。
「だって、あたしが……あたしが大学に行かないって言いだしたせいで、お母さんはすごく困ってるし、お父さんもなんだかイライラするようになって」
なんでだろう、なんでこんなことを習志野くんに話しているんだろう。
パティシエールになれなかった時のことをちゃんと考えるなら大学に行ったほうがいいというお母さんの言葉は、わかりたくはないけどわかる。
あたしの言ってることはワガママなんだろうか。
でも、あたしは栄養士になりたいわけじゃない。
なんでわざわざ遠まわりをしなきゃいけないのか。
目の前に、こんなにはっきりと進みたい道が見えているのに!
「あたしの……パティシエールになりたいって夢がさ、お母さんを悲しませてるんじゃないかって、最近すごく悩む」
視線を向けると、習志野くんはまだまっすぐにあたしを見ていた。
いつの間にか、コートを脱いで制服姿になっている。
「そう、ごめんな、よく知らないのに適当なこと言って」
あたしは静かに首をふる。
「ううん、あたしこそごめんね……こんな話」
小さくため息をついたとき、焼き上がりを告げるキッチンタイマーが鳴った。
◇
オーブンを開けると庫内に閉じ込められていた蒸気が一気に流れ出てきた。
こんがりと焼き色のついたパイはトレーの上で力強くその甘い香りを主張している。
「え! すげえ、美味そう」
習志野くんは立ち上がるとテーブルの角を挟んであたしの隣に来た。
「一個食っていい?」
パイを指差しながら、キラキラした瞳があたしを見る。
これはコンクールの試作品じゃなくて、鍵を返しに行くときに職員室に差し入れようと思って焼いたものだ。
中身もアーモンドバターとチョコレートを合わせたやつだし、全然食べてもらって構わないけど……
「いいけど、これ、焼きたてだから」
あたしはそういってあめ色に光るパイをながめる。
お菓子でもなんでも、とにかく焼きたてがもてはやされがちだけど、見た目の美しさに反して焼きあがってすぐは味がぼやけているというか締りがない。
少なくとも10分くらいおいた方が甘みも落ち着いて本来の美味しさを味わえるはずだ。
「熱いし、もうちょっと冷ましたほうが」
「ヤダ、待ちきれない。いま食べる」
あたしの言葉を遮って習志野くんはひょいとパイをつまみあげると口に放りこんだ。
「うお、熱っ!」
習志野くんは口もとを手で覆いながらパイを食べると、笑った。
「すげえ、これ、めちゃくちゃ美味いよ」
まっすぐな瞳で見つめられてふいに頬が熱くなってくる。
こんなふうに誰かに美味しいって笑ってもらえたのはいつぶりなんだろう。
「東村山さん、パティシエになりなよ、なった方がいい、絶対才能あるよ」
「本当……?」
習志野くんは真剣な顔で頷いた。
「本当、だってこれ、すげえ美味いもん」
言いながら、習志野くんはもうひとつパイを口に入れた。
職員室の差し入れはだいぶ少なくなりそうだけど、まあいいか。
「俺、東村山さんの作るお菓子、もっといっぱい食べたい。店出したら絶対月イチで通うよ」
「月イチ?」
絶妙にリアルな数字に思わず笑ってしまった。
習志野くんは楽しそうにこちらを見るとパイをひとつあたしに差し出した。
「ほら、美味しいよ」
なんとなく勢いに押されて開いた口にパイをそっと入れると、習志野くんは親指でゆっくりとあたしの唇をなぞった。
驚いて見開いたあたしの視線の先で、習志野くんはイタズラっぽく笑った。
「東村山さん、可愛い」
◇
「節操なしめ」
厚く巻いたマフラーで隠れた唇から、小さなつぶやきが漏れる。
木枯らしが吹きすさぶ中、体中にこもった熱を振りほどくように自転車のペダルを漕ぐ。
信号待ちの間、商店街の洋菓子店に目をやると『バレンタインフェア』と書かれたのぼりと、ショーウィンドウを楽しそうに見つめる女の子たちが見えた。
いま、あたしが何と戦ってるのかはよくわからない。
何が正解なのかもわからない。
でも、絶対にへこたれたりなんかしない。
信号が青に変わって、あたしは力強くペダルを踏んだ。
おしまい
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