第16話 日常
朝焼けの日
朝焼けが、古い一軒家のリビングを静かに満たしていた。
夜の冷気をまだ残した空気の中、カーテン越しの光が床に長い影を落とし、時間がゆっくりと流れているように感じられる。
リボルはリビングの机に腰を下ろし、片手にマグカップを持っていた。
湯気の立つコーヒーは、安物の豆だが、鼻腔をくすぐる苦い香りが確かに朝を告げている。
「……朝焼け、か」
独り言のように呟き、窓の外を眺める。
昨夜までの銃声や悲鳴はここにはない。ただ、静寂と微かな生活音だけがある。
「娘二人分に、ペット一匹……」
マグを傾けながら、リボルは小さく息を吐いた。
「そりゃ疲れるわけだ」
セリナ。
ソフィア。
それから――ペット、という扱いにしているが、実態はかなり危険な存在であるミニウォズ。
戦場では孤独が常だった。
誰かを守るために引き金を引くことはあっても、生活を共にすることはなかった。
それなのに今はどうだ。
屋根の下に、自分以外の存在が眠っている。
「……悪くはない、か」
自分でも意外だった。
煩わしいはずなのに、胸の奥に妙な温度が残る。
時計を見る。
起こすには、ちょうどいい時間だ。
「さて……そろそろ起こしに行くか」
リボルはマグを置き、立ち上がった。
最初に向かったのはセリナの部屋だ。
「起きろ、朝だぞ」
ドア越しに声をかける。
「ん〜……先生、まだ眠い……」
布団の中から、くぐもった声が返ってくる。
「朝飯が冷めるぞ」
「……それは困る」
数秒後、もぞもぞと布団が動き、寝ぼけ眼のセリナが顔を出した。
「おはよ……」
「ああ。顔洗ってこい」
「はーい」
素直に返事をして、ふらふらと廊下へ向かう背中を見送りながら、リボルは無意識に眉を緩めていた。
――こういう無防備さが、少し怖い。
だが同時に、守る理由にもなる。
次はソフィアの部屋。
ノックをすると、即座に返事が返ってきた。
「はい、起きています!」
ドアを開けると、既に着替えを済ませたソフィアが、背筋を伸ばして立っていた。
軍で叩き込まれた習慣が、今も身体に染み付いている。
「早いな」
「第一部隊では、遅れることが命取りでしたから」
その言葉には誇りと、少しの緊張が混じっている。
「ここでは、そこまで気を張らなくていい」
「……はい」
返事はしたが、完全には抜けていない。
それを見て、リボルは内心で苦笑した。
――そのうち、嫌でも分かる。
ここは戦場とは違うが、決して安全でもない。
リビングに戻ると、セリナが椅子に座り、髪を結びながら待っていた。
「ソフィアお姉ちゃん、おはよう!」
「おはよう、セリナさん」
その会話の足元、影がゆらりと揺れる。
「……朝か」
低く、眠たげな声とともに、影からミニウォズが姿を現した。
「うわっ、急に出てこないで!」
「失礼な。これでも気を使っている」
「どこが!」
セリナの抗議を受け流しながら、ミニウォズはリボルを見る。
「盟友、今日も騒がしいな」
「お前が言うな」
リボルは即座に突っ込んだ。
ソフィアは一瞬身構えたが、セリナとリボルの態度を見て、警戒を解く。
「……本当に、普通にいるんですね」
「こいつは例外だ」
「例外とはひどいな」
そう言いながらも、ミニウォズはどこか楽しそうだった。
朝食の準備が進み、三人と一匹が同じ空間でそれぞれの朝を迎える。
戦場ではあり得なかった光景。
だが、確かにここには生活がある。
リボルはその様子を眺めながら、コーヒーを一口飲んだ。
「……今日も、無事に終わればいい」
そう願うのは、銃を握る者としては珍しいことだったが――
今は、それでいいと思えた。
朝食の時間は、思いのほか穏やかに進んでいた。
古いダイニングテーブルの上には、焼き色のまばらなトーストと、簡素なスクランブルエッグ、そして即席のスープ。
決して豪華とは言えないが、湯気と匂いが「生活」を主張している。
「いただきます」
セリナが小さく手を合わせるのを見て、ソフィアもそれに倣った。
「……いただきます」
軍では形式的な食事しか経験してこなかった。
誰かと向かい合って、何気ない会話をしながら食べる――それだけのことが、どこか落ち着かない。
「ソフィアお姉ちゃん、卵好き?」
「え? あ、はい。好きです」
「よかった。先生のはたまに失敗するから」
「おい」
リボルの短いツッコミに、セリナがくすっと笑う。
ソフィアはその様子を見て、胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
――この距離感。
第一部隊ではありえない、無防備な近さ。
「……いい家ですね」
ふと、ソフィアが口にした。
「狭いし古いぞ」
「それでもです。帰る場所があるって、こういうことなんですね」
その言葉に、リボルは一瞬だけ視線を逸らした。
帰る場所。
その言葉は、彼にとって決して軽くない。
「……まあな」
それ以上は語らず、トーストをかじる。
ミニウォズはというと、椅子には座らず、天井近くの影に半身を預けていた。
「人間の朝食というのは、いつ見ても奇妙だな」
「見なくていい」
「だが興味深い。戦いの前に、こうして力を蓄える……合理的だ」
「お前、朝から物騒だな」
「我は常に物騒だが?」
悪びれもせず言い切るミニウォズに、セリナがため息をつく。
「もう……」
その様子を見て、リボルはふと気づく。
セリナが“普通の子供”として振る舞っていることに。
昨夜の地獄を知っているはずなのに、今は朝食に集中し、笑っている。
それが強さなのか、あるいは――壊れやすさなのか。
(……守るしかねぇな)
内心で呟き、コーヒーを飲み干す。
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朝食後、セリナはソフィアを家の中に案内し始めた。
「ここが私の部屋で、あっちは先生の。あと、そこ開けるとたまに変なの出るから注意ね」
「変なのとは?」
「ミニウォズ」
「おい」
軽口を叩き合う二人を、廊下の端からリボルは眺めていた。
ソフィアは笑っている。
だがその笑顔は、まだどこか固い。
(無理もないか)
第一部隊で積み上げた価値観。
成果、評価、命令、結果。
それらが、ここではほとんど意味を持たない。
「……ソフィア」
呼び止めると、彼女は即座に姿勢を正した。
「はい!」
「肩の力抜け。ここじゃ命令は出さねぇ」
「……努力します」
その返答に、リボルは小さく鼻で笑った。
「努力するな。慣れろ」
「……はい」
返事は素直だった。
だが、その奥にある覚悟も、恐れも、リボルには手に取るように分かる。
――この女は、まだ“理想”を捨てていない。
それは悪いことではない。
ただ、これから叩き込む現実は、優しくはない。
昼前、家の外に出ると、街はいつも通りの顔をしていた。
昨日の惨劇など、どこにも痕跡はない。
人々は歩き、店は開き、子供の声が響く。
「……何もなかったみたいですね」
ソフィアが呟く。
「だから厄介なんだ」
リボルは煙草に火をつけ、吐き出した煙を眺める。
「夜に何が起きても、朝にはなかったことになる」
「それで……いいんですか」
問いかけは、静かだった。
「よくはねぇよ」
即答だった。
「だが、それでも回る。世界ってのは、そういうもんだ」
ソフィアは黙り込む。
理想と現実の狭間で、何かが軋む音がした。
セリナは二人の会話を少し離れた場所で聞きながら、空を見上げていた。
朝焼けはすでに消え、澄んだ青が広がっている。
(今日も……何も起きなければいいのに)
小さな願いは、誰にも届かず、風に溶けた。
ミニウォズは影の中で目を細める。
「……嵐の前というのは、決まって静かなものだ」
誰にも聞こえない声で、そう呟きながら。
――こうして、穏やかな日常は続いていく。
だがそれは、決して永遠ではない。
それぞれが胸に抱えるものを隠したまま、
次の夜が来るまで。




