第六十一話 答えは一度だけ
黄金の書棚が虚空に浮かび上がる。
その背後に、これまで隠されていたものが露わになった。
それは──巨大な石扉。
扉の中央には、亀の甲羅に蛇が絡み付いた奇妙な生物の紋様が刻まれていた。
その紋章が不意にぬるりと動き、石の表面が剥がれ落ちる。
まるで封印から解き放たれたかのように、紋様は石から抜け出し、ゆっくりと形を成していく。
マーガレットが低く呟く。
「……玄武」
レインもその名を知っていた。
異国の伝承に語られる守護獣──玄武。
亀蛇一体と呼ばれるその姿は、まさに目の前の生物そのものだった。
レインは一歩も動けなかった。
動こうという発想すらも浮かばなかった。
異様な静寂が満ちる。
その中で、玄武の目は細く笑っていた。
敵意があるようには見えない。
その時、不意に玄武が口を開いた。
「先客を中へ通したばかりだというのに、また訪問があるとは珍しいのぉ」
(喋れるのか……!)
レインは大きく目を見開く。
低くしゃがれた声。ゆっくりとした口調。
それだけで、得体の知れない威圧感があった。
そんな中、マーガレットは臆することなく問いかけた。
「先客というのは、カール陛下とマシュー館長のことか?」
「いかにも」
玄武は即答した。
そして、長い首をゆっくりと伸ばし、マーガレットの眼前に迫る。
その視線が、彼女の全身をなめるように巡った。
マーガレットは一歩も引かない。
「ここを通せ。我々は書物の謎を解いた」
玄武が笑う。
「くくくっ……。何を偉そうに。解いたのは、そこの小僧であろう」
首がぐるりと向きを変え、今度はレインの前に迫った。
「まあ、あんなものは大した謎ではない。記述の不審に気付き、指示通りに素直に試してみる精神さえあれば、誰でも解ける」
言われてみれば、その通りだ。
レインは小さく頷いた。
玄武は満足そうに続ける。
「あれはな、馬鹿を相手にせずに済むよう仕掛けた第一認証じゃ」
「第一認証……?」
「さよう」
玄武はゆっくりと頷いた。
「実際、あの謎を解き、わしと対面した者はこれまで幾人もいる。……だが、この先に進める者はごく少数」
玄武の目が細く光る。
「今から、わしが出す問いに正しく答えられた者だけが、この扉を通ることを許される」
「それが第二認証?」
レインの問いかけに、玄武は小さく首を縦に振った。
「いかにも」
伸びていた首が、レインの眼前から離れ、甲羅のそばへ戻る。
玄武は二人を順に見渡した。
そして、改まった口調で告げる。
「わしはこの扉を守護する存在。真実を見抜きし者のみを先へ通す。さて──今からわしが出す問いに正しく答えよ」
空気が張り詰めた。
レインはごくりと唾を飲み込む。
「汝らに問う。初代国王の真実の名を告げよ」
玄武の声は、先ほどよりも低く、重く響いた。
それから、おもむろに付け加えた。
「制限時間は設けぬ。ただし回答は一度しか許されぬ。たった一度じゃ。二度目はない」
レインの背筋に震えが走った。
問い自体は、あまりにも簡単に思える。
初代国王──アルベルト・アステニア。
それが答えなら、あまりにも単純だ。
(……別の名があるのか?)
レインは思考を巡らせる。
その名に、自分は触れたことがあるのか。
『王国創始記』のどこかに、手がかりがあったのだろうか……。
レインが熟考に沈む中、マーガレットが口を開いた。
「もし答えを間違えれば、どうなる?」
玄武は笑った。
「ふふっ。わしはこの扉を守るのみ。不正解であろうとも、裁きを下すことはない」
ゆっくりと言葉を続ける。
「だが、真実を見抜けなかった者には、それ相応の帰結が待つ。──わしと遭遇した記憶と、『王国創始記』から得た知識を抹消する。そして、この文書館から追放する。二度とここに足を踏み入れることはできぬ。……ただ、それだけじゃ」
(そんな……)
レインの額に、冷たい汗が滲んだ。
記憶と知識の抹消──。
あまりにも恐ろしい力だ。
おそらく、文書館員が次々と去っていった理由は──これなのだろう。
ふと隣を見ると、マーガレットの様子が目に入った。
彼女は静かに、剣の柄に手を置いていた。
(まさか……玄武と戦うつもり……!)
レインの胸がざわつく。
その瞬間、玄武の低い声が静かに響いた。
「剣を抜くのは辞めた方が良い」
その目は、マーガレットを静かに見ていた。
「強引にここを通り抜けようとする者には容赦せぬ。剣を抜いた瞬間、其方の命を奪う」
マーガレットの額にも、うっすらと汗が滲んでいた。
それでも彼女は、挑発するように言った。
「へえ、どうやって?」
その瞬間──。
空気が急に重く、湿ったように感じられた。
「うっ……!」
突然、マーガレットが苦悶の声を漏らす。
彼女は両腕をばたつかせ、必死に空を掻いている。
最初、レインには意味が分からなかった。
だが、次の瞬間、はっとする。
──溺れている。
マーガレットはまるで水の中でもがいているように体を揺らしていた。
顔を上げ、必死に息を吸おうとしている。
(何をした……!)
レインは反射的に玄武を見た。
だが、玄武は一歩も動かず、ただ静かに彼女を見下ろしているだけだった。
その目にはわずかな愉悦が浮かんでいる。
「くくくっ……」
低い笑い声が響いた。
マーガレットの動きは次第に激しくなっていく。
周囲に水など一滴もない。
それでも彼女は確かに溺れていた。
必死に空を掻き、見えない水面から顔を出そうと、もがき続ける。
やがて力尽きたように、彼女の抵抗がぴたりと止んだ。
ちょうどその時、玄武が興が尽きたように言った。
「まあ、まだ剣は抜いていなかったな。今回はこの程度で許してやろう」
その言葉と同時に――
マーガレットの体が大きく揺れた。
まるで水面から顔を出したかのように、彼女は大きく息を吸い込む。
「はっ……! はぁ……っ……!」
荒い呼吸が繰り返される。
しばらくして、ようやく呼吸が落ち着き始めた。
玄武はその様子を愉快そうに眺めながら言う。
「これで分かったであろう。わしには敵わぬ」
「……今のは、一体なんだ?」
マーガレットの掠れた声に、玄武はゆっくりと答えた。
「目に見えぬ“水“によって相手を制する。それがわしのやり方。水の力には抗わぬのが得策じゃ」
玄武の目は相変わらず笑っていた。
(水の力には抗わないのが得策……)
レインはその言葉を反芻する。
それはつまり──「わしに抗うな」と同義だ。
レインはなすすべなく立ち尽くした。
玄武の問いが、頭の奥で何度も反響する。
(初代国王の真実の名を告げよ……)
もし「アルベルト・アステニア」が不正解なら──
記憶を消され、二度と文書館には入れない。
せっかく黄金の書棚の第一認証を突破できたというのに。
ここで間違えるわけにはいかない。
その時──。
レインの脳裏に、もうひとつ玄武の言葉が蘇った。
(制限時間は設けぬ……)
レインはふと顔を上げる。
待て……それはどういう意味だ。
答えを出さず、この場に留まり続けることもできるということか。
あるいは──。
その瞬間、レインは閃いた。
玄武を見据え、口を開く。
「このまま帰ることはできますか?」
玄武の眉が、わずかに動いた。
レインは続ける。
「答えを保留したまま」
一瞬の沈黙。
やがて、玄武の口元が、ゆっくりと歪む。
「いかにも」
その瞬間──
玄武の目が、楽しげに細められた。
まるで、その考えに辿り着く者を、待っていたかのように。




