第六十話 黄金の書棚の真実(2)
マーガレットがレインに告げた言葉。
──文書館員としてここで働き始めても、ひと月も持たずにいなくなる理由には、『王国創始記』が関係している。
書棚の前に立つレインは、『王国創始記』に伸ばしかけていた手を思わず引っ込めた。指先が、わずかに震える。
「怖くなったかしら……。『王国創始記』という本の存在に」
背後から、マーガレットの声が響く。
レインは、振り返らずに尋ねた。
「マーガレットさんは……『王国創始記』を読みましたか?」
「いいえ。私は建国の歴史に興味ないもの。もしもシリウス殿下に命じられれば調べるけど──」
マーガレットはわずかに肩をすくめて、続けた。
「今の私の任務とは関係ないわ」
任務……。
その言葉には、どこか含みがあった。
彼女の任務とはカール陛下とマシュー館長の隠し事を暴くことだろうか。
レインは書棚を見つめたまま、しばし思考を巡らせた。
二人の隠し事。
書棚の奥の隠し部屋。
『王国創始記』の謎。
そして、消えた史官たち。
点のように散らばっていた出来事が、ゆっくりと線で結ばれていく。
「……ひょっとしたら」
レインは静かに口を開いた。
「全部、繋がっているのかもしれません」
マーガレットが眉を顰める。
「どういう意味?」
「シリウス殿下がおっしゃっていました。『王国創始記』の建国史には、嘘が混じっているかもしれないと」
レインは言葉を選びながら続ける。
「もし史官たちが、その嘘に気づいたとしたら……」
マーガレットの表情に影が差した。
「真相に辿り着いた者が、自ら去ったのか。あるいは──辞めさせられたのか」
沈黙が広がる。
やがてマーガレットがぽつりと呟いた。
「……まさか」
レインは改めて書棚を見上げた。
そこには五十四巻の『王国創始記』が整然と並んでいる。
(この先に、何がある……?)
恐怖は、まだ消えていない。
それでも、知りたい。
真実を。
レインは深く息を吸った。
つま先を少し浮かせ、左上の本に手を伸ばす。
第一巻。
かつてここを訪れたとき、サラが覗いていた巻だ。
だが──レイン自身は、まだ開いたことがない。
革表紙を静かに引き抜く。
初めて開く原典の第一巻。
その冒頭には──王国建国の英雄、アルベルト・アステニアの幼少期が描かれていた。
◆◆◆
アルベルト・アステニアは、南の大陸の最北に位置する、とある港町で生まれた。
潮の匂いが絶えず漂うその町で、彼は二人の親友とともに育った。
サントス・ガドリュー。
カルナ・ストラート。
後にサントスは剣の名手として、カルナは大魔法使いとして名を馳せることになる。だがこの頃の三人は、ただの少年少女にすぎない。毎日のように町中を駆け回り、海辺で遊び、夕暮れまで笑い合っていた。
三人には、お気に入りの遊び場が二つあった。
一つ目の遊び場は、アルベルトの家から、サントスの家(27番地)に向かって歩数を数えながらまっすぐ進み、辿り着いたら直角に右に曲がり同じ歩数だけ歩いた先にある。
もう一つの遊び場は、アルベルトの家からカルナの家(51番地)に向かって、同じように歩数を数えながらまっすぐ歩き、辿り着いたら今度は左へ直角に曲がり同じ歩数だけ歩いた先だ。
そして──。
二つの遊び場のちょうど中間地点に、三人だけの秘密基地があった。
親たちも知らない場所。
三人だけが知る、その特別な場所からは、海が一望できた。
アルベルトは、水平線を指差して言う。
「大人になったら、海に出るんだ……!」
目を輝かせながら、彼は続けた。
「あの水平線の向こうに何があるか、この目で確かめたい! 二人も、一緒に行かないか?」
サントスが笑う。
「いいよ!」
カルナも頷いた。
「もちろん!」
三人の声が、潮風の中に響いた。
それから十年後──
三人は本当に、水平線の彼方を目指して船を出した。
◆◆◆
レインは首を傾げた。
歴史書の冒頭として、あまりに穏やかな始まりだった。
だが、妙な点がある。
遊び場や秘密基地の場所が、やけに具体的なのだ。
27番地のサントスの家、51番地のカルナの家……。
なぜか二人の家の番地が明かされていて、まるで遊び場と秘密基地の場所を示唆しているかのようだ。
しかし。
「……おかしい」
レインは小さく呟いた。
アルベルトの家の住所は書かれていない……。
レインは目の前の書棚を見つめた。
そして、ふと気がつく。
この書棚──。
本棚の一段の高さと、本の横幅がほとんど同じだ。
九段、六列。
整然と並ぶ背表紙が、まるで升目のように見えてくる。
碁盤のように、きっちりと区切られた五十四の区画。
左上に第一巻。
右下に第五十四巻。
その瞬間、レインの脳裏に一つの考えが浮かんだ。
(もしこれを……町の地図に見立てるなら)
レインはゆっくりと二冊の本を抜き取った。
第二十七巻。
第五十一巻。
その瞬間──
かたっ
書棚が微かに震えた。
そして次の瞬間、書棚の奥から低く不気味な声が響いた。
「──機会は一度きり。秘密基地を探し当てよ」
レインとマーガレットは同時に身構えた。
「誰!?」
マーガレットが鋭く声を放つ。
だが返事はない。
ただ書棚の奥から、見えない何かがこちらを見ているような気配だけが残った。
静寂──。
マーガレットがゆっくりとレインを見る。
「……説明してくれる? あなた一体、何をやったの?」
レインは第一巻の冒頭ページを開いたまま答えた。
「この話、ただの思い出話じゃありません」
「……?」
「場所を示す暗号です」
マーガレットが眉を上げる。そして、レインの示したページを覗き込んだ。
「番地と巻数が対応しているってわけね……」
「はい、そうです」
「……でもアルベルトの家の場所がわからないわ。これじゃ、秘密基地の場所を見つけられないじゃない」
マーガレットの言うように、レインも引っかかっていた。
つい先ほどまでは──。
レインは、静かに首を振った。
「アルベルト家の場所は関係ありません」
「?」
「どこから始めてもいいんです」
「仮に39番地がアルベルトの家としましょう。本の指示に従えば、二つの遊び場所は29番地と53番地になります。そして、その中間地点は──」
レインは一拍間を置いてから、静かに告げた。
「……41番地」
対応する巻は、第四十一巻──
すべてが白紙の、曰くつきの巻だ。
マーガレットは納得のいかない様子で口を挟んだ。
「でも、それはアルベルトの家を39番地と仮定した場合の話で……」
「いえ、他の場所から出発しても同じことです」
「まさか……」
マーガレットは指を動かしながら確かめる。
しばらくして、小さく息を吐いた。
「……確かに」
彼女は笑った。
「どこを起点にしても、四十一番地に収束する」
レインは頷いた。
「アルベルトの家の住所の情報は、最初から必要なかったんです」
二人は同時に棚へ手を伸ばした。
第四十一巻。
その背表紙を掴む。
「行きます」
「ええ」
二人は同時に本を引き抜いた。
次の瞬間──
ゴゴゴゴ……
書棚が大きく震えた。
低い地響きが文書館に響く。
黄金の書棚が、ゆっくりと虚空へ浮上していく。
その奥に現れたのは──
巨大な石の扉だった。
扉の中央には紋章が刻まれている。
亀。その甲羅に、蛇が絡みついていた。
レインは息を呑んだ。
紋章が──動いた。
石の表面から剥がれ落ちる。
蛇がうねり、甲羅が軋む。
それはゆっくりと地面に降り立った。
マーガレットが低く呟いた。
「……玄武」




