第五十八話 中央通路の先で
レインは、暗闇に包まれた文書館の中央通路の中にいた。
手をくるりと回して灯光を点け、自分の足元を照らした。
ひとまず灯光をちゃんと灯すことはできた。
日々の魔法研修の練習の成果だ。
灯光の柔らかい光に包まれ、レインは恐怖感の中でも少しだけ安堵を覚えた。
目線を前方に向ければ、黄色い光の一点と、小さな火の光が遠くに見える。
その光を見失わないように、心なしか早足でレインは通路を進んだ。
次第に辺りには白い霧が立ち込める。
冷気が肌に触れ、全身に震えが走った。
(……これは、幻覚魔法か……)
幻覚魔法が我が身に襲い掛かろうとしているのを察知したレインは、同時に自らの理性を取り戻していた。
冷静になって考えると、いくら文書館に閉じ込められてしまったとはいえ、なぜ危険な中央通路に一人で入り込んでしまったのか? その場にとどまって助けを待っていたほうがよかったのではないか?
でもあのとき、女性の不思議な声に釣られて半ば衝動的に中央通路に入り込んでしまった……。
今からでも、入り口に戻った方が良いかもしれない。
幻覚魔法に取り憑かれる前の今なら、まだ引き返せるかも?
レインが後方を振り返ると、文書館の扉はまだはっきりと見えた。
だが、ここで脳裏に再びあの声が響いた。
──だめ。今更引き返そうなんて思わないで。前だけを見て、私の光を追って。
そこで、レインはようやく声の主に気づいた。
すでに知っている人物の声だったのだ。
──マーガレット!
その柔らかい女性の声は、現在逃亡中の王宮案内人マーガレットの声に違いなかった。とっくに王宮の外に逃げたものだと思っていたが……。
そこで、マーガレットの声が脳裏にまた届いた。
──そうよ。私はマーガレット。さっきは一時的にあなたの理性を奪ったのよ。それについては謝るわ。ごめんなさい。
どうやら脳内で会話が成立するらしい。
先ほどまで冷静な思考が奪われていたのも、いま脳内で会話が成立しているのも、彼女の持っている力の一種なのかもしれない。
レインは、脳内で強く訴えかけた。
──いったい何をするつもりだ!
返答はすぐに届いた。だが、その声はところどころ途切れ、頭の奥に痛みが走った。
──私は、今は……黄色い光を追っている……。彼らの企みを暴く……。あたなを巻き込むつもりは元々なかった……。でも、文書館に居合わせてしまった以上、あなたも知っておいた方がいい……。彼らの真実を……。
ひどい頭痛の中で、思考も鈍る。
とにかく彼女がいったい何のことを言っているのかさっぱり分からない。
──彼らっていったい誰のことだ! 真実って何? そもそも今あんたは、指名手配中の逃亡犯だ。陛下の部屋に夜な夜な侵入したり、毒茸を陛下に食わせたりして……。あんたの目的は何だ!
──ん……。いきなり質問が多すぎる……。あなたと脳内で会話を続けるのも、そう簡単なことじゃないの。もうすぐこの会話はできなくなる……。でも、今の質問については、後で……答える……とにかく私の元……早く来て……。……全部話す……。……引き返そうとしちゃ駄目……。幻覚に囚われて……。
途中から声の途切れが酷くなり、最後にぷつりと切れた。
レインが再び語りかけても、もはや返答はなかった。
「引き返しちゃ駄目」と言われても、もうすでに半ば幻覚に囚われているようなものだ。正確には“幻聴”と言ったほうが良いかもしれないが。
人を迷子にする文書館の幻覚魔法も恐ろしいが、マーガレットから届いた幻聴のような誘いも本当に信じて良いのか疑わしい。
レインは前と後ろと交互に何度も見た。
前方は濃い霧で覆われているが、二つの灯光はまだ視認することができる。
後方にも霧が立ち込めているが、その隙間からうっすらと文書館の扉が見える。
究極の二択──。
ここで、レインは前に進むことを選んだ。
意識を乗っ取られたわけではない。
今回はレイン自身の意思だった。
直感としか言いようがないが、先程のマーガレットの声に、ただならぬ切迫感と真実味を感じたからだ。
少なくとも、彼女に直接聞く必要がある。彼女の目的について、そして“真実”という言葉の意味について──。
レインは拳を力強く握りしめると、先程よりも足取りを早め、赤い灯光との距離を詰めていった。
◆◆◆
ようやく、赤い灯光を宿す人物の元まで辿り着いた。
それは紛れもなくマーガレットだった。
レインが声をかけようとすると、マーガレットは口元に指を立て、短く言った。
「しっ……!」
彼女は緊迫した表情を見せつつ、遠い前方の黄色い光を指し示した。
どうやら前を歩く人物に悟られないように、声を出すのを制止しているようだ。
だが、この赤い灯光によって、すでに相手も尾行に気づいているのでは……?
レインはそう思いつつも、マーガレットに従って、声を出すのを控えた。
聞きたいことは山ほどあったが、今は吐き出すのを抑え、黙ってマーガレットに付いて行く。
しばらくして、前方の黄色い灯光のゆらめきが止まった。
マーガレットも一時、立ち止まったので、レインもそれに倣った。
──次の瞬間、黄色い灯光が消えた。
その途端、マーガレットが声を放った。
「走るわよっ!」
レインの返答を待たず、マーガレットはいきなり駆け出した。
レインも慌ててついて行くしかない。
どうやら足音や声を気にするのはやめたようだ。
「どういうことだよ。ちゃんと説明して!」
走りながらレインが問いかけるが、マーガレットは見向きもせず、短く答える。
「それは後で。今は、彼らの跡を追わないと──」
「だから、彼らって誰だよ! そもそも黄色い光は一つだったじゃないか」
「それは一つの灯光の光を、二人で共有していたのよ。間違いなく、この先にいるのは二人」
「二人?」
「そう、二人。カール陛下とマシュー館長よ!」
「……えっ、どういうこと……!?」
レインは状況を飲み込めず、何度も聞き返した。だが、マーガレットは返答せずに黙ったままだ。
「ねえ、ちゃんと教えてよ」
マーガレットの走りになんとか付いて行きながらレインは問い質したが、彼女は全く相手にしてくれなかった。
そして、そのまま中央通路の終点、黄金の書棚のある北壁に辿り着いた。
──ここに来るのは、あの初めての見学以来、二度目だ。
例の書棚は、あの日と同じように異様な存在感を放っていた。
問題は、そこに誰もいなかったことだ。
黄色い灯光の主──マーガレットの証言によれば、カール陛下とマシュー館長の二人──は、いったいどこへ消えたのか。
レインは左右に首を振って確かめるが、右も左も真っ暗で、人の気配は感じられない。
「二人はどっちへ行ったんだろう?」
独り言のように呟いたレインに対して、マーガレットは静かに答えた。
「左でも右でもないわ。この書棚の奥よ」
彼女はそう言うと、目の前の黄金の書棚をまっすぐ指し示した。




